最終話
花嫁さん、きれいだったわねえ。そうねえ、それに何年もつき合ってゴールインだなんて、今の子にしては堅実ね。
披露宴を終え、わたしは淡いブルーのドレスを引きずって控室に戻った。中瀬がそばについてきて、笑ってわたしを見つめている。
「きれいだよ」
「ありがと」
幸せだった。あれから一年。わたしは中瀬と永遠の愛を誓い、家族同士も引き合わせて、大勢にわたしたちの関係を承認してもらったのだ。
「あの、さ、こんなときに何だけど……」
「何?」
「この間病院に行ったら、二か月だって……」
「え、子供?」
中瀬の顔がぱっと明るくなる。わたしは照れながら続ける。
「うん。何かタイミングがまずかったね。まるでできちゃった婚みたい」
「今は授かり婚っていうんだよ。それに、結婚が決まったあとだったから別にとやかく言われることはないだろ」
衣装係の女性が入ってきた。ドレスを脱がなければならない。
「さあさあ花婿さんは外に出て。花嫁さんも疲れただろうし、衣装を脱いでゆっくりしないと」
中瀬は笑って控室を出ながら、じゃあ、またあとで会おう、と言った。わたしは幸せでいっぱいの気分で体をドレスから抜く。
「今夜はホテルのスイートにお泊りになるんでしょう? ゆっくりお過ごしくださいね」
結婚式は高級ホテルで開いたので、ホテル側のサービスとしてわたしたち夫婦は式のあと一晩だけ泊まれるのだ。幸せな夜になるだろう。わたしは今日が人生最高の日だと思っている。ああ、でも。
この子が生まれたら今日ですらかすんでしまうかもしれない。
わたしはお腹を優しくさすった。人生はてっぺんに上り詰める途中だった。
*
最上階の部屋は広くて、バスルームはジャグジーつきだ。キングサイズのベッドに飛び込み、中瀬に「子供によくないから気をつけろよ」と文句をつけられる。わたしは笑った。
「スマホが光ってたよ。何か通知が来てるみたいだけど」
彼はわたしにスマートフォンを渡した。きっと今日参列してくれた友人たちからメッセージが届いているのだ。微笑みながら開く。しかしそれはunknownという名前の知らない人からのメッセージだった。気味が悪いながらも、登録していない友人からかもしれないし、と思って開く。写真が一枚、送られていた。わたしたちが泊まっているホテルの外観だった。夕方撮られたようだ。夕暮れのホテルは群青色の空に浸食されていて、六時くらいだと思われた。
「やっと見てくれたね」
メッセージが表示された。わたしが写真を見たから、相手の画面では既読の表示が出たのだろう。
「松村だよ。覚えてる?」
ひっと声が出た。中瀬が不審げな顔でスマートフォンを覗き込む。慌てて伏せて、見られないようにする。中瀬は不思議そうな顔をして、ワイン持ってくるね、と歩き出した。
「美加さんに振られてから、ろくなことがない」
またメッセージが来た。次々短文が送られてくる。
「転職は失敗して、年収百万減ったよ」「それもブラック企業で、うつ病になって辞めちゃった」「親にがっかりされるし、美加さんのことは忘れられないし」「何でおれとつき合ったの? おれマジだったよ。美加さんはそうじゃなかったの?」「好きだったよ、本気で」
わたしはぞわぞわと背筋が凍っていくのを感じていた。メッセージはとめどなくやってきた。いくつもいくつも積み重なっていく。わたしが既読をつけてしまっているのがいけないのだ。わたしが見なければ相手も止めるかもしれない。それなのに見てしまう。
「今日、結婚したんだろう?」
「このホテルにいるんだよな」
「悔しいよなあ。本当なら美加さんと結婚してるのはおれなのに」
中瀬が戻ってきた。ワイングラスとボトルを持って。
「顔色悪いよ」
彼はグラスにワインを注いだ。もう一つにはグレープジュースを。きっとわたしのお腹の子に気を遣ってだ。でも、わたしはそれどころではない。
「今、ホテルの屋上にいるんだ。どうやって来たかは、教えない。アンモラルな方法だから」
「覚えてる? あの地球儀」
「あれ、まだ地球に影響を及ぼすと思ってるんだ、おれ」
「子供っぽいと思う?」
「でも、あのあとコンゴで大地震が起きたの、知ってるだろ?」
「あれ、おれがやったんだ」
「地球儀で強めに押してさ」
「で、さ」
「きっと地球儀をここから落としたら、きっと地球が……」
「おれと美加さんは永遠に消える」
「最高だと思わない?」
最後に再び写真が送られてきた。あの地球儀だった。煌々と輝き、彼の持つ台の上で光っている。彼も写っていた。髪は伸び、無精ひげを生やした、見る影もない姿だった。それでもあどけなく笑っていて、彼は確かに松村君だった。
「おれが思うに、これは宇宙人の落とし物だな」
「創造主なんだよ、その宇宙人は」
「これで地球を操って、うまいこと生命を誕生させて、育てて、きれいな青い星にしてさ……」
「すごいよね」
「まあ今から壊すわけだけど」
「じゃあ、今から落とすね」
「窓の外を見て」
「五秒後落とすから。いくよ」
「駄目!」
気づけばわたしはスマートフォンに叫んでいた。中瀬は怪訝な顔をし、わたしを見つめている。わたしは窓を見た。スイートルームの広い窓。外は暗く、海沿いの街並みの光がきらきらとまばゆいほどに輝いている。
後悔していた。彼をもてあそんでしまったこと。ひどいことをしてしまった。彼はきっと狂ってしまったのだ。わたしは間違っていたのだ。
目を凝らさなければ気づかないほど素早く、何か光る青いものが窓の外を落ちていった。あっと声が漏れる。
「嬉しいな」
「一緒に破滅だ」
地球儀は落ちていく。落ちて、落ちて、落ちて。わたしは窓に駆け寄る。地面近くで、何かが強烈に光った。そんなこと、あるわけない。松村君の思い込みに違いない。馬鹿馬鹿しい。松村君は狂っている。
地球儀が本物の創造主の落とし物だとして、世界はどんな風に終わってしまうのだろう。何もかもが爆発して、わたしたちは身もだえしながら苦しんで死んでしまうのだろうか? それとも意識する前にぷつりと世界は終わってしまうのだろうか? わたしや中瀬やお腹の子は、どんな風に死んでしまうのだろうか? いや、でもこんなものは松村君の妄想だ。信じては駄目だ。乗せられたら馬鹿みたいだ。
突然、彼と過ごした三ヶ月間を思い出した。彼は優しく、真面目で、わたしに親切だった。記念日でもないのにプレゼントをくれて、わたしのために酒のアテを作って、わたしたちは一緒にテレビの前に座って映画を観た。わたしが間違っていた。わたしは何てことをして
《了》
Lost 酒田青 @camel826
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