第7話 気流
「何か、スタイル変わりましたよね」
香ばしい薫りに包まれた店内で、細縁の眼鏡越しに、薄茶の瞳がつと細められる。
「あ、誤解しないで下さいね。相変わらず素敵なんですから」
「ありがとうございます」
「ファンタジックな感じも良かったですけど、こういうパキパキしたデザインもいいですね」
「だと良いんですが」
優しく微笑まれ、やっと背筋の強張りが解れる。アングロサクソン系とのハーフらしく、彫刻のような顔立ち。地毛だと言う茶髪は後ろで緩く括られている。ギリシャ神話にでも出てきそうな優美さである。泉で水浴びに興じるニンフに恋をして、木陰からそっと見つめる青年。そんなシチュエーションを描くことがあれば、きっとこっそりモデルにしてしまうだろう。ザッハトルテの一欠片を口に運ぶ様も優美だ。右手の疼きに気づき、僕は慌ててコーヒーカップに手を伸ばす。
「で、今回の作品は、この前SF部門で新人賞を獲った作品の表紙にさせて頂きたいと思っていますけど、如何ですか」
「ありがたい限りです。この度も、どうぞよろしくお願いします」
ペコリと頭を下げると、いえいえこちらこそ、とテノールが響く。
「僕としても本当に楽しみですよ。期待の新人作家の小説と新進気鋭の画家の作品の相乗作用なんて、ワクワクしますね」
薄く形の良い唇が三日月型に引かれ、右手に籠る熱の密度が増す。深煎りのコーヒーを流し込んでも、熱の結晶はすぐには消えそうにない。やはり、ここのところ水彩鉛筆を握っていないことによるものなのだろうか。跨線橋から見上げた曇り空に差し込んだ一筋の光条の神々しさも、夕焼けに舞う飛天も、全て脳の深いところに仕舞い込んだままにしている。
「そういえば、例のお話、考えて頂けました?」
ぼうっと考えに耽っていた僕の目を薄茶の瞳が覗き込む。照明が当たると、虹彩が良質な虎目石のように明るい煌めきを見せる。まだ決心がつかなくて、と答えると、少し残念そうな笑みを浮かべ、虎目石が離れていく。掬って舌奥に押し込んだマロンクリームが甘い。
小一時間前の冷雨は、カフェを出た時にはすっかり止み、陽光が灰色の厚いベールを押し上げている。並んで歩く道すがら、散らばる銀杏の葉がブロック様の道を彩る。銀杏独特の臭気も嫌いではない。
「そうだ。いつか、できたらでいいので、銀杏並木の絵を描いてくれませんか」
「――銀杏並木ですか」
「ええ。いつか、で構いませんから」
赤みがかったブラウンのジャケットにクリームのタートルネック。踵の鳴る音が湿気と冷気に発散を阻まれ、重めに響くのも、彼の品格を高めている。成熟した季節に相応しい雰囲気に、断れるはずもない。
「分かりました、僕で良ければ」
「リクさんのタッチがいいんですよ」
喜色を浮かべ、虎目石がきらりと光る。僕のが良い、とわざわざ言い直してくれる優しさは、出会って間もない、それこそまだ画家とも言えなかったころから変わりない。
大通りの角を曲がると駅舎はすぐ目の前だ。人の流れを避けようと、横にちらと視線を向けると、見覚えのある絵とぶつかる。思わず歩みを止めると、一瞬の間の後、隣のゆったりとした靴音も止まった。
「ああ、あの絵、今すごい人気ですよね」
「――ええ。本当に、すごいですよ」
「現役美大生で個展を開けるなんて、滅多にない華々しさですね。しかし、あのアーティストの名前、未だに読み方が謎なんだよなあ」
小首を傾げるようにして清瀬さんが呟く。すっと通った高い鼻に、緩く結ばれた唇。甘く整った横顔から、心の動きはこれと言って読み取れない。だから、僕も淡々と情報を答えるだけに決めた。
「それ、エイミ、って読むんですよ」
僕の言に続いて、清瀬さんがエイ、ミー、と区切って発音する。
「なるほど、こう読めばいいんですね。全く、最近の若い子は独創的な名前をつけるのが流行っているのかな」
そう独り言ちると、清瀬さんがふいっとこちらに顔を向けた。
「勿論、シンプルな方もいらっしゃるわけだから――まさに、若者世代でよく言われる多様性ってやつですね」
「そういう清瀬さんだって十分お若いじゃないですか。それに僕のような無名の新人を拾い上げてくださったところなんて、まさしく革新的ですよね」
僕は改めてポスターに向き直る。コンペでの大賞受賞をきっかけに代表作となった『光の街』をはじめ、彼女がこれまでに制作した絵を展示すると聞いている。ぎゅっと右の親指を握り込むと、肩口に体温が触れた。何でもない、と固まった口角を緩めると、瞳から怪訝な色の霧がほぐれた。
「いやいや、リクさんの絵なら、取り上げられるのは時間の問題でしたよ。だから一番乗りになれた僕は運が良かった」
「買いかぶりすぎですよ」
「いや、本当のことです。あなたはもっと、自分の絵の良さに気付いた方がいい」
虎目石が煌めく。その様に、僕は久しく会っていないエイミのことを思い出した。彼女もまた、きらきた瞳で絵を語っていた。黒曜石の強い魔力に惹きこまれるように、僕の絵の世界も広がった。深遠な黒の奥、芸術に包摂される彼女自身の核に触れたいという気持ちは、今でも楔のように胸に打ち込まれている。
「それは、ありがとうございます」
「あ、信じてませんね。僕、これでも大手出版社のデザイン部副部長なんですから」
しくしくと身体の内側が滲みるのを感じながら、改札を抜ける。階段を降りるところで振り返ると、清瀬さんが待っていたかのように微笑み、一礼した。
アパートに戻り、卓からスケッチブックを引っ掴む。描きかけの頁をめくるのももどかしい。真っ白な紙面を開くと、鉛筆を構える。神官のような姿をした彼が、燃えるような夕日が差し込むアテネの象牙色の廃墟の、崩れかけた柱に手を添えている。虎目石の瞳が捉えているのは、森一つ隔てた現代的都市群なのか――否。時を越える力を持つ彼は、あの都市の地の底を見つめている。何故。それは彼がかつて、激闘の果てに封印した人間の「友人」が眠っているからだ。自分の何分の一も生きていないにも関わらず世界の真理を理解したかのように聡明なかの友人は神に挑み、神に仕える彼が手を下した。殺すには忍びないと考えた彼は、力と智慧を人間の繁栄のために使うことを提案し、友人も、友情を交わした他ならぬ彼のために縛りを受け入れ、その地の底で深い眠りについた。以来、彼はずっと、都市の発展を見続けることで、友人が生きていることを確認してきた――。
下絵を描き終え、ふうっと息を吐く。凝り固まった首筋。その痛みも快感に変わるほど、久々に整然とした脳内の浮遊感が心地よい。このまま色をつけたら、きっと絵は動き出す。衝動のまま卓に手を伸ばすと、手元が狂って筒にぶち当たり、芯の詰まった音が床に散らばる。放出を挫かれた色彩の残影が、拾い上げる指をイラつかせる。折損したものがなく幸いだ。全てを筒に収め終え、今度こそ鈍痛を知覚した首を回していると、積まれた文庫本からぺろりと覗くチケットに目が留まる。『光の街』がプリントされたチケット。この前、半年ぶりに会ったエイミから渡されたものだ。
『是非、来て欲しいな』
黒曜石のまろみから感じられたのは、ただただ純粋な親愛。僕もそれに応えるような笑顔を見せたはずだった。専用の面を作ったわけではなく、あくまで自然にできたと思う。多分、自分の中で、彼女に対しある種の好意を抱いているのだろうと思う。絵を通じて、距離はかなり縮まったと言っていい。だがどうしてか、近づけば近づくほど、その感情に不純物が混じるような気がしてならない。寧ろ、絵を持たなかった時の方がずっと、綺麗な気持ちのままいられたような気さえする。
絵が無ければ、芸術が無ければ、彼女に触れることはできない。同時にそれらが作った彼女の本質は、知れば知るほど、自分とは異質で遠い存在なのだと思い知らされる。近づきたいのに、進めば進むほど、道を違えてしまうような焦燥感。そこで僕は、道の行き先を彼女の方に向けようと思った。芸術の根底が違う以上、どんなに頑張っても、ベクトルは違えてしまう。それなら、彼女のいる位置を目指して修正するしかない。だから、僕は彼女に倣った描き方をするようになった。手狭な室内で油絵は無理なのでアクリル画を選び、学祭やアトリエで見た画面を思い出しながらの想像模写を繰り返した。勿論、その間は水彩鉛筆には一度も触れていない。今回本の表紙になる絵は、そうした試行錯誤の結果生まれたものだった。
苛立ちと高揚の入り混じった手の強張りは気付けば消失している。チケットからも、卓上で佇む筒からも逃れ、僕はマットレスの上に展開されたままのスケッチブックを目を逸らしたまま閉じた。もう十分、息抜きはできた。自分は彼女のように描くと決めたのだ。表紙になる品質のものが描けたのだから、きっと大丈夫だ。
『そう言えば、例の話は考えて頂けましたか?』
興奮と一片の後悔から醒めた頭を、今度は彼の言葉が巡る。専業化のことはぼちぼち考えてはいた。宣伝とモチベーション維持を兼ねて始めたブログだったが、コンペ受賞のインパクトは存外大きかったようで、割合すぐに業界人からDMが来た。それが、大手出版社のデザイン部で若くして副部長を務める清瀬さんだった。三部作のファンタジー系小説を文庫化するに当たり、新たな表紙絵を探していたそうで、夕焼けや夜桜の水彩画が世界観にマッチするから、とオファーをくれた。てっきり受賞した絵を使いたいと言われるものと思っていたので、話を聞いて驚いたのを覚えている。初めての打ち合わせの日、持参したスケッチブックを見せると、あっという間に話が本決まりになった時は、手も足も、震えが止まらなかった。エイミの他に、ここまで過去の作品群を評価してくれた人は今までいなかった。
これでやっと、エイミの前で胸を張って自分の絵を語れる。その思いが続いたのは、たった二週間だった。意気揚々とアトリエに足を踏み入れた僕を迎えたのは、巨大なカンヴァスに眼光鋭く対峙する彼女の姿だった。深淵の奥を探るような眼で腕組みをし、考えあぐねている様子に尋ねると、彼女は一瞬だけこちらを見やり、すぐにカンヴァスに向き直った。
「来年のどこかで個展を開かないか、って話が出てるのよ」
進級制作を兼ねて大作をと思って、と険しい顔のままこちらを一瞥した彼女は、言い終わるやいなや、再びキャンバスを睨みつけたのだった。頭の中から感情の塊がこれほどごっそりと持っていかれる感覚は生まれて初めてだったかもしれない。かろうじて返答を取り繕い、二階のベッドに仰向けに倒れ込む。頭の中の空白から生まれたのは、根っこのない不安と焦燥感だった。
それから約半年、時間ができるたびに彼女のアトリエに通ったが、その目的はかつてとは変容してしまった。有り体に言えば、彼我の差の認識だ。彼女の作品の進捗具合を確認して、自分の立ち位置と比較する。より近くで、制作過程から彼女の作品を見ることで、その芸術に近づけるのではないかと思った。元より、根本から理解できるとは考えていない。それでも、あの黒曜石の輝きの奥にある孤高の魂の一端でも触れられれば、自分の絵にも、彼女の作品が持つような力が出てくるのではないかと思った。それが、彼女と同じ場所に立てる唯一の道だと信じた。
絵を、芸術を通じて、彼女は飛翔する。少しでも間が開くことがどうしようもなく怖かったから、年末年始含め帰省もしなかった。新たに購入したスケッチブックに、ひたすら彼女の運筆を思い浮かべ再現していく。初めは単純な模倣だったけれど、次第に記憶の薄らいだ部分の辻褄合わせをすることで、自分の色が増えていったように感じた。自分自身の領域と呼べるものが増えてきたことで、無断で真似ていることに対する罪悪感も徐々に薄れていった。いつか彼女と同じ景色を見られるかもしれない、と再び思うようにさえなった。
だが、桜の蕾が解け始めた頃、薄暗い土間で、興奮気味に叫んだ彼女の肩越しに拡がる大作を見た時、足元の地面が音もなく消えていく空虚感が僕を襲った。下地には無数の立方体が刻まれ、それらをまた別の立方体が覆う。視野を広げて俯瞰すれば、直線だけでなく、歪んだ曲線で構成された無数の構造体が、画面から空間全体に飛び出していく。幾何学の構成による具象と抽象。鑑賞者の目を借りて、対極から対極へ自在に行き来する、途轍もない大きな作品が、目の前にそびえていた。
「やっと降りてきた。最後の三日で。ようやく、ついに!」
振り向いた顔には疲労困憊の跡が滲む。だが目の下の濃い色が、燃え上がるように輝く瞳をかえって引き立たせていて、本当に美しかった。翳によっていや増す眩しい笑顔に、かろうじて僕ができたのは、感情から舌だけ切り離し、賛辞を贈ることだけだった。
その後の半年は一変して、何かと理由をつけてエイミを避けた。無論、離れていることは苦しい。でも会うことはもっと苦しい。彼女の絵を見れば、僕はきっと何度も、あの絶望感に苛まれる――その予感は、会えない苦しみに耐えることよりも、とてつもなく恐ろしいものに思われた。かと言って彼女との距離が離れてしまうことに対する焦燥感が消えるわけでもない。そして逃れるには、これまで通りに、彼女の芸術の航跡を追うしかない。でなければ離れていく一方になるから。
――専業化。
シリーズの売れ行きが予想以上の好調を博し、装丁をきっかけにブログへのアクセスも急速に伸びてきた頃だった。清瀬さんといつものようにカフェで打ち合わせやら近況報告やらをしている時、当時抱えていた仕事の愚痴をつい呟いた時、彼の口から出てきたのがこのワードだった。あの時は、単なる世辞だと思っていた。しかし、今日思いがけず再燃したことで、その単語は今や妙に蠱惑感を孕んで僕の脳内に憑りついている。
引っ張りだされて萎れた『光の街』がこちらを見ている。僕が初めて真似た作品。どんなに微弱な光量でも、影はちゃんと掬い上げてくれる。初見では光条の多彩な表現に目を奪われたが、この作品で彼女が強調したのはそういう暗の部分だったのだろうと、多くの模写を経た今なら分かる。それを成立させているのが芸術を希求する切実さだということも、それに比して自分の動機など限りなく曖昧だということも。
やり場のない感情に突き上げられ、僕はくたりと首を垂れたチケットを引っ張り出し、立ち上がる。玄関脇の隅の、半分ほど入った可燃ゴミの袋を開くと、僕は裏返した手中の紙を等分し、千切っていく。小指の爪ほどの紙片がプレーンヨーグルトの容器にぱらぱらと落ちる。最後の一欠片が半乾きのホエイに犯されるのを見届けたところで袋の口を縛り、僕はそれを棟側のステーションに放り込む。つん、と鼻奥が疼き、溜息と共に空を仰ぐと、厚目の雲が緩やかに流れ、形を変えていく。地の青色を見て、ふと、銀杏並木が頭に浮かんだ。秋晴れにはやっぱりレモンイエローくらいの淡い色彩が映える。降るような銀杏並木、冷気を含んだ晩秋の気配。この情景にただ浸るだけほんのわずかな間、僕は何事からも、何物からも、解き放たれることを許されるのだろう。
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