第5話 霜柱

 締めに追われ多忙な師走も、クリスマスを過ぎれば落ち着きを見せる。休暇に入り始める人もいて、いつもなら硬質な雰囲気を醸し出す職場も、年末特有の高揚感に浮き立っている。

「あと三日、気張ってくれよ」

PC画面を睨み黙々とタイピングを続ける僕にはお構いなく、間もなく休暇入りする島崎がペンを弄びながら話しかけてくる。こんなとき、普段なら仏頂面を向けるか、はたまた無視を決めこむかだが、この時分はそもそもの苛立ち自体が和らぐので、そこまで不愛想な態度にはならずに済む。振り向いて、良い休暇を、と言って見せた僕に、島崎は一瞬虚を突かれたような顔になったが、次いで満足気な表情で去っていった。

庁舎も、街も、どことなく浮足立っている。この爛熟しきった空気感がずっと続けば、世の中はもっと平和だろう。

エクセルの最後のマスを入力し終え、窓の外を見やる。くすんだ白い空。向こうの方で発達しているらしい雪雲のような、湿り気のある冷たさを思わせる色が、茫洋と広がっている。

「それではお先に。良いお年を」

野太い声が課内に響く。小さな紙包みを大事そうに抱えて退庁する島崎は、いつになく子供のようにうきうきとした雰囲気を醸し出している。きっと、今夜辺り例のママのところにでも行って、プレゼントを渡すのだろう。包みの大きさからして、ジュエリーといったところか。

正面に向き直り、作業済の画面を見つめる。あの日以来、エイミとは会っていない。時折メールでアトリエへの誘いは来ていたが、業務の多忙を口実に当たり障りのない返事しか返していない。忙しかったのは事実だし、決して嘘ではない。だが、何も知らない彼女から労いの言葉が送られる度、胸の奥には罪悪感が夜更けの夜の雪のように積もっていった。


 目印の新聞社前でタクシーを降り、住宅街を進むと、梢が静穏な空気を震わせる。ヤブツバキが冬枯れの木立の中で静かに彩を放つ。昨日軽く降った雪の残りが融けた空気が、肌をひんやりと潤す。雲間から微かに覗く白光が時折椿の葉に光沢を与え、蜘蛛の巣の切れ端に囚われ揺れる紅葉の一葉を風と共に解き放つ。濡れそぼった枯葉に落ちた赤茶けた葉から引っ張り出された秋の記憶は五年前で止まっている。自転車を敢えて倒して置き、分け入った奥で眺めた赤や黄、橙の乱舞は見事だった。絵にしたくとも、あの時は一向に振るわない理数の成績をどうにかすることで精一杯だった。

 汗ばみ、強張った右手で引き戸を開けると、玄関にはすでに正月用の花が飾ってある。母の趣味だろう。子育てが終わって時間ができたから、と少し前から生け花を習い始めたらしい。ただいま、と声を掛けながらリビングのドアを開けると、炒め物のいい匂いが漂ってくる。ソファにもたれかかり何かの冊子を広げていた父が、つと顔を上げる。振り向くやいなや立ち上がり、そのままこちらへ歩み寄る。少し皺の入った目尻は、やんわりと微笑みを浮かべているようにも見える。

「少しも連絡寄越さないからどうしてるかと思ったよ。元気そうだな」

「うん。色々忙しくてさ――夏は帰れなくてごめん」

「ははは。まあ公務員一年目はそんなものさ」

父がぽん、と僕の左肩を叩く。久しぶりの感触に、右手の強張りが少し和らいだ気がした。

 半ば物置状態になっている旧自室で荷ほどきを済ませて下りると、母が出来立てのおかずをテーブルに並べているところだった。台所に行くと父が炊飯器からごはんをよそっていた。手伝うよ、と言うと、茶を用意するように頼まれた。薬缶を火にかけるのも久々だ。

出来合いの総菜でない夕食も久しぶりで、盛り皿の青椒肉絲に何度も手を伸ばしてしまう。

「何だかいいわねえ、家族団欒って感じで」

のんびりとした調子で目を和ませた母の横で、父も微かに頷いている。馴染んだ光景、馴染んだ味、馴染んだ声。身体の奥深くに染み付いた感覚とリンクして、体内時計が一気に巻き戻されていく。その中にあって唯一、話題の時制だけは戻らない。勉強のこと、クラスメートのこと、部活のこと、進学先のこと、バイトのこと、サークルのこと、公務員試験のこと、そして仕事のこと。中身は大して変わらないのに、その時々の環境や役割に合わせて面を作り、付け替えていく。

「人間関係はうまくいっているか?先輩に気に入られれば、後々出世にもつながるぞ」

「陸也なら大丈夫よ。学生の時だってお友達がたくさんいたって言ってたじゃない」

ねえ、と母に水を向けられ、慌てて灰色の塊を飲み込み、大学時代の面を引っ張り出す。

「そうだよ。週末になる度にサークル仲間やらゼミ仲間やらから飲みに誘われて、バイト増やそうかってレベルで大変だったんだから。お陰で、同じく公務員志望のやつと情報交換とかできたし、色々役に立ったよ」

まくしたてるように言うと、茶わんを構えた父が、満足気な表情を浮かべたのが見えた。畳み掛けるように「今の職場での模様」を話して聞かせると、父はいよいよ満足を深め、母は安堵した顔になった。かくして狙い通り、話題は僕以外のことに移った。

母の正月飾りづくりの話に時折相槌を打ちながらも、僕の頭の中は、久しぶりに大学生の面を着けたことの、後始末に追われていた。面に描いた自分と、面の下の自分が乖離すればするほど、装着にかかる気力も大きくなる。面通りの姿をうまく演じきったとしても、面の下の本体は変わらないはずだ。そう分かっているのに、気力が、体力がけずれる度、そがれた部分の穴埋めとして、代わりに何か別の、得体のしれない何かが入り込んでくるのではないか――その不安が、面を外した後は拭えない。特に「大学生」の面は顕著に出る。強い不安を知覚する度、いつか、自分本来のもの自体が、自分でも認識できないうちに、全く別のものに置換され、消えてしまうのではないかという、漠然とした恐怖が頭をもたげるのだ。気を紛らわそうとして盛り皿に手を伸ばしたが、こめかみにじわりと圧力がかかり始めたのに気づいた。

「どうかしたの?」

ピーマンをつまむ直前で箸を引っ込めた僕を、母がいぶかる。何でもない、と努めて明るく答え、僕は席を離れた。

便座に腰を下ろし、ドアを少し開いたまま深呼吸する。微かに臭気はあるが、拡張した血管を落ち着かせるのに支障はない。久々につけた「充実した大学生」の面は、思った以上にしんどかった。

両親の記憶にある僕の日常の姿は、高校時代が最後だ。中学入学当初はよく成績を褒めてくれた父も、年々文理の出来が開いていくのを見て、態度で明瞭に示したわけでは決してなかったが、どこか諦めの色を滲ませているように思えた。少なくとも、僕にはそう見えた。他方、ジュンと距離を置くために入部したテニス部では、所謂体育会系の人間関係にも対応可能な面を作って装着していたが、きっと父の目には、息子が人に揉まれ「本当に」成長しているように映ったことだろう。それは即ち、父にとっての「別の理想像」を満足させるものだったはずだ。もっとも当時はそのことには気づいていなかった。練習や部活友達のことなどを話すと、呆れた顔をしながらも、昔小学生時代の塾内模試で好結果を見せた時と類似した表情を見せたのを、内心不思議に思った程度だった。しかし、公務員になることを前提として選んだ進学先に無事合格した日の夜、少し酒の回った父が、普通の人間が組織で生き残っていくには人脈形成が最優先だ、その点お前は大丈夫そうだな、と言ったとき、僕はやっと、父がかつて僕に抱いた夢や希望がとうに打ち捨てられていたことに気づいた。だから、僕はわずかにつながった紐帯だけは残すべく、進学で親元を離れてなお父の中での新たな息子像を演じてきた。籠っていることが多くなったことで色の戻った肌や筋肉の落ちた細身の体格は誤魔化せないので、代わりにインドアでも華やかそうな軽音サークルに属していることにした。両親とも音楽は門外漢なため、追及されないだろうとも踏んだ。休みは基本サークルの合宿と嘘をつき、唯一冬休みだけは帰省するようにしていた。床屋に行くのも面倒で伸ばしたままの髪を結え、あくまでちゃらちゃらしていない程度に垢抜けた服をわざわざ買った。変貌した姿に両親は驚いていたが、サークルのインカレ交流がいかに健全で充実しているかを語ってみせると、二人とも、苦笑の裏に満足気な笑みが滲んでいた。その時も父は、コミュニケーション力こそ組織で生き抜く秘訣だ、と繰り返した。

そろそろ出ないと怪しまれる。一つ溜息をつき徐に立ち上がると、こめかみが波打った。ぎゅっと固く瞬きをして、眉間の靄を追い払う。

「長かったけど、大丈夫?」

リビングに戻った僕に、母が心配そうに声をかけた。

「何でもないよ。美味しくてつい食べ過ぎただけだから」

「そう? ならいいけど」

「もうさ、向こうに帰ってからスーパーの惣菜なんて、食べられなくなりそうだよ」

「ははは。母さんは昔から料理上手だからなあ」

父の上機嫌な声が呼び水となり、団欒の話題は母の料理レシピに移る。テーブル一帯が懐かしい色を取り戻したことに安堵し、僕は待機させていた面をそっと、意識の隅に収めた。


 大晦日、二三時五九分五九秒に臨界点に達した爛熟は、一呼吸もしないうちに、あっという間にしぼみ収束する。租界のような空気感から醒める、その一種の不気味な冷たさが嫌で、いつの頃からか、僕はあまり元旦が好きではなくなっていた。社会人になった今は、仕事始めまでのカウントダウンが加わるので、輪をかけて気が滅入る。唯一、母手作りのおせちだけは慰めとなってくれる。遥か昔、きんとん用に栗をつぶした時に添えられた手のぬくもりが呼び覚まされるからかもしれない。

「そういえば何か、学校からお前宛に来てたぞ」

雑煮とおせちを堪能し終え、記憶の余韻に浸っていたところで、おさがりの御神酒をちびちび吞んでいた父がそう言って、ふらりと立ち上がる。指でぶらりと挟んで目の前に置かれたのは、『同窓会便り』と銘打たれた封筒だった。定例会の案内だけなら表紙の頁を一瞥してすぐに捨てるのだが、今回の封書は妙に分厚く、つい頁をめくってしまった。創立百周年の記念号らしく、半分ほどは設立からの校舎や制服の変遷を写真付きで振り返っていく構成になっている。残りの半分には歴代卒業生の寄稿文が載っている。どこかで見た写真だな、と思っていると、選挙ポスターで見かけた国会議員の名前があった。他も医者や弁護士、大学教授など、錚々たる顔ぶればかりが集まっている。半ば気が失せかけながらも機械的に頁をめくると、そこに現れた人物に、僕は息をのんだ。

「ジュン――」

衝動的に呟くと、聞きつけた父がくいっと身を乗り出す。仕方なくしっかりと頁を開き、逆さにして向けると、父は卓の端のペン立てから虫眼鏡を取り出して読み始めた。

「お、能見君か、懐かしい。中学の学園祭で会った時は、お前とそっくりで驚いたもんだが――ほお、外務省。ということは官僚か、いや、すごいじゃないか」

そうだね、と即座に相槌を打とうと口を開く。だがそのたった四音節が喉から出てこない。じわりと胃が掴まれるような感覚と闘いながら、辛うじて表情を固める。そんな僕には構わず、父の褒め言葉は容赦ない。成績優秀、品行方正、容姿端麗と、賛辞の熟語がぽんぽん飛び出した。

 ふと誌面から顔を上げ、父が僕の顔をまじまじと見てきた。

「どうしたの」

「いや、相変わらずそっくりだな、と思って」

「そうでもないよ」

「そうか? しかし我が息子ながら綺麗な顔になったもんだ。お前、職場でモテるだろう」

「どうかな。分からないけど」

「はは。さてはもう少ししたら、お嫁さん候補でも連れてきたりしてな」

整った顔がにたりと歪む。やや弛んだ頬や目尻のしわ、白髪が年齢を感じさせるものの、いい具合に枯れて格好良いなと身内ながらに思っていた父の顔は、途端に下卑た赤ら顔に変貌した。はは、と詰まった声で笑い声を上げてはみたものの、込み上げる不快感がたまらない。洗い物を終えた母とすれ違い、僕はリビングを出る。あらどうしたのかしら、さてはもう彼女でもいるな、とからかい調子の会話が、閉まりかけのドアの隙間から追ってきた。

二階の元自室のベッドに、身を投げだす。今日に限って頁を開いてしまった自分が一番恨めしい。折角のおせちも、雰囲気ごと全て台無しだ。懐かしい記憶の中に浸っていたのに、完全に冷めてしまった。なんで今なんだよ――口に出すと、途端に自分が惨めたらしく思えてくる。

『すごいじゃないか』

今しがたの父の声が蘇る。あの賛辞が最後に自分に向けられたのはいつだっただろう。かつて、あの声で語りかけられながら一緒に学校案内を見ていたのは自分だった。学年一位の国語や社会を赤点ぎりぎりの理数系が足を引っ張る形となっていた成績表に苦笑しながらも、あの声で、頑張れと言ってくれたはずなのに。今の自分には、そんな声は一片だって与えられない。公務員試験に合格した時も、採用が決まった時も、良かったな、とは言ってくれたものの、祝意は微塵もなかったように思う。

『お前とそっくりで驚いた』

前髪を下せば一卵性と間違われるほどよく似た存在でありながら、一方は超優秀、一方は落ちこぼれ。望まぬ同一視を避けるため、高校デビューと称して前髪を切り、外向的な性格に変えた。テニス部で日焼けまでして、徹底的に違う人間を目指した。今思えばかなり無理していたのだが、父も母も、思春期だからと思っていたのか、何も言わなかった。おかげで大学入学後には反動が来て、必要最低限の人間関係以外受け付けなくなった。高校時代の交友関係は、スマホの買い替えを理由に全て切っている。成人式後に一度同窓会が開かれたようだが、多忙を理由に欠席した。かつて毎日のように汗を流したクラブメイト達との繋がりは記憶の中にしか存在しない。彼らが今の僕を見たら、成績優秀で有名人だったジュンだと言うかもしれない。エイミが描いた似顔絵ですら、見た目だけはそっくりだった。

 僕はジュンの外面コピー品。混沌からこんな言葉が出てきた時、急に薄ら寒いものが胸中に立ち込める。僕自身と言えるものは、どこに残っているのだろう。学校で、職場で見せているのは、それぞれに合わせて作り上げた面だ。壊れたり失くしたりしたら、個々の場所にいた『上林陸也』という人間は消えてしまう。他方で面を外した僕は、あくまで『能見純哉に似た人間』として、彼との比較対象としてしか扱われない。

 どうしてジュンとそっくりに生まれてしまったのだろう。何故ジュンのようになれなかったのだろう。僕はただ両親の言う通り努力し人生を送ろうとしただけだ。頑張れば綺麗に積み上がると思っていたレンガは、どうやっても場所ごとで異なる完成度場所ごとで全く異なる完成度のため斉一さを欠いている。端然と、静穏な心持ちで、淡々と進むことを目指していたのに、気づけば虚ろな胸中のあちこちでヘドロが臭気を放っている。美しい理想は記憶の中の昔日にしかないというのに、どう足掻いてもあの頃の自分には戻れない。当たり前の事実が、どうしようもなく不条理だ。そう感じる自分に対しても無性に腹が立ち、右拳をわざと机の角にぶつける。張りつめた感情が痛みによって一瞬だけ緩んだが、眼前に浮かぶジュンの顔に、すぐに苛立ちの矛先が向いた。

――君のせいだ。全部、君がいるせいだ。

どんなに罵っても、彼の表情は変わらない。夢でも現実でも、ずっと飄々とした表情で遠くを見つめている。達観した視線の先にあるのは僕ではない。本当に頭の良い、老成したような風情を醸し出す彼にとって、僕が向けるこんな劣情は哀しみでこそあれ、囚われることは決してない。

――分かっている。彼は何も悪くない。一方的に、僕が自分の感情を押し付けているだけだ。いつだって、そうなのだ。

 内外に幾度となく攻撃を繰り返した脳は、伸び切ったゴムのようにくたびれている。背もたれに上体を預けると、窓から淡青の空が見えた。一片の雲もない均質な空は、夏にエイミのアトリエの裏山で見た空を彷彿とさせる。吹き渡る風に、揺れる萱野。パステル調の画面の真ん中を、ユニコーンが駆ける。あの夏休み、彼女が制作した油絵は学祭展覧会で最優秀賞を獲り、同じ場所で描いていた僕の絵は未だ完成すらしていない。

『いいね、これ』

彼女は、僕の絵を見てくれた。学生の描きそうな絵、公務員の描きそうな絵などというものはない。カンヴァスだろうが画用紙だろうが、少なくとも描いている間だけは面は着けていなかった気がする。そう思うと、内腑の奥底に熱が溜まってきたように感じた。

熱に動かされ、部屋の隅に置いたスーツケースを詰め始める。手土産分のスペースが空いたので、比較的短時間で準備することができた。キャスターを肩から引っ提げにわかにリビングに現れた僕に、両親は唖然としていたが、大学時代の友達に遊びに誘われたからと言うと、呆れた顔になり、笑った。ソファから立ち上がった父がこちらに歩みより、ぽんと肩を叩いた。小学校時代の、懐かしい癖。だが期待感や励ましは消失し、ただ惰性でしているのではないか。そう思うと、楽しかったはずの思い出すら侵食されていくように思えた。臓腑の奥で、溜まった熱が騒ぎ出す。表出しないよう右拳を握りしめ、何事もなかったかのような笑みで玄関へと歩き出す。送って行こうか、と母の足音が追ってきたが、大丈夫、と振り返らずに手を挙げた。

 

 からりと晴れた昼下がりの駅前には、年末から続く享楽に倦んだような、退廃的な空気が漂っている。部屋の冷蔵庫が空だったのを思い出し、途中のコンビニに寄る。がらんとした店内に、小さな子特有の甲高い声が響いている。見ると、お菓子棚の前で、三、四歳くらいの小さな女の子が部屋着につっかけ姿の父親らしき人の腕にまとわりつき、きゃっきゃとはしゃいでいる。父親が提げているカゴにはさきイカと柿ピーが入っている。その上に女の子が棚からグミの小袋を入れ、父親は苦笑しながら頭を撫でた。僕はチルド売り場に移動しつつ、仲良くレジへと向かう大小の背中を横目で見送る。純粋な感情の表出。だが、十年後には感情を隠すことを覚え、二十年も経てば、感情とは無関係に必要な表情が作れるようになるのかもしれない。外見も中身も、人間は時とともに変容する。ずっと先、未来でも、あの父親は同じように娘に慈愛の眼差しを向け続けられるのだろうか。

 焼きそばやら、メロンパンやらを入れた袋をキャスターに引っ掛け、開錠する。数日ぶりに戻った部屋は爛熟した空気で圧迫されており、僕はすぐさま窓を開けて追い出す。マットレスに胡座をかき、ホットコーヒーで胃を温めつつメロンパンを頬張ると、実家を出てからここまで張り詰めていた神経がようやく緩んだ。

――ジュン。

緩みでできた隙間から、ジュンが静かに姿を表す。深い森の湖のように静謐な顔から特定の感情は読み取れない。瞳には僅かに物憂げな色が沈んでいるように見える。つい今しがたまであれだけ激しい感情を抱いていたのに、途端に胸が締め付けられた。そう、いつだって君は変わらないままだった。

――君のせいじゃない。僕が一方的にそう思っているだけだ。

目の前の瞳が揺れ、色の沈殿が解ける。僕の脳裏に、織り込まれた記憶が立ち上る。図書室の窓辺、背表紙を突き合わせながらジュン一推しの川端作品を読んだこと、ホームルーム前、化学の宿題の質問をしていた時に、前髪がしっとりと揺れたこと。起きている時にこうして思い出すのは、自分の感情と現実の符合がまだ保たれていた中学の頃の記憶ばかりだ。

――あの頃は楽しかったね。

解けた色のうち、一つがすっと表に出てくる。日差しの融けた黄金の雫が、エイミと過ごしたアトリエでの夏へと誘う。むっと立ち込める油絵の匂い。僕は卓に手を伸ばし、スケッチブックを掴む。うっすらと被った埃を払い、紙面をめくっていくと、あの時の夢に辿り着く。月光に浮かび上がる木立、すり抜ける影。アトリエで画面に向かっていた時の感覚が呼び覚まされる。夢の記憶が鮮明になるにつれ、淡い黄色は横から他の色にとって代わられる。青緑や紫といった色が混ざり、再び瞳は混沌と化す。めくり進めると、中途のままの下絵が現れた。あの学祭以来ずっと描けなかった、夢の終わり。中央にぽっかりと空いた空間は、こちらを振り向いた月読の姿を描くつもりだったが、表情を捉えられずにそのままになっていたのだ。

 メロンパンの最後の一欠片をコーヒーと共に胃袋に収めた僕は、その空白の紙面を膝に乗せ、卓の端から鉛筆をつまみ上げる。描けそうだと思っても、いざ構えるとまとまりを欠いたままのイメージは投影できない。それでも描くなら今しか無い、という根拠のない確信に動かされ、半ば無理やり手を動かす。卵形の綺麗な頭、華奢な肩に首筋、しなだれる柔らかな後ろ髪、振り向きざまに揺れる前髪――記憶の中の姿を指先に乗せる。当初は考えながらやっと線を出していたが、描き進めるうちに頭の中の造形は鮮明さを増していき、やがては考え出す必要もなくなった。だがやはり、残るは顔だけとなった時、手が止まった。ジュンの、あの複雑な表情。達観、超越。その一方で、日々積み重ねられる一人間としての性質の渦中での懊悩。自分の咎ではないにも関わらず、僕や外部の人間から向けられる諸々の思いに晒された彼もまた、己と向き合わねばならなかったはずだ。「友人」との日常を楽しんでいただけだったのに、「友人」の一方的な変化のわけを自問し、向けられる感情に耐えなければならなかった。再び元通りの関係を取り戻したかったかもしれない。しかし内省的な彼は、ただその姿を目で追うことしかできなかった。やがて修復が無理だと悟った時には、諦めることを選ぶしか出来なかったのかもしれない。そう考えると、飄々として見えた彼もまた、僕と同様に、人間の感情に振り回されたとも言える。だが僕と彼とは、感情を超越したか、感情の泥沼でもがき続けているか、という点が明確に異なっている。見た目は酷似していても、僕の中身は粘様のるつぼとなっている。羨望や嫉妬、純な親愛、後悔、罪悪感の入り混じった、暗赤色。堕ちるほど、光に焦がれ、それが更に自分を縛っていく。彼の人間性に何らしかの瑕疵があれば楽だったのに、何一つ見出せない以上、全ては自己の行動が招いたものに他ならない。

 右手をいつの間にか握りしめていたらしく、鉛筆の軸は生ぬるく汗ばんでいる。逡巡を繰り返し続けた脳はくたびれたようで、額にやった手の甲にじわりと熱が伝わる。一息入れようかとも思ったが、雑念は内胕の熱によって瞬時に散らされた。

 浮き上がった空白。描き切ろうという意欲はかつて無いほど高まっているのに、いくら考えても顔の確信は持てない。ふと、積まれた文庫本の下にはみ出たクリアファイルに目が留まる。引っ張り出すと、透明な仕切りの向こうから、「ジュンのような人物」がこちらを見つめている。エイミが、マグマ溜まりと評した似顔絵と、画面の空白とを見比べる。昏い熱気と、真反対の静寂――それは透明な板から覗く人物の対岸にいる。

 似顔絵を卓に戻し、目を瞑る。暗闇の中、白銀の髪を靡かせながら、ジュンがこちらを振り向く。伏せられた長い睫毛も月光に染まり、高すぎず、通った鼻筋が品よく主張している。瞼が押し上げられ、睫毛がふるりと解ける。覗く瞳は水晶のように澄み、六面体の鋭さと加工された玉の柔らかさを併せ持っている。すっと引かれた薄い唇は、微笑みと無関心の境界の象意だ。

 ぱち、と一つ瞬きをして、僕は紙面に視線を落とす。右手を構えると、籠った熱が芯の先から紙に伝わっていく。直接絵とリンクする感覚が、縛り付ける重力から僕を解き放つ。



 ついこの前まで葉ボタンの寄せ植えだった庁舎入口の花壇は、新春の陽光を浴び、つんと澄ましたラッパ水仙が鼻柱を天に向けている。大体毎月、園芸業者が時期の花々の寄せ植えを取り換えている。花が変わる度、役目を終えたほうの行く末はどうなるのかと、妄想の中で密かに気にしている。花が終わっても、彼らには実をつけ、種を落とし、命を繋いでいける。その可能性を人間によって奪われているのだとすれば残酷だと思いつつ、その命を都合よく利用することで生きられる人もいるのだと考えれば、その行為を否定する権利は誰にもない気がする。

 エレベーター待ちの間、鞄からスマホを取り出すと、新着メッセージの表示があった。

『大丈夫だよ。じゃあ土曜日に駅で待ってるから』

変わらない調子の文面に、僕はほっと胸を撫で下ろす。学祭からこのかた、多忙を理由にずっと彼女から距離を置いてきた僕が、臆面もなく、また会いたいなどと言い出していいのか。家を出る前にメールの送信ボタンを押してからずっと、モヤモヤとしたものが胸の中に立ち込めていたのだ。

 自分の席につき、PCを立ち上げていると、横から甘ったるい薫りとともに、同期が身を乗り出してくる。

「これ、お土産」

はい、と小さな、けれども高級そうな手提げを渡される。薫りに劣らず甘ったるい声に、マスク下で呼吸が浅くなる。

「実家近くの和菓子屋で売ってるの。限定品だから、上林くんだけ、ね」

「こんな――僕には勿体ないですよ」

そう言って断ろうとしたが、いいの、と押し付けられる。声がよく通るので、押し問答になって目立つのも面倒だ。仕方なく受け取ると、突如、色素の薄い目がずい、とこちらに寄せられた。何か、と尋ねると、ぽってりした唇が開く。

「何だかご機嫌ね」

そう言うと謎めいた笑みを刷き、彼女はヒールを鳴らして去っていった。顔が強張るのを感じつつも平静を装い、僕はホーム画面に向き直ると作成途中の起案文書を開く。疼き出した右手をデスク下で強く握り込むと、程なくしてチャイムが始業を告げた。


 白光が線路脇の雪塊をちろちろ溶かし、山茶花の葉先には小さな虹色の雫が際どく留まっている。濡れそぼった畝の稲藁で雀たちが時折遊んでいる。遠くで、ところどころ薄化粧を残した冬枯れの山が、コバルトブルーの鮮やかさを際立たせている。

「待った?」

心地よい低めの声に振り返ると、グレーのチェスターコート姿でエイミがにこやかに立っている。黒目がちな瞳が日を受けて雪解け水のように潤み、冷気を含んだ白い肌に馴染んでいる。

「ううん。今着いたばかりだよ」

程よく鄙びた道を並んで歩く。風が通ると、枯れたススキの穂が揺れる。横目に、彼女の腕が動く。伸び気味の前髪を鬱陶しそうに流す仕草が可愛らしい。小綺麗な家々の合間、一本道の私道を抜けた先に、変わらずログハウスが静かに佇んでいる。前庭の入り口には濃桃色の山茶花がしっとりと咲き乱れている。プランターには雑草もなく、手入れが行き届いている。建築士である彼女の叔父の知り合いが、定期的に整備しているらしい。

 サッシを開けると、油絵の懐かしい匂いが鼻腔に満ちる。真っ黒に塗られたキャンバスに、ビル街が白やグレーの濃淡の線で描かれている。窓への反射光、各光源までもが全て幾何学的に表されている。線の交錯から編み出される複雑な構造にしばし圧倒されていると、横からコートのあそびを引かれる。

「進級制作。『線の構造』ってお題があってね」

「すごいね。またコンペとかに出せそうだ」

「それより、ほら」

エイミが僕の腕を引っ張る。リビングに上がると、ちょっと待ってて、と彼女は背を向け台所に立つ。コートの下から出てきたアイボリーのオーバーオールにはあちこちに絵の具が散り、あたかも元からのデザインのように似合っている。短かった髪も、いつの間にかフードにかかるほどになっている。シュンシュン、とやかんが音を立て、程なく香ばしい薫りが漂ってきた。

「うちの叔父さんがいいコーヒーを差し入れてくれたのよ」

目の前に置かれたマグから、香気が立ち上る。いつものインスタントとは別格だ。湯気を吹きつつほんの少し口に含むと、まろやかな苦味が鼻腔に抜けた。彼女も自分の対面に腰かけ、同じようにマグに顔を埋める。

「そうだ、これ、職場でもらったんだ」

椅子の背に掛けたリュックから紙手提げを出す。職場の同期からの、お土産の和菓子だ。箱を開け、個包装を一つ取り出すと、エイミの前に置いた。

「綺麗なお饅頭」

薄桃色の唇が真っ白な饅頭の皮に、嬉々として近づく。唇の合間に象牙の前歯がチラリと覗く。一口含むなり、甘いもの好きな普通の女の子の顔になり、瞳が輝いた。


「そうそう、今日は見てほしいものがあるんだ」

二つ目を食べ終わり、コーヒーで十分に暖まったところで、僕はリュックからスケッチブックを取り出す。頁をめくってエイミの前に差し出すと、瞳を鋭い輝きが一閃する。その表情は既に、甘味を愉しんでいた時のものではない。煙る睫毛の下で、対の黒曜石が画面を射る。じっくりと吟味し、細い指が丁寧に頁をめくる。場を支配する沈黙。逃れようと、僕は庭に面した窓に目を向ける。陽光の中、白の山茶花が凛と開いている。ベルベットのような純白の花弁に光が当たると、肌理に細かく散らされたプリズムが見えるのだ。昔、家の近くの雑木林で発見した、この花の新たな楽しみ方である。

 つと視界の端が動いた気がする。慌てて視線を戻すと、弾んだ声が上がった。

「素敵! これはいけるんじゃないかな」

「いけるって――」

「コンペだよ、コンペ。ねえ、一緒に応募しようよ」

低めの声が上ずっている。心なしか頬も紅潮し、先ほどまであれほど鋭かった瞳は、黒真珠のような柔らかさと艶を見せている。

「そんな、褒めすぎだって」

賛辞をもらうことを予想していなかったわけではない。未消化のままくすぶっていた夢の情景に、時間はかかってしまったけれど、画用紙を通じてようやく向き合うことができた。ところどころ曖昧になった部分を敢えて空白のまま遺すことで、幻想的な感じを際立たせられたと思う。焦点を当てたい箇所は緻密に描き込んで着色し、他の部分との対比を鮮明につけてみた。仕上がった時には、我ながら出来栄えに胸を躍らせた。ただ一つ、瑕疵というか、迷いというか、そういうものがあるとすれば、それはやはり彼の顔かもしれなかった。あの時の運筆が、彼について僕が想起しうる側面を内包できるものだったか――そう問われると、未だに分からない。確かに、一時は激しい嫉妬を覚えた。僕には与えられない父の声、眼差し。それらを惜しみなく与えられながらも、写真の表情は飄々と変わらないことが無性に歯がゆかった。行き場のないやりきれなさが身体の奥で爆ぜ、怒張した血管の下、体液が沸いた。けれど一旦沸騰が収まると、今度は静寂が重苦しく全身にのしかかってくる。彼に対する明確な罪悪感と、まっとうな人間らしい反応を喪っていないことへのある種の安堵とがないまぜになる。その狭間で生まれた表情なのだ、答えが出ようはずもない。

元々ない答えを、求めているのかもしれない。たとえその裏付けが彼女からの肯定だけだとしても、僕の現状には絶対的に必要なものだった。だから単なる肯定を超えた予想外の賛辞とその先の提案に、思わず面食らってしまった。

「本当に?」

恐る恐る訊くと、彼女は自信をうかがわせる表情で応えた。黒真珠が一層艶めく。

「勿論だよ。リクさんだってそうでしょ? いい絵が描けたと思ったから、見せてくれたんでしょ」

「まあ、そうかもしれないけど」

「そもそも、自分の納得がいく出来なら、それでいいのよ」

お代わり淹れてくるね、と 彼女はキッチンに立った。シュンシュン、と薬缶が鳴り、湯気が立ち上る。脳内で、先ほどの彼女の言葉が反響する。納得のいく出来ならそれでいい――あの瞳で言われたら、あっさりと納得してしまいそうになる。でも、それは彼女だからこそ当てはまるものである。有名美大に現役で進学し、高名な教授たちの元で研鑽を積み、学祭展覧会でも最優秀賞を受賞するような、才気に溢れたエイミ。そんな彼女の「納得」と自分の基準は同レベルではない。彼女から褒められたのだから、自信を持っていい気もするが、一方で、今彼女の目に映るものが、後になってみるとただの錯覚であったと言われる可能性がないとは限らない。

「どうしたの」

気付くとマグを手にした彼女が横に立っていた。目の前に置かれたマグの縁で、香ばしい湯気がちろちろと踊っている。

「いや、やっぱり応募なんて大それたこと、しない方がいいかと思ってさ」

僕の呟きにすぐには答えずに、彼女は対面の席に戻る。マグに口を寄せ湯気を吹き飛ばすと、緩やかに手元を傾ける。白い喉がかすかに上下し、マグが離れる。露わになった口元から、その表情は読み取れない。がっかりしているようにも見えるし、諦めているようにも見える。薄桃色の唇が開きかけている。どんな言葉が紡がれるかと待っていたが、開いたかに見えた唇は再びマグに寄せられた。

「僕は君みたいに才能があるわけじゃないからさ」

何の言葉もかけてくれないことに苛立ちめいたものを覚えた僕は、半ば言い捨てるように呟き、自分の分のコーヒーを飲み始める。一杯目よりも苦い。もう何度かここでコーヒーをご馳走になっているが、エイミが淹れると総じて濃いめになる。ドリップなのと、コーヒーの質そのものがいいので不味くはならないが、粉の分量が多いのだろう。インスタントコーヒーだと失敗する、と言っていたのも頷ける。

「私に才能があるかなんて、そんなの誰にも分からないよ」

つと顔を上げて、彼女が言う。

「最優秀賞を獲ってる人が、何を言っているんだか」

何でもなさそうに言われ、少しむっとする。僕の目には、他の作品もどれも遜色ないものに見えた。謙遜が過ぎるとかえって惨めになり、余計に苛立ちが募る。じくじくとした僕の反応とは裏腹に、エイミは澄んだ黒曜石の瞳で真っすぐにこちらを見つめてくる。

「本当のことだよ。この美大でなければ、あの教授でなければ、虚仮にされていたかもしれないんだし」

「そんなことは」

「芸術に基準なんてない。まず作るの。評価の基準や分類は、後になってつけられるものでしょ」

「まあ、それはそうだけど」

彼女は再びマグに手を伸ばし、静かに傾け始める。胸の内にモヤモヤしたものを抱えながら、仕方なく僕もコーヒーを啜る。口に広がる苦味が、毛羽立った思考を少しだけ整えてくれる。


 すっかり紺藤に染まった車窓から、流れるビル群をぼんやり眺める。人工の光が途切れた合間、時折ほの白い花枝が浮かぶ。もう梅の咲く季節になったらしい。春に向け、季節は少しずつ、確実に進んでいる。僕が何をしても、しなくても、変わらず時間は進んでいく。そのことを自覚すると、目の奥につんと、切なさと哀しみが走った。脳裏に、少し前に別れたばかりのエイミの姿が浮かぶ。同じ時を過ごしていても、彼女は常に前を見ている。もはや景色にすらなっていないところであっても、突き進んでいく。人間である以上、先の見えない恐怖に駆られることもあるだろう。けれど、そうしたあらゆる感情とも逃げずに向き合い、作品を生み出すことで、前に進んでいる。時間や世界の過ぎ方がどのようであれ、構わずわが道を行く、芯の強さ。僕にはないものだから、余計にまぶしく感じる。自分が避けてきた、選択の勇気。それを直視させられたから、あんなにも苛立ちを覚えたのだろう。結局、変わりたい、前に進みたいと思いながらも現状変更への不安に囚われ続ける、僕自身の問題なのだ。そのことを自覚するとまた、目の奥がじんと疼いた。その感覚から逃れ、紛らわすように、僕はポケットからスマホを出す。履歴からエイミのアドレスを呼び出すと、勢いのままに打ち込み、送る。

『応募、やっぱりしてみるよ』

アトリエを出る時、カンヴァスに立ち向かいつつ見送ってくれた姿を思い出す。即座の返信は期待できない。そう分かっていながら更新マークを押してしまう自分は、情けなくも、同時にある種の可笑しさすら感じる。

シャワーから上がり、シンクの縁からスマホを取り上げると、ロック画面にエイミからのメール受信が表示される。良かった、と一言、記載のURLを開くと、コンペ主催側の公式サイトに飛んだ。過去の受賞作品を見ていると、業界人でない僕でも知っているデザイナーやアーティストの名前もあった。思っていたよりもずっと大々的だ。足がすくむような感覚を覚えた時、エイミから追いメールが届いた。

『応募、私も手伝うから!』

今の僕の反応を見透かしたかのような文言に、苦笑する。シャワーを浴びてさっぱり気分転換とは実に古典的なやり方だが、案外効果はあるようだ。冷静、とはいかないまでも、昼間のとげとげしさは鳴りを潜め、彼女の言葉も少しはすんなりと胸に馴染む。彼女の言に乗るのも悪くはない。乗る、というより、言葉を信じて浸る、という方が正しいかもしれない。彼女が無意識に放つ、力。渦中にいれば、彼女が見ている景色を、僕も見られるかもしれない。それが如何様であれ、景色を、認識を、共有できることは、きっと幸福だろう――そう思った。そう信じたいと、願った。


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