第2話

 それから一週間ほど経ったある日の放課後、僕は隅石さんと中庭で話していた。


「実はね、わたし転校するんだ」


「えっ!?」


 ありえない。まず僕の心はそう叫んだ。教室でもそんな話はいちども聞いた覚えがない。


「どうしてそんな急に?」


「突然決まったの……。先生やみんなにはこれから言うつもり」


「……」


 言葉が出ない。目の前の隅石さんのかもし出す切なげな雰囲気に息苦しくなる。


「いろいろありがとう。最後に秋川くんと仲良くなれてうれしかったよ」


 そんな……。まだまだ色んな話をしたかったのに。


 中庭の百葉箱ひゃくようばこがじわっとゆがんで見える。なんとか、どうにかできないのか。


「ふふっ。なーんてねっ!」


「ええっ!? なにっ?」


 いつも真面目な隅石さんが舌を出してお茶目な顔をつくり、僕は一気にメランコリーな世界から引き戻された。


「今のはみんな冗談よ。うふふっ、やっぱり男子って素直だね。あらためてそう思った」


 『男子』とひとまとめにされたことに僕はムッとした。僕らをからかってくるような連中と一緒にされるのは気に食わない。


「あ、ごめん……。そんな顔しないで。ねっ?」


 そんなふうに無邪気にウインクされると何も言えなくなる。ずるいよ、それ。


「秋川くんは特別だから……」


「……」


 こんなことを言われてときめかない男子はいないだろう。例にもれず僕は舞い上がってしまった。さきほどまで灰色にくすんで見えていた百葉箱の白色がまぶしくて仕方ない。


「これ、あげるね。少し早いけど」


 隅石さんが差し出してきたのはリボンのついた小さな包みだった。紺色の包装紙に包まれたそれは、時期を考えるとバレンタイン・チョコレートだと思われた。


「えっ? いいの?」


 いいもなにも、もらっておけばいいのだが、僕は包みに手を伸ばすことを躊躇ちゅうちょしてしまった。


 これを受け取ってしまうと自分が大人になってしまうような気がした。無邪気な子供でいられなくなる気がしたのだ。


 手を伸ばすのをためらったのは、ほんの数秒だったのかもしれない。でもそれは、とてつもなく長い時間のように感じられた。


「ありが……とう」


 だが、最終的に僕は大人への道を選んだ。




 僕はホワイト・デーまでの日々を落ち着きなく過ごしていた。


 教室でふいに隅石さんと目が合うと、そこから視線をらせなくなった。隅石さんのほうは僕に軽く微笑んだあとで、普段通りに文庫本を開いて自分の世界に没頭していたけれど。


 いままでどおりにおすすめの本の話で盛り上がったりもした。けれど僕は、隅石さんが持つ僕よりもずっと大人な雰囲気や女性らしさに気づけば気づくほどに、気後きおくれする心を隠せなくなってしまっていた。




 三月に入ってすぐに、僕は母親と一緒にデパートに行った。ホワイト・デーに隅石さんになにかお返しをしようと思ったからだ。


「無難なのはチョコとか、クッキーじゃないの?」


 母が言った。


 でもこのときの僕は、僕という人間がいたことの証のようなものを隅石さんの生活の中に残したかった。隅石さんが言った冗談ではないけれど、転校なんて誰にでも起こりうる出来事だと思ったからだ。


 僕だって近い将来、ここではない遠くの学校へ行ってしまうかもしれない。だから消えてなくなってしまう食べ物では嫌だった。


「じゃあ、ハンカチにでもしておく?」


 母は婦人服売り場に僕を連れて行った。


 色とりどりのハンカチたちがきれいに整列して僕を迎えてくれた。この中からどれか一枚を選ぶのは楽しみな反面、難しいことでもある。


「あたしのおすすめはね……」


 母が僕に気をつかって何枚かおすすめを選んでくれた。でも、僕はやはり自分のセンスを隅石さんに見てもらいたかった。


「これ、ください」


 ひと月の小遣いの半分くらいを使い、上品なチェック柄のハンカチを購入した。りんとした印象の隅石さんにぴったりだと思ったからだ。

















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