第10話
真っ直ぐに前を見詰める。
見るのは、宙ではなく、その先に明確な相手のイメージ。誰と言うことではない。おそらく今までに蓄積された記憶の中から取り出した、強い選手像を描くのだ。
あとは基本に忠実に、素早く振り上げ、それ以上に素早く振り下ろす。振り下ろすと同時に両手を内側に握り締める。
俺にとって素振りは日課というか、生活の一部である。歯を磨いたり、食事をしたりするのと同じくらいに、溶け込んでいるものだ。それもそうだ。六年間続けた週間を人間は早々忘れられるものではない。剣道をやめた今でも、やらないと逆に気持ちが悪いのだ。
素振りと言っても、これがなかなか難儀なもので、毎日二百本前後は振っているが、本当に納得のいく一本は、一日に多くて二本くらいである。九十九点の素振りは何十本もあるし、それが殆どだ。しかし、気、剣、体、全てがそろう究極の一本はなかなか打てるものではないのだ。
「で、おまえはいったい何本振るつもりなんだ?」
どこから入ってきたのか、いつの間にか背後にいた笹島がそんなことを訊く。
「笹島、気配を消して他人の敷地内に入るのはやめろ」
振り返らずに俺は言った。一瞬だけ止まって、再び振り始める。さすがに腕の筋肉が隆起してきていた。スポーツと武道で明らかに違うのは、筋肉の付き方である。スポーツが、表面的に出る筋肉であり、比較的短時間で身に付き、絶え間なく鍛えることで維持するのに対し、武道のそれは、その動きをするまでさほど表に出なく、また、時間は掛かるが、一度しっかり筋肉を作ってしまえば、定期的に使うだけで維持できるのだ。もちろん、個人の体質なども関わるので一概にはいえないが、統計的にはそう言われている。
「何時からいた?」
そう聞きながら、少し考えた。今日は何か笹島と約束をしただろうか。ほぼ無いであろうが、もしかすると、うっかりして用事を忘れているかもしれない。
「五百本前から」
と笹島は答えた。おお、大分前から居やがったなこのやろう。
「そうか。ちょっと待て。あと二本で止める」
ぶっきらぼうにそう告げる。
「……で、なんか約束してたっけ?」
最後の一本を振り終え、木刀を納めると、何となくいつもの自分が戻ってくる。
「いいや、なんにも。安心しろ、お前の痴呆のせいではない」
「そりゃあよかった」
俺が答えると、ニヤッとした嫌な笑い顔で責めよってきた。
「で、どうだった?昨日のデートは?」
ああ、完全にこいつは俺のことをハメて楽しみ倒すつもりなのだな。
「映画は面白かったぞ。残念だな、おまえたち」
「いいや、大丈夫。観に行こうと思えばまだ機会はあるし、臨場感にはややかけるが、最悪DVDを待つのも悪くない。そんなことより、だ」
笹島はさらにニヤついて、
「グッと、縮まっただろう?」
「何がだ?」
「いやいや、みなまで言うな。オレにはわかっているぞ。木島龍秋よ、お前は既に、佐久間美奈子を意識し始めている。その証拠に、いくら習慣とはいえ、日曜の朝っぱらから五百本も素振りはしないだろう。これは明らかに雑念を振り払おうとしている表れだ」
ちっ、嫌なところで鋭いよな、こいつは。
「お前がこの間変なことを吹き込むからだ」
「ふふっ、なんとでも言え、結果として、意識した事実が負けなのだよ」
エライことをしてくれたな、笹島。
「ところで、龍秋。おまえ、剣道はもうやらないのか」
笹島は、少しトーンの違う声で言った。
「え?」
「ああ、いや、続けている習慣の素振り、姫凛ちゃんへの剣道指導。捨てない竹刀と防具。ちょくちょく見ている剣道情報誌。どうみても、剣道に未練のあるやつの行動だ」
言われた瞬間、俺は柄にもなく、感情を露にしてしまった。きっと、怖い顔をしたに違いない。
「鋭い目だな。そう怒るなよ。癇に障ったなら謝罪しよう。触れられなくない部分であったか」
笹島はいつものように、冗談めかした口調で言った。
「いや、すまない。ちょっと、トラウマでね。まだ、痛むんだよ、心の傷がさ」
俺が言うと、笹島は「そうか」とだけ言って、黙り込んだ。
一分ほど経って、
「もしも、お前と戦いたいという剣士がいて、どうしても試合をしてほしいと頼まれたら、どうする?」
「どうもこうも、するわけないだろう。俺の剣道は終わっているし、そもそも、もう一年以上もブランクがあるんだ。現役のやつには勝てないよ」
俺は言った。
「そうか。それもそうだな」
「で、お前は本当に俺をからかいに来ただけなのか?」
「そうだ」
堂々としょうもないことを言い切るなよ。
「それじゃあな、オレはこれからデートだ」
聞いてねえよ。
「アヂュー」
後ろ手に人差指と中指をシュタッと立てて去っていく笹島。
「ホント、なんだったんだよ」
俺は意味プーの悪友の後ろ姿を見送ったあと、家の中に入った。
肉まんと缶コーヒー 灰汁須玉響 健午 @venevene
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