暗い沼の二人
坂神京平
◇本文◇
「私ね、夢を追い掛けている人が好きなの」
学生時代にサークルの飲み会が済んだあと、
夢想的で、安っぽい台詞だ。本人もそれとわかっているらしく、少しはにかんでいた。
僕は、隣を歩きながら、へぇ……と、感心したようにつぶやくことしかできなかった。
「自分にはないものを持っている人のことを、愛してあげたい」
葵は、付け足すように続けた。
甘く感傷を帯びた言葉は、白い吐息と共に夜闇に溶ける。
次いで
寒さを
僕は、冬場の気候に「冷えるな」と芸のない感想を述べて、頭上を
空気が澄んだ夜空には、普段より沢山の星が
深遠な漆黒に
まるで底のない沼へ落ちていくように。
僕は、葵のことが好きだった。今でも好きだ。
自分と葵は同い年で、多くの部分がよく似ていると思っていた。
どちらかと言えば二人共控え目で、独創的な感性はないが、真面目な気質だった。
僕と葵は、たぶん誰かに命じられれば、指示通りに動く良い歯車のひとつになれるタイプだ。
また、愛情を抱いた相手があれば、献身的でありたい、という理想を持つ志向も同じだった。
相似た者同士だから、考えていることがわかる。
あるいはそれも僕と葵が、もしかしたら愚かしい人間だからなのかもしれない。
どこか意識の根っこで、賢く合理的に立ち回ることを苦手にしていて、互いに何か美しいものを信じて行動したいと願ってしまう。僕らはそういう性分だった。
だが僕はそれが一緒にいて居心地良かったし、葵も同じだったことを否定しないと思う。
ただ僕と葵にはひとつだけ、価値観の異なる部分があって――
それが
僕は、葵のことが好きだった。今でも好きだ。
自分と波長の一致する女性を、僕は直感的に求めていた。
しかし葵は、そうではなかった。
飲み会の帰り道、彼女が進んで恋の理想を語ったのは、僕に対する
葵はたぶん、僕を居心地の良い親友と認めてくれていて、友情を壊したくなかったのだ。
それで僕が告白するより早く、自分が相手に求めるところを伝えてきたのだと思う。
とはいえ遠回しに望まざる気遣いを受けても、葵のことを
※
あれから葵は、何人もの男と付き合った。
ただし、その中に僕は含まれていない。
僕と葵の心のかたちは、似通っているにもかかわらず、一度も交わることがなかった。
変わらず親友同士ではあったものの、少なくとも恋人同士になれたことはなかった。
葵は、かつての言葉に従って、いつも夢を追い掛けているような男ばかり好きになった。
彼らは皆、葵にないものを持っている男で、取りも直さず僕にもないものを持っていた。
葵が学生時代に最初に交際した男は、画家として将来成功することを目指していた。
僕や葵より五歳年上で、有名な美大を卒業していた。過去にコンクールで入選したこともあるという話だった。
就職もアルバイトもせず、学生でなくなっても実家から仕送りを受け続けていて、それで生活しているらしかった。
葵は「大正時代の文豪みたいでしょう」と言って、笑っていた。
僕も一応、画家志望の男が描いたという絵を、葵から見せてもらったことはある。ただし実物ではなく、スマートフォンで撮影した画像に写ったものだったが。
正直なところ、僕には芸術を理解する感性も知識もない。
それゆえ油彩画については、派手な色合いだという印象だけで、良し悪しがわからなかった。
しかし葵は、その「わからなさ」こそが、自分にはない尊いものだと考えている様子だった。
僕は似通った波長を持っているので、そうした感じ方には得心させられるものがあった。
「それに絵筆を握っているときの彼は、凄く素敵なの」
葵は、当時の恋人について、そう語っていたことがある。
黒目がちな瞳がきらきらしていて、とても綺麗だった。
葵を図抜けた美人だと思ったことはないが、こういうときには必ずいい顔をする。
僕の話をするときには、ほぼ見ることがない面差しでもあった。
そういう綺麗な瞳を見てしまったら、僕が葵に掛けられる言葉は多くない。
しかし入れ込んでいたはずの恋人と、葵は一年足らずの交際期間で別れてしまう。
原因は、相手の男が
仕送りを
それでいて金を稼ぐために働く気もなかったようで、周囲に金を借りて回っていたそうだ。
葵は健気で、献身的な恋人だったから、その男に五ヶ月以上も金を
自分がアルバイトで得た金銭を、ある月にはそっくり全部譲渡していたこともあった。
「初めて身体を許した相手だったから、情が移ってなかなか離れられなかったのかも」
と、のちのち葵は
他にも学生時代の葵は、自称ミュージシャンやマイナースポーツの選手などと恋をしていた。
ミュージシャンは酒癖が悪く、付き合いはじめてからほどなく暴力を振るうようになった。
八ヶ月余り交際した結果、危うく警察沙汰になりそうなところで別れることができたものの、関係を解消した直後は肩や背中に痛々しい
一方でマイナースポーツ選手は、それなりに誠実な好青年だったが、半年と経たないうちに「君と一緒にいるのは辛い」と、葵に心中を打ち明けてきたそうだ。
「マイナー競技はお金にならないから、私を付き合わせ続けるのに耐えられないんだって」
葵は、スポーツ選手の男と別れた翌日、泣き声で電話を
「そんなことは覚悟して付き合っているって言っても、だから余計にこのままじゃいけないって突き放されたよ」
ところで学生時代の僕も、葵から相手にされなかったものの、恋愛とまったく無縁というわけではなかった。
アルバイト先で年上の女性と親しくなり、初めて異性の身体を知った。
しかし大人の余裕がある相手で、あまり自分と似通ったところはなく、長続きしなかった。
男女の行為に及んでいる最中も、頭の中では葵の影がちらついて楽しめなかった。
その次は大学の後輩と付き合ったが、これも一年ほどで別れてしまった。後輩は「年上の男に甘えるのは、年下の女の特権」だと信じている人種で、可愛らしくはあったが葵のようには波長が合わなかった。
どうせ付き合うことができない女に気を取られ、自分を好きになってくれた相手を悲しませてしまうのは、やはり愚かしいことだろうか?
だが僕は当時、後輩と別れたときに「気楽になれた」と、
本気になれない相手と罪悪感を抱きながら交際することには、嫌気が差していた。
社会人になってからの葵には、売れない舞台役者と交際した時期があったことも知っている。
人前に立つ仕事をしているだけあって、金もちからもなさそうだったが、美男子ではあった。
ただし舞台役者の男は、黙っていても次々に女性が近寄ってくる人物でもあった。
ゆえに交友関係は華やかで、日常的に浮気を繰り返し、そのたび葵を泣かせていた。
それでも我慢を重ねて付き合っていたようだが、二年経つと耐え切れずに別れた。
あるとき葵がアパートに帰ったら、舞台役者の男は他の女とベッドで寝ていたらしい。
それが破局の決定打になったが、別れても尚しばらくは「今も初めて彼の舞台を見た日のことが忘れられない」と言って、未練を引き
ただ僕が知る限り、葵が交際した中で過去に一番危険な男は、若い美容師だったように思う。
「いずれ独立して自分の店を
ところが仕事の客に悪い素性の人間がいて、違法薬物の売買に協力しろと
その影響はやがて葵にも及び、僕が割って入って阻止せねばならなかった。
葵は、辛うじて犯罪に巻き込まれずに済んだが、もうあの美容師と会ってはいけない、と強く訓戒してもなかなか受け入れようとしなかった。
「あの人がクスリに手を出すようになったのは、きっと私が良くない恋人だったせいなの」
と言って、自らを
もちろん葵の思い込みが完全に間違っていることは、僕がよく知っている。
もっとも彼女が自罰的になりがちな心情も、波長が近しいから理解できた。
こうして葵はいつも、
と、同時に元恋人の人数より多い回数、別れを告げられるか、捨てられるか、あるいは手酷く裏切られるかして、傷付けられていた。
葵にないものを持つ男は大抵、情熱的でありつつ身勝手でもあった。
自分にとって都合がいいあいだは、真っ直ぐ夢を語り、恋人に甘い言葉を
だが結局、自分の欲望を大切にしているので、葵のために理想や現状を変えることはない。
そこに行き違いが生まれるし、やがて二人の関係に
だから葵が好きなる相手は、反省のない男なら彼女をひたすら苦しめ続けるようになるし――
自責の念を持つ男なら、彼女の生き方を侵食している重さから逃げ出してしまうのだった。
※
葵が恋人のことで苦悩を
裏切られたと
なぜなら、僕は葵が好きだからだ。今も好きだ。
葵は、僕が彼女に好意を持っていることを、ずっと前から知っているだろう。
しかしいまだに葵は僕に対して、親友以上の態度を取ろうとしたことがない。
かつての僕には、もしかしたら『きっと私、君のことを好きになれれば良かったんだろうな』というような言葉を、葵がいずれ漏らすのではないか、と期待していた時期があった。
だが葵は今でも、それらしいことを口にしたりしない。
だから僕もやはり、葵に告白したことはなかった。
断られるのは、明白だからだ。似た者同士だから、絶対にそうなることがわかる。
それでも葵を想う気持ちに変わりはないのだから、僕も
ネットスラングのそれとは異なるものの、僕にとっての葵は沼のような女だった。
悪女でも何でもないが、相手の持つ引力から抜け出せない。
たぶん、葵にとっての夢を追う男と同じように。
学生時代に飲み会の帰り道で見上げた夜空を、今でもはっきりと覚えている。
深遠な漆黒に手を伸ばして、僕らは相変わらず欲しいものに届かないままだ。
暗い愛情の沼には、底がない。
葵は
もっと世界を豊かにしたいと力説し、資産形成のセミナーを開いている男らしい。
このあいだ顔を合わせると、葵は
そののちオンラインサロンへの参加を勧めてきたため、やんわりと断らねばならなかった。
ちなみに葵に悪意はなく、本気で恋人を信用しているのだ。
やはり葵は、どこまでもろくでなしの男を好きになる愚かしい女だった。
それでも僕は、いまだに葵の愚かしさが愛おしく、可愛らしいと感じる。
どれだけ傷付けられても、尽くし続ける姿が魅力的で、
問題は献身性を向けられる相手が、僕ではないことだ。
しかし葵のように波長が近しい異性を、他に知らない。
僕は先日、会社の先輩から取引先の女の子を紹介された。
快活で、目鼻立ちが整っており、気立ての良さそうな子だ。
時折素晴らしい聡明さを感じさせることもあって、驚かされる。
恋人にできれば、誰もが
ただそれだけに僕とは、人間としての本質が似通っていない。
だから関係の進展は避けて、ほどなく
取引先の女の子からすれば、僕の態度は酷く不可解だろう。
僕や葵のような人間は、自分から愛したいものしか、愛せないのかもしれない。
ひとつだけ価値観が異なる部分を除いて、僕は葵と似た者同士だからわかる。
<暗い沼の二人・了>
暗い沼の二人 坂神京平 @sakagami
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