第4話

先に手を出した方が悪い。それが古今東西、喧嘩の不文律らしい。


 そんなこと知ったことではなかったし、殴ったことに関してはひとかけらの後悔も抱いてはいない。それでも今後の展開を思うと頭が痛かった。ホームルームで担任が話す台風の注意を、右から左へ聞き流し、聡美は机に頬杖をついて物思いにふける。


 そう、あれで全てが終わったと思ったら大間違いである。事態が収束したと思っている奴もおめでたい。クラスで勝手に盛り上がっていた連中も「まあ、やっちゃったものはしょうがないんじゃない? 聡美って武闘派だし。あははは」と能天気に笑った千絵も何もわかっていない。


 だいたい武闘派ってなんなんだ、と聡美は思う。


 ため息。


 このクラスで気付いているのは。弥生、守畑など、もと第一小の面々だけだろう。自分のあの一撃が、破滅への最後の一押しである。このままではまずい、お互いそう思っているはずなのに。どちらかが一歩譲る、それだけで全て丸く収まるのに。わかっていながらお互い意地を張りつづけ、三年前と同じ流れに呑み込まれていくのだ。


 今回、行き着く先は病院ではすまないかもしれない。


 周囲が騒がしい。いつの間にかホームルームが終わっていて、鞄を手に持った千絵と弥生が近づいてくるのが見えた。聡美はもう一度大きく息を吐き、帰り支度を始める。


 三人そろって教室を出る。聡美が先頭。その後ろに千絵が続き、少し遅れて弥生が鼻歌を歌いながらついてきた。西校舎の美術室の前を通り過ぎ、美術準備室の前を通り過ぎ、その他用途不明の教室の前もいくつか通り過ぎ、階段を下り始めたとき、千絵がふと思い出したように、


「――ねぇ聡美、」


「んー」


「さっき、何考えてたの?」


 わかっていて聞くのが千絵のいやらしいところである。誤魔化そうとも思ったが、どうせ何を言ったって、昼休みの話題に持っていく気に違いない。


「ちょっとね。昔のことと昼休みのことと右手のこと」


「右手?」鼻歌を止めた弥生が首をかしげ、聡美は補足する。


「手の甲が腫れてるし、ちょっとだけ痛い」


「ああ、いい音したからねー―」


 千絵がからむように言う。最後に背中を押したのはあんたでしょうが、と軽く睨みつけると、千絵は心外だと言わんばかりに頭を振って、明後日の方向に視線を飛ばし、


「ところでさー。今日あたしん家親いないの。台風の夜に一人ってのもつまんないし、二人とも泊まりに来ない?」


 弥生は頷き、聡美は首を振った。


「「ええぇ! なんでぇーー!?」」


 いきなりコンビを組んだ二人の叫びに、聡美は口を尖らせる。


「なんか怪しい。どうせあたしをさかなに一晩からかうつもりでしょ」


「そんなことないよー。さっちゃんもお泊りしよーよー」


「そーそー。『肴に』なんてとんでもない」


 顔一杯に「おっしゃる通りです」という笑みを浮かべている二人に背を向けて、


「ふん。・・・・・・別にいいけど」


 少し早足になった聡美を、千絵の声が追いかける。


「あーーそれにしても、さすがに清水も男だねー。殴られたってのに手を出さなかったし」


 むっとして聡美は答えない。弥生が代わりに暗い声で、


「今回は、ね。清水君も大人になったよ」


 聡美にも反論はある。小学生のときの寝言を中学まで引きずるような奴のどこが大人かと。殴られたのに手を出さなかった、さぞかし立派に聞こえるが、殴られるようなことをする方が悪いのだと。しかしからかっているだけの千絵とは違い、弥生は今後のことを真剣にうれいているのだろう。弥生の言いたいことはわかる。まさしく、どちらかが大人になればいいのだ。が、わかっていてもこっちからは譲れない。


 ――意地を捨てたら女がすたる。


 口をへの字に曲げ、聡美は黙々と歩きつづける。心配顔の弥生が前に回りこんできた。聡美の表情を見てなにを誤解したのか、


「まだ手ぇ痛いの? 大丈夫?」


「え? いや大丈夫大丈夫」


「そう。・・・でも良かったね。今日、クラブ休みで」


 その通り。台風だから生徒は放課後さっさと帰れ、という指示が出されている。


 ――でも、


「・・・・・・良かった?」


 弥生の肩越し、遠目から見てもわかる昇降口の混雑に、聡美は呆れたように言う。クラブ活動というのは下校時刻を調節するために生まれたのではないか、と冗談交じりに思う。全校生徒の二割にもみたない帰宅部がまず帰り、次いでたまにしか活動しない文化部や教室でだべっていた連中が帰る。少し早めに練習を切り上げる運動部もあれば、下校時刻ぴったりに終えるクラブもあり、暗くなるまで居残り練習するところもある。定期テストのときも同様だがここまでひどくはない。問答無用の天災によって、横一列に首を切られるとどうなるか。


 悲劇である。


 昇降口はまさに戦場だった。外は嵐で、雨の勢いにビビってぐずついてる奴や、傘を落としてしゃがみこむ奴までいる。人の数は増える一方で、殺人的な人ごみに三人は果敢に突撃した。命からがら自分の下駄箱までたどり着く。


 いち早く靴を履き替えた聡美は、下駄箱のふたを閉めた。人波に押されてバランスが取れず、片方上履き片方スニーカーのままいつまでもふらついている弥生を、千絵が支えに行く。仲間の援護もなしにもう一度人ごみを抜ける気にもならず、手持ち無沙汰の聡美は、下駄箱に書かれたクラスメイトの名前を一人ずつぼんやりと追っていった。


 視線が止まる。出席番号十九番「辰野」の場所の一つ右、三つ上、出席番号十二番「清水」である。下駄箱のふたにそっけなく書かれたその文字が、なぜか病室の扉のイメージと重なった。


 ――203号室。清水孝文。


 聡美は思い出す。小学五年の夏、三年前の事故の光景を。


 ゆがんだ自転車のタイヤが、からからと間抜けな音をたてて回っている。清水が頭から血を流して倒れている。車から出てきた老夫婦は脳卒中で倒れないのが不思議なくらい興奮し、たっぷり五分はパニック状態が続いたあと、ようやく救急車を呼ぶことを思いついた。おじいさんの方が公園に公衆電話をさがしに行き、十分は待たされた後、救急車が来て清水は運ばれていった。


 そしてその中で、聡美はただ凍りついていた。


 サイレンが聞こえなくなるくらいまで救急車が遠ざかり、聡美はようやく我に返った。そして状況を把握したあと激しく落ち込んだ。清水が坂道を自転車で突っ走り、勝手に事故った。ここまではいい。誰に聞いたって清水が悪い。だがそんなことは問題ではなかった。身動きできなかったというレベルではない。聡美には、その十五分間の記憶すらなかった。


 自分はいったいなにをやっていたのか。


 知っている人間だったのに。携帯すら持っていたのに。


 目の前で事故にあった人がいたら電話をさがして救急車を呼ぶ。当たり前のことである。幼稚園児でもできると聡美は思っていた。自分にも当然できると信じていた。

 それなのに、何もできなかった。自分には空想癖なんてなかったはずなのに、隣の家で葬式をしている光景が勝手に浮かんでくる。救急車を呼ぶのがもう少し早ければ。そんな声がどこからか聞こえる。おばさんが泣いている。白黒の清水の写真がかざられている。クラスのみんなが並んでいて、男子のほとんどが泣いている。涙ぐんでる女子も何人かいる。そのなかに罪悪感に顔を歪めている自分を見つけた。


 膨らみつづける想像力をもてあました。


 鉛のようにのしかかってくる不安に押し潰されそうだった。


 おつかいもせずに家に逃げ帰り、部屋でひざを抱えて聡美はひとり泣いた。


 こわかった。


 引っ張るのはこれくらいにしておく。結論から言えば、清水の怪我はぜんっぜん大したことなかった。思えば当然の話で、旗霧峠の急カーブは車ではそんなにスピードが出せる道ではないし、老夫婦は地元に人間ではなく、まさに蝿が止まるような速度で走っていたらしい。清水の自転車の方が速かったくらいで、怪我が頭だったため二、三日様子を見るそうだが、多分心配いらないだろう、とのことだった。


 とにかく、重い不安に苛まれていた聡美にとっては、これ以上ない朗報だった。


 清水が意識を取り戻したと聞いたとき、本当に嬉しかった。すぐに見舞いに行こうと決めた。けがを心配してというより、胸の内にまだくすぶっていた不安を消し去りたい気持ちもあったと思う。降りたバス停から病院までの距離がやけに遠く感じられ、母に持たされた果物のかごは重く、病室の扉の前に立ったときは緊張して足が震えていた。


 ――203号室。清水孝文。


 扉を開けると白いベッドに寝ていた清水が身体を起こして、こっちを見て笑った。頭に包帯を巻いていたが元気そうで、危うく泣きそうになって、必死にこらえながら顔をそむけて果物のかごを突きだした。清水がなにか言い出す気配。


「おおぉ! 聡美、聞いてくれっ!!」


 本当に嬉しかったのだ。


「おれはついにさとった! しんりを得た!」


 本当にこわかったのだ。


「おれたちには・・・・・・この世界には・・・作者がいたんだっ!!」


 だというのにあのバカは、


「なあ、おいっ! 聞いてんのか!?」




 三年前の怒りが、たちまち昇降口まで追いついてきた。


 三年という月日をまったく感じさせない、鮮度そのまま真空パックで未来に送られてきたそれは、昼休みの記憶と結びつき、猛烈な化学反応を起こしてはじけた。頭の中は地獄の炎に包まれる。止めに入った理性を木っ端微塵に吹き飛ばし、すべてを破壊し尽くす凶悪な感情が光の速度で進撃する。貧血を起こしたように目の前が暗くなり、心臓が暴走を始め、食いしばった歯の間から低い唸り声がもれる。


 このままではいけない、と最後の理性が叫んだ。あっさり無視された。あのときの惨めなほど狼狽した自分の気持ちも、涙がこぼれそうだった嬉しさも、自分が今感じているこの怒りでさえ、すべて作者とやらが書く、文字や文にすぎないと清水はそう言っているのだ。


 許せるはずがなかった。


 激情のままに聡美は動いた。清水の下駄箱に、力任せに、


 頭突きをみまった。


 ものすげぇ音がした。


 昇降口の騒々しさが一瞬で駆逐された。土砂降りの雨音だけがやかましく響く。土砂降りの雨音だけがやかましく響くなか、下駄箱のふたが外れて落ちた。その乾いた音が、誰の耳にもはっきりと聞こえた。満員電車のような昇降口で、二年六組の下駄箱前だけが田舎駅の終電みたいに空いている。


 聡美がゆらりと頭を上げる。周囲が息を呑む。大きく深呼吸して、ようやく周りを気にする余裕ができた聡美は、最後の理性の九割を顔面神経の制御に当てた。


 ゆっくりと振り返り、天使のような笑みを浮かべて、


「気が変わった。やっぱり今日、千絵んとこ泊まるね」


 青ざめた顔で、千絵は頷いた。


 弥生は泣いていた。





 校門を出て東へ数キロ。JR錦坂駅の踏切を越えると、だだっ広い田んぼと畑の合間に地元の人間が住む比較的古い住宅が散らばっている。その裏側はひたすら山であり、駅のホームからはど田舎の見本のような風景を眺めることができた。このあたりの地名を「染井そめい」という。


 錦坂ではごくありふれた田舎町の、どうってことないこの地域の名を地元中学生に知らしめたのは、線路と平行に走る旧国道わきの安っぽい外観の建物である。入り口に存在する大人の扉も神々しく、ご休息とご宿泊に分かれているこのホテル。その名も「チャペルピエール」。知り合った当初、清水と守畑は染井の肩を叩いて「よっ。今からピエールにお帰りかい?」とか「昨日ピエールで見かけたぞ。相手誰だよ」などとバカにしたものだが、染井の家に遊びに行ってからは二度と地名ネタでからかうことはなかった。


 染井の家はでかかった。ああ友情よ永遠なれ。染井家ばんざい。


 元々は地主だった染井家だが、現在、両親はそれぞれ複数の会社を経営しているらしい。嵐のため二人とも今夜は会社に泊まりこみ、染井雅司は一人っ子であり、家のリビングは広く、ビデオデッキは最新でテレビもやはりでかかった。


 完璧である。


 そういうわけで清水と守畑は染井家に押しかけ、保健体育の映像講習を実施している。テレビ画面にくぎ付けになり、「おお、すげー!」「マジかよ」「なにあの道具?」「この男優キモイ」と口々に言い合う様はまさに三バカと呼ぶにふさわしいが、当人たちはまるで気にしない。


 そのまま宴会へと突入するのはいつものことであり、最初に酔いつぶれた奴は一週間パシリという仁義なき協定が取り交わされる。まだ序盤、二本目の缶ビールを開けた染井が、清水に顔に視線を止めてしみじみとつぶやく。


「しっかし、ひでー顔だなお前」


 いきなり何を言い出すのかと思う。清水はあぶったスルメにマヨネーズをつけながら、


「なんだ? 喧嘩なら買うぞ」


「いや違う違う」


 缶を傾けながら、染井は空いている手で清水の顔、正確には左頬を指さす。


 清水はすぐに納得した。ああ、そのことかと思う。自分では見えないけれど、


「そんなに腫れてる?」


 ちょっと待て、と染井は手の平で告げ、やがてビールを飲み干すとげっぷを一発、空き缶をパキッと潰しながらきっぱり頷いた。


「ああ、すげー。人間の顔とは思えん。こぶとり爺さんみてぇ」


 こぶとり爺さんは人間だろうに。


「ふうん。でもさ、多分今晩が一番ひどくて、明日には大分マシになってると思う」


 スルメをくわえたまま答える。


 これからひどくなるのは別のことである。三年。清水はその年月を思った。以前なら反射的に手を出し返していただろう。そうなったら一気に全面戦争だ。今回は自制が効いたが、次はどうなるか自分のことなのに検討もつかない。聡美との緊張感は高まるばかりだし、胃が痛い。いやもちろん自分に原因があるような気もしないでもないのだが・・・・・・。


 清水の思考を読み取ったように、今まで日本酒を湯のみで飲んでいた守畑が割って入った。


「いい加減、仲直りしたら?」


 と直球。「仲直りってなあ」と反論しかけた清水をさえぎり、


「もう小学生じゃないんだから。シャレじゃすまないよ」


 染井が不思議そうに、


「あれ? 昔は仲良かったの?」


 守畑は頷いて、ふて腐れてる清水を横目に、


「『黄二重公園第2グラウンドの合戦』って知ってる?」


 染井は「当たり前だろ」という顔で答える。


「おれ第二小。参加はしなかったけど」


「そのときさ、清水はこまめに動き回ってたし、実際そのおかげで引き分けに持ち込めたんだけど、裏工作ばっかであんまり表に顔出さなかったんだよね」


 うるせえなあ、と清水は思う。本当は名前すら出さないつもりだったのだ。自分は参謀型である。守畑から湯のみを奪い取って、中の日本酒を一気に飲み干す。おそろしく度が強かった。頭がカーと熱くなる。


 染井は「話が見えねー」と眉にしわを寄せ、湯飲みを奪われた守畑は、気にせず新たにカップ酒を開けながら続ける。


「だからさ。準備がそれでいいけど、実際現場では旗印っていうか総大将みたいなのが指揮した方が動きやすいだろ。それが辰野。お互い女子は何人か混じってたけど、こっちは自慢にならないし、そっち、第二小もまあ恥でしょ。この話、あんまり広まらなかったけど参加した連中なら誰でも知ってる」


 染井の疑問。


「なんで辰野が?」


「清水が頼んだから、だと思う。別に家が近いわけじゃないけど付き合いは古いし、ほら、辰野ってわりと姉御肌だし友達も多いだろ。で、清水は清水で裏の相談役みたいのやってて、女子代表、男子代表って感じでいざこざが起こったら出て来て話つけるんだよ」


「やくざみてー」と染井。


「うん。でもイベント絡みで協力することもあったし、そりゃあ口喧嘩とかはしょっちゅうだったけど、今ほど仲悪くなかったよ。・・・・・・小五まで」


 すでに清水は会話に参加する気がない。黙々と酒をあおり、つまみに手を伸ばす。それほど酒に強いわけではなく、アルコールの影響で血圧が上がっている。動悸と同じ間隔で頬が痛む。


 染井は新たな缶ビールを開けながら、何かに気付いたように、


「あー、そうそう。弥生もなんか言ってたなあ。喧嘩したとは聞いたんだけど・・・」


 清水の手が止まる。守畑は苦笑して、半分以上残っていたカップ酒を空にして、


「聞いたけど?」


「詳しくは教えてくれんかった」


 だろうね、と守畑は言い、だろうな、と清水が言う。


「なんだよお前ら感じ悪いな――。第一小だけで納得しあってわけわかんねえよ。・・・・・・だいたい原因は今日と似たようなもんなんだろ? 清水、お前いつまで意地はってんの?」


 こっちに振るな、と思う。清水は口を尖らせて、湯飲みに酒を入れながら、


「あのなー。世の中には宗教の自由ってもんがあってだな。・・・・・・おれがなに信じようが」


「それだよ」


 ――どれだよ。


 あっさり遮られた。不機嫌な顔で唸る清水にかまわず、染井は、


「一年の頃からの付き合いで、お前が妙な発言と妙な行動が多い妙な奴だってことはよーく知ってる。作者がどうのって話も何度か聞いた。信じてないけど。―――でもお前、おれとか守畑が信じてなくてもどうも思わないだろ?」


 守畑が身を乗り出してくる。


「そーそー。ぼくも小五のときに初めて聞いてさ。嘘―って叫んだら『信じないならいい』ってあっさり引き下がったじゃん」


「ところが、だ。二年で辰野と同じクラスになってから衝突すること早三回。お互いむきになるからどんどん過激さが増して、今じゃ殴り合い一歩手前・・・・・・・・・あ、もう殴られてるか。先に手を出したのはあっちだけどお前もやたら挑発的な態度を取るし、いつも変だがいつも以上に変だ。こりゃなにかあるって普通そう思うだろ? さっさと全部ゲロしろ、今すぐ」


 追い詰められた。


 清水は近くにある一升瓶に視線を落とす。飲み干して酔い潰れた振りをしようか、一瞬検討した。無駄だと思う。それに一週間パシリは御免だったし、守畑は昔のことを話す気満々で、「血なまぐさい話だよー」と嬉しそうに言いながら、新しいつまみの袋を開けている。他人の口からはなおさら聞きたくなかった。


 腰を浮かした。すぐに気付いた染井が、


「おい、どこ行くんだよ」


 きっぱりと告げる。


「逃げる。負け戦の話なんて聞きたくねえ」


 引き止められるかと思ったが、意外にも染井はただ「ガソリンが足んないから何本か持ってきてくれ、ついでにつまみも」と注文をつけただけだった。守畑の方を向き直り、ぼそぼそと、


「なんだ、三年前ってあいつ負けたのか」


「まあね。でもあんなの言い訳言い訳。ホントは後悔してんじゃないの?」


 染井と守畑をやりとりを背中で聞きながら、便所に向かう。




 そのころ、川部千絵の家では女三人が食後のコーヒーを飲んでいた。正確には飲んでいるのは聡美一人で、部屋の主と弥生は食後の運動、要するに、逃げる弥生を千絵が追いかけ回していた。


 夕飯を作っていたときはまだ良かった。女が三人も揃っているのにハ○スのマカロニグラタンだなんて情けない、と自分のことを棚に上げて相手を非難し合って、そこから食事中、ドラマに歌謡曲に映画に学校へと話が飛んで今日の昼休みに行き着いた。野郎どもと違ったのは千絵が孤立無援だったということだ。聡美は最初から黙秘していたし、弥生も昔のことを話すには話すのだが、どこかで一線引いていた。


 そしてついに、千絵は実力行使に出た。


 標的は当然弥生である。聡美と比べると肉食獣と小動物くらいの差がある。後ろから羽交い絞めにして「大人しく吐きなさい」と耳を引っぱったり、わきをくすぐる。弥生は「やだやだやだ思い出したくない―――」とじたばた暴れる。聡美も当初は千絵を止めようとしていたが、千絵の「別にあんたが話してもいいんだけど」のひと言でいそいそとコーヒーなど入れだした。ごめんね弥生。あなたの犠牲は忘れない。


 抵抗は十五分で止んだ。弥生にしてはよく持った方である。


「ひどいよちーちゃん。話すって言ってからもまだくすぐるし。さっちゃんも! 助けてって何回も言ったのに!」


 目に涙まで浮かべてぷんすか怒っている。


 ごめんごめんと謝りながらも、聡美としては少し複雑で「結局、話すんじゃん」と思わなくもない。しかし千絵のとこに泊まるのは自分で決めたのだし、弥生に罪がないのはわかっている。


 どうしよ。


 千絵は手で扇をつくって顔を煽いでいる。弥生の息もまだ荒い。


 これだ、とも思った。空になったカップを持って、


「あたしコーヒーのおかわり入れてくる。あんたらも何か飲むでしょ?」


 返事を待たずに立ち上がる。千絵の部屋は二階だ。ドアを開け、階段を下りていく。聡美が出て行ったドアを見つめて、


「逃げたな」と千絵。

「逃げたね」と弥生。

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