第5話

 染井の台詞が胸に染み付いている。守畑の台詞が背中にべっとり貼りついている。おれとか守畑が信じてなくてもどうも思わないだろ? ホントは後悔してんじゃないの?


 ふたを閉めた洋式便器に座って、清水は便所の黄色い明かりを見ながら思う。


 ――好き勝手言ってらあ。


 屋敷と呼ぶにふさわしい染井の家には、便所が二ヶ所ある。人を肴にしている二人からできるだけ離れたくて、あえて遠い方を選んだ。屋根続きのため雨には濡れないが、家から張り出した所にある方。まるで公衆便所のように男子小便用と個室に分かれている。正直、大にも小にも用はなく、清水は一人になれるから、という理由だけで個室に入ってかぎを閉めた。無臭タイプでない消臭剤が香った。


 小さめの窓には格子がついていて、自分で入ったのに閉じ込められた囚人のように心細くなる。窓の外は台風で、風がうなりをあげ、時折雷が光る。昔、雷は神が原因だったと考えられていたと、国語教師の福田が、前そんなことを言っていた。


 だからどうした。


 染井の指摘は当たっている。いや、実際はそれどころではない。本音を言えば、今では清水自身ですら作者うんぬんの話は半信半疑である。もう三年も経つのだし、色々な知識も増えたし、なにしろきっかけがきっかけだ。事故による頭部への衝撃、意識混濁時の幻覚、そう考えるのが自然だろう。が、だからといっていきなり全部を否定するほど極端でもなし、人生に影響を与えたちょっとした不思議体験くらいに思っている。


 もちろん事故直後は違った。あのときは本当に神の存在を見たと思った。作者を知覚した。自分は真理を得た。悟りを開いたと信じていた。現実どうであれ、そう信じるに足る体験をしたことは確かだ。ものすごく大事なものをつかんだ気がした。世界で自分だけがそれを知っているのが得意だった。そのことが誇らしくて嬉しくて、特別に誰かに教えてあげようと思って。


 非常識なことだというのは、小学五年の頭でもわかっていた。だから他の誰が信じようと信じまいとほとんど興味がなかった。


 例外もいる。


 首が疲れた。ぐりぐりと頭を回して、清水はふたを閉めた洋式便器に座ったまま、便所の壁を見る。黒いタイルにさっきまで見ていた黄色い明かりが反射して、中学二年の自分が映っている。


 聡美と喧嘩がしたいわけではない。それは紛れもない清水の本音だ。


 しかし聡美を前にすると、清水は中学二年の自分を維持できない。もっとも暴力的でひたむきで必死だった、小学五年の自分に飲み込まれてしまう。年月に擦り減って、もう意地しか残っていないが、意地だけでそれは叫ぶ。今さら信じてもらおうとは思っていない。口先だけでもかまわない。ただひと言、


「・・・・・・信じるって言って欲しかったんだよなー」


 やばい。自分が二人いる。分裂症一歩手前かもしれない、と清水は思う。自分は極めつけの阿呆かもしれない、とも思う。他の人はもうちょっと上手く生きている気がする。ふたを閉めた洋式便器から立ち上がる。個室を出て、洗わなくてもいい手を洗って、清水はため息をつきながら便所から出て行く。どこか近くで雷が鳴った。

 そのまま台所へ向かう。飲み物専用の冷蔵庫の開けて、適当にチューハイやビールを取り出して、床に並べていく。一人で持てるギリギリの本数を取り出して冷蔵庫を閉める。斜め上にあった大きめの壁掛け時計が目に入った。何時間も便所にこもっていたような気がするのに、実際には十分くらいしか経っていない。守畑の昔話は終わっただろうか。


 小学生の喧嘩では類を見ない、めちゃくちゃに壮絶で血なまぐさい喧嘩だった。野良犬の決闘の方がまだ上品に思えた。お互いキレていた。清水は吠え、聡美は叫んだ。


 十年以上かけてつちかわれた倫理観は残らず剥ぎ取られ、手加減やためらいは次々と外され、孤立無援と化した理性は本日の業務終了のふだを出して脳内奥深くへと引きこもった。全開になった戦闘本能を止めるものなど、何もなかった。


 冷蔵庫の前にハチ公のごとく座り込んで、清水は三年前の一件を思う。


 あのときの自分は、聡美より腕力がなかった。


 あのときの自分は、聡美より背が低かった。


 清水は負けた。どんな展開でそうなったのか、正直、興奮のあまりよく憶えていない。ただ、決着の瞬間だけは今もはっきりと思い出すことができる。折れた箒を持ったまま、壁にもたれることでなんとか膝立ちの状態を維持していた。聡美はそんな自分を静かに見下ろしていた。聡美が何か話す。轟々と耳鳴りがして全く聞こえない。が、不思議と言っていることはわかった。首を横に振ると、顔面めがけて椅子をぶん投げられ、そこで記憶が途切れている。


 あのとき、頭部に衝撃があった一瞬。沈む意識の中で思ったのだ。必ず信じると言わせてみせると。絶対に、絶対に認めさせてやると。その意地が腹の中に落ちて固まりになり、今なお溶け残っている。


 部屋に戻り、三人で酒を飲んでもう一度鑑賞会を開き、エロ話をしたあと寝た。





 聞くと誰でも意外に思うが、弥生は説明上手である。怪談や暴力話は嫌いだそうだが、記憶力は驚くほどいいし、普段の子供っぽい話し方が一変して、聞いているだけで情景が思い浮かぶような語り口になる。本人曰く、会話と説明は別物、だそうだが、傍から見ていると言語中枢を丸ごと取り替えたとしか思えない。


 そして三年前の清水と聡美の喧嘩についても、一番上手く話せるのは弥生である。

 喧嘩をしていた当人ではない。聡美が覚えていることは驚くほど少ない。昔、逆に弥生に聞こうとして、さっちゃん頭大丈夫、などと随分失礼なことを言われたが、聡美にとっては不思議なことは何もない。喧嘩の最中、手に持つ凶器の威力や相手の痛みなど考えるやつは必ず負ける。憶える、なんて脳みその余分な機能は一番最初に切り捨てられる。何も考えなければいい。ただ腹の中で暴れ狂う巨大な怪物に、理性も同情も食わしてやれば、それは身体を動かす熱量を吐き出す。楽なものだった。気が付けば決着がついていて、教室の床には血が飛び散っていて、窓ガラスも割れていた。


 壁を背に、片膝をついた清水の姿は、それは無残なものだった。パンダのように両目に青タンができていたし、当然のように鼻血をたらしていたし、左腕の引っかき傷は相当深く、派手に流血していた。


 対する聡美も負けていなかった。身体中あざだらけの傷だらけ、右腕に並んだ半円状の血の点は誰がどう見ても噛み跡であり、左肩は箒で殴られてから動かない。近くの椅子を支えにしてなんとか立っていた。


 何か言おうと思った。


 あのとき自分が何を言ったのか、聡美はやはり覚えていない。内容はわかる。もちろん最後通告だ。もう観念して二度と馬鹿のことを口にしないとを誓え。そんな台詞だったに違いない。清水は断わり、聡美は椅子をぶん投げた。手加減などしなかった。清水は一年で二度目の救急車と入院、聡美は左鎖骨にヒビが入っていて全治一ヶ月だった。


 聡美が憶えていることは、それで全部だ。


 勝手知ったる他人の家の台所で空のカップを三つ並べて、インスタントコーヒーと砂糖を入れて、聡美は今、火にかけたやかんをぼんやりと見つめている。コンロの火はわざと最小まで落としてあった。湯が沸くまで、まだ時間がある。聡美の意識は再び物思いに沈んでいく。


 小六、中一と運良く同じクラスにはならなかったが、中学二年でとうとうかち合ってしまった。聡美は三年という月日を思う。変人が更正するのにも、他人の言動を聞き流す余裕を身につけるのにも十分な時間だ。しかし清水は変わっていなかったし、信じがたいことに自分も変わっていなかった。清水の一挙一動に、聡美は自分でも理解できないほどの苛立ちを覚えた。


 自分が気が短いことは知っている。でもこれは異常だと思う。


冷静になって考えてみると、このままでいいはずがないのだ。なんとかしなくはならない。破滅を回避できるのは自分しかいない。清水の言っていることに納得なんてできないし、絶対に譲れない、譲れないのだが、もし、ありえないことだが万が一、一歩引くとしたら自分の方しかないと思う。


 思うのだが、


 致命的な点。そんな気は全く起きない。理屈通りに動けるのなら苦労しない。


 頭の中はぐちゃぐちゃだった。


「ったく、どうしろって言うのよ」


 吐き出した言葉は、思った以上に弱々しく、聡美は慌てた。


 もう考えるのを止めようと思う。戸棚から2、3袋菓子を物色するうちに、やかんのふたがかすかに浮いて、隙間から蒸気が噴き出した。カップに湯を注ぐ。


 部屋に戻り、三人でコーヒーを飲んで菓子を食い散らかし、バカ話をしたあと寝た。



 台風の夜がふけていく。

 




 それから三日が過ぎた。風速何十メートルといった暴風は一晩限りのものだったが、雨はしつこく降り続けた。陰気な気象予報士はとっくにクビになり、やたらと陽気な若い男に変わっていた。そいつは言った。台風は完全に日本を抜け、北海道の一部を除いて本日は日本全国おおむね晴れでしょう。


 嘘つき野郎確定である。


 例え雲がなく、空はどこまでも青く、水溜りはまぶしい日差しを反射していても、プロの気象予報士なら察知してしかるべきだ。JR錦坂駅の真西、錦坂中学校の二階。二年六組。


 嵐の中心である。


 嵐の中心に風はない。ただ得体の知れぬ緊張感が静かに渦巻いている。三日前のようにお祭り騒ぎを期待する声もない。花火だと思っていたものが実は核弾頭だったという事実に、騒いでいた連中はようやく気付いたのだ。この三日間は清水と聡美の忍耐の結果だが、すでに限界だということは教室の誰もが知っていた。空気が痛い。もはや拷問に近い。決壊寸前の堤防をひとりで見張っていろと言われたも同然である。今すぐ逃げ出したい。そう全員が思っている。


 耐え切れず泣き出した女子一名、胃痛を訴えた男子一名、突如奇声と笑い声をあげて取り押さえられた男子一名がいて、保健室のベッドにはもう空きがない。一限目の国語教師は授業途中、体調不良で自習を指示して出て行った。二間目の英語教師はひたすら黒板に英文を書きつづけ、黒板を見たまま授業を行い、チャイムが鳴るまで結局一度も振り返ろうとはしなかった。


 そして三限目。数学教師、岩竹修二いわたけしゅうじが教室に入ってきた。教室の異様な雰囲気に気後れした様子もなく、悠然と教壇にのぼり、生徒を見下ろす。普段ならまずありえないことだが、生徒のうちの何人かが期待のこもった視線で岩竹を迎えた。岩竹の教師生活は長い。教壇にのぼる頃には、職員室でも話題にのぼっていた二年六組の異常が、清水と辰野の両生徒が原因であることを的確に見抜いていた。


 数学教師、岩竹修二はおとこだった。快適な授業進行を脅かす要因を駆逐し、速やかに残りの生徒の心身健康を取り戻そうと決意した。もっとも、こういった場合の教師の手口は良くも悪くも大抵決まっていて、すなわち圧倒的得意分野である勉強で仕掛けて、生徒をへこますといった具合だ。岩竹は何年か前テレビで紹介されていた超難関高校入試レベルの問題を二問、黒板に記して、居丈高に命じた。


「清水、辰野、前に出てやってみろ!」


 周囲が息をのんだ。最前列にいた生徒の一人が、顔を青くしている。共に前から四列目にいた清水と聡美はまったく同時に席を立った。まったく同時に黒板に向かって歩き、まったく同時にチョークを手にとって、躊躇ちゅうちょなくまったく同時に答えを書き始めた。


 書き終えるのは、清水の方がわずかに早かった。


 ――チッ。


 聡美の舌打ちは、教室にいた全員に聞こえた。もう終わりだ、と全員が思った。最前列の生徒が椅子からずり落ちる。顔面蒼白で、わき腹を押さえながら脂汗を流している。岩竹は持病の神経痛とリウマチと腰痛と偏頭痛がいっぺんに襲い掛かってきたと言って教室から逃げ出した。


 誰も責めはしなかった。岩竹に罪はない。



 部の空気が悪くなるから来んな。放課後、ホームルームが終わった直後にそう言われてしまった。


 こういったきつい言い方をするのは千絵である。聡美と千絵と弥生は三人ともソフトボール部であり、次期部長が決定している千絵にはそれなりの発言力があった。昨晩まで降り続いた雨のせいでグラウンドの状態は最悪、月面に負けずおとらずのクレーター地獄と化している。どうせグラウンド整備と筋トレ、あとは簡単なミーティングだけとはいえ、引退間際の三年や雑用の多い一年をさしおいてサボるのは気がひけた。しかし千絵は聞く耳持たず、必死の抗弁も虚しく、帰り支度のすんだ鞄を押し付けられて、聡美は一人学校から追い出された。


 千絵を恨むのはお門違いだとわかっていた。原因は全て自分にあるし、あれでも気を使っているのだろうとも思う。当初からかっていた千絵も、最近の状態を見てさすがにまずいと思ったらしい。外で気晴らしでもしてこい。こうも言われた。


 聡美の通学は歩きだ。校門を出て西へ。国道に出るとバス待ちをしている生徒の横をすり抜けて、バス通りを十分ほど歩く。田舎の国道なんて、通る車のうち三台に一台はトラックで、土煙を盛大に巻き上げながら聡美の歩く歩道ギリギリを通り過ぎていく。これで苦情が出ないのは道沿いに民家が少ないからであり、聡美もしばらくするとトラックと袂を分かち、脇道へ逸れていく。


 トラックの約半分はこのまま山奥で建設中の大霊園、つまり墓地へと向かい、残りはそれぞれの現場へと散って行く。墓場に尻を向けながら、聡美は街灯の少ない川沿いの田舎道をのんびり歩いていく。川の名前は緋衣ひえ川。錦坂市を掠めるように流れる二重ふたえ河の支流の一つであり、普段は道から五メートルほど下を浅く流れているだけなのだが、台風の影響でいつもの三倍は増水している。流れも速い。さすがに丸太が流れてくることはないが、聡美の見ている前で誰かの服、折れた傘、なぜか中華鍋などが泥水に押し流されていった。


 その緋衣川を渡る小さな橋の上で、小学生四人が騒いでいた。四人とも女の子。ランドセルを背負ったまま橋から乗り出して、水面を見ている。別に落ちはしないだろうが、聡美は一応注意しとこうと思って、後ろから声をかけた。


「何やってんの? あんたたち」


 一瞬びくりと震えて、振り向いた女子の一人が、


「あ、聡美お姉ちゃん」


 もちろん聡美の妹ではない。小学校からの友人の、矢島映子やじまえいこの妹で、名前は陽子ようこ。映子の家で一緒に遊んだこともある。確か今年で三年生になるはず。


「あ、じゃない、陽子ちゃん。危ないでしょ。水かさが増えて見てておもしろいかもしれないけど、見た目より勢いあるんだから。もうそろそろ帰んなさい」


「違うよー」


 そんなことは知っている、とばかりに陽子はぷーと口を膨らました。続いて「あれ見て」と水面近くを指差す。木の陰でわかりにくいが、小学生男子が二人、斜面をつたって川へ降りようとしていた。


「誰あれ? 陽子ちゃんの友達?」


 陽子はものすごくむきになって否定した。怒る陽子の隣から、別の女の子が聡美におずおずと話しかける。


「あ、あの、あの二人、登校班で一緒の男子なんです。それで」


 聞けば、りっちゃん、一歩離れてこちらの様子をうかがっている大人しめの子が川原にハンカチを落としたらしい。本人はすぐに諦めたそうだが、ここに男子二人が通りかかったことから話がややこしくなった。あのくらいなら取れるだろ、と男子の一人が言ったらしい。


「男子ってなんであんなに頭悪いの!? ただの格好つけだよ、絶対」


 陽子が拳を握って力説する。女の子は説明を続ける。ただの親切だったらまだ良かったのだが、いつの間にかりっちゃんを置き去りにして、取れる取れないの言い争いになってしまったという。


「そんで伊藤と永友・・・あ、これ男子の名前です。二人とも今降りてったところで、危ないって言ったって全然聞かないし、・・・・・・どうしたらいいと思います?」


 よし。なら二人を連れ戻すついでに私がハンカチを取ってきてあげよう、なんてたわけた事を聡美は言わない。この状況で、そんな台詞を言ったが最後、なんらかの法則でもあるように死ぬ。必ず死ぬ。


 しかし、このまま見過ごすわけにもいかなかった。説明をしてくれた子に鞄をわたし、足場を確認しながら、そろそろと男子のところまで降りていく。上から陽子が聞いてきた。


「お姉ちゃんも降りるの?」


「あいつらを下から蹴り上げるだけ。りっちゃんにハンカチは期待するなって言っておいて」


 うん、と頷いた陽子だが、そのまま動かずにじっと聡美の顔を見て、


「もしかしてお姉ちゃん、機嫌悪い?」


 聡美は両手両足を動かしながら、


「なんで?」


「なんとなく」


 自分ではそういうつもりはなかったのだが、溜まりにたまったストレスが周囲に漏れ出ているらしい。小三の子にいきなり言い当てられるとは思わなかった。聡美は手足の動きを止め、少し考えてから、


「ちょっとね。小三には小三の、中二には中二の悩みがあんの」


 なにそれ、と陽子。


「わかりやすく言うとね。陽子ちゃんさっき『男子ってなんであんなに頭悪いの』って言ったっしょ?」


 陽子は大きく頷く。


「それ、あたしも同感」


 言ったあと、聡美は口を閉じて黙々と斜面を降りていく。ものの数秒も経たないうちに男子二人に追いついた。名前は聞いたのだが思い出せず、勝手に「チビ」「色黒」と命名する。橋の上での会話が聞こえていたのか、二人は聡美の姿を見て露骨に顔をしかめた。見るからに生意気そうなチビが、


「なんだよあんた。余計なお世話なんだよ」


 まあそう言われるのはわかっていた。聡美は別段怒りもせずに、


「余計なお世話はあんたたちも一緒。ハンカチ見つかってないじゃない。危ないからさっさと帰んな」


 色黒が反論する。


「あっこにあるんだって。今から取りにいくとこ。もうちょっとなんだから黙っててよ」


 指差す方向を見ると、確かに白っぽい布が川原の石に引っかかっている。しかし今の位置からでは無理だ。途中、泥のようになったところを横断しなければならない。色黒とチビもそれをわかっていたから攻めあぐねていたが、今から斜面の下降ルートを修正するという。無理ではないかもしれないが、無茶には違いない。


「そんなことしてるうちに絶対落ちる! 大人しく諦めなさい。りっちゃんはもういいって言ってるんでしょ」


 チビはやれやれ、と肩をすくめて、


「これだから女は。男に二言は許されんのよ」


 わかる? とチビが言い終える前に聡美は切れた。気は長い方ではない。


「やかましい!! あたしに落とされたくなかったらさっさと上に登りなさい! 言っとくけどあたしは本気だからね!」


 この一喝に、チビと色黒は言葉をなくす。二人がかりで抵抗されるとさすがに面倒なので、聡美はとりあえず色黒の腕をつかんで斜面をぐいぐいのぼっていく。当初の宣言通り、橋の上に蹴り入れる。すぐさま引き返し、次いでチビの腕を掴もうとする。


 チビは逃げた。すでにルートは頭に入っているのか、ハンカチの方向めがけて身軽に斜面を下っていく。川原に降り立ち、引っかかっていたハンカチを抜き取り、どうだ参ったか、という勝ち誇った顔を聡美に向ける。そして、そのまま勢いよく斜面を登ろうとして、


 半ばあたりですべった。


 反射的に伸ばされた手を、追いついた聡美が掴んだ。が、不安定な足場で支えきれず、チビの身体に引っ張られていく。げ、というチビの間の抜けた声とともに、緋衣川の水面に派手な水柱が立った。



 話は変わるが、聡美と違い、清水は自転車通学である。錦坂は田舎で、田舎の学校である錦坂中学校は校区も広い。よほど学校近くに住んでない限り、生徒の通学はバスか自転車ということになる。とはいえ、駐輪場の敷地は校区に反比例して狭く、自転車通学には許可が下りる距離が制限されている。その境界線が、ちょうど清水と聡美の家を分断している。


 清水は特定の部活に所属していない。いつもは遅くまで放課後の教室でだべっているのだが、染井と守畑にねちねち嫌味を言われて、今日は早めに抜け出した。大通りではなく、ほとんど車の通らない裏道をのんびりと走っていく。横を流れる緋衣川よりも、夕焼けに染まった田んぼの方が赤かった。


 小学校の頃の校区まで来ると、やはり帰ってきたという実感がわく。商店街の本屋にでも寄るか、と考えながらペダルを漕いでいると、小学生の一団がこっちに向かって駆けて来た。見覚えのある顔もあるが、卒業生の兄ちゃんがやってきたーわーい、という感じではない。一人はなぜかずぶ濡れで、悲壮な顔つきで何ごとか叫んでいる。


 清水は足に力を入れる。自転車が一気に加速する。

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