第6話

 運が悪かったとしか言いようがない。


 川底に足は届かず、流れも速かった。しかし、パニックに陥ったチビとは違い、聡美は冷静だった。しがみついてくるチビを突き放し、冷静に、わずかな恨みもこめてチビの腹に拳を埋め込み、ぐったりしたのを確認して手を繋ぐ。空いている手で靴と靴下を脱いで川原に投げた。流れに逆らわず岸まで泳いで、チビの身体を押し上げ、自分も上がろうとしたそのときだった。


 あとから聞いた話によると、それは壊れた自転車、もしくは一輪車であったという。軽く、水に浮き、そのくせ攻撃力十分なそれは聡美の肩を直撃した。


 そして今、聡美は緋衣川のなかで川原の草に掴まっている。打たれた左肩は動かず、片腕と足だけの立ち泳ぎも苦しい。岸まで近づいたものの、片手ではどうも上れない。子供に手伝ってもらうわけにはいかなかった。陽子たちには誰か呼ぶように指示してある。


 どうも危機感が足りなかった。


 自分は今、絶体絶命なのだ。草を掴んでいる手も疲れてきたし、身体も冷えてきたし、肩はずきずきと痛む。右手を放せば、もしくは陽子たちが間に合わなければ、自分は多分死ぬのだ。それなのに、我ながらあまりにも落ち着いている。今だって、目は絶えず流れの弱いところを探し、手は掴んでる草の根の強さを確認し、耳は誰か人の気配がないか澄ませている。普通はもっとこう、大声で泣き叫んだり、闇雲に岸に登ろうとあがくところではないのか。


 中学に上がったばかりの頃、ふと母に「あんたって豪胆な子よね」と言われたことがある。意味がわからず、自室の辞書で調べた聡美は憤慨した。豪胆、肝っ玉の太いさま。息子ならまだしも、女の子にいう言葉か、と思った。


 しかし、聡美は今、少しだけわかった気がした。自分は短気でキれやすい。物腰が落ち着いているとはとても言えない。が、怒りに我を忘れても、狼狽のあまり自分を見失うことはないと思う。落ち込むこともあるけれど、何日も何週間も悩んだりしない。悩んでいる自分に怒りを覚えるタイプだ。要するに、感情のベクトルがマイナス方向に向きにくいのだと思う。ここ最近、泣いた記憶もない。


 泣いたのは三年前が最後だ。


 聡美は思う。あのとき、清水が事故にあったとき、自分は一生分の焦りや狼狽といったものを使い切ってしまったのではないだろうか。もうこれから泣くこともなく、なにかを怖いと思ったり、心底哀しいと思えることはないのかもしれない。それは良いことなのかもしれないが、一生と聞くとどこか寂しい気もする。


 声が聞こえた。


 陽子の声だ。まだ近くではないが、もうちょっとー、とか頑張れー、とかすかに聞こえる。間に合ったのだ。例え聡美が冷静だったとしても、死にたいわけでは断じてない。聡美は素直に安堵し、その安堵は右手にも伝わり、そして最悪のことが起こった。気力だけでもたせていた握力がきれ、聡美は川原から離れてゆっくり流されていく。沈むことだけは避けなければならなかった。聡美は懸命に手足を動かし、立ち泳ぎとはいえない無様な姿だったが、なんとか頭だけは水面上を維持した。内心、覚悟を決めた。十四年、思ったより短かった。


 そのとき、動かしていた右手を誰かが掴んだ。その誰かは、水中にいた。聡美の身体を持ち上げるようにして、川底を歩いていく。やがて岸に辿り着く。やや乱暴に川原に押し上げられ、振り向いた聡美はようやく助けてくれた人間を見た。


 水中から頭を出したばかりの、清水だった。


 脳みその許容値を越えた。意外すぎたし、疲れていたし、わけがわからない。口を開いたものの、「どうして?」でも「ありがとう」でもなく、素の思考がそのままこぼれ落ちてしまった。


「河童か、あんたは」




「河童、河童! 普通、命の恩人にいう言葉かそれが? 信じらんね」


 清水はまだ文句を言っている。ずぶ濡れのまま斜面に寝転がって、聡美はそれを五分は聞いている。さすがにあの発言には少し反省しているのだ。黙ったまま何の反論もしないでいると、そのうち清水も気がすんだのか聡美からは少し離れた場所に寝転がった。


 今度はこっちの番だった。聞きたいことそのいち。


「ねえ清水」


「んー」


 清水は眠そうに答える。


「陽子たちに聞いたのよね?」


 清水は薄目を開け、


「陽子? おれが知ってるのは伊藤と永友だけど、まあ同じだな。もう帰しちゃったけど問題ないだろ?」


「・・・・・・うん」


 聡美も眠くなってきた。


 聞きたいことそのに。


「あのさー」


「なんだよ」


「ロープ、いつも持ちあるいてんの?」


 清水がしていた命綱だった。川原に生えていた木に結び付けたあと、水中に潜ったらしい。清水は頷き、こちらからでは見えないと思ったのか声に出して、


「ああ、男のたしなみだ。殺人神父に殺されかけて以来、持ち歩くようにしてる」


 聡美はなにそれ、と笑う。西日が濡れた身体をあぶり、風さえなければ寒くもない。寝転んだまま、聡美は不思議なほど穏やかな気持ちでいる。くたくたに疲れていた。意地を張る気力も体力も尽きていた。さっきから考えていることがある。今なら言える気がしたし、今言えなかったら一生言えないだろうと思う。


「あのさー」


「またかよ」


「うん。なんかさ。色々都合よすぎだよね。川に落ちたら同級生が偶然通りかかって助けるなんてさ。頭の悪い少女漫画みたい」


 清水は黙っている。聡美は目を閉じて、言った。わずかに声が震えた。


「今だけなら、あんたの言う作者を信じてもいい気がする」


 清水は黙っている。聡美は目を開け、身体を起こして清水の方に顔を向けた。清水は喜んでいるような、怒っているような、泣く寸前のような複雑な表情を浮かべている。反応が読めない。てっきり死ぬほど勝ち誇ると思っていたのに。


 不意に清水が起き上がり、複雑な表情のまま近づいて来た。聡美は思わず身構える。目の前で、清水は一度深呼吸をし、こちらのてっぺんからつま先までじろじろと眺め、


「そうかい。おれは逆に、今作者の存在を疑ってるよ」


 ――なんだそれ?


 呆気に取られる聡美をよそに、清水はにやりと笑う。


「こんだけびしょ濡れだってのに、全然透けてないんだからその下着一体なんつー生地で、」


 最後まで言わせるつもりはなく、聡美はとりあえずセクハラ男に蹴りを入れた。



 


 言った。ついに聡美が言ってくれた。


 嬉しいのはびしょ濡れの聡美がおかしいからだとそう信じた。泣きそうなのは蹴られた腹が痛いからだとそう決めた。


 商店街の片隅にある医者まで行った。


「なんて?」


「ただの打ち身。動かさなければ一週間くらいで治るって」


 清水は密かに胸を撫で下ろした。聡美が怪我をしたのは左肩であり、奇しくも三年前聡美の鎖骨にひびを入れたのは自分であり、同じ場所だったら目も当てられない。昔の悪行を思い出して、ちょっとげんなりする。


「・・・・・・悪かった」


「なに、いきなり!? あんたも診てもらう?」


 聡美がびっくりしている。清水はそれ以上補足も説明もせずに、黙って前を歩いていく。頭の中にあるのはどう切り出すか、この一点である。聡美が信じるといってくれた。そのことで全てにリセットがかかったのだ。そもそも、小五の自分が意地になった理由。寺社仏閣を襲ったわけ。現実逃避。絶対確実な保証。


 そんなものはないのだ。腹を決め、商店街のど真ん中で清水はいきなり言った。


「聡美、今度どっかに遊ぶに行こ」


 フられるなら、三年前にフられるはずだった。聡美は目を丸くして、しばらく考えこんで、うん、と一つ頷いて、意地悪い笑みを浮かべる。


「それってデートのお誘い?」


「YES」


 清水は躊躇ちゅうちょなく答えた。聡美はやはり邪悪な笑みをうかべたままで、


「あんたさー、あたしとあれだけ仲悪くて、断われることとか考えないわけ?」


 とんでもなかった。顔に出にくいのは果たして得か損か。本当は泣きそうなほど緊張している。が、清水の本音とは裏腹に、長年の思考法というのはなかなか抜け出しにくく、口が勝手に捻くれた物言いを作る。


「いいや。でもどうせ話もあと一ページ。エンディングは近いんだからあとは作者がハッピーエンド好きなのを願うしかない」


 清水の頭の中で、もう一人の自分が阿呆、ボケと自分を罵っている。


「その言い方やめなさいって」


 ほら怒った。清水は内心落ち込むが、表面上なんら変化は見えない。さらに、


「じゃあ映画で言うなら残り十分。最終決戦のBGMに主題歌が流れ始める場面だな」


 もう一人の自分が呆れている。お前マゾですか。フられるのが好みですか。


 聡美はなにかを言いかけ、思い直し、


「まあいいや」


 何がいいのか、清水には意味がわからない。


「でも、条件があるんだけど」


 ようやく理解が追いついてくる。オッケーなのだ。自分は聡美とデートするのだ。やった、嬉しい。ものすごく嬉しい。


「明日から、作者っていうのを口に出さないで」


 それが条件だった。


「今日はまだセーフなんだよな」


 清水は確認する。聡美は怪訝な顔をして、


「ま、そう言ったけど」


 良かった。

 これだけは言わなければいけなかった。もうこの話は終わりなのだから。自分の妄想だとしても、それに決着をつけなければ前に進めない。口にすることがなくなって、だんだん作者を信じたことも忘れていくのだろう。それでいいと思う。作者は小五の頃の意地と一緒に、昔話にしてしまおうと思った。そしてそのために、これはどうしても必要なことだった。


 日暮れ時の商店街で、夕焼けに向かって力の限り叫んだ。


「次回作をお楽しみに―――――――――――――――――!!」


 終わりの言葉だった。


 散歩をしていた老人と買い物帰りの主婦がびっくりしてこちらを見ている。聡美は額に手をあてて呆れかえっているが、その表情に以前のような刺々しさはない。何を勘違いしたのかあちこちの家から犬がやかましく吠え出す。清水は晴れやかに笑う。




        完

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