第8話 岐路
仕事の合間に、同僚たちがぽつぽつと課長に呼ばれて部屋から消えていく。もうそろそろ次の異動の打診が始まる時期だ。昼休みともなれば、雑談の内容は大抵この手の話題になってくる。毎日定時上がりが出来そうな部署で喜ぶ者もいれば、逆に残業代がたんまり稼げそうでほくそ笑む者もいる。仕事の何に価値を見出すか、何がモチベーションとなるか、実に多様だ。
同僚たちの悲喜こもごもを横目に結局、専業化の結論が出ないまま、この時期まで来てしまった。
『そうですか。でも僕はいつでもリクさんを応援してますから』
先週カフェで会った時、僕の絵が装丁された試作本をこちらに差し出しながら、清瀬さんは少し残念そうに微笑んでいた。
絵で食べていくこと。そう出来れば、この上なく喜ばしいことだろう。だがいざ現実味が出てくると、歩みは慎重になる。理由は色々だが、多分に僕自身が心の底では現状変更を恐れているからなのだろう。現実を変えたい、変わりたいと願いながらも、反面、変更に付帯して生じうる摩擦を受け止めるのが怖いのだ。
「上林、次の配置は決まったか」
不意に、肩に重みがのしかかる。振り向くと、島崎がにやりと見下ろしてくる。こんなとき、彼は妙に鋭いところがある。まだ何も、と素っ気なさを装って答えると、意味ありげなにやり顔はそのままに肩から手を離す。これは何も言わない方が得策かもしれない。無言で見据えると、おお怖、と大仰に肩をすくめて見せた。
「いやあ上林くん、君、出世できるかもですよ」
「部長の真似をしても、面白くないですよ。で、一体どうしたんですか」
「そうやってちゃんと冗談も言えるようになったのが功を奏したかな。内々で聞いた話だけど、お前、どうやら財務らしいぞ」
「――」
思わず息をのみ、絶句する。僕の直截的な反応を意外に思ったのか、一瞬目を見開いてのち、やはり彼はたくらむような不敵な笑みを浮かべ、席を後にした。
部屋に入るなり、ジャケットを放り脱いで毛布に沈むこむ。ただでさえ困惑している頭に帰宅ラッシュの電車はきつい。仰向けになるとお腹の鳴る音がしたが、食欲の代わりに湧いてくるのは、最後通牒のような課長の声だけだ。
『上林くん、君の真面目な仕事ぶりを見込んでだが、四月から財務課に行ってもらいたい』
二の句が告げないでいる僕に、課長はにたりと口の端を吊り上げた。島崎に似た、しかし裏により含みのありそうな表情は、朝の話の記憶と相まって、背中に嫌な汗を這わせる。希望が全く通らないと同僚たちが愚痴っていたのは真実だったようだ。断ったら報復人事が来る可能性もある。放った溜息がやけに大きく反響して聞こえる。
ずっと保留にしてきたけれど、いよいよ決める時が来たのかもしれない。頭の中のざわつきから逃れようとスマホを覗く。二ヶ月ほど前に来たエイミからのメールは開封しないまま残している。きっと、個展に行かなかったことに対してだ。電話も一度かかってきたが、残業を決めこんだ。アトリエにも行っていない。彼女の黒目がちな瞳が思い出され、無性に溺れたい衝動に駆られる。だが今更、どの面を下げて会えるだろうか。未だにメールすら開けられないでいるのだ、そんな勇気が出ようはずもない。
『僕はいつもリクさんを応援しています』
代わりに再生された清瀬さんの声は変わらず優しい。その優しさは弱っている僕の精神状態が求めているからなのか、それとも元からそういう人なのだろうか。あの声に頼ってみようか、と問うと、無数の声は重なり合うばかりで、明確な回答をくれなかった。確かに僕の作品に価値を与えてくれたという点で、この件で恃みにするのに、彼ほど適役な人もいない。だが自分の今後を他人に託してばかりいられないことは、今の僕は流石にわきまえている。
頭の中が少しばかり整理されると、ちゃんと空腹を自覚できるようになった。戸棚からたまたまセールで買ったカップ麺を取り出す。昼がチョコレート一つだけだった胃袋は想像以上に飢えていたようで、湯気に刺激されるまま無心で啜った。
本能が満たされると地に足のついた思考ができるようで、頭には懸案事項が箇条書きになっている。冒頭に出てきた文言に、やっぱり、と内心苦笑した。迷いの方が大きかった時の懸念は生活費や諸々の手続きなどの現実的なことが多かったのに対し、いざ覚悟を決めるタイミングとなると、真っ先に浮上するのは、両親のことらしい。何せ、この前仕事の充実ぶりについて語ったばかりなのだから。そもそも仮面を外した状態で会話をすること自体が高校生以来なのだ。仮面を装着した状態とはいえ、両親、特に父とのそれなりに安定した関係は、それなりに心地よかった。心のどこかで堤防のようになっていたのかもしれない。でももう、それが終わりを迎えようとしていることは認識し始めている。決壊しなければ、新たにつくることもできない。前に進むことはできない。
スマホの連絡帳から父のアドレスを呼び出し、帰省の連絡を入れる。年度末を控え多忙だろうから、すぐに返事は来ないだろうと思っていたのだが、カップ麺の始末を終え入浴しようとしていたところに、一言返信が来た。予想外に早い返信に、少し心が弾む。だが、この週末が過ぎれば、今のこの関係は少なからず変容してしまうだろう。シャワーを浴びつつ、僕は予期しうるやり取りに関して脳内シュミレーションを繰り返す。父の中で、僕は反抗らしい反抗もしたことのない、ある程度の理想を満たす存在だ。高い理想は諦めても、自身にとっての最低限のラインはクリアしている、という点で「良い息子」。でも恐らく、その関係性を維持するために僕がどんなに努力しているか、彼は知らない。
タオルで髪の水気をとばしている間に、ふと脳裏に、ここ暫く見ていなかったジュンの顔が浮かぶ。泰然と澄ました横顔、『すごいなあ』と褒める父の声が耳元で囁く。どうあっても、僕はジュンには敵わない。父の全幅の関心が僕に向くことはない。期待に応えられていない以上、仕方のないことだと理解はしている。それでも、今残されている関心が完全になくなってしまうのは、多分、つらい。
冬枯れの空に、白梅が細腕を凛と伸ばしている。近づいてマスクを外すと、重めの薫りが鼻粘膜にじわりと広がる。自治体で定期的に手入れをしているのだろうか、この前まで野放図気味だった紅葉の枝がぶつりと切られている。
玄関の引き戸を開けると、父の革靴が光沢を放つ。廊下を進むと、テレビ音が漏れ聞こえてくる。休日のリラックスタイム中といったところだろう。立ち止まって一つ深呼吸をしてからドアを開ける。ニュースをBGMに新聞を開いていた父が顔を上げ、こちらを振り向く。「お、帰ったか」
「うん。ただいま」
響く声は変わらず穏やかだ。挨拶の後をどう続けようか逡巡していると、折よく母が二階から下りてきた。
シチューを囲んでの団欒は冬の時期の定番だ。庭の花壇石が欠けても、テーブルクロスが変わっても、目的を持たない根無草のような話をしている限り、食卓に漂う雰囲気は変わらない。以前なら、いつ特定の話題に切り替わるかを見計らいながら、仮面を忍ばせていたけれど、今日ははなから用意していない。よそわれた分を各自がひとしきり食べ終わったところで、父がスプーンを置いた。
「ところで陸也、何かあったのか? お前がこんな時期に帰ってくるなんて」
「まあ、そんなこともあっていいんじゃ――」
「実家が恋しいなんて年はとっくに過ぎているだろうしな」
水入りのグラスを手元に引き寄せ、父が意味深に笑う。それを横目に、母が少し翳のある、固い表情になった。僕は口の中の人参を飲み込み、静かにスプーンを皿の縁に立てかける。シチュー味の混じった唾をのむと、テーブルの下で拳を握り込む。
散々脳内でシミュレーションしたストーリーを半ば自動再生しながら、僕の意識は父の目を直視することに終始していた。色の変化や、光の粒の一瞬の揺らぎさえ見逃さないように。この後に想定される一連の流れに備えるため、神経を研ぎ澄ませる。
対の目が無言のままこちらに向けられている。凪いだ湖面のような、静かで、深い色。明確に分類できない感情が、複雑に入り組んだ色。無論、歓迎はしていないだろう。はたまた拒絶や非難といった高硬度の鋭さも感じられない。ただ静かに、こちらに向いている。
「だからね、近いうちに、辞めようと思うんだ。生活費のことがあるから、当面バイトくらいはするつもり。家には迷惑はかけないから」
台本の最後の一言が終わった。拳の中で掌がじっとりと汗ばんでいる。両手をゆっくりと開いてほぐしながら、僕はなおも、時折瞬く父の目の観察を続ける。予想通りの沈黙が、ゆるゆると場を支配し始める。あと三秒、いや、十秒すれば、虹彩の周りの血管が怒張し出すのではないか――。不意に、似た感覚が背筋を這いずる。中学生の頃の、振るわない理数系の成績表を見せた時。あの時も、過去にそんな経験はないにも関わらず、激昂されるのではないか、という根拠のない恐怖が全身に絡みついていた。結局そんなことは起こらずじまいだったが、どこかでそれを期待するような心持は確かにあった。
ふっ、と目線が外れる。知らず知らずのうちに詰めていた息を吐き、僕は視線を膝に落とした。
「ほお、そうか」
淡々と落ちる低音。しかし、さっきまでこちらを向いていたはずの目は、それぞれテーブルの真ん中のサラダボールと手元のスプーンを見ていた。節の出た長い指がトングを掴み、手元のスープ皿にブロッコリーを二、三個放り込む。そして、ほら、とトングをこちらに寄越した。行為の意図を汲みかねる僕に、父は薄ら笑いを浮かべた。
「そんなことより、彼女はいないのか? 前から言ってあるだろう、できたら紹介しろって」
「いないけど――」
「まあ、せめて孫の顔くらいは見せてくれよ。この歳になるとそれだけが楽しみなんだから」
そう言うと、父は茹でブロッコリーで皿を拭い、口に運んだ。何か言いたげなに少し曇った表情をした母に、ごちそうさん、と言い皿を渡す。話は終わった、と言わんばかりの一言に、母が詰まったような笑みで応じる。起こせたかのように思えた波紋は、あっという間に「日常」に塗り直されてしまった。
父の好きなニュース解説番組が始まり、父の目はそれに釘付けになる。心配そうな顔で父と僕を代わる代わる見ていた母も、父の背中越しに貼られた膜に、触れることを諦めたらしく、重ねた食器を手にキッチンへ立った。僕はそれ以上何かを試みることを本能的に諦めた。
カラン、とドアベルが鳴り、ベージュコートの長身が端正な靴音を鳴らす。
「お待たせしました」
椅子の背に指をかける仕草から、つと目を細める様まで、相変わらずの優雅さだ。コートを脱いだ風圧で、ウッディ調の香りがほのかに漂う。席に着き、僕の手元をちらりと見やる。
「苺のショート、お好きですよね」
注文を取りに来た店員にモンブランと苺のショート、ブラックを頼むと、彼はそう言って微笑んだ。
「急にお呼び立てする形になり、申し訳ありません」
「いえいえ。僕の方こそ、連絡を頂けて嬉しかったんですよ」
何せ初めてでしたから、と薄茶の瞳が悪戯っぽく笑う。
帰省から一週間経っても、何かにつけてあの時の雰囲気が蘇り、その都度酷い虚無感に襲われた。年度末目前の繁忙には救われたが、それでも時たま気を抜いた時には頭をよぎり、肩凝りと眼精疲労が重くなった。夜は特にきつい。帰宅した直後は仕事の疲れの方が優勢なのだが、夕飯を終えシャワーを浴びる頃にはあの時の映像ごとリフレインする。最初は絵を描けば逃れられるかと思った。けれどスケッチブックを手に取り描きかけの頁を開いた時、駄目だと悟った。抽象画を彩色するに当たっての冷静な思考力は、今の自分にはない。かと言って頭の中から吐き出すスタイルだと、否応なしに追体験させられそうな気がする。新作の制作最中に、折角つくり上げたスタイルが崩れるのも嫌だ。エイミの顔が脳裏に浮かぶ。対象の奥底を射抜く力を持つ彼女なら、今の僕を客観的に理解し、救い上げてくれるのではなかろうか。
衝動的にスマホに伸ばした手を、視界の端の絵が止めた。今の自分には、彼女に合わせる顔がない。自分の都合で連絡を無視し、後ろめたさでいっぱいなのに、繋がりを求める自己矛盾。もがけばもがくほど黒の粘着物質に絡まり、身体中侵蝕されるような気がした。
『私はリクさんを応援します』
耳の奥で、テノールが優しく蘇った。声に導かれるように、僕は再びスマホに手を伸ばし、アドレスに縋ったのだった。
スポンジとクリームが舌で解ける。このカフェのショートケーキは、最初の打ち合わせの時に連れてきてもらった時から気に入っている。だから美味しいことは分かっているのだが、今日は舌が鈍い。一方の彼はと言うと、目尻を緩ませモンブランをつついている。
「何だか僕ら、似てますよね」
層を崩さないよう慎重にフォークを入れていると、彼が声を掛ける。
「え、清瀬さんの方がずっとイケメンですよ」
咄嗟に見た目のことだと思って返すと、違う違う、と楽しげな笑いを浮かべた。
「一度気に入ったら、そればかり食べるところ。僕はね、昔からずっとそうなんです。そして絶対に飽きない」
彼がカップをつまんで傾ける。確かにいつもモンブランだったな、と思い出していると、カップから上げられた虎目石の双眸がこちらをじっと見つめている。
「僕は信用できませんか」
「え?」
「独立のこと、ですよね、今日僕を呼んだ理由は」
「――お気づきだったんですね」
軽く嘆息すると、彼は少し淋しげな表情になった。
「これでも人と作品を見る目はあるつもりです。とても遠慮をなさる方だなと思ってましたから、リクさんの方から連絡が来るということは、それだけ大きなことなんだろうと。となると、今後の話くらいだろうな、って。なのに、なかなか切り出してくれないから」
優美に整った顔立ちはいつも通りだが、声音には拗ねた子供のような色が混じる。そのギャップに、身構えていた気持ちが徐々に解れていくのが分かる。
「信用していないわけじゃないんです。そもそも僕を画家の端くれにしてくれたのは清瀬さんですし」
「いいえ、それは他でもない、リクさん自身の才能ですよ」
「でもやっぱり、拾い上げてくれたのは清瀬さんですよ。このまま自分の絵を信じ切っていいのかな、と。いい加減、前に進みたい気持ちはあるんですけどね」
気が抜けた反動なのか、思わず本音をぽろぽろこぼしてしまったことに、言い終わってすぐ後悔した。こんなふうに自分の弱さを見せるつもりではなかった。彼が善人だとは十分に承知している。だがやはり商売なのだから、売れないと判断された「商品」はすぐに切られてしまうのではないかとも思ってしまう。思考が反芻し、一抹の不安が次第に増幅する。
眼鏡の奥の光の大きさが増し、虎目石がじっと僕の目を見つめる。滑らかで静かな光は、時折エイミが隣で見せるものと、どこか似ている。そう思っていると、彼はふっと目線を下げ、カップの縁にそっと長い指を添わせた。
「少し、僕自身の話をさせて下さい」
訥々と、彼は語り始める。元々絵が好きで、将来は画家を目指していたこと。裕福な実家の援助で私立の美大に進学し、イタリアに留学までさせてもらったこと。
「美術、芸術に正解はない。作品を批評はされても、否定されることはないわけです。だからどんなことを言われても、絵が好きな気持ちさえあれば画家として生きていけると信じてきました。でも同時に気づいてもいたんです。自分に才能はないのだ、と。技術は向上しても、小手先の技巧の範疇を超えることはなかった」
品よく合わさった三日月型の唇が、ふっと自嘲気味に引き上げられる。常にそつなく、悠然とした印象だっただけに、こんな顔もあるのか、と僕は少し驚いた。
「画家になることは諦めたけど、やっぱり絵と関わる仕事をしたいとは思っていました。そんな時、出版社で一足先に就職していた友人から誘われて、今の部署に入社することができたんです」
「今でも絵は描かれるんですか」
「ごくたまに、ね。趣味の範囲内ですよ。あとは年賀状や暑中見舞いの挿絵を描くくらいですかね」
そう呟く彼の目はどこか遠くを見つめている。懐かしい日々の記憶を愛でているのだろうか。
「展覧会とかに公募されたりしないんですか」
勿体ない、と続けると、彼は優美な笑みを一つ寄越した。
「いいんですよ。今となっては、どうして自分が昔あれだけコンクールなどに固執していたのか、不思議なくらいです。今まで散々描いてきて、自分なりに納得したんだと思います」
カップを口元に運ぶ顔は、すっかりいつもの凪いだ表情だ。満たされた諦観とでも言うのだろうか。ふと、いつかそうなった自分の姿を想像してみる。強すぎる情念を手放すから満たされるのか、それとも満たされると手放せるようになるのか。ジュンの達観したような表情も、こんな感情の動きの上に成り立っているのかもしれない。もっとも彼の場合は、周囲の人間に期待すること自体を諦めたからなのだろうが。清瀬さんとはまた違う意味での諦めだけれど、固執や執着といった感情から解き放たれている点では似ている気がする。
だからね、と清瀬さんはカップを置き、優しい目で僕を見た。
「今の僕にとっては、素敵な絵を見つけることの方がずっと楽しいんです」
「素敵な絵、ですか」
「はい。リクさんの絵はどれも素敵だと、心から思います」
つと細められた瞳に虚飾の色はない。そのことに安堵しながらも、言葉の真意を測りかねている自分もまた、いる。良い絵だ、素敵だ、と評されることはよくある。ブログに掲載した絵へのコメントは、往々にしてそのようなものだ。勿論、嬉しくないことはない。だがそれ を目にする度、エイミの絵なら、もっと多岐にわたる評がなされるのではないか、と思わずにはいられない。一定以上に「評価される絵」としての入り口は通過しているが、それ以上先には進めない、ただ綺麗なだけの絵――そう突きつけられるような気さえしてくるのだ。
「素敵以外に、僕の絵はどう見えているんですか」
根拠のない焦りで、棘のある声になってしまった。それでも、目の前の穏やかは変わらない。
「まあまずは、冷めないうちに頂きましょうか」
やんわりとした声色の中にも芯を感じる。はぐらかされたわけでは無さそうだ、と促されるままカップに手を伸ばす。猫舌にはちょうど良い塩梅。深いコクと苦味が舌を落ち着かせる。
「リクさんの絵は、素敵ですよ」
ことり、とカップの音を契機に、なめらかな低音が滑り出す。
「素敵、って、陳腐な表現みたいで嫌ですか」
「嫌ってほどではないですけど、少し」
「分かりますよ。他でもなく、僕も昔はそう思ってました。多分今のリクさんよりもずっと。十把一絡げに同じ言葉で評価するなって。もっと、運筆や絵具の使い方とか、モチーフとか、色々あるだろ、って」
心なしか熱を帯びた語気に、かつて制作に打ち込んでいた時の姿がうかがえる。もしかすると本来はずっと激しい人なのかもしれない、と思った。何せ、絵を追いかけて留学まで果たした人なのだから。
「でも入社して、初めて鑑賞者としての視点で作品を見るようになって気づいたんです。作品を見る人々は、大半は構図や画材などを分析できるような識能を持ち合わせていない。けれど優れた作品は総じて、人々の琴線に触れる何かを持っているのです。画題や絵の具、大きさなど関係なく、ね」
「確かに。良い絵には人を惹きつける力があります」
「そうでしょう? だから、僕は敢えて、『素敵』だと言うんです。鑑賞する多くの人の目線を二度と忘れないよう、自戒も込めて」
バックグラウンドを聞いたからか、彼の言葉には説得力がある。優れた作品は人の琴線に触れる何かがある――確かにあの学祭で、エイミの絵の前にひっきりなしに集う観衆は本物だった。中高生やその保護者、大学の近所の住民たち、美術関係者と思しき人、そしてその他大勢の無関係な人たちまで、来場したありとあらゆる人々が、特段目立つ場所に飾られていたわけでもない彼女の絵の前で足を止め、感嘆の声を漏らしていた。何より、無記名、番号制の来場者投票によって爾後大賞に選出されたことが、彼の言を裏付けている。彼女に止められていたからしなかったけれど、無関係な一観客だったなら、僕もきっと彼女に票を捧げていた。そのくらい、あの絵には『力』があった。
「何か、気に障ることを言ってしまいましたか」
はっと引き戻されると、綺麗な、だが曇りがかった瞳がこちらを見つめていて、僕は慌てて否定する。
「貴方の言葉を信じていないわけではないんです。ただ、いくら素敵な絵だとしても、『力』がなければ駄目なんじゃないかと思うんです。何というか、こう、圧倒的な、見る者に畏怖さえ抱かせるような」
例えばエイミの絵のような、と続けかけ、咄嗟に口をつぐんだ。もし、彼が彼女の作品の数々を知らなかったとしたら。――あり得ないことだ。即座に否定した直後、凄まじい罪悪感で身体が末端から凍っていくような感覚に襲われた。
「『力』なら、あるじゃないですか」
「え」
熱のこもった清瀬さんの声に、意識を無理やり罪悪感から引き剥がす。
「見る人を意図せず作品の世界に誘い込む力です」
「幻想的、ということですか」
問いかけとも感想ともつかない声音になってしまった。清瀬さんは、相変わらずの優しい、けれど芯のある声で、語りかけ続ける。
「確かに、そういう作品もよく描かれてましたよね。僕、本当に好きなんですけどね。でも最近の絵も、見せる角度が違うだけで、一目で、ああリクさんのだ、って分かりますよ」
「でも、見る人に強烈な印象は残せない」
浅ましい。こんなふうになおも言い縋って、醜態でしかない。この会話の行き着く先に一体どんな言葉を期待しているのか。さっきのエイミへの嫉妬心丸出しの考えといい、今日の僕は感情の歯止めが利かない。
「これは僕の持論なんですが――圧倒するだけが絵の力ではないと思っています。見る人を静かに包んで、気づいた時には、その人は絵の世界の一部として動いている。そして、一度入り込んだら、今度は次第に自ら進んで入り浸りたくなる。確かに一目で震えるようなインパクトは無いかもしれない。でも忘れられない印象を残す絵です。二度、三度と見るたびにその世界の虜になる」
自分の絵にもっと自信を持ってください、と今日一番の笑みを向けられ、多分にぎこちない笑顔を返した。照れ隠しとでも思われることを願いながらフォークを手にし、ケーキの残りをつつく。美味しいことは間違いないけれど、やっぱり今日は舌が鈍い。
ぽす、と畳んだ毛布の上に腰を下ろす。想定の範疇を大きく越える賛辞を真っ直ぐな瞳で言われ、嬉しくないわけはない。しかし今、僕の心には更なる罪悪感が根を張り始めている。憧れ、惹かれるエイミに対し、彼女の本質とも言える芸術に劣等感を抱いていること。しかもその目的は、自分の保身のためときている。咄嗟の時に人間の本質が出る、とはよく言ったものだ。ジュンといい、エイミといい、憧れれば憧れるほど、心の中にあったはずの純粋な憧れはどろどろとした嫉妬に取って替わられる。
『一目でリクさんの絵だって分かります』
『二度、三度見るたびに虜になる』
『もっと自信を持って下さい』
清瀬さんの目に映る僕の絵は、きっと美しい。抽象画のような今のスタイルはともかく、空も、夜桜も。コンペで受賞したあの絵も、舞台装置は夜の神秘に包まれている。当然と言えば当然だ。美しいと思った対象を描いているのだから。清瀬さんは、こちらが気恥ずかしくなるほどの賛辞をくれる。言葉の端々から、彼が純粋に絵を気に入ってくれていることは十分に感じ取れる。だが、彼が、描いている僕自身が絵とは裏腹の醜い人間だと知ったとしたら、それでも彼は変わらず僕の背中を押してくれるだろうか。汚れた人間の、穢れたレンズを通して投影された「美しさ」が単なる薄っぺらい虚構でしかないと悟られてしまったら?
頭の重さにふらつきそうになりながら、のろのろと立ち上がり、壁鏡の前に立つ。重たげな前髪で隠していても、昏い目からは神経質そうな雰囲気が漂う。絵を描いている間だけは、息詰まる仮面を外し、素の自分でいられる――そう思っていた。それは良いことだと思っていた。だが、目の前に立っている悪相を認識すると、その考えが希望的観測に満ちた妄想だったと悟る。今なら、前髪を上げなくたって、ジュンとは間違われない。変わらず清く透明な生を送っているであろう彼なら、こんな顔にはならない。
自嘲して前髪を上げたとき、はたと思い至る。父が僕に期待するのをやめたのは、こんな自分の汚い胸の内を見抜かれたからではなかろうか。出来が良くなかったからではなく、期待を込めるにつれ歪んでいく息子の姿に気づいたから諦めたのだろうか。
――滑稽だな。
頭の半分に、じん、と声が響く。振り返ると、重ね置かれた仮面がケタケタと笑う。全部自己満足だったわけだと高校生面が言い、元の木阿弥だなと大学生面が言う。流石に直近まで使っていた社会人面は黙っているが、片方の口の端が皮肉っぽく吊り上がっている。
「黙れよ」
鏡像を睨め据えて一喝すると、仮面たちは大人しくなる。今まで自分から喋ることなんてなかったくせに、こんな時だけ自分勝手な奴らだ。
顔を見ることに疲れて、マットレスに仰向けに横たわる。耳鳴音だけになった頭の中で、過去の記憶と、可能世界でのシミュレーションがないまぜになる。
――どこをどう換えれば最善だったのか。
――最善とは何か。誰かと自分を比較することなく、黙々と機械仕掛けのようにできる努力をし続けることを言うのか。
――中二の時、学園祭に父が来なければよかったのか。靴箱でジュンと会わなければ、意識させられることもなかったのか。
――そもそもジュンと出会わなければ良かったのか。出会わなければ、こうして父とのことで悩むこともなかったのか。
――でも彼と出会わなければ、あの絵を描くこともなかった。エイミとも、清瀬さんとも会えなかっただろう。
脳内で歯車の自動空転が続く。天井からシャワー音が聞こえてきて、明日は仕事だと目を固く瞑る。あれこれ考えても、迷走するだけして結局何の解決にもならなかった。分かったことは、自分の根幹がごちゃごちゃとした、不連続な感情の集合体だいうことだけだった。
半覚醒の状態で過ごす一夜は想像以上に長い。二時間は経っただろうと思って枕元のスマホを点けても、一時間も経ってはいなかった。目を瞑ると、脳内の仮面がむくりと起き上がり、一つ、また一つと勝手にしゃべりはじめる。そのせいで案の定、翌日の朝は酷かった。
「お前、顔色悪いぞ。大丈夫かよ」
大抵出勤早々絡んでくる島崎さえもが、一旦いつもの調子でずかずかと寄って来かけたものの、すぐに遠慮気味になって、怪訝な顔で言ってきた。
「何でもありませんよ」
口と声帯の筋肉が条件反射で応答する。ただ普段なら鬱陶しく感じる絡みも、ほんの少し嬉しく感じていることからしても、やはり今日はおかしいらしい。そんな僕の心境を知ってか知らずか、島崎が口を開く。
「なあお前、もしかしてこの前の異動の話で悩んでるのか?」
いつもの調子で即座に否定しかけたが、寸前で止めた。強ち嘘ではない。そもそも専業の話自体、異動の話が発端だったのだから。
「やっぱりそうなんだろ」
沈黙を肯定と捉えた島崎が身を乗り出す。輝きに満ちた目。初対面の時ぎらついた肉食獣のように見えて以来忌避してきた目さえ頼もしく感じられるのだから、やっぱり今日はどうかしている。
「じゃあ、今日お前も一緒に来いよ。十八時に時計台な」
どこに、という僕の問いを待たず、手を挙げて島崎は奥へと歩き去る。仕方なくPC画面に向き直り、電源を入れる。ようこそ、の画面表示を見つめながら今しがたのやり取りを思い返しても、やはり嫌な気はしない。あの強引さがあまつさえ心地よく感じる日が来るとは思わなかった。
「――全く、どうかしてる」
「え、何かありました?」
声の方へ向くと、隣で後輩が小首を傾げていた。きらきらした、犬のような瞳に何でもないよと言って、また画面に向き直る。仕事が出来るというほどではないけれど、人当たりの良い素直な子。僕もこんな性質だったら、何か違っていたのだろうか。受信トレイのメールを半機械的に仕分けながら、そんなことを思った。
時計台から伸びるこじんまりとした通りには、相も変わらず享楽の光が連なっている。
「久々にママと二人で、って思ってたけど、今日はお前の人生相談だな」
「島崎さんが聞いてくれるわけじゃないんですか」
「そりゃ俺も聞くけど、こういうのはさ、第三者の方がいいアドバイスをくれるっていうし」
「だからって、別にあそこじゃなくても――」
言い澱むと、先立つ島崎が振り返ってにやりと笑う。
「大丈夫。ママ、すごい聞き上手だし、色々物知りだしさ」
そうじゃなくて、と言いかけて、言葉を飲み込む。ここで食い下がったら余計に面倒なことになりそうだ。時計台を指定されたことで何となく予感はしていたが、案の定島崎と連れ立っているのはあのクラブへと続く裏通りだ。エイミとは出会って早い段階で店以外で会うようになったため、店自体に通った回数は多くない。だが、今でも彼女が前と同じ曜日、同じ時間帯にいるかどうかは把握していない。会っていた時は、専ら絵の話ばかりしていた。というより、それ以外のことが話題に上ること自体がほぼなかったように思う。黒曜石の瞳が放つ光に魅了され、囚われていたのだから。問題は、ママと顔を合わせることだ。エイミと知り合ってから暫くの間、便宜を図ってくれたこともあり、当然僕たちのことは把握している。だが今のエイミとの微妙な関係性については、どこまで伝わっているだろうか。彼女はママの気に入りだ。彼女を傷つけていると知ったら、責められ、非難されるであろうことは容易に想像できる。そんな考えが浮かんだ時、背筋をつうっと冷たいものが這った。他者から侮蔑されることへの恐怖と、エイミに申し訳ないとは思いながらも未だに自己弁護の心が先に立つことに対する自責とが相まった、気持ち悪さだった。
「やっぱり用事を思い出したので、僕はこれで――」
「あら島崎さんに、そちらは、上林さんじゃありませんか」
辞去しようとした時、後ろから鈴を転がすような声がした。
「ママ、久しぶり。元気そうだね」
足を止め、振り返って声を弾ませる島崎に、ママがゆっくりと並び、艶やかな笑みを向ける。彼女の視線が僕へと移る寸前で、咄嗟に俯き加減で会釈すると、いらっしゃい、と柔らかな声がかかる。恐る恐る顔を上げると、声に違わぬ極上の笑顔があった。それは心なしか、島崎に向けたものより柔らかく、優しいような気がした。
久々の店内は落ち着いた賑わいを見せている。ママがドアを開けると、扉脇の男性がすっと辞儀をし、カウンターから細身のロングドレスの女性が現れた。丁寧に腰を折った彼女は、僕たちを奥の席にエスコートする。席に着くと、ママが彼女に目配せをする。衝立から差し出されたボトルやグラスを受け取ると、線の細い腕が優雅にそれらをセッティングしていく。残心も美しく、淡い蜂蜜色のスパークリングワインが注がれる。
「それじゃ、乾杯」
隣で島崎が威勢良く音頭をとる。軽い口当たりの、適度な刺激が舌奥に心地よい。どちらかと言うと重めの赤を選びがちだったため、新鮮だ。
相談に乗る、と言っていたのに、ママに寄り添われてそれどころではなくなったらしい。煽て上手の彼女に乗せられるまま、島崎はくいくいとグラスを空けていく。僕の相手は黒髪ロングドレスの彼女がしてくれている。口下手なのを見抜いてくれたのか、基本聞き役に徹しつつ程よく言葉を挟めるよう気を配ってくれている。きっとどんな場面、どんな相手でもそつなく対応できるのだろう。
チエさんのリードとアルコールで程よく解れたところで、ふとママが立ち上がり、僕たちの前に来た。
「ごめんなさいね――チエちゃん、ちょっと頼むわね」
ママに目配せされたチエさんが、失礼します、と席を立つ。視線の先を見ると、顔を真っ赤にした島崎がソファの背にもたれかかっていて、ふっと苦笑いをしてしまう。酒好きの下戸とは、お気の毒様。そんなことを思っていると、ママがエレガントな薫りとともに、ふわりと僕の横に座った。
「上林さんと少しお話ししたくて、ね」
優美で、不敵な笑みが刷かれる。もしかしなくとも、初めから口当たりの良いスパークリングワインを選んだことも計画だったのではないか。僕が酒に強いことも、エイミから聞くなりして、恐らくは織り込み済みだったのだろう。
「リクさん、とお呼びしても?」
「構いませんよ」
「リクさんの仕事の相談だと島崎さんは仰ってましたけれど、本当は違うんじゃありませんか」
滑らかな声で問いかけると、ママは衝立から現れた黒服にグラス交換を指示する。
「どうして、そんなことを」
ぎくりとしながらも、僕はあくまで平坦な声で応じる。背中やら肩やらの皮膚が、途端に粟立つのが分かる。動揺を誤魔化すための小道具は交換中なため、膝上の右手を左手でぎゅっと抑え込んで耐える。ややあって黒服が替えのグラスとボトルを手に現れた。ママが僕のグラスにワインを注いでくれる。こぽり、と揺れる音が妙に耳の奥に響いた。
「じゃあ、飲みましょうか」
促されるままにグラスを持ち上げ、口に寄せる。憶えのある芳醇な薫りとともに、まろやかな渋味が舌を撫でる。はっと目を上げると、ママはにっこりと微笑んだ。
「エイミちゃんがね、リクさんはこれが好きだって」
彼女の口から出た名前に、じく、と胸が滲みる。聞きたい、でも聞きたくない。そんな背反の気持ちが遅効性の毒のように身体を蝕む。
「あの子、よくあなたの話をしてくれたんですよ。出勤前のお夕飯の話から、連れて行ってもらった夕焼けスポットのこととか。それに、絵のことも。こんなに温かくて、素敵な絵は初めてだって」
「温かい、って言っていたんですか」
「ええ。リクさんは温かくて、優しくて、強い人だって」
予想だにしない言葉の数々に恥ずかしくなり、僕は目を伏せる。強い? ――違う。僕は嫉妬することしかできない、弱い人間だ。昔はジュンから逃げて、今はエイミから逃げている。何の説明もなしに、突然連絡を絶っている。あまつさえ勝手に絵を模倣している。離れたくない。近くにいたい。なのに彼我の差への妬みに駆られ、一方的に距離を置いている。
「僕はそんなできた人間じゃないですよ」
ぐらつく心を誤魔化すようにグラスを傾ける。胃の中から熱がじわりと全身に回る。毛布にくるまれたような温かさは、いつもなら心地よく感じるが、今はいっそのこと滝行のように冷水を浴びせられた方が良いようにすら思えてくる。身体が弛緩すればするほど、見栄え良く固めていた心が融けて、中に閉じ込めていたモノがどろりと腐臭を放ち始めるような気がして、怖い。
「私、絵のことはあまり詳しくないですが、人を見る目は確かだと自負してます。私もエイミちゃんの言う通りだと思います」
「それはきっと、仮面の姿ですよ。僕はこれまでたくさん仮面を作り、自分を取り繕ってきました。本当は、ずっと醜い」
融けた本音の塊が、ついにぼろぼろとこぼれ始める。最初は怖さが先に立っていたけれど、程なく、安堵感がそれを上回った。胸の内に溜め込んだ重石が減ったことに対する、本能的な反応。更なる安寧を求め、連鎖は続く。止める術を、今の僕は持ち合わせていない。こうなってしまったのはアルコールのせいだけではないだろう。島崎が言っていた通り、ママは話を引き出すのが上手い。何を言っても受け入れてもらえるはずだという、根拠のない安心感すら湧いてくる。
「それなら私の方がもっとたくさん持ってますよ」
優しいだけではない芯のある声。顔を上げると、彼女の瞳とぶつかった。間接照明でも分かる、形の良いぱっちりとした二重。その下で、瞳が静かな光を湛えている。艶を含んだ表情に魅入られていると、くすり、と笑われた。
「ほら、それこそ今だって。島崎さんとリクさんとでは対応が違う顔ですよ」
「それは、そういうお仕事だからですよ。正当な理由がある。利己的な僕とは違う」
僕の言葉に、彼女が笑顔を引っ込める。こぽ、と手元のグラスにワインが注がれ、僕は手に取り傾ける。芳醇な香りが鼻腔を抜け、喉奥へと流れる。
「僕の人生を選んできたのは、もしかしたら仮面たちなのかもしれません」
じんわりと広がる熱に押され、楽になりたいという本能のままに、僕は胸中に立ち込める靄を吐き出していく。勿論、整理しきれていない、父とのことも。まとまりのない話をしている自覚はある。それでも彼女は時折相槌を打ちながら、真摯に聞いてくれた。職業上のパフォーマンスだろうと疑うことは、不思議となかった。
「素の姿のまま現実と向き合うのが嫌だったんですよ、多分。理想通りになれない自分、他人に嫉妬する自分。その現実を受け入れられない自分。そんな弱くて醜い自分から目を背けるために仮面をつけ、彼らが選んだ生き方をしてきました。――でも、いざ仮面を外そうとしても、これまでの逃げ癖は簡単には消えないんだな、と実感させられました。こうして、僕はまた、エイミから逃げてる」
ひとしきり言い終えた時には、喉奥の熱は落ち着きを取り戻している。醒めた状態でいるのが嫌で、僕はグラスの残りを一気にあおる。再び、身体の中心から熱が静かに波動のように広がっていく。
「『人間なんて、よく分からない』」
今まで静かに耳を傾けていたママが、唐突にそう言った。
「え」
「ここに来たばかりの頃の、エイミちゃんの言葉です。彼女、もともと人と関わることが嫌いだったのよ」
双方のグラスにワインを注ぐと、一口含んで、今度はママが話し始めた。エイミがここに働きにきたのは、彼女が師事する教授がママの以前からの友人かつ馴染み客だったことがきっかけだったらしい。
「今年の新入生ですごく上手い子がいるんだけどまるで他人に興味を示さない、何か良い方法はないか、って相談されたんです」
「そんなことって」
「入学してひと月経つのに講義後友人と雑談することもなく、ひたすらカンヴァスの前に張り付いているんだ、って。酷い時には話しかけた同級生を無視して講義室を出て行ったこともあったらしいですよ」
「エイミが、ですか?」
「多分、本人は本当に気づいてなかっただけなんでしょうけど」
「でしょうね。彼女はそんな人じゃない」
きっぱり言い切ると、ママが微笑んで肯く。
「でも、悪気がなくても人を不快にさせてしまうこともありますでしょ。元々浮いた子だったけれど、そういったことが積み重なって、どんどん孤立していったそうよ。それでもあの子は変わらなかった」
「もしくは、気づいたところで、どうすればいいか分からなかったのかも」
僕の言葉にママは一瞬驚いたように眉を上げ、次いで目尻を優しく和ませた。よく見ていらっしゃるのねと言われ、急に恥ずかしくなって目を逸らす。
「孤独の中で生み出す絵もある、でも人に見られることがなければ作品が昇華することはない、と彼が言っていたわ。だからこそ、同じ場所に志を持って集まったもの同士、互いに作品に触れ合って、成長して欲しい、ともね。違う考えをする先生方もいらっしゃるそうだけど、それが彼のモットーなんですって」
紡がれる言葉の端々がチクリと胸を刺す。清瀬さんも同じことを言っていた。鑑賞者がいて初めて作品は成り立つ、彼らの感想を無視してはならないのだ、と。自分はともかく、あのエイミが同じことを言われていたとは思わなかった。いや、だからこそか。当たり前のことほど難しい。圧倒的な才能を持つがゆえに、留意してこなかったのかもしれない。
「それで、私から彼に提案したの。彼女を少しの間、ここでバイトをさせてみないかって」
「ママの方からだったんですか。え、でも、その――」
「反対されなかったか、って?」
口ごもると、鈴を転がすような笑い声が上がる。
「夜の街だもの、そりゃ少しは怪訝な顔をされましたよ。でも、これでもママを張れるくらいには、人を見る目も、育てた経験もあります。彼が本気であの子の将来を案じていると分かったから、お手伝いしたいと思って申し出たんです。彼とは割合長い付き合いですから、分かってくれましたよ」
「エイミは嫌がらなかったんですか」
「それがね、案外すんなり受け入れたんです。勿論本人次第なので、嫌がったら白紙にするつもりだったんですけどね、『上達して、稼げるならいい』って、あっさりと」
後日、教授がエイミを店に連れて来て、当人が元々バイトを入れていた日にここで接客をすることに決まった。器用で頭が良く、雑用などはすぐに覚えた。しかし、肝心の接客については、当初は気のおけない常連客にヘルプでついていたが、なかなか客と話すきっかけが掴めなかったそうだ。無言でグラス交換などの手伝いをするだけの様子に、見かねたママが他のホステスや黒服たちと知恵を出し合った結果、あの「客の似顔絵」作戦が誕生したのだそうだ。
「本人も、クロッキーの練習になる、って乗り気になってくれました。これが思った以上に評判が良くて。似顔絵がきっかけで通って下さるようになった方もいらっしゃるんですよ」
「僕もびっくりしました。まさか、名刺がわりにあんな凄いものをもらえるなんて」
そのときふと、気になっていたことが脳裏をよぎる。
「そういえば、貰った似顔絵の裏に彼女の連絡先が書いてあったんですが、これもママの発案ですか」
僕の言葉に、ぱっちりした二重が一瞬見開かれ、次いで、やんわりと破顔した。
「まさか。それはあの子が自発的にやったことですよ。それだけ、初めから印象的だったんですよ、リクさんは」
「島崎さんが言ってました、相当レアだって」
「レアどころか、初めてじゃないかしら」
ちら、と奥で掛布を掛けられ眠っている島崎を見やると、彼女は口許に手を当てて小さく可笑しそうに笑う。そしてふっと息を吐き、僕に向き直った。
「人間は分からない。そんなことを言っていた子だったけれど、似顔絵を通して、間接的にではあっても人と向き合えたんでしょうね」
彼女の細くしなやかな指がグラスをつまみ、白い喉元がこくりと上下する。感慨深げに、瞳が潤む。
「エイミは今もここで?」
「ええ。週一に減らしはしていますけれど。本業の方が忙しくなっているようだから」
胸の疼きを覚え、僕はグラスに視線を落とす。先程感じたのとは、また違う理由。それを自覚した瞬間、今までの話を聞いてなお、エイミの才能に嫉妬を抱く自分のことが酷く惨めに思える。あの話を聞けば、彼女へのこれまでの態度に申し訳なさを感じ、親愛の念も増すのがまともな人間の反応だろう。ふっと、脳裏にジュンの虚像が結ばれる。こんな時、彼ならどんな反応を見せるだろう。
「リクさん?」
はっと目を上げると、少し心配そうな面持ちで、ママが覗きこむようにこちらを見ている。
「――エイミに悪いことをしたな、と思って」
まともに顔を見られず、再び俯き加減になって言うと、目の前の空気がふっと緩む。
「ほらやっぱり。貴方は優しい」
慈愛さえ感じる柔らかな声色が一層胸を締め付けてくる。一瞬、脳内のジュンと目が合ったような気がして、僕はぎゅっと右拳を握りこむ。
そろそろ、とママが立ち上がり、衝立向こうに顔を覗かせる。控えていたらしい黒服と、次いでチエさんが姿を現す。ママが滑らかな裾捌きで島崎の側に寄り、優しい手つきで肩を叩く。その間に千枝さんたちが手際よく卓を片付けていく。
「悪かったなあ、なんか寝落ちしていたらしくてさ」
一眠りして少しは酔いから醒めたらしい声で、島崎が首筋を掻きながら謝ってくる。
「よほどお疲れだったのね」
彼の後ろから肩に手を置き、笑いながらママが言う。その微笑みはあっという間に艶然としたものに変わり、島崎に注がれる。骨太の長身がふにゃりと蕩けるような様に、少し笑ってしまった。
「途中からよく覚えてないんだが、お前、ちゃんと相談できたか」
「まあ、覚えて無いんですか? 私、島崎さんのあんなに頼れる上司姿を初めて見て、見直したんですから」
まごつく僕にウインクを一つ寄越し、ママが透き通る声に婀娜っぽさを一筋溶かして応える。島崎の顔がますます蕩ける。魔性、とはこのことを言うのかもしれない。
会計中の島崎を横目に、チエさんがコートを着せ掛けてくれる。どうも、と会釈すると、清麗な微笑が返ってくる。何か言いたげな感じだな、と思っていると、つと顔を寄せられた。
「エイミちゃんのこと、よろしくお願いしますね。――ごめんなさい、少し聞こえちゃいました」
「仲、良いんですか」
「特段ってわけではないんですけど、何か妹みたいで」
「そう、なんですね」
「差し出がましいことを言ってごめんなさい」
謝る彼女に、気にしなくて良い、と応じていると、島崎が戻ってくる。モテモテだなとからかわれ、胡乱な目を向けると、チエさんの含み笑いが聞こえた。
また来るからね、と隣で島崎が手を挙げ、ママが手を振り返す。その視線は島崎を見ているようであり、僕に向けられているようでもある。
――あの子のこと、お願いね。
そんな声が追いかけてくる気がして、僕は一足先にすたすた歩き出した。
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