未定
茶々瀬 橙
一頁 「花束」
鮮烈なばかりの陽が、中天から絶え間なく降り注いでいた。さざめく波飛沫は無数の光の粒を散らし、砂浜は文字通りに白熱し、潮風はふくよかに磯の匂いをためこんで優しく吹き寄せた。海沿いの一段高く上がったところを伸びる幹線道路は、アスファルトに濃い陽炎をくゆらせて、疎らに行き交う車を送り出していた。街路樹に立ち並ぶ椰子の木が波音に耳を澄ませ、樹冠に広げた葉を揺らす。そしてその下で、幾つもの鮮やかな花々がひとまとまりになって、海辺の道をぱたぱたと駆けていた。
その大振りな花弁を広げる花たちの下からは、一対の細い足が伸びている。……いや、よく見るとそれは単なる花束であって、小柄な少女が、ヒマワリやら、桔梗やら、グラジオラスやら、とにかくたくさんの花を両腕いっぱいに抱きかかえているものだから、半身が埋もれてしまっていたのだ。そんな様子ではろくろく前も見えていないだろうに、少女は懸命にアスファルトを蹴って、息を切らせて走っていた。花束をまとめる赤いリボンの先が、熱い風に後ろへなびいて揺れている。
今日は、おじいちゃんの誕生日だった。少女にとってそれは、何よりも大切なイベントだった。この日のためにと少しずつ溜めたお金は無駄にならなかった。尤も、花屋の店主に言わせれば、もうどのみち店じまいで、代金を受け取るつもりもない、とのことだったけれど。だからこそこうして、用意できた金額以上の、ほんとうだったら買えなかったくらいの花を抱えているのだけれど。でも、ただではもらえなかったから、強いてお金は置いてきた。少女も、それがただの自己満足だということくらいわかっていた。
おじいちゃんはいったいどんな顔をするだろう。それを想像すると、知らず少女の相好は崩れ、ここまで駆けてきた疲れも忘れて走る途中で小さく飛び跳ねた。花の甘い匂いと共に、少女のやや淡色の黒髪がふわりと風に舞った。
その拍子、少女の細い眉で溜まっていた一滴の汗が、つっと流れ落ちて瞼の端を伝い、目尻から瞳に入り込んだ。はうっ、と少女は悲鳴を上げる。立ち止まり、おろおろとたたらを踏む。しかし両手が塞がっていて目をこすることもできない。懸命に首を伸ばして袖の肩口で目元を拭った。汗だけでなく、彼女の左目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
いたぃ……。そう呟いて、ようやく開けた左目は、微かに赤く充血していたけれど、磯臭くも爽やかな風にさらすと幾分と痛みは和らいだ。少し遠くへ、右に左にと視線を転じ、その視界の大半は花束で覆われていたけれど、目の調子を確かめる。どうやら問題はなかったらしい、彼女は最後にもう一度だけ肩で目を擦って、それからまた、意気揚々と歩き出した。
切れた息が整うまで、と緩めた歩調の中で、少女はあることに気づく。空からまるで雪のように、はらはらと舞い散るものがある。いつの間に降り始まったのか、それは潮風に乗って緩やかに流されながら、あたり一面に幾つもいくつも降り注ぎ、やがて熱いアスファルトに落ちると音もなく砕けた。ひとつひとつの欠片は雪よりも大きく、また鋭角な形をしていた。しかしガラス片というにはあまりに儚かった。少女の剥き出しの腕にも触れ、転がったけれど、それは些かも彼女の白い肌を傷つけることはなかった。そしてやはり雪のように、仄かな冷たさを帯びていた。
ああ、また始まったのか。少女は歩みを止めないまま空を見上げる。ヒマワリの大振りな花弁越しに見える空には海の上で大きな入道雲が高く立ち上っている。そしてその向こう、ずっと南の空から少女の真上を越えて北の果てまで、底抜けに青い空には、巨大な亀裂が走っていた。
青地のカンバスを切りつけたように、雲の間を走る雷ように、墨よりも、夜闇よりも黒いすじが幾度も折れ曲がりながら空を南北に走り、東西へ引き裂こうとしているみたいだった。天球そのものが割れようとして、既にそこここでは亀裂が空を支えきれずに剥落し、そのむこうの黒が覗いている。この剥がれた欠片が細かく砕けながら落ちるから、世界中で季節を問わず、こうして雪片のような欠片が降り注いでいるらしい。
もうすぐ世界は終わるのだという。このところ、世間はそんなニュースで持ちきりだった。宇宙の寿命が尽きたとか、神の怒りに触れたとか、はたまた空の亀裂を卵に見立てて、むしろ今まさに世界は生まれようとしているのだとか、理由は色々だったけれど、どれにしたって至るところは同じだった。人間も、他の動物も、生き物だろうとなかろうと、もう少しでみんないなくなる。そういったことだろうと、少女は理解していた。
しかし少女にとっての世界など、家と、中学校と、そこまでの通学路と、この海辺に見える景色に、あとはたまにおじいちゃんと一緒に行くショッピングモールくらいのものだった。それが彼女にとっての世界のすべてだった。テレビ越しに見る、世界の終わりとそれに付随する様々な悲劇は、自分とは隔絶された場所で起こることで、近辺に差し迫った危険が押し寄せている実感はなかった。世界が終わると言っても、空に亀裂が入って、雪みたいな欠片が降っているだけ。それも彼女が幼い頃からの当たり前の景色だったから、いまひとつ、少女には危機的な実感が欠けていた。世界の終わりなどよりも、おじいちゃんの誕生日の方が重要だった。
少女は再び駆け出す。ずっと抱きかかえていたものだから、花束が段々と萎れてきているような気がした。早く家に帰って、水に挿してあげなくちゃ。走る度、火照った体に空の破片が当たって、その冷たさが心地よかった。降り注ぐ欠片の量がいつになく多かったが、少女は家に帰って、花束を見せたときの、おじいちゃんの驚いた顔を想像していて気づかなかった。にやにやと頬が緩んでいく。さすがに飛び跳ねるのは自制した。
幹線道路を海とは反対側に逸れて、緩やかな坂になっている細い道に入る。そのすぐ右手の階段の上にあるのが、少女とおじいちゃんの住む家だった。両手が塞がっていたから少女は玄関の戸に足を掛けてガラガラと引く。三和土に靴を蹴り飛ばし、上がり框に飛び乗る。
「おじいちゃーん!」
少女が声を張るとすぐ、居間に続く障子戸が開いて、老爺が顔を出した。彼は玄関に立つ、足の生えた花束に目を丸くした。それを花束の隙間から見て、少女は声を抑えられずにくすくすと笑いだす。そして勢いよく、老爺のもとへと飛び込んだ。
おじいちゃんは、勢い任せに自身の胸に体当たりを仕掛ける少女が、抱いている花束を潰してしまわないように気を遣って、そっと少女を受け止めた。その腕の中で少女は顔を上げ、花束よりもずっと明るく輝くような笑顔で言う。
「おじいちゃん、お誕生日おめでとう!」
それに応えておじいちゃんが何かを言おうとしたとき。
地を揺るがすほどの雷鳴が轟いた。
未定 茶々瀬 橙 @Toh_Sasase
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