後編

 紗雪は、スウェーデンと日本のクォーターだ。一見誰も気づかないのだが。

 紗雪の父方の祖父は、スウェーデン人だった。祖父の実家は貿易商を営んでおり、祖父はその事業の一環で日本へ来ていた間に祖母と知り合い、結婚した。戦時中は夫婦はスウェーデンで過ごしたそうだが、戦後日本へ戻り、事業の収入を十分に得た豊かな暮らしをしていた。

 すらりとした長身に、銀色の髪、灰青色の瞳。品良く温かい雰囲気を常に醸す、美しい祖父だった。


 少女時代の紗雪は、夏休みなどの機会にこの祖父の瀟洒な洋館風の家へ遊びに行くのが大好きだった。彼の書斎のソファで一緒に本を読んだり、祖父と他愛無いお喋りをするその時間の一瞬一瞬が、紗雪の宝物になった。


「仲良くなりたい相手の瞳は、真っ直ぐ見つめなさい。愛する人には、たくさん触れるんだよ、紗雪」

 祖父は、滑らかな日本語でいつも紗雪にそんな言葉を教えた。


 ある夏の日、祖父の家で二人きりで過ごす一日があった。他の家族はどこかへ遊びに出かけたのだったか、理由はよく覚えていない。

 祖父の書斎の分厚い物語にも興味を持ち始めた紗雪は、ソファに腰掛けた小さな膝に重い本を載せ、夢中でページをめくっていた。


「紗雪」

 テーブルにクッキーの皿と紅茶を二つ置き、紗雪の横に座りながら、祖父が呼びかけた。


「ん?」

 顔を上げた紗雪の額にかかった髪を、祖父の綺麗な指が優しく整える。

「愛してる」

 すい、と、なんでもないことのように唇が重なった。


「……」

 肩を優しく抱き寄せられた紗雪は、びっくりして目をぱちくりさせた。


「これは、紗雪とおじいちゃんだけの秘密だ」


 間近で視線を合わせ、悪戯っぽい目でクスッと微笑む祖父に、紗雪は無邪気に笑い返した。

「——うん、わかった。秘密ね、絶対」


 おじいちゃまとの、二人だけの秘密。

 それは紗雪にとってどこかくすぐったく、たまらなく甘い約束だった。

 祖父は、紗雪の瞳をじっと見つめ、言葉を続けた。

「紗雪の瞳は、ほんの少しだけ、灰色と青が混じってるね。おじいちゃんの目の色の遺伝だ。よく見つめなければ気づかないくらいの色合いだけど……魔法がかかったような、美しい瞳だ。

 紗雪。大切な人の瞳は、真っ直ぐに見つめなさい。愛したい人には、たくさん触れなさい。人を愛するとき、一番大切なことだ」

 温かく真摯な祖父の表情が、柔らかに綻ぶ。


「うん。わかった」

「いい子だ。

 紅茶、冷めないうちにお上がり」

「わ、これさゆきの大好きなクッキーだ!」


 そうして、書斎の空気はいつもと変わらぬ明るい静けさに戻っていった。



「約束、守ってるよ。おじいちゃま」

 メイクをする鏡の前で、紗雪は小さく微笑む。

 紗雪が高一の時、祖父は静かに他界した。

 けれど、紗雪は忘れたことはない。あの温かく美しい面影と、あの夏の日を。

 彼が何度も紗雪に教えた、あの言葉を。


 おじいちゃまの言う通りだった。

 紗雪が真っ直ぐに見つめた相手は、必ず紗雪を愛してくれた。

 指や身体が微かにでも触れ合うことを、どんな男たちも喜んでくれた。

 おじいちゃまの言葉は、やっぱり本当なんだね。


 思えば、駿の醸す品の良い温かさも、祖父によく似ていた。


 結局、自分が一番愛した男は、祖父だったのかもしれない。

 紗雪は、鏡の中の自分の瞳を静かに覗き込んだ。







 金曜の夜。

 仕事を終えて夜道を歩く紗雪に、背後から声がした。


「先生」


 街灯の下で振り返ると、息を切らした北崎君が立っていた。


「どうした? あれ、さっき授業終わって帰ったよね?……え、質問?」

「違います」


 北崎君は、紗雪に歩み寄ると、意を決したように口を開いた。


「好きです。

 俺、本気です」


「……」


「先生、旦那さんを事故で亡くしたって、以前言ってましたよね。

 俺、あと数ヶ月で、高校終わります。

 高校卒業したら、俺と、付き合ってもらえませんか」


「ね、ねえ待って北崎君?

 私、今幾つか知ってる? 何ならもうアラフィフだし、二十歳の息子いるし……あっ、マスクでごまかされてる? じゃ取るからよく見て」


 マスクを外して北崎君に顔を近づける紗雪を、彼はぐっと見据える。

「……ガチでそういうの全部、関係ないですから」


 その瞳の真剣さを、もはや無視することはできない。

 紗雪は、空を仰いですうっと一つ息を吸い込む。

 静かに顔を戻すと、北崎君を真っ直ぐ見つめて淡く微笑んだ。


「——なら、一つ、提案。

 4年後、君が大学を立派に卒業して、もしその時に私のことをまだ覚えていたら——その時には、友達になろう。

 そこからで、どう?」


 唇を噛み、しばらく俯いた北崎君は、再び紗雪を見つめ返した。


「わかりました。

 いつも横で見つめてくれた先生の眼差し、忘れたりできないんで。一生」


 紗雪は、ほっと息をついて微笑む。

「うん。

 じゃ、今はもう他のことは忘れて。ちゃんと勉強に向き合いなさい」


「はい」

 北崎君は静かに頷くと、くるりと背を向けて遠ざかった。




「ただいまー」

 帰宅した紗雪に、返事はない。部屋は真っ暗だ。

 テーブルには、美味しそうなおかずがラップをかけられている。

「あれー。珍しいね」

 リビングの照明をつけると、紗雪はまっすぐ冷蔵庫へビールの缶を取りに向かった。







 紗雪と別れた後、暗い曲がり角を折れた北崎の前に、男が立っていた。


「……!」

 北崎はギョッとして立ち竦む。


 待ち伏せていたかのように、男は北崎に近づくと、彼の耳元で囁いた。


「彼女にこれ以上近づくな」


 北崎は、思わず怯みそうになる顔を上げて、その大きな男を睨み返す。

「——誰だ、あんた」


 それには答えず、男は逞しい肩を一層北崎に近づけ、静かに微笑んだ。


「あの人は、俺の母親だ。

 これからも、俺はあの人の傍を離れない。

 彼女は、誰にも渡さない」


「——は?

 あんた、気違いかよ!?」


「そうかもな」


 男はふっと小さく嗤うような息を漏らすと、そのまま暗闇に遠ざかっていった。



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気づかない女 aoiaoi @aoiaoi

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