終話  夢のあと

 無人改札を抜け、白光が一筋融けこんだ空を見上げる。肌を刺すような冷気は相変わらずだが、ほんのりどこかから漂ってくる梅の香りが季節の変わり目を告げる。吹き込んできた風に手提げの紙袋を揺すられ、持ち手を握り直した。

 道すがらの枯れた田畑を見るのが好きだ。生命力溢れる夏の青々しさや秋の豊穣の象徴も美しいけれど、厳しさの中で芽吹きの季節までじっと機をうかがい耐え抜く剛の方に、今は特に惹かれる。

 ログハウスが変わらない佇まいで立っている。相変わらずしっかりと維持、管理されているらしい。堆肥のならされた花壇には何も植わっていないが、それが門扉脇や外壁側の山茶花の、光沢のある深緑を引き立てている。

 深呼吸を一つすると、サッシドアに指を掛ける。どんな顔をして、どう話を切り出そうか、昨晩鏡の前で散々シミュレーションしたことが頭を駆け巡る。戸を引く音がやけに大きく聞こえ、次いで、大きなキャンバスと、それに対峙する小さな背中が飛び込んでくる。土間にブーツの靴音が重々しく落ち、小さな頭がくるっと動いた。色白の頬が緩み、ほの朱い唇が解ける。

「おかえり」

象牙色の歯列がなぞった想定外の言葉に、喜びと悔悟のないまぜになった感情の塊で胸が圧迫される。この後の一言で全ての方向性が決まるような気がして、容易に口を開けない。色々な可能性が脳内で同時並行で展開されるが、何も掴めないまま、場の沈黙が続く。彼女がスツールから降り、こちらに近寄ってくる。伸びてくる手に肩を強張らせると、ひんやりした手の甲が上頬に触れる。その潤んだような瞳を見て、僕は自分の涙に気づいた。

 リビングに上がり定位置の椅子の背に脱いだジャンパーを掛けると、身体は自然に台所に向かう。冷蔵庫からコーヒーの袋を取り出し、デキャンタにフィルターをセットする。規定通りであればマグ二杯半分の粉を入れ、湯沸かし器から湯を注いでいく。ラックから出したマグに均等に注ぎ入れてテーブルに運ぶと、マドレーヌを前に彼女がちんまりと待っている。

「覚えててくれたんだ」

「うん。美味しいよね、ここの焼き菓子」

今日持参したのは、アパートの最寄り駅の、いつも使う方と反対の改札を出て住宅街を道なりに一分ほど進んだところにあるこじんまりした洋菓子店のマドレーヌだ。前に職場で流れていたテレビ番組で取り上げられたのをたまたま見かけて買ってみたらとても喜ばれたので、以来ちょくちょく買って来ていた。マグの液面を吹くと、湯気の向こうで彼女が早速顔を綻ばせているのが見える。あたかもこれが日常であるかのような光景に、やっぱり心が傾いていく。縁に口を寄せ慎重に吸うと、深いコクのある苦味が流れ込む。酸味のほとんどない深煎りだ。

「どうかな。叔父さんがいい豆があるからってくれたんだけど」

「うん、すごく美味しいよ」

よかった、と彼女がにっこりと笑う。庭窓から差し込んできた淡い光の帯がテーブルの脚を照らす。ぬるま湯の、微睡みの時間。時間が瞬間の連続体であると言うなら、この一瞬だけが永遠にコピーされればいい、と思う。何もかもを忘れて、こうして穏やかな空間を共有していけたらどれだけいいだろう。自分がそうできる人間だったらどんなに良かっただろう。そうだったなら、今からこんなことをしなくても良くなるのに。

 遠慮がちに残っていた彼女の分のマドレーヌの、最後の欠片がなくなる。それを見て、僕の方も最後の一口を啜る。互いの手がテーブルの縁に置かれる。

「相変わらず、忙しい感じ?」

「そう、だね」

「そっか」

沈黙が落ちる。様子を窺っているのは彼女も同じようで、いつもと違って視線が斜め下を泳いでいる。こんな時に限って風音一つ聞こえない。適度な日差し、適度な室温、湿度。話題になりそうなものは見当たらない。はっきりしろ、いやもう少し、と脳内ではせめぎ合いが大きくなってくる。

「そうだ、今新しいのを描いてるんだけど」

そう言って立ち上がろうとする彼女を、僕は引き止める。着席したところで、話がある、と切り出した。

「どうしたの、改まって」

「まずは、ごめん。ずっと連絡しなくて」

「いいよ、そんなこと。私と違って社会人なんだし、色々忙しいでしょ」

気にしないで、とあくまで朗らかに彼女は言う。けれど、切れ長の澄んだ瞳の奥では、どこか焦ったような色が見え隠れする。細い指は机の端で緩く組まれ、わらわらと所在無げに動いている。

「連絡できなかったんじゃない。僕の意思で、しなかったんだ」

ぴくん、と指先が痙攣し、動きを止める。いつもの僕なら間違いなくここで俯くところだが、今日だけはダメだ。疼き始めた右拳を反対の手で押さえ込み、黒曜石の瞳を捉え続ける。喉の奥に詰まっていた空気を、声とともに押し出す。

「前に、個展のチケットをくれたよね。是非見に来てって」

「うん」

「でも僕は行かなかった」

「忙しかったんでしょ」

「そうだね、そう伝えた。でもあれが嘘だった、と言ったら?」

澄んだ目の奥で、細波が立つ。

「君はただ、僕に見に来て欲しいと思っただけだったんだろう。でも、行けなかった」

頭の中で、像を結ぶ。昨日の夜、鏡の中にいた自分の像。ジュンにそっくりの造作でありながら、似ても似つかない自分がこれからしようとしていることもまた、彼とは正反対だ。けれど、これが偽らざる僕の本質。昏い水路の中から顔を覗かせ、空の光を見上げる存在なのだ、と自分に言い聞かせる。ぎゅっと右拳を抑え込み直すと、静かに肺に酸素を溜める。

「学祭の展覧会で、初めてあの絵を見た時のこと、今でもはっきり覚えてるよ。どれが君の絵か当てるってゲームもしたね」

「で、あの時リクさんは見事に正解した」

「そうだね、確かに『正解』した。嬉しかったよ。でも反面、不正解を期待した自分もいた。どうしてだと思う?」

沈黙が落ちる。

「衝撃だったんだよ。出展されていた絵はどれも上手で、正直、君の絵を見分けられる自信はなかった。その中であの『光の街』だけ、何かが違った。オーラ、力、とでも言うのかなーそんなものを感じたよ」

「そんな――大袈裟だよ」

「大袈裟なんかじゃないよ。現に、あれは君の作品だったんだから」

言葉は返ってこない。沈黙で気持ちが揺り戻されないよう、僕は続ける。

「それが分かってほっとしたのは本当だよ。君の作り出す世界を鑑別できる目はあるってことだから」

張り詰めた糸のようだった雰囲気がほんの僅か撓む。のびかけの前髪が、急に働き始めたらしい空調の風に流れ、形の良い額が覗く。やや太めに整えられた眉は伸びやかで、芯のある質を感じさせるが、眉間あたりは心持ち強張っているように見える。

「なら、それでいいでしょ」

普段通りの声音にしようとしていることが、彼女の声から読み取れる。何かを予期し、会話を終わらせようとしているのだろう。

「嬉しかったのは本当。けれど同時に僕は、当たらなければいいとも思ったんだ。どうしてだかわかる?」

訪れた沈黙。一度緩んだ空気が再び緊張を帯びる。それを知ってか知らずか、空調は一層温風を送り続ける。

「嫉妬だよ。あんな異彩を放つ絵を生み出せる君の才能を、心底羨ましく、そして妬ましくも思ったんだ」

口にして、一瞬身震いする。けれど、それっきりだった。感情の針が振り切れたのか、体内からはそれ以上に何の情動も湧かなかった。昨晩鏡の中の自分に散々繰り返した時なんかよりも。不気味なほどの静けさだった。頭の片隅には、今どんな顔をしているのだろう、と細々と思考する自分がいる。それを自覚して、やっと自己嫌悪の気持ちが芽生えた。時間差で生まれた、まともな感情。そのことで、自分の醜さを改めて思い知らされる。今度こそ、あらゆる身体器官が、自らの中の深淵に沈んでいく。そうだ、苦しめ、とまた別の思考が告げ、深淵は濃さを増す。抑え込む左手に力を込め、喉の奥に溜めていた言葉をぎゅっと押し出す。

「僕と一緒に絵をやりたいって言ってくれた。孤独の中でずっと絵と自分に向き合ってきた君は、仲間が欲しかったんだろう」

彼女が眦を上げる。鋭さは鳴りを潜め、黒目がちの瞳は大粒の黒真珠を思わせる。ややあってから、彼女は一言、ママからね、と訊いた。頷くと、静かに苦笑混じりのため息を吐いた。

「仲間、というより同志かな。やり方が同じじゃなくてもいい。ただ、目の前の景色を共有できる相手が欲しかっただけ」

ずっと独りだったからね、と掠れた呟きが落ちる。降り始めの淡雪の結晶のような、混じり気のない繊細で、透明な魂。その一端が滲んだ声に、瞳に、小さな顎に、華奢な白い首筋に、僕のこめかみは締め付けられる。

『初めてだったのよ、エイミちゃんが自分から人の話をするなんて』

耳元でママの声が蘇る。そこにエコーのかかったエイミの声が巻き付いて、僕をすっぽり包むように蔓や葉を伸ばす。きっと、中は暖かい。周りが見えなければ、ただ中の世界だけならば、何も考えずに済むのかもしれない。彼女の見せてくれる世界の中で、呼吸すら忘れるほど、ただ溺れる。それはそれで良いのかもしれないと思う自分も、まだ確かにいる。

「本当なら、君の芸術を認めつつ、自分の中の芸術を磨いていくのが正しい在り方なんだと思う。けれど、僕は違う。嫉妬で一方的に連絡を断つ、自己中心的な人間なんだよ」

こちらに向かって伸び続ける蔓を振り切るように、僕はひたすらに喉を震わせる。

「もし絵がなければ、君と繋がることは出来なかっただろう。絵は君にとって生きることそのものだろうし、今や僕自身にも重要な意味を与えてくれるものになった。紛れもなく、君のおかげ。感謝もしてる。なのに、君の絵を知れば知るほど、ダメな自分が立ってしまう。僕には到底描けない作品を、さらりとやってのける、その才能が羨ましくてたまらなかった。君がどれだけ僕の絵を褒めてくれても、賞を獲ってもーこれまで通りの人生だったら決して叶わなかったところに来ても、安心できはしない。ほんの一息入れている合間に、君はどんどん先に行ってしまうからね。置いていかれないように、君の芸術を真似ようと思った。カンヴァスを思い出しながら、何枚も描いた。でも、どうやったって、君と同じようにはいかなかった」

脳内に映し出した昨晩の言葉を忠実になぞっていたはずが、気づけば、胸から上る感情がそのまま言葉に変換されていく。吐露した胸の内を、自分自身で聴き理解し直したものが身体中を巡る。言葉を切ると、四肢を興奮と快感がぴりりと駆け抜ける。ややあって追いついてきた罪悪感で胸が満たされる前に、僕は身体の奥深くのマグマ溜まりで生成された感情を胸へと送り込み、それを喉奥へと押し上げる。

「君は僕の絵を褒めてくれたね」

「本当にいい絵なんだもん。本の表紙にもなってるくらいだし。みんなそう思ってるよ」

「確かに、評価してくれているのは君だけじゃないよ。抜擢されたことで自信もついた。けど、どうしても、君の絵と比べてしまうんだ」

「――」

「君に対してもそうだ。前だったら、描いている時の真剣な眼差しとか、パレットを傾ける仕草とかに惹かれた。でも、今の僕は、君の背中の向こうのキャンバスの方が気になってしまう。僕が見ていない間にどんな絵ができているのか、とかね」

「――」

「君の分身として好きなのか、無意識にライバル視しているから気になるのか。多分、両方なんだろう。どっちかに決められたら楽だったんだけどね」

じっと聴いていた彼女がマグを持ち上げ、口元に運ぶ。嚥下音が殊更に耳奥に残る。卓上にマグを戻すと、小さく、絞り出したような声で呟いた。

「どっちかって言ったら?」

「わからない。不可分ってやつだよ、きっと」

「そっか」

小さな唇が窄められ、息遣いに合わせて湯気が巻き上がる。空調の横槍で形を変え、実態のない塊が時折彼女の唇と押し合っている。

「僕は、やっぱり、君のそばにいない方がいいと思うんだ。お互いのためにね」

適温に冷めたマグを傾けると、濃厚な苦味が口内に流れ込んでくる。適量は教えたはずなのだが、どうにも彼女は粉を少し多めに入れる傾向がある。けれど、酸味の少ない良質な豆だから、嫌な味にはならない。もしかしたら絵も同じなのかもしれない。どれだけギトギトに絵の具を重ねても、エイミがやると、最終的には全てが有機的に機能して、色彩の暴力になることはない。

『リクさんはシンプルな方が合ってるような気がしますね』

以前、上下巻の文庫本の絵の試し描きを見せた時、清瀬さんに言われたことだ。当時エイミが制作していた油絵を思い浮かべ色を重ねたものの、やはりうまくはいかなかった。単純化、抽象化を繰り返し、最終的には納得のいくものが出来上がりはしたが、満足感までは得られなかった。下絵の線を残すような絵は好きだし、従来描いてきたのはまさしくこの系統だった。だが、色の重畳が生み出す複雑な構図や画面の厚み、深みは、どうしても出せなかった。

「僕の絵を認めてくれる人もいる。好きだと言ってくれる人もいる。だけどやっぱり、君の絵を前にすると、よくわからなくなる。自分の中の軸が弱いからなんだろうね」

「そんなこと――」

「結局、確固たる自分を持つことができない、自分が悪いんだ」

君のせいじゃない、と言うと、目の前の小さな顔は、造作に似合わない、老成したような複雑な表情を浮かべる。彼女が少し俯いたので、僕も視線を下げ、マグに手を伸ばす。すっかり熱の消えたコーヒーの濃厚な苦味の向こうの酸味混じりのほのかな甘味を、舌の奥に少しずつ流し入れる。喉の上下音が耳の中で強調される。一つの世界が終わる間際、時間はこんなにもゆっくり流れるのだと悟った。

「ちょっと待っててくれる?」

唐突にそう言うと、彼女は静かに立ち上がり、リビングを後にする。階段を上る音がして、しばらく静かになった後、今度は足音がパタパタと降りてくる。戻ってきた彼女の小脇には、一冊のスケッチブックが挟まれている。隣に歩み寄ると、彼女は見覚えのあるそれを、押し付けるように僕に差し出した。

「あげる」

「これって――」

「いいから。とっておいて」

細かな擦過傷の入った表紙、厚紙の端が捲れ丸くなった角。かつての夏の日、ベッドに並んで腰掛け、彼女の昔語りを聞いた時のことが蘇る。もしかしなくても、あの植物園の絵も入っているのかもしれなかった。エイミ自身が、自分の原点だと語った、ガラス張りの、螺旋の植物園。寓意的でありながらツクリモノ感のない、エイミらしい作品。日常生活の中で求められる、カテゴライズされた人間像を忘れるため、描き連ねられた線たち。執拗に抉るような激しさも、擦過傷のような乱雑さも、ただ黙って受ける白い紙が、多分、彼女にとっては唯一の居場所だったのだ。

 掌に、微かに残る彼女の体温が触れる。ありがとう、と言うべきか迷って、結局何も言わなかった。ジッパーを閉めて顔を上げると、濡れた黒曜石が煌めいていた。


 青白い光の帯を辿る。街灯もない。そもそも道かも分からない。靴を履いている感触はあるけれど、足音はない。指標のない中、半ば機械的に脚を動かす。向こうに淡い光が見える。手を伸ばして触ると掌に銀の粒が落ちた。溜まった粒をいくつか口中に放り込むと、生苦い木の根のような味がした。再び歩き出すと、今度はしっかりと足音が聞こえてくる。手の中にあった残りの粒を飲み込むと、淡い光があった場所から橋が現れる。そっと片足を乗せると、周りが淡い水色に変わる。

――空の中を歩いているのか。

「どうだろう。雲がないから判断できないんじゃない?」

隣で静かな声がする。振り向くと、学ラン姿のジュンが並んでいる。

――どうして。風圧もなかったのに。

「空かどうかも分からないんだ。風がなくても不思議ではないよ」

ふわりと微笑む彼に、僕ははっと口に手を当てる。言葉を発しているはずの口からは、何の音も出ていない。

「声にしなくても、リクのことは分かってる」

僕の焦りを感じ取ったのか、ジュンが落ち着いた声で言う。それより、と促され、下を見る。いつの間にか、足元は目の粗いグレーチングになっていて、思わず身をすくませる。ふと右手に温かな感触を認め、顔を上げると、そこにジュンの姿はなく、代わりにエイミがはにかんだような笑みで立っていた。

――君が、どうしてここに。

答えはない。どうにか声が出せないかと口を開きかけると、エイミが先に声を発した。

「ねえ、渡ろうよ」

「でも、これ大丈夫かな」

「問題ないよ。だって、ほら」

声が出たことにほっとしたのも束の間、右手に感じた温もりに顔を上げる。次いでふわりと髪が浮く感覚がした。はっとして足下を見ると、グレーチングの橋は消えさっている。さっきまで確かに足に乗っていたはずの重力まで、綺麗に失われている。相変わらず、周囲には他に何の景色もない。「白」の中で、ただ移動に伴う抵抗力を体感しているだけだ。

「飛んでる、のかな、僕たち」

「さあて、どうだろうね」

僕の問いかけに、エイミは悪戯っぽい笑みとともに返す。何か知ってるの、と訊こうとしたとき、彼女が中空に右の手のひらを翳した。

「何してるの」

返答の代わりに、繋がれた右手の熱が強まる。と、視界の端がほんのり明るくなる。最初は緩やかに、次いで突風が雲を晴らすような鮮やかさで、あっという間に「白」が拓ける。――空だ。いつかの黄昏時に見た、淡い水色と散りばめられた黄金の粒子。その先で待っている、茜色から藤紫色へと移るグラデーション。時間軸の一部でありながら、それらは時間の枠を外れ、同じ視空間に拡がっている。身体感覚の全てが動きを止める。緩んだ口から、言葉にならないため息が漏れた。

「本当に綺麗だね、リクさんの空」

どのくらい経ったか、隣から響く低めのしっとりした声に呼び戻される。

「僕の空?」

「うん。本当に、綺麗」

黒曜石の瞳が潤んだ光を湛えている。エイミの言葉に僕は改めて周囲を見回す。砂金の光条が煌めきを添えるグラデーションの空。それが美しい世界への架け橋だと、多分ずっと昔から、僕は知り、憧れてきた。

「ねえ、リクさんもやってみてよ」

ふとエイミがそう言い、握る手に力を込める。

「僕も?」

「うん。さっき私がやったようにしてみて」

乞うように見つめられ、脳裏に残った彼女の動作を身体に流していく。しっとり汗ばんだ右手が徐々に熱を帯び、血管に乗って中空に翳した左手へと流れ込むのが分かる。静かに目を閉じる。薄黄の灯りが消え、次いで暗闇に、アクアマリンを思わせる澄んだ炎が静かに揺らめく。手のひらから、何か温かな、エネルギー体のようなものが放出されるのを感じる。全身が澄んだ充足感に覆われる。風があるわけではないのに涼しく心地よい、不思議な感覚だ。

「ほらね、出来たでしょ」

僕はそっと目を開ける。凝った造りの白いバルコニーの向こうに広がる、どこかの海岸線。所々岩礁が顔を覗かせる凪いだ水面が鏡となって、質感のある雲が浮かぶ青空を映す。視点を手前側に移すと、細い、玩具のような線路が一筋、手摺りと平行に走っている。脇には淡水色や桃色、藤紫色の鉄線が咲き乱れている。

「ほら、こっち!」

突然の展開に考える間もなく、エイミはどこからか降ってきたツルに片腕を絡ませ、僕も彼女に引っ張られる形でバルコニーから跳び出す。足下を線路が流れ、鉄線たちが二人分の風圧でくすぐられていく。左手のゴツゴツとした玄武岩様の巨岩に沿って弧を描くように曲がると、相変わらず線路も鉄線も、海岸線と並行に走り、咲いている。

「これ、どこまで続いてるのかな」

「どうだろうね。私にも分からないや」

「何それ」

照れた表情で誤魔化すように笑う彼女は、やっぱり少し幼くて、純真だ。ここはどこの景色なのか、何のための線路なのか、なぜ鉄線なのか――。質問できる要素はそこら中にあるのに、訊く気にはならなかった。空も、海も、岩も、花も。皆、美しかった。その感情に、言葉による分析は要らない。美しいと感じ、満たされる快感に浸っている。それが全てだ。

「綺麗だなあ」

呟きが水面の空に吸われ、右手が再び熱を帯びる。しっとりと優しい温もりを壊さないよう、僕もそっと握り返した。


ピピピ、と耳の奥に響くアラーム音を知覚し、目を開ける。半身をよじり、枕元の画面を素早く叩く。再び仰向けに戻ると、うっかり目を閉じないよう胸の上から毛布を払い退ける。薄ぼんやりとした白い天井に、空に染まった湖と、紫と濃い桃色の鉄扇の残像が映る。中高の電車通学の折、車窓に望む海岸線と、実家の庭で伸びやかに植わっていた鉄扇に、どこか似ているような気がした。バルコニーは記憶にないな、と思いながら起き上がり、のろのろと身支度をする。牛乳にフレークをふやかしている間、スマホを覗くと、清瀬さん、の文字が浮かんでいる。

『例の件、ご連絡ありがとうございます。では、土曜日の十四時に、例のカフェにていかがですか?』

問題ありません、と打ち返し、シンクの縁にスマホを置く。マグを手に、浮かび上がるフレークにプラスプーンで繰り返し牛乳をかけていく。シュガーコーティングが融け、液面がごく淡く黄味を帯びるに従いくたりと大人しくなる様を、しばらく見つめる。フレークは自分、牛乳は社会。ふと浮かんだフレーズに思わず苦笑する。一歩踏み出そうとする日には、いつも通りのルーティンにさえ何かの象意を探したくなるものらしい。

 ワイシャツに手を通し、鏡の前でネクタイを結ぶ。結び目から視線を上げると、こちらに向けられた「僕」と、一瞬目が合った。灰色混じりの視線をかわし、立てかけた鞄をさっと取り上げる。

 階段を上り、跨線橋の真ん中に差し掛かる。淡色の空に綿雲を丸めたような月が浮かんでいて、僕は歩みを止める。息遣いの静かな指先にほんの少し乗せた黄色を、淡い水色にポタリと一滴。たっぷり水を含ませた筆で拡げる――。頭の中を色で染めつつ、僕はズボンの右ポケットの上から手を置く。じんわりと熱を帯びているような感触が、僕をあのアトリエへと繋げる。多分、この鍵を使えるようになるには、多くの時間が必要だ。僕が僕自身を許せるようになるまで。その時までは、こうして一緒に空を眺めるだけでいい。そんなことを思いながら、ポケットから手を離すと、僕は早朝の空気の静かな息遣いをくぐっていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Xunxun @XiangCun

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ