第6話 萌芽
跨線橋に吹く風が、だいぶ和らいできた。線路を挟んだ通りの桜並木も、一週間もすれば満開になるだろう。越してきた時からこの場所は僕に優しかったが、二度目の春は去年よりも更に温かい。連日の送別会に疲れ果てた頭を撫でられ、こめかみの強張りがじんわり解れていく。しばし前髪が揺れる感覚に身を任せる。
静かに目を開ける。足音がばらばらと交錯する中、ふと、エイミが横にいればな、と思った。春へと踏み込んだこの景色を、彼女ならどう見るだろう。僕は水彩画で、彼女は油彩で。絢爛たる、烈しさにも似た華やかな一瞬を、並んで切り取って残したい――こんな穏やかな気分になれたのは、久しぶりだ。
「乾杯!」
揃って湯気の立つマグを掲げる。彼女が用意してくれたコーヒーと偶然見掛けて途中下車し買ったケーキでのささやかな茶会兼祝賀会だ。
「まさか、賞をもらえるとは」
「言った通りだったでしょ。いい絵が描けたと思った時は大抵いける、って」
しみじみ呟くと、クリームの角を乗せた真っ赤な苺を口に運び終えた彼女が、屈託のない笑顔を見せながら言った。
先週、退庁後に入っていた留守電を聞いた時は、流石に暫く手の震えが収まらなかった。最初はただただ驚愕だった。何度再生しても受話器から聞こえる「特別賞」という単語が自分と結びつかなかった。改めてコンペの主催者から連絡をもらい、ようやく実感が湧いた時にも、再び震えが止まらなくなった。身体の奥の奥、暗路に潜む水脈が音もなく膨張し、決壊し、荒流となって、身体の外へ、外へと、弾け出ようとする感覚が、気づけば一筋の涙となって頬を伝っていた。自分の絵を第三者に認めてもらうのはいつぶりだろう。中学の美術で描いた校内の写生画が県のコンクールで金賞を取った時以来ではなかろうか。高校の時も授業で描いた風景画を出してみないかと美術教師に言われたことがあったが、返却された化学の試験結果がずたぼろで、気鬱を引きずっていたために断っている。絵を描くことは好きだったし、評価されることは素直に嬉しかったが、あの頃――父の言う人生を目指すことが至上命令で自分にとっても最適解だと頑なに信じてきた頃は、あくまで副次的なものに過ぎなかった。
昼下がりの陽光を反射して、スポンジの端に突き立てたフォークが一閃する。甘味の中から酸味がほんのりと舌奥に広がる。
「でも大賞なんて、君はやっぱりすごいよ」
「それより個人的には、ウェブ掲載される前に直したい箇所があるんだよね」
左上のガラス張り高層ビルはもっと白のハイライトを入れれば良かった、地塗りを灰色にしても面白かったかも、そしたらコンセプトごと変えなきゃね――。目線が中空に揺蕩う。細い指先でつままれたフォークの上で、掬った層の欠片がほろりと崩れる。風が吹く。心地よい風。風に身を任せ、思考を遊ばせる彼女は、純粋で、どこまでも自由に見えた。
「これから、ストックは作っておいた方がいいかもね」
視線を中空から戻した彼女が、僕を見つめながらぽろりとそんなことを呟く。
「なんで?」
「結構大きなコンペだし、もしかしたら、声掛かるかもよ」
悪戯っ子のような笑みを浮かべると、彼女は思い出したように皿の上のケーキの残りをせっせと口に運ぶ。ケーキを食べ終わっている僕は、マグに口をつける。すっかり温くなっているにも関わらず酸味のほとんどない味は、さすが無類のコーヒー好きである彼女の叔父がコンペの祝いにわざわざ差し入れてくれただけのことはある。
香ばしい薫りに包まれながら、脳内では先ほどのエイミの言葉がリフレインする。受賞できた喜びは言うまでもない。だが途轍もなく大きい壁が消えた後、眼前に広がる景色に戸惑っている自分がいる。冒険者の気分とでも言うのだろうか。
左右に広がる細波が、紺色の夜気に桜貝の色を差す。ほの白い月の光が静かに空気を伝い、左右に分かれた鉄筋の構造物にベールを纏わせる。柔和な儚さばかりを感じさせがちな画面を、冴え冴えとした月が引き締める――。
彩色を終えた紙面をスケッチブックごと譜面台に乗せ、スマホを構える。撮り終えた写真をブログにアップし、散らばった色鉛筆を片付けた時にはすでに夜十一時を回っていた。明日も仕事だが、以前の、身体全体に鉛が詰められたような倦怠感はなくなっている。彩色中に徐々に高まる高揚感、そして公式の場に自分の作品を晒すことに対する緊張と興奮が、頭から、身体全体を支配している。特にいい絵が描けた日は、なかなか鎮静化しない。渋々卓の端の箱に手を伸ばし、錠剤をワンシート取り出す。眠りやすくなるとの触れ込みで近所のドラッグストアで売られていたが、果たして効くのやら。明日が休日ならこの感覚に身を委ねてもう一枚下書きをしてみるところだが、致し方ない。
もっと色々やってみようよ――エイミの言葉に後押しされて僕が始めたのが、ブログの開設だった。『備忘録としての絵画録』と銘打ち、描き上げた作品の写真を投稿していく。
「美大卒じゃなきゃ業界との人脈が使えない。でもSNSならそんなの関係ないからね」
コンペの表彰式後のパーティで、参会者の一人からそう声をかけられた。良ければ参考に、と渡された名刺のQRから飛ぶと、美麗かつ大胆な構図のイラストがずらりと掲載されている。中には書店で見覚えのある装丁もある。後で調べて見ると、アニメのキャラクターデザインやゲームデザインなどを手掛ける、界隈では有名なイラストレーターだった。
「確かに、作品を発表する場って大事だからね」
芸術は人の目に触れて成長するし、とエイミも後押ししてくれた。始めて約三ヶ月、当初は彼女くらいしかいなかった閲覧者も、徐々に増え始めている。まだまだ少ないとはいえ、自分の絵が、会ったこともない第三者から見てもらえているという事実が、今の自分にとっては、日々を送る上での原動力となっている。
「上林、なんかいいことでもあったのか」
「どうしてですか」
「いやな、前はもっとピリついた雰囲気だったなと思ってさ」
にっかと笑うと、島崎は買い替えたばかりだという革靴の踵を鳴らしながら去っていく。以前は節操なく絡んできて鬱陶しいと思っていたけれど、最近は、幅広の背中から純粋な陽気さを感じ取れるようになった。仮面をつけ続ける閉塞感が溜まっていくばかりだったのを、絵を描くことによって逃がせるようになったのが功を奏しているのだろうか。その一方で、心の奥底には、穏やかで均衡の保たれた今の日常が長くは続かないだろうという、確信にも似た予感が既にもう棲みついている。
束の間の晴れの日、苔むした石垣がしっとりと呼吸し、葉に露を溜めた紫陽花の青紫色は、陽光に一層鮮やかである。前庭の入り口、ポストの陰にさりげなく置かれた小さな木箱から鍵を取り出し、引き戸を開けると、壁に持たせかけられたイーゼルが目に入る。その傍で佇むスチールに、思わず近寄り、そっと腰掛ける。こと、と僅かにバランスが傾く気配。そのまま手を伸ばして、脚部の絵の具の盛り上がりを指先でなぞる。どの作品の途上で付着したものだろう。どんなタッチで、どんな感情で描いたのだろう。取り止めもない感慨の連鎖が、薄暗い光の中に虚像を結ぶ。イーゼルに向かい脚を組み、絵筆を構える。華奢な背中が対峙するカンヴァスは、影で増幅され何倍も巨大に膨れ上がる。彼女はその中を筆一本で切り込んでいく。色を、線を、面を、空間を、自在に操り、魔物を征服する。自分よりもはるかに小さな身体の、どこにあんなエネルギーが隠れているのだろう。
『繊細で幻想的』
授賞式でも、その後のパーティでも、皆口々にそう僕の絵を評した。当然と言えば当然だ。虚構と過去の記憶が織りなす世界には力がある。それが夢の魔力なのだから。細部まで描き込み緻密な彩色を施し、可能な限り夢の中の情景を再現したことが功を奏したのだろう。だが、エイミの絵を見た時に感じる、人を圧倒する強さや激しさはどこにもない。緻密な線の組み合わせが主題を鋭利に際立たせる。性質は違えども一目で惹きつけられる。これが真に人を魅了する作品と言えるのだろう。
「リクさんも気に入ったんだね」
声の方へ振り向くと、スーツケース片手に、エイミが光を背に立っている。
「ごめん、つい座ってみたくなって」
「全然。こういう木の椅子ってなんかしっくりくるよね」
リビングに上がる。二人で囲む食卓もすっかり馴染みになった。ネットレシピで以前作って喜ばれた簡単フレンチトーストを皿によそうと、ほかほか上がる湯気の奥でエイミの顔が綻ぶ。彼女と共に過ごす日が増えて、大学時代の自炊レシピが復活しつつある。
「そういえば、この前の夜桜の絵、すごく素敵だったね」
フレンチトーストを突きながら彼女が呟く。手放しの賛辞に胸には暖かみが広がるが、同時に、奥底でかさつきも覚えた。目を伏せつつ、ありがとう、と返すと、正面の動作音がぴたりとやむ。目線を上げると、両の瞳が不思議そうに僕を見つめている。どうかした、と尋ねると、目元が少し曇ったように見えた。
「何かあったの」
「え、どうして」
「声がいつもと違うかな、って」
「いや、そんなことはないけど」
「――相談とか乗れるよ。一応、美大生だし」
さっきまで蕩けそうな顔でフレンチトーストを頬張っていた人間とは思えないほど、今の彼女の瞳には黒曜石の輝きが宿っている。絵に向かっている時は矢じりのような鋭さが際立つが、研磨された宝石を想起させる今の目もまた、相対する者を惹きつける。日が翳ったのか、室内に差し込む光が弱まると、虹彩の色が一層引き立つ。朔夜の闇を思わせる漆黒は、あらゆるものを受け入れてくれる色に思えた。
「僕の絵は、繊細だって言われるんだ。君もそう思う?」
「繊細――そうだね、そうかもしれないね」
やや伏せられた目から表情は読み取り辛いが、今は感情を特定できない方が、何でも打ち明けられる気がする。
「僕の心は、繊細でもなければ、まして美しくなんかない。本当はさ、そういう醜い自分も表現できるような絵を描きたい。お利口さんの絵を描きたいわけじゃないんだ」
お利口さん、と薄紅の唇がなぞる。肯定も否定も疑問もないその微かな声が無性に安心する。凪いだ湖面のような瞳。それに向かって、でも、と続ける。
「感情をぶつけたいと思って鉛筆を握っているはずなのに、やっぱり、頭の中で結ばれる像は全然違うんだ。かと言って、それを紙に投影しないと苦しいだけだしね。よく描けた、と思っても、他の絵を見ると、なんか違うなって思ってしまうんだ」
胃の奥が熱い。どく、とこめかみを流れる血が沸く。ひとたび栓を外した坩堝から止めどなく溢れる感情が、全身を流れ、駆け巡り、どんどんと加速していくのが分かる。膨張した血管が頭の奥で痛覚を刺激し始めた時、がたり、という音が空気を震わす。はっと顔を上げると、磨かれた二粒の黒曜石がすぐ側にある。
「来て」
誘われるまま二階へ上がり、ソファに腰掛けていると、ごそごそと押し入れを漁っていた彼女が戻ってくる。その脇には、小型のスケッチブックが抱えられている。隣に腰を下ろした彼女が、僕の膝にそれを載せる。丸くなった角が年数を感じさせる。
「見てみて」
低音のベルベットに耳を撫でられ、僕はそっと擦れた表紙をめくる。
「これ、ボールペンで?」
余白が見えないほどびっしり描き込まれた構造物の羅列。めくれども、めくれども、緻密な線の交錯が続く。下段はレンガ造り、中段は一軒家、上段は高層ビル群が凹凸具合も美しく並んでいる。街灯などもしっかり再現されている。街並みのページが大半だが、時折花壇のような絵も見られる。レンガ造りの花壇で、蕾、花、葉、蔓がデフォルメされている。螺旋状の構図もある。どこを開いても、画面の凄まじい密度にひたすら圧倒されるばかりだ。
「昔からの趣味なのよ」
「やっぱり昔から絵が好きだったんだね」
「絵が好きというか、真っ白な空間を少しずつ埋め尽くす感覚が楽しかったから、という方が正しいかな。まっさらな個体を自分のイメージで穢していく感覚、って言ったら、引く?」
「そんなことはないよ――まあちょっと意外ではあったけど」
横から伸びた細腕が膝からスケッチブックをつまみ上げる。螺旋植物園の鳥瞰図を撫でながら、伏せられた睫毛の下で、瞳はうら寂しい微笑を浮かべている。
「小学校くらいまでかな、広告の裏にこれを描いてて褒められたのは。うちの両親はエリート志向だったからね、芸術は脳を活性化させる手段としか思ってなかったみたい。本業にする選択肢なんて、はなからなかったよ」
「厳しいご家庭だったんだね」
「まあ、そうかもね」
彼女は濃さを増した瞳の寂寥を紛らわせるかのように少し口の端を上げる。
「でも、両親の言うことが間違いではないってこと、自分でも分かってるの。この社会では、あの人たちの考え方は、多くの人にとって正義なのよ」
「確かに、それは何となく分かるよ」
こくりと頷き、彼女はスケッチブックから顔を上げた。黒曜石の鋭い瞳が遠くを見据える。
「教育熱心だったことには感謝しているの。名門私立に通わせてもらえたから。彼らが重視していたのは有名大学への進学率だったけれど、あそこは音楽や美術の道に進む人も多く輩出していることもあってか、かなり自由な校風だった」
校名を訊くと、全国的な知名度を誇る女子校だった。昔塾に通っていた時、女子達がこぞって目指し、見事に玉砕していたのを思い出す。言わずと知れた名門校でありながら破格の授業料、だからこその高い偏差値。確かにあそこの出身と聞けば、大方の反応は彼女の両親に類似するはずだ。僕自身も、彼女の絵を知らなかったら、優秀な人だという感想しか抱かなかっただろう。
「私も中学時代は何となく、親の言う人生でも悪くないか、って思ってた。けど、進路選択を目前にして、違和感が強くなったのよね。だから思い切って親に訴えてみたんだけど」
「怒られたわけか」
「うん。それも、ものすごく。手を上げられたのなんて、生まれて初めてだったよ。それ以来、家で描くことは禁止になって、部屋に隠してたスケッチブックも全部捨てられちゃった」
「わ、強烈だね。じゃあ部活は? 美術部に入るとか」
「片道一時間の遠距離通学だったから、駄目って」
僅かに伏せられた、煙るような睫毛に、痛みの色が滲んだ。自らの一部とも言える創造物を全否定された時の痛みは、僕には想像することしかできない。
「で、その焚書から逃れられたのが、たまたま学校の美術室に置いたままだった、このスケッチブックだったってわけ。それからは、学校にいる時間はほとんど絵に費やしたよ」
全部忘れられるからね、と呟きながら、彼女の白い指が螺旋をなぞる。多様な姿形の植物たちが嬉しそうに指先にしなだれかかる。彼女が目を細めてそれに応える。その様子が、彼女たちが長い時間と濃密な感情を共有してきたことを物語る。
「授業は、耳半分ではあったけど、一応聞いてはいたよ。けど、ある時担任の先生に見つかっちゃって。放課後スケッチブックを見せるように言われて、それが始まりだった」
「これほどの絵を見て、先生もさぞかし驚いただろうね」
そこまでじゃないけど、とすかさず謙遜が始まる。以前は軽い苛立ちすら覚えたものだが、最近は、無意識の癖だと分かるようになってきた。黒曜石の輝きが緩み、僅かに紅潮した頬と相まって、人形のように可愛らしい。この可憐さのどこに、爆発的なエネルギーが隠れているのだろう。
「でね、家のことを話したら、コンクールで賞を獲って見せつければいいって言われて」
「流石。それで、どれを出したの?」
「それが、絵の具の縛りがあってね。仕方がないから、別にアクリル画を仕上げたよ」
ちょっと待って、と彼女はズボンのポケットからスマホを取り出し、いじり始めた。しばしの間の後こちらに向けられた画面には、某絵画コンクールの公式サイトらしき頁が開かれていて、その真ん中に先ほどの螺旋の植物園を思わせる絵が映っている。ペン画とは打って変わってカラフルな植物モチーフのオブジェたち。それらが旋風のように、五角形のガラス天井を勢いよく破り、画面から飛び出さんばかりに暴れている。彼女の絵に感じるある種の激しさにも通ずるものが、そこにはあった。
「大賞を獲った後はとんとん拍子に話が進んだよ。三者面談で賞状を見せながら先生たちに説得してもらって、美大進学を認めてもらえたからね。あのきっかけがあったから、今の自分がある。この絵には感謝しているのよ」
だからね、と言葉を切ると、彼女は再び膝上のスケッチブックに目線を落とす。細い指先が螺旋を行きつ戻りつする。
「自分が理由もなく、ただやってしまうことって、絶対意味があるって思うの。好きかどうかなんて、はっきりとは分からないけどね」
「君は好きで描いてるんじゃないの?」
ぴく、と指の動きが止まり、白い手ごと膝の間に仕舞い込まれる。次いで口の端がゆっくりと、困ったように微笑む。
「どうなのかな。自分でもよく分からない」
「分からない?」
「ほらさっき言ったでしょ、白い紙が埋まっていく感覚が楽しかった、って。だから厳密に言えば、絵が好きだからっていうよりも、埋められていく感覚が好きだったから、ということになるね。けど、色々ある手段のうち、私は無意識に絵を選択した。そのことには、何かしらの意味があるはず、って思うのよ」
「それは、好きだってことなんじゃないの」
「どうかなあ。確かに大学でも『絵が好きだから美大に入った』って言ってる人もいるよ。けど、好き、という、一言の感情とは、何か違う気がする」
「好き、の定義は人によって違うからね」
「それもあるかもしれないけど――」
細長い指が小さな顎の輪郭に掛かり、たちまち瞳が黒曜石になる。自分の内的感覚を探る時は、カンヴァスの前であろうとなかろうと、いつもこうなるらしい。しばし彫像のように固まった後、ようやく華奢な身体が解ける。
「ほら、昔からそこにいて当たり前のものってあるでしょ。好き、というより、無かったら困るものかな」
「日常の一部になっているんだね」
「そう。タオルとか、トイレットペーパーみたいな」
「何それ」
芸術を生活用品に例える彼女に苦笑すると、照れたような顔をこちらに向ける。黒曜石の瞳も緩んでいる。ややあって、彼女の視線が正面俯き加減に落とされる。憂いを帯びた表情が艶っぽく見える。
「あんなに親に逆らったのは、初めてだったな。後から考えれば、ちょっと申し訳ないくらい」
「後悔、してるの」
「そういうわけじゃないよ。あの時衝突していなかったとしても、きっと先々のいつかでぶつかっていただろうし。でも、やっぱり、これまで仲の良かった両親との関係が歪んでしまうのは気分のいいものではないよね。お母さんとは未だにぎくしゃくしたままだし」
「お父さんは?」
「多分、諦めてる。仕方ないよね。けど、あの出来事がきっかけで、絵が、自分が生きるための要素だと分かった気がするから、必要な事だったんだと思うな」
彼女が切なげな顔で、だが、真っすぐに澄んだ瞳で微笑んだ。僕よりもずっと小さく可憐なのに芯から輝いて見える彼女は、心底美しく、羨ましかった。
静寂に包まれた夜は、網戸越しにも星を明々と見せる。開け放った窓から流れる涼風が前髪をかき分け、火照った額をゆるりと冷ます。ベッドに仰臥し、首だけ動かして窓の外を見る。網戸越しでもこれほどなのだから、裏の丘にでも寝転んで見たら、身体ごと宙に溶けていくような気分になることだろう。昔買ってもらったチョコレート菓子を思い出させる。両親と遠足のお菓子を選びにスーパーに行った時、僕はそのチョコレート自体よりもそのパッケージに惹かれた。当時流行っていたアニメだか映画だかの背景で、煌びやかな星空の中を、波飛沫を上げながらイルカが進んでいくものだった。あの時にはすでに幻想的なものに惹かれる要素を持っていたのだろう。
「生きるための要素、か」
溜息と共に、頭に残っていた言葉の一端が溢れ落ちる。好きか嫌いかなんて単純な問題ではなく、それ無しでは日常を送れないもの。奪われることは、自らの生存が脅かされること。その切実さが根源にあるから、彼女の芸術に力を持たせているのだろう。
イルカの群れが軽やかに、星空を切って行く。煌めく波飛沫はユニコーンの尾が纏う光の粒を思い出させ、そのことに思わず溜息をついてしまう。力のある絵を描きたいと心底願っているのに、頭に浮かぶのは脆いガラス細工のようなものばかりだ。なぜ浮かぶのか――昔から惹かれていたから、好きだったから。
『好きか嫌いかじゃない』
『無かったら困るもの』
小さな唇から紡がれる、鋼鉄の意志。これが彼女を動かしてきたものだ。では僕の、何の描く理由は何なのか。
潜ったイルカたちはそのまな姿を消し、静けさを取り戻した濃紺の空には月がかかる。月光に照らされ、端正な横顔がふわりと浮かび上がる。
――ジュン。
やっぱり君なんだな、と呼びかけると、銀髪を揺らして振り向く。月光を一雫溶かしたような瞳の中に、僕の像が結ばれる。前髪が分けられて顕になった額からは神経質そうな気配が覗き、鏡色の眼の中で口の端を歪ませている。劣情の果ての醜悪な貌は、ジュンとは似ても似つかない。ある意味、これで彼とは完全に違う人間だ。しかし、表情の奥から滲む切なさを自覚した瞬間、僕は思わず詰まった声を上げた――。
木組みの天井。竹藪の擦れる音が耳元を掠めていく。知らず知らずのうちに、眠っていたらしい。エイミはまだ下にいるようだ。意識と無意識の狭間で見たのがあれだったということは、僕にとっての原動力はやはりジュンの存在なのだろう。第三者からの評価を得るきっかけ自体、彼の夢だったのだから、ある意味当然の結論ではある。
「結局、僕は囚われたままなんだな」
呟きが木目に吸い込まれる。一緒にいると劣等感で辛い、けれどどうしようもなく惹かれる、自分の理想、憧れ。両極の感情にかき回されパンク寸前になった頭から出てきたのがあの夢の絵だったのだから。評価されれば自分の中の何かが変わるかと思ったけれど、そんなことはなかった。
深呼吸が夜風に乗って闇に溶けるのを見届けて、僕は目を閉じる。萱野を渡る風に尾を靡かせ、ユニコーンが跳ねる。煽られた伸びかけの黒髪が、白く滑らかな肌に一瞬張り付き、横に流れた。怜悧で、愛らしく、深紅の熱情を秘めた天性の芸術家。彼女に引っ張られるまま描き、同じコンペで受賞したことで少しは近づけたと思ったのに、まるで違う次元で生きているようにすら感じてしまう。一緒に休日を過ごすようになって距離は縮まったけれど、本質には指先で触れることすら叶わない、不可触の存在。それでもやはり、触れることさえできれば、何かが変わるのではないかと思ってしまう。自分を引き上げてくれたのは、他ならぬ彼女なのだから。
あれは、中学二年の文化祭の時だった。
この日は近隣住民にも学校が開放される。各部活動主体の出し物や美術や書道の作品展示、学生や保護者、教員らによるカフェや屋台、バザーなども開かれる。
「今年は俺もやるよ」
夕飯の席で、保護者の手伝いに関する学校からの案内を母に渡していると、それを横目で見ていた父が、突然そんなことを言い出した。でも、と言い淀む母に、たまにはいいだろう、と父は機嫌の良さそうな声で返した。僕も目を瞬かせていた。学校での話にはよく耳を傾けてくれる父だが、行事にはほとんど参加しない人だった。入学式や卒業式、小学校低学年までは運動会だけには来ていたが、保護者の競技に出ることもなく、母とともに静かに観戦しているだけだった。子供心にそのことを寂しく思ったこともあったが、仕事で疲れていのに来てくれるのは陸也が大事だからよ、と母に優しくたしなめられ、以来、そういうものだと受け入れてきた。そんな父が文化祭に来て、しかもボランティアまでしようというのだから、僕の驚きは大きかった。
「陸也が行ってる学校なんだから、見ておかないとな」
父に優しい笑みを向けられ、胸の内がじんわりと温かくなった。
文化祭当日、その日は入学式以来初めて、家族全員で校舎に続く坂道を登った。青空の向こうに拡がるいわし雲を指して習ったばかりの知識を披露すると、隣で目尻を緩ませた父が微かに頷いた。受付を済ませてから、午後のお互いの当番の時間までは、皆で作品展を観に行ったり、演劇部の劇を鑑賞したりした。美術作品展の入り口付近に展示された、授業で描いた時の絵に、母が一瞬感嘆の声を上げて立ち止まり、慌てて前を行く父を追いかける姿が何となく微笑ましかった。昼ご飯はカフェでカレーを食べた。近所の農家から提供された有機栽培野菜をふんだんに使ったというだけあって、美味しかった。
食べ終えて、僕たちは各々が手伝いに散った。途中父の働く姿をどうしても見たくて、トイレに行くふりをして、部活のブースを抜け、そっと見に行った。焼きとうもろこしの屋台前で佇む色白、細身の長身は遠目にも浮いていて、何だか笑えてしまった。
携帯電話禁止の学校だったので、シフト終わりの待ち合わせ場所は予め決めてあった。引き継ぎを終え足早に裏玄関に向かうと、父の姿がすでにあった。声を掛けようとして、その対面にいた顔に瞬時に押し黙る。相変わらず柔和な笑みのジュン。無論父は驚きの表情を浮かべていた。
「お待たせ、父さん」
大きめの靴音を立てて小走りに近寄ると、ジュンが僕を見て微笑み直す。
「ジュンも上がり?」
「いや、僕はこれからだよ――それでは、自分はこれで失礼いたします」
そう言って卒なく父に対して一礼し、ジュンは去っていった。その背を見送りながら、父が感慨深げに呟く。
「今の子、お前にそっくりだったな。思わず間違えて呼んでしまった」
「ね。僕も最初の頃、双子と間違われたくらいだよ。そうだ、能見純哉君っていうのは彼だよ。ほら、塾内模試で」
いつも一番だった子、と続けかけた時、弾んだ声がそれを遮った。
「おお、塾内模試でいつもトップだった子か!」
「そうだよ」
「なるほどな、あの子が、あの」
上履きをしまっていると、後ろで感慨深げなため息が漏れた。
父の反応を、当時は、自分の息子と酷似していることへの驚きから来るものだと思っていた。でも今なら、それは勘違いだと分かる。瓜二つの容姿でありながら、理想形の一方とそうでないもう一方。あれ以来、学期末に封筒を見せる度、父は僕の成績表ではなく、まず順位表を取り出すようになった。視線が一番上の欄を捉えると、ほお、と微かな感嘆を漏らす。僕個人の成績表を取り出すのはその次だ。最初は、ただ癖が変わっただけだと思った。しかし、そのうち、成績表の方は一瞥するだけになったことで、父の心変わりを悟った。
「ごめん、やっぱり理数は難しいわ」
中三の時、学年末試験の成績表をさりげなく封筒から出しながら、父に渡してみた。受け取った父は静かに三つ折り紙を開き、一瞥すると、またすぐに紙を閉じた。微動だにしない表情は、全く読めない。そろりと視線を外しかけたとき、皺の刻まれ始めた口の端がふっと緩んだ。
「勉強より大事なことだってある。そんなに気にするな」
耳障りの良い言葉が、ごくなだらかな放物線を描き僕の胸に届く。成績が芳しくなくとも、父が怒ることはない。小学校の頃からずっとそうだった。怪訝な顔をすることもない。ただ残念そうな表情を浮かべ、それを見ると胸がきゅっと苦しくなる。もっとも最近ではそんな反応すら示さなくなった。元来父は静かな人で、感情をむき出しにするようなことはしない。だからこそ、ひょっとして父は一向に振るわない成績に心底腹を立てているのではないか、と思うようになったのだ。申し訳なさと歯がゆさとが入り混じり、目線を下げてしまう。もっとやり様があったのではないか、徹夜するなりもっと努力すれば、悔悟の念に苛まれることもなかったのではないか。考えれば考える程苦しさは増すばかりだ。ごめん、と口を開きかけた時、父の声が機先を制する。
「で、順位表は?」
胸の中の感情が急速にしぼんでいく。手元の封筒から目当ての品を取り出して、父に渡す。
「そう、これこれ」
欄を辿る瞳は生き生きと、曇りが無い。見つめていると、首を回そうとしていた父と少しだけ目が合った。僕が昔から好きだった、泰然と揺るぎないその瞳は、なんとなくジュンに似ているような気がした。
不意にドアの開く音がして、過去との狭間で漂っていた僕の意識が現実に引き戻される。「遅かったね」
「こういうのって、気分が乗ってるときにやらないとうまく行かないでしょ」
「確かに、分かるかも。課題?」
「そういうわけじゃないけど、何となく」
スプリントがきしむ音がする。もぞもぞと布が擦れる音がして、エイミが掛布にくるまったのだと分かる。
「リクさんこそ、とっくに寝てるかと思ってた。眠れない?」
「ちょっと考え事してただけ」
「何、考えてたの」
「昔のこととか、色々ね」
「そっか」
四等星ほどの呟きが落ちる。しばしの間の後、電気消すね、とエイミが立ち上がる。次第に夜陰に目が慣れてきて、天窓から淡い銀光が漏れ込んでくるのが分かる。向こうからは早くも規則正しい寝息が聞こえてくる。ふと、彼女はどんな夢を見るのだろう、と思った。
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