干馬みちるには情熱がない

朔ロ さやめ

干馬みちるには情熱がない

干馬みちるはおじいちゃん子だった。

幼い頃の記憶のほとんどが優しい祖父との思い出だ。

共に朝早くから夜遅くまで仕事に出かける両親の顔を、干馬みちるはうまく思い出すことができない。目は細すぎず、鼻は小ぶりな方かな、眉は太くもなく細くもなく…そうしているうちに母の顔も父の顔もそれぞれドロドロと溶けて混ざり合ってしまう。

一方で祖父の大きな目や口、シワやこめかみの染みまで、彼が亡くなって久しい今でもよく思い出せる。その優しい笑顔は、干馬みちるの心に凪をもたらす。視界がクリアになる。自然と背筋が伸びる。



干馬みちるは褒められて育った。

5才の時、親戚中が家に集って賑やかな夕べを過ごしていた夏祭りの日のこと、同い年の従兄弟たちは挙って露天へ出かける中、干馬みちるも祖父に連れられ祭りの見物に出た。小遣いや食べ物をねだったり、人ごみの中ではぐれ近所総出で大捜索が行われるなど大騒ぎをしていた従兄弟たちに比べ、始終静かに祖父の手を握りひしと身を寄せていた干馬みちるは、「大人しくて利口な子、お行儀のよい子」として大人たちの好感を得た。

中学へ上がると毎日宿題をこなし、しっかりと授業を聞いていれば成績も伸びていった。学期の終わりに成績表を持ち帰り、祖父に見せると「よくがんばった」と微笑んでくれるのがうれしかった。



干馬みちるは進学を機に家を出た。

優秀な成績に見合う学校が地元になく、それが彼女にとってある程度ショックなことではあったが、担任や家族が勧めるまま都会の大学へ進み、一人暮らしを始めた。

家族以外の人たちに囲まれて過ごす時間が彼女の生活を多く占める、はじめての経験だった。



干馬みちるは人気者ではない。

だが、青年期特有のバイタリティが迸る友人たち、それは男女を問わず、日常の様々なアクティビティへの興奮や期待と不安、不満、それらの言葉のロケット噴射は勿論SNSへ直ちに放たれるとはいえ、人間、顔を合わせれば口の端々から漏れ出る熱量を干馬みちるは真摯に、時に辛抱強く受け止めた。

穏やかに頷き、くりくりした目玉で真正面に相手を見て、話題によって大きく上下する眉。話し手は語りながら「共感されている!」と悦に入る、干馬みちるは聞き手としての信頼を確実に築いていった。



干馬みちるは意外と健気だ。

コンサートに行くため航空券を予約する友人、アニメの衝撃的な展開に考察を巡らせる友人、国際大会で日本選手団の健闘を見届けた先輩、大学近くに国内初出店した人気喫茶店チェーンに並んででも行きたい後輩。

彼らの熱意を理解するため、干馬みちるは予習復習を欠かさない。

朝シャワーの後、通学中の電車内、寝る前のスキンケア、ちょっとした時間に情報を収集する。アイドルの外見と氏名を一致させ、次シーズンの番組出演者やあらすじをチェックし、試合のハイライトやスーパープレイをまとめたおすすめショート動画にざっと目を通す。

予習内容が話題に上れば、「観た観た!」と身を乗り出す。取りこぼした情報なら「知らなかった!そうなんだ」と感心する。そうすれば喜んではじめから聞かせてくれるくれる者も多い。自分の好きなものを教えている、広めているというある種の快感に興が乗るのは性別に隔たりないが、ことに異性は「話題に関心を持たれている」ことを「自分に感心を持たれている」ことと混同しがちな節がある。そうした思惑の違いが容易に生まれるのがコミュニケーションだと干馬みちるは都会で学んだ。


思惑の違いと言えば、干馬みちるは会話の際お互いが目にしているものも違うと思っている。

直接話した覚えのないような、友人の友人であるところの男性が、友人と話している様子の干馬みちるを見て好意を持ったようで、紹介を受け何度か話すうち仲良くなったある日プレゼントを渡してきた。

いつかゼミの飲み会で斜向かいに座っていたその男性は、その場で言葉を交わすことこそなかったものの、柔らかな栗色の髪の間から覗く銀のイヤリングが印象に残ったということで、細いチェーンが連なったフェミニンなピアスを贈りたかったらしい。ところで干馬みちるは金属アレルギーだった。リスニングの勉強に使う黒いイヤホン以外、耳に何かをぶら下げた覚えがない。アルコールだけでなく酒席の高揚感などがもたらす認知機能の障害は時を経ても影響が残るものだと知った。

受け取ったチェーンの耳飾りは部屋に飾られたキーホルダーコレクションの末席に、北海道旅行のお土産にもらったキタキツネのマスコットがまるですだれを被るように垂れ下げられた。


干馬みちるが薄情だというわけではない。

祖父からの教えであるところの「人の話はちゃんと聞くこと」を守る事こそ彼女の信条であるわけだが、完ぺきな人間などいないように、干馬みちるの場合アフターフォローが万全とは言えない。

友人に連れられ音楽サークル主催のライブイベントに赴いた際、集まった学生たちのほとんどが大人気の先輩バンドに注目する中、干馬みちるの関心はイベント序盤に出演したフォークシンガーに向けられた。

同じ学年だという彼がつま弾くギターの音色が新鮮だった。板に張られた何本かの線を撫でたりはじいたりするだけで、目の前から豊かな音量とメロディが飛び出す、ロックミュージックにはない生のシンプルな体験に心を打たれた干馬みちるは、自身もまたミュージシャンに感激を与えていた。見栄えばかり優先されてちっとも「音楽」に浸ろうとしないサークル活動の鬱屈とした日々、イベントの体裁を保つため同情するように与えられた出演権を嫌々行使してステージに立ったが、いま、一人の聴き手が真正面から自分の音楽を受け止めている。

その日の感動を糧に、彼はいくつも曲を書いた。書いた曲を干馬みちるに聴いてほしいと頼むと、そのたび快諾された。大学構内のベンチで新曲を披露する時間は、彼にとって至福の時間であったし、干馬みちるにとっては芸人自ら芸を披露してくれる楽しい時間であった。そうして逢瀬を重ねるうち、これが恋だと気が付いたミュージシャンは愛の告白を唄う自身最高傑作を書き上げ、一大決心をしてこれを披露した。新しい芸風に少し驚いてから、干馬みちるは感想を述べた。


「すごいレトリック、歌い出し、『長い睫毛を伏せて微笑むきみ』と、サビの『貴方をいま愛してる』の『貴方』って、違う人なんだね、一夫多妻制の歌って、おもしろいね」




干馬みちるは暇ではない。

特に打ち込む部活動もないので、友人たちに聞き役として身体を拘束されるとき以外は大学構内をふらふらしている。そんな持て余した学生に目ざといのが大学という場所で、<革命家>と出会ったのも、はじめは政治サークルの勧誘だった。

勉強会と称して古典や資料を読み合い討論する、そのあまりの堅さにたまたま一緒に説明を聞いていた友人が飽きて「帰る」と言い出さなければ、干馬みちるはずっと話を聞いていたかもしれない。

そう、干馬みちるは断れない。

干馬みちるの性質を知ってか知らずか、後日彼女が一人で構内にいたときに再び声がかかり、勧誘メンバーだった<革命家>と干馬みちるは再会を果たした。

聞けば彼は現在の政治サークルを抜けて新しい団体の立ち上げを考えているという。明確な意志を持ち弁が立つ話し手の言葉は曲芸のようだ。こんなに流暢に話せるなんて羨ましいなとぼんやり考えながら、干馬みちるは言葉たちをするすると飲み込んでいく。そんな干馬みちるを相手に、<革命家>も腕が鳴った。


いくら話し上手・聞き上手とはいえ、学内のカフェテリアや勉強室ばかりでは味気ないと気を利かせた<革命家>は干馬みちるを様々な場所へ連れ出した。洒落たレストラン、夜の水族館、港を臨む遊園地。人はこれを「デート」と呼ぶが、世間知らずの田舎娘に社会を教えようとしてくれる殊勝な人だと、干馬みちるは感心した。

<革命家>は自身の構想で会社設立を考えているとも語り、干馬みちるには傍で手伝ってほしいと伝えたとき、干馬みちる自身は面倒な就職活動をせずに済むと内心喜んだ。エントリーシートの余白をいつまでたっても埋められない干馬みちるには渡りに船だ。そんな彼女が<革命家>の申し出を受けなかったのは、断ったからではない。

祖父が亡くなった。

干馬みちるは故郷に帰った。




干馬みちるには情熱がない。

祖父が死んで、そのまま一人暮らしを続けられるほど都会に思い入れも目的もない。

多くの友人たちが別れを惜しんだが、干馬みちるが惜しむほど親しく感じている者はあまりいなかった。


彼女が思うよりも近く、深く踏み込んで来ようとする者、それは多くが異性だったが、彼らがある意図をもって干馬みちるの肌に触れるたび、相手の体温の思わぬ高さに驚きで身がよじれた。その熱が全身をつたいめぐるより早く、干馬みちるの麻痺した脳裏にはいつかの祖父のやさしい顔が浮かんで、気が付けば相手を振り切って逃げだしていた。これが干馬みちるの唯一の「断り方」だった。



干馬みちるは疑い深い。

人の話に耳を傾ければ傾けるほど、真面目に向かい合うからこそ、人の言葉は信用に値するものではないと思っている。

干馬みちるに語りかける者たちはある日は憤り、その明くる日には涙を流し、朗らかに笑うかと思えば、小さな不幸せに金切り声を上げたりする。

地球の回転よりも早いスピードで彼らに訪れまた去って行く、目に見えない青春の激情とも呼ぶべきその存在を、当人たちに代わり干馬みちるは今日も静かに見送る。

干馬みちるは幽霊を信じない。見たことがないからだ。

干馬みちるは愛を信じない。見たことがないからだ。

泣き笑う友人たちが語る愛のおとぎ話はフィクションとしか思えないが、自らの世界の中心で愛を叫ぶ彼らに相対すると、目まぐるしいショーが眼前で繰り広げられるようで、少し憧れや羨望めいた感情がわく。

干馬みちるには情熱がない。

いつかこの目でUFOを見ることができたら、宇宙人の存在を信じるだろう。


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