002 怪談のはじめ方

 東野とうの佳奈子かなこ率いる地域文化研究会が部室としているのは、平屋建ての校舎の1番の教室だった。とはいえ正規の教室ではない。図書室の右から3番目の棚の上から3番目の段にある左から7番目の本を押すと開く、隠し扉でのみ入ることのできる秘密の部屋である。


「隠す必要は何もありませんわ。けれど、でしょう」


というのが、会長の弁だった。

 凍と佳奈子が部屋に入ると、すでに2人の生徒がソファに腰掛けていた。そのうち1人の少女は背筋を伸ばしてアニメコラボ表紙の文庫本を読み漁っており、もう1人は入り口に背を向けてヘッドホンをしている。少女が文庫本を閉じて、まっすぐにこごえを睨めつけた。


「佳奈、その男、誰」


 絶対零度の冷たさを帯びた声だった。佳奈子は凍を自分の隣に立たせて、パートナーを紹介する風に──どこから出したのか豪奢な扇子も携えて──指先で凍を指し示した。少女の眉間に刻まれた皺が更に濃くなる。彼女の手の中で金属同士のぶつかる音がした。


「こちら、宮野先生の代わりを務めてくださる雨宮あまみや凍先生よ。わたくしたちの同志ですって」

「へぇ。教師の分際で佳奈に触れたんだ」

「控えなさい深月みつき。わたくしは指1本触れてなくってよ。失礼、触れられてなくってよ」

「そうとも! 天に誓って教師の矜持に誓って東野さんには1マイクロメートルだって触れちゃあいない。だからその、えっと、おや僕としたことが口が回らなくなって来てしまった、まぁとにかく手の中のモノを仕舞ってはくれないか」


 深月は手を開いて、握っていた20cmほどの針2本を1度完全に取り出した。それから立ち上がり、セーラー服のプリーツに隠すようにして取り付けていた細長いホルダーに差し込み、ボタンで固定する。ふわり、と中の短パンが見えるか見えないかの瀬戸際をはからずも攻める形で、その場で1回転する。ホルダーが正しい形にはまる為の、ある種動作確認じみた行為だった。日焼けを知らない少女の太ももと、ニーハイソックスが織りなす絶対領域の魅力に逆らうことができたのは、ひとえに凍がだからである。保険として、凍は女生徒が回り始めた時点で自分の視界を固く塞いでいた。


「見ました? 雨宮先生このドスケベ親父

「親父ではなくせめてお兄さんと読んでほしいなというのは置いておいて前述の件と同じく見ていないしこの状況で見ることが可能な方法があるのなら教えてほしいかなッ!」


 凍は一息で、いつになく切羽詰まった様子で畳み掛けた。畳み掛ける畳がこのままでは不足しかねないほどの速度で、花粉だって門前払いできるほど隙間なく眼を封じつつ。深月は渋々それ以上追求することをせず、ソファに勢いよく腰を下ろして、足を組んだ。


「今回のところは佳奈に免じて勘弁してあげましょう。但し次はない、雨宮先生エロお兄さん

「僕の希望を聞いてくれて嬉しいよ。その調子で罵倒するなら愛でもって痛めつけてくれると──」

「ごめんあそばせ、先生。そろそろ始めたいのだけれど、よろしいかしら?」


 凍の止まらぬ水の言葉が堰き止められた。佳奈子は有無を言わせない笑顔を凍に向ける。背後の深月の視線は彼女の愛用の針ほど鋭い。凍はずこずこと引き下がり、黙って、先を促した。

 パチン。

 佳奈子が鳴らした扇子を合図に、照明が消えてカーテンが閉じられる。背を向けていた少年がヘッドホンを外して、奥の高座に上がった。佳奈子は黙って高座の真正面、いわいるお誕生日席を凍に勧める。凍は一先ずそこに座って、成り行きに身を任せることにした。佳奈子は、


遼太りょうたはね、語り部なんですの。いつもはじめにわたくしたちの調査対象を語ってもらいますわ。怪談のは大事でしょう?」


と耳打ちして、深月の隣に座った。猫を愛でるように、佳奈子は深月を撫でる。蕩けてしまいそうな表情で深月は目を閉じた。愛おしげに深月に触れる佳奈子と凍の視線が遼太に注がれる。彼は瞼を閉じたまま、ゆらりゆらゆら正面を定めて、大きく息を吸った。



   ◇◆◇◆◇



 えー、これは夏南那岐かななぎ小中学校の怪談の1つ、我々地域文化研究会の先達が収集し、残念ながら未検証となっております、通算99番目の噺にございます。

 頃は十年前、当時中学3年生だった先達・莉子りこさんのご友人──仮にしおりさんとお呼びしましょう──は莉子さんたちとともに、学校の中庭の桜の花見をしておりました。はらはら、と花びらが舞い、手に持った飲み物の上に花びらが1枚のります。花びらの小舟がりんごジュースを漂いまして、勢い余って、ジュースともに栞さんの中へと飲み込まれていきました。それ自体はさしたる問題ではありません。花びらは対して害のあるものじゃござんせんから。栞さんもそれは気にせず、おしゃべりに興じ、食事に興じ、もののついでに花見に興じておりました。

 さて、それから日も暮れまして、その場は一旦お開きと相成ります。


「せっかくだから、ウチでお泊り会でもしよう。今日私の家に親いないの。どう?」


莉子さんがそういいました。


「いいね。親に許可をもらってくる」

「私も」


他の友人は次々と賛同していきます。


「じゃあ許可もらって準備して、いつもの場所で待ち合わせね」


という栞さんの言葉が締めになりました。それぞれの方角に向かっててくてくてく、てくてくてく、てくてくてくてくてくてくてくと歩いて少女たちは帰って行きます。栞さんは家の前につくと、鍵を取り出して穴に差し込みました。ガチャ、ガラガラガラ。


「ただいまー! おかあさん、今日お泊り行ってきていいー?」


栞さんは台所に向かって叫びます。


「どこにー?」


こちらも負けじと声を張り上げました。事の次第を説明すると、栞さんのお母さまは家にあった1番上等なお菓子を持たせて、


「くれぐれも失礼のないように」


と言い含めます。栞さんは、


「はいはい」


と聞き流して、2階の自分とお姉さまの共同部屋にさっさと上がってしまいました。コンコンコン。


「お姉ちゃん、入るよー」


 返事も待たずに栞さんは扉を開けます。すると、慌ててお姉さまが何かを机の中にしまい込みました。黒くて、うごうご蠢く悍しい代物のような気がしました。しかし、栞さんはそれよりも一刻も早く遊びに行きたくて、そんなもののことを問いただしはいたしません。とりあえず箪笥の一番上から1式を取り出して、いつものスクールバッグに詰めていきます。


「ねェあんた、どこ行くの」

「莉子の家にお泊りに」

「ふーん。…………ちょッと、こっち向いてみなさいよッ」


 ビクッと栞さんの肩が跳ねました。お姉さまの語気がいつになく荒いものですから、恐る恐る、栞さんはお姉さまの方を振り返ります。


「な、なぁにお姉ちゃん」


 お姉さまは栞さんを身体に怯えた様子で触れて、ペタペタとあちこち確認してまわります。一瞬躊躇ってから、お姉さまはセーラー服のスナップボタンを外して、胸をくつろげました。それを見て、お姉さまは言葉を失いました。栞さんの肌に、びっしりと、ベタベタベタベタベターっと無数の手形が張り付いていたのです。幼い子どもの手の大きさで、すがりつくような引っ掻き傷すらついていたのでございます。


「……あんた、ナニ連れてきたの」

「え?」

「え? じゃないよ。こんな、こんな手形普通じゃない」


 お姉さまは唇をわなわなと震わせて、机の中から何かを取り出して、栞さんに握らせました。先程の、何かうごうごとしたものです。


「魔除け、持ってきなさい」


栞さんは嫌がってお姉さまに返そうとしました。


「嫌よ、気持ち悪い」

「ダメ。おばばの魔除けは効果覿面てきめんだから」


 それでも嫌がって持とうとしない栞さんに痺れを切らして、お姉さまはこっそり栞さんの鞄の中にねじ込みました。栞さんはスナップボタンを止め直して、お姉さまを睨みます。


「手形なんてどこにもなかったじゃない。この嘘つき。オカルト馬鹿ッ!」


 栞さんは乱暴に部屋の扉を閉めて出ていってしまいました。そのままドタドタ階段を降りまして、


「行ってきます!」


と大声で叫びます。母親の返事も聞かないまま、栞さんは待ち合わせ場所に向かって走っていきました。

 その夜のことです。栞さんの自宅の電話が鳴りました。お姉さまが髪を拭きながら受話器取って、


「もしもし」

『もしもしー、東野莉子です。栞のお姉さん、栞います?』

「ああ、莉子。栞は友達の家に泊まると言って出かけたけど」

『それが、約束していた待ち合わせ場所にちっとも来ないです。日が暮れたから、私の家で待ってるよ、って置き手紙をしてとりあえず他の子と家に戻ったんですが……』


 お姉さまはそこで受話器を放り出して、サンダルをつっかけ、タオルを首にかけたまま外に駆け出しました。


『もしもーし。もしもーし! ちょッとお姉さんッ⁉』


 電話先からの声なんてお姉さまの耳には入っていません。彼女は転びそうになりながら、心当たりに向かって走っていきました。栞さんの肌についていた小さいもみじ。この集落で幼子、手形、オカルトと言いましたら、ひとつしかありません。

 夏南那岐小中学校。今我々がいる、この場所でございます。


「……ハァ……ハァ、ハァ……ッ!」


 お姉さまは口元を手で覆いました。よろよろと後退し、座りこんでしまいます。お姉さまがそこで見たのは、桜の木で栞さんが首を吊っていた光景じゃありません。


 栞さんは樹の幹に肉を割かれ、真っ赤な血液を何リットルも流し、骨を折られ、砕かれながら喰われていたのです。煎餅でも食べているかのように、バリバリと。しかし、いくら喰われても、桜の幹は栞さんを喰い終わりません。

 喰われた先から、砕かれた骨も失った肉も再生しているのです。再生しては喰われ、また再生するという、まさに生き地獄。栞さんの血液が、少し離れたお姉さまのところまで流れてきていました。


 ふと気がつくと、お姉さまの傍らに、栞さんのスクールバッグと、あのお守りが落ちていました。栞さんと同じように砕かれ、再生してを繰り返しているのです。お姉さまは察してしまいました。目を瞑って躊躇っている間にも、栞さんが咀嚼される音が聞こえきます。

 お姉さまは意を決して、お守りを開けました。

 咀嚼音に併せて、栞さんが砕かれます。しかし、もう再生することはありません。頭のてっぺんから足の先まで、余すことなく喰われてしまいました。


 呆然するお姉さまを嗤うかのように、桜は栞さんの血液と同じ、真紅に染まった花を咲かせていたそうです。

 以上、『人喰い櫻』のお噺でした。



   ◇◆◇◆◇



 語り終わると、遼太は3人に向かって一礼した。立ち上がって高座から下りると、佳奈子と深月の正面に座る。閉じているのか開いているのかよくわからない目を佳奈子に向けた。深月を撫でる手を止めると、一瞬憂いげに目を伏せた。すぐにその色を打ち消すと、彼女は顔を上げる。凍に向かって花が咲いたような笑みを浮かべた。


「先生、お誘いしたのはそちらなのですから、お逃げにならないでくださいね」

「吁、勿論だよ。こんな有望な怪談を取り逃がす訳にもいかないし、僕にできることなら、立場と倫理とこの国の法が許す限りしようじゃないか」

「あら嬉しい。では早速……お花見の準備をいたしますわ。皆様、我が家に行きますわよ!」


「…………なるほど?」


 凍の間抜けな声が、部室に嫌というほどはっきりと、発せられてしまった。

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紅葉咄 志満 章 @sima-akira

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