第4話 秋風

 複数線が乗り入れる構内はひっきりなしに人が行き交い、駅前の大通りも賑わっている。エイミの通う美大は、その喧騒を抜けて橋を渡った一角に所在する。付近には学校や由緒ある寺院、自然公園などもあり、比較的閑静とされるエリアだ。しかし、事前に聞いていた通り、今日は文字通り「祭り」の様相を呈している。駅から橋、その向こうに至る人の流れができており、方向音痴の僕でも地図アプリを使わずに済んだ。中高生やその保護者だけでなく、自分と同じ一般客らしき姿も多い。流れに乗って進むと、青銅色の唐草模様の柵と銀杏並木の合間に、トレードマークの瀟洒な洋館が覗く。建物自体も文化財であり、かつ中には大学が所蔵する、これまた文化財級の絵画や骨董が収められている。普段は非公開の逸品、珍品がこの二日間だけは拝めるとあって、それ目当てに来校する人も多いのだ、とエイミが言っていた。

 突き当たりの角を曲がると、そこは租界だった。奇抜――だが決して無秩序な暴走ではない。普段制作者の意を代弁する存在である色が、各々自律的に動いている。それが制作者自身の個性と混ざって、高め合い、来場者をも飲み込んで躍動する様は、神秘主義の儀式さながらだ。身体の奥深くから湧き上がってくる熱に、僕は右手を強く握りしめる。とそこへ、ポップ調の音楽に乗って現れた数人の集団に、たちまち人だかりができる。全身白タイツ姿の学生たちが、リズミカルに道の真ん中を練り歩く。各々の手には筒状のものが握られている。流れているリズムが変わったところで、彼らの姿が消える。しばらくして元のリズムに戻ると、またどこからともなく、通りの真ん中に集結し、練り歩く。よく見ると、タイツに色がついている。ボディペイント、フラッシュモブのアート版ということか。面白いな、と思いつつ歩を進めていると、いつの間にか例の集団が近くにいた。折しも曲調が変わり、振り向いた一人と目が合う。学生が近寄ってくる。おずおずとした微笑みに続き、高めの声が自らを指差して絵付けを頼んできた。早くも余白の乏しいタイツには、イラストやら文字やらが色とりどりに書き込まれている。どこでも何色でも何でもご自由に、と学生は手にした筒を差し出す。黒水彩筆を選ぶと、僕は今一度学生を眺める。性別は分からなかったが、声のトーンと華奢な身体つきからして、女性だろう。どこでも自由にと言われたが胸の真ん中は流石に気後れし、他に比較的空いている左肩部分に手早くユニコーンを描く。時折ピクリと震える肩が、生物を主張した。描き終え筆を返すと、肩の辺りを見たその学生は一瞬目を丸くした後会釈すると、仲間たちの元へと戻っていった。

 通りの終点に、一際大きなガラス張りの建物――新館がそびえている。日本画、洋画、彫刻等各種展覧会の看板が掲げられた入り口は、すでに大勢の人で賑わっている。学校説明会もこの建物で行われているようで、制服姿のグループも多い。

「待った?」

上ずった低音に振り向くと、少し肩で息をしながら、エイミが立っていた。紺色のデニムに白いブラウスがよく似合っている。そよぐ風に黒髪がさらりと靡いた。

「今来たばかり。なんか、大丈夫?」

「博物館案内の当番が長引いちゃって」

じゃあ行こっか、と秋晴れに負けない笑みに連れられ、僕は中へと入る。ガラス張りの建物内部は思った以上に明るい。今日のような恵まれた天気の日は特に開放感に溢れている。各室ごとに異ジャンルの展覧会が開かれているようだ。それぞれに趣向を凝らしたウェルカムボードが目を引く。そうこうするうちに、銅板に統一感のないフォントで「油彩、アクリル」と彫られたボードが現れる。どの展示室も賑わってはいたが、ここは特に人の入りが良い。

入ってすぐの受付で、可愛らしい女子学生が迎えたが、エイミの顔を見るなり、なぜか神妙な面持ちで目を伏せる。しかしすぐ横に僕を認め、ぎこちない笑みで会釈すると、パンフレットと小さな紙片を差し出した。

「こちら、今回の出展作品になります。それぞれ題と使用画材が記載してあります」

「ありがとうございます」

「宜しければ、本会場内で一番印象に残った絵の題をそちらの紙にお書き頂き、お帰りの際に出口の箱に入れて頂けますと幸いです」

いってらっしゃいませ、と送り出され、すたすたと先導するエイミの背を追う。足を踏み入れ、僕はさっきまでの自分を叩いてやりたくなった。そもそもネームバリューのある学校なのだ。これだけの集客力からして、この美大の影響力の凄さは分かる。フラッシュモブでのボディペイントも面白かった。とはいえ所詮は大学生の展覧会だ。モラトリアム特有の爛熟した明るさで満ちているもの、と疑わなかった。だが今、僕の周りで渦巻く空気は、大学生像自体を覆すような、全く異質のものだった。色合いも、タッチも違う。具象、抽象、もはやその区分すら意味を成さないようなもの。全てがそれぞれに異なった情念の塊を抱いている。解き放ち圧倒するもの、自らが絵の一部ではないかと錯覚するほどにこちらを引き込んでくるもの。

――これが芸術か。

胸中の吐露は体内で跳ね返り、何度も突き刺さる。ふと、肩口に並ぶ小さな頭に目をやり、次いで細い撫で肩、アームバンドの縛り痕と思しき荒々しい皺、袖口から半分だけ覗いた白い手へと辿る。内からの莫大なエネルギーを、華奢な腕や指先がキャンバスへと導き、昇華させる。

「じゃあ、リクさんにはどれが私のか、当ててもらおうかな」

入り口から少し進むと現れた広々とした一角で、エイミが僕を見上げ、悪戯っぽく笑う。

「夏に描いてたやつだよね?」

「そう。だけどはじめの頃とは変えてるから。頑張ってね」

そう言ってエイミは愉しそうに笑った。

 人々の頭越しに、徐に室内の絵を見渡す。素人に毛が生えた程度の僕にとっては、どれも一様にすごいものに見える。次いで、人の流れに交じり、近寄って鑑賞する。エイミも傍にぴったりついてくる。アトリエで覗いたカンヴァスが浮かんでは、消えていく。そもそも絵のタッチに個癖はどのくらい出るものなのか。技法を変えれば幾らでも違って見えるのではないか、だとすれば彼女の過去作品と対比させても無意味ではないか。通り過ぎた作品たちは、それぞれが、観る者に感銘を与えられるだけの力を持っているように思えた。横目でちらちらエイミの様子を窺うも、表情の動きは読めない。コーナーまで来てしまった。あと半分。人の流れが滞っているところがないかを見ようとするが、彼女がこちらを窺っているような気配がして、慌てて絵に視線を戻す。半歩、また半歩。人の流れはゆったりと、澱みなく流れる。

 流れに従い、ゆるゆると次の絵の前に立つ。『光の街』という題とは裏腹に、背景色の黒や灰色が画面の大半を占める。その中にビルと思しき直線的な構造物が緻密に描き込まれている。白から灰色のグラデーション様の無数の線が紗となって画面を覆う。数箇所、構造物間での跳ね返りを繰り返して複雑な模様を織り出している。それらがモノトーンな画面に駆動感を与える。つんつん、と腕を突かれる感覚がして、自分がいつの間にか大きく身を乗り出してしまっていたことに気づいた。

「ちょっと、近づきすぎ」

「ごめんごめん」

袖口から手を放したエイミは、やや眉根を寄せている。その表情はむくれているようにも苦笑しているようにも見え、僕の脳内を撹乱する。再び緩やかに進み始めた人の流れに身を任せた。

 結局、どれが彼女の作品か、確たるものを得られないままに見終えてしまった。僕が見惚れていたのは他人の作品だったのだろうか。仮にそうだとしたら、残りの絵の中で彼女の絵らしきものはあっただろうか。確かにどの作品も賞賛を浴びて然るべきものばかりだった。事実、回っている間、賛辞や感嘆の声が何処かしらから絶えず聞こえてきていたのだから。だが、僕にはどうしても、あの『光の街』以上のものはなかったように思えてしまう。

「さあ、ジャッジタイムだね」

クイズ番組の出題者よろしく澄ましてのたまうエイミをじとりと一瞥し、僕は出口付近の長机に近寄る。筆立てからペンを取り、構えたはいいものの、なかなか一画目を書き出せない。隣では制服姿の女子高生が備え付けの感想用紙に一心不乱に書き付けている。投票は既に済ませた後なのだろう。何かヒントになりそうな文言がないかと、横目で覗こうとしたが学生の横髪に阻まれてしまった。行きつ戻りつの予備動作を数回経て、やっと縦棒を引くことができた。書き始めてしまえば、あとはペンが勝手に動いてくれる。

 書き終えた紙片を半分に折り畳み、出口の白いボックスに投じる。見送りの声を背に受け展示室を出ると、先に出ていたエイミが近寄ってきた。

「近くに良いカフェがあるんだけど、これから行かない?」

「当番とか、あるんじゃ」

「夕方の打ち合わせまでは暇だから、大丈夫」

エイミに連れられて、新館の奥へ伸びる小道を進む。黄金に色づいた銀杏並木と秋晴れの対比が実に鮮やかだ。通用門を抜けると、自然公園の裏手らしき場所に出る。使える路線は限定されるが、ここからの方が別の駅には近く、なおかつ静かであるため、彼女はいつもこちらから通っているらしい。吹き渡る風と、公園や小道の木々の葉擦れは耳に心地よく、何となくエイミのアトリエの裏山の音に似ている気がした。

「ここのケーキ、すごく美味しいって評判らしくて。特にバナナケーキが絶品らしいのよ」

脳裏に浮かんだ夏の記憶を愉しんでいると、エイミが振り返る。古民家風の一軒家の門扉には、いかにも手作りといったふうの看板が掛かっている。足を踏み入れると、鄙びた風情の内装とは裏腹に、なかなか盛況だった。待たされるかと思ったが、ちょうどカップル客が退席したところだったため、すんなり座ることができた。しばらくして、落ち着いた和服姿の店員が注文を取りに来た。宣言通りに、エイミはバナナタルトとカプチーノを、僕は最後まで迷った挙句、苺のショートケーキとブラックを頼んだ。

「ショートケーキも乞うご期待、だよ」

エイミがそう言って、にっこり笑った。

 ケーキとコーヒーが運ばれてくる。木目の美しい木皿に載った、シンプルな形に思わず頬が緩む。手削り感のある木製のフォークで一口含むと、バターの香りと程よい甘さと酸味が口に広がった。エイミはというと、小さなラウンド型のタルトにせっせとナイフを入れている。一口サイズに切り分けると、用済みとなったナイフをお盆の縁に置き、一切れ口に運んだ。咀嚼を始めてすぐ、彼女は目をぎゅっと瞑り、閉じた唇を打ち震わせた。上ずった声音で、美味しい、と呟く様は、とても先ほどの展覧会で見たような作品を描く人物と同じとは思えない。ふと、エイミが顔を上げる。僕はそそくさとカップを手にし、啜った。熱塊が舌先に触れ、声を上げそうになるのをかろうじてこらえた。角になったクリームを口に含むと、少しだけ落ち着いた。

「そういえば、君の絵は結局どれだったの?」

舌先の痛みを誤魔化すように問いかけると、エイミは手にしたフォークを皿に置いた。添え付けのナプキンで軽く口元をぬぐうと、彼女は澄んだ光を湛えた瞳で、まっすぐこちらを見た。

「リクさんは、どう思ったの」

「そうだね――なんて答えればいいか」

「なんとなくの、雰囲気でいいから」

目の前の光がさざ波を立てている。胸のうちで深呼吸すると、僕は虹彩の中を見つめた。輝度を増した漆黒は、どこかアンバランスな色味を内包している。思い切って作品名を告げると、錯覚とも思えるその色は、ゆるゆると深い水底に沈んでいった。

「見分ける知識なんて皆無だから、ほんとに勘だよ」

「ちなみに、どんな風に見えたの」

「正直、君の作品かどうか、自信はないよ。でも、一番印象的だったのは間違いなくあの絵だった」

「うん」

「僕も最初はさ、上手な作品を探そうって思ってたよ。でもみんな上手くて、判別なんてつきっこない。タッチの違いもよく分からないしね。その中で、あの絵は強烈だったんだ。何というか――技術や構図なんて枠組みが無意味に思える程に」

続く言葉を探しながら、僕はテーブルの真ん中の大きな木目の年輪に視線を移す。切られたのは樹齢いくらの時だったんだろう、炭素十四年代法とかあったな、などと記憶の片鱗が脳内で遊び始める。

「あの作品が君のかどうかは、正直分からない。でも、僕はあの絵がいいと思ったんだ」

最後の一言はほとんど呟きに近い状態で、年輪の穴に吸い込まれるように落ちた。タイミングよく歓声が上がる。後ろを振り返ると、女子三人組のテーブルにロウソク付きの小ぶりなホールケーキが載ったところだった。スマホを構えてはしゃぐ女子たちを視界の端に収めて顔を戻すと、エイミと目が合った。

「リクさん大正解。『光の街』は、私の絵だよ」

「え、ほんとに」

「うん。やっぱり、流石だね」

確かめるかのように、彼女は何度も浅く頷く。クイズで正解した時のように喜ぶでもなく、どこかほっとしたような表情を、僕は意外に思った。

「実を言うと、これは賭けだったんだ」

低めのハスキーボイスでそう言うと、彼女は目を伏せ、タルトの一切れを口に運ぶ。

「賭けって、何の」

「夏に描いてた絵、覚えてる?」

「うん。結局、全体像は見せてもらえずじまいだったけど」

「そうだったね」

思い出を手繰るように、彼女はもう一切れ口に含んだ。僕もケーキをつつき、ぬるくなったカップを傾ける。火傷のせいで舌先の味覚は鈍っているが、奥に力強いコクが広がり、その中にほのかな酸味が感じられる。

「元々はね、『光の街』は違う絵になる予定だったの」

彼女の言葉に、僕はアトリエの記憶を手繰る。手の甲に散った、黄と白の絵具。製作途中で見かけたものも、黄の濃淡を基調とし、構造物も面が強調されていた。それはそれで見応えがありそうだと思っていた。

「もしかして、あの時の――」

僕の言葉にこくん、と肯くと、彼女はカップに細い指を引っ掛けた。

「あれはあれで仕上げて、教授にもオッケーをもらってた」

「それを急に変えたくなったってこと?」

「うん。題と合ってない気がして」

改めてちらと見かけた旧作を思い浮かべる。陽光で満ち溢れた眩い画面。うるさくく主張しがちな色だが、僕には薄暗い土間の中に大輪の向日葵畑が現れたように思えた。展覧会の、明度の低い会場にもきっとよく映えただろう。

「あれはあれで良いと思ったけどなあ」

「そうね、悪くはないと思う。けどさ、しばらく経つと違って見えるってこと、あるでしょ」

「確かに」

「その現象。出来た時は良いと思ったんだけど、展示室での配置を考える段階になって、何だか急におぞましく見えちゃって」

「うるさい、じゃなく?」

「何だろうね。視覚刺激が強すぎるっていうのもあるのかもしれないけど。むしろ、『光の街』をどう考えるか、ってことかも。題名から先に決めたからこうなったんだろうけど」

「ちなみに題名はどうして」

「――何となく。言葉が綺麗だったからってのと、あと多分、似た作品名を聞いたことがあったからかも」

白い喉が小さく上下する。カップを置いた彼女は、テーブルの縁で緩く両手の指をかませ合う。伏せられた長い睫毛の下、黒曜石が研ぎ澄まされる。

「『光』だから、明るいでしょ。最初は日の出をモチーフに、太陽の力を思いっきり強調しようと思ったの」

「だから黄色か」

「そう。でも描いていて何か違和感があって。期限が迫ってたから取り敢えず仕上げてみたけど、結局解らずじまいだった」

「教授からはオッケーが出てたんだよね?」

「まあね。けど、何となく納得できなくて。それで提出日かその次の日だったかな、久々に出たお店からの帰りにオフィス街を見て、ああこれだったんだな、って。なんか解った感じがしたんだよね」

「あの辺りはいつも不夜城だもんね」

自分自身が繁忙期でかつてないほど遅くなった時でも、オフィス街が静まることはない。黄味がかった蛍光灯や青白いLEDライトが市松模様のようになっている様は、遠目にも美しい。近くでは、コンビニや自販機の灯りが足元を照らす。人の営みの数だけ灯りがある、と言われるが、ここでは、そのほとんどは仕事だ。もっとも、疲れきってボロ雑巾になった頭では、それに対する感情すら湧いてはこない。

「今の時代、自然光よりも人造光の方が多様で存在感もある。太陽を描くなんて安直過ぎたな、って反省」

得心した表情で彼女がカップを傾ける。その澄ました顔を見ていると、なぜだか、少し意地悪をしてみたくなった。

「敢えて根本に回帰する選択肢もアリだと思うけどな」

僕としては、カップの縁から鋭く研磨された黒曜石がこちらを射抜いてくる絵面を想像していた。むしろ、どこか期待すらしていた気がする。別に否定とか批判を求めたわけではない。自分でもよく解らない、不明瞭な感情だった。

「やっぱり、それもそうだよね」

「え?」

「描き直す、って言った時、教授にも似たようなことを言われたし。結果的に間に合ったからいいものの、相当ハードだったし」

コンペとかだったら怖かったよ、と軽い口調で全肯定され、僕は拍子抜けする。美術論でも飛んでくるかと身構えて、脳内であれこれシミュレーションまで始めようとしていたのに、肩透かしを食らった気分だった。目の前の長い睫毛は小動もしない。泰然としたその様に少しだけ苛つきを覚えた。と同時に、そんな反応をした自分自身に驚き、次いで吐き気がする程の嫌悪感が湧いてきた。

「どうしたの」

気付けば、彼女が小首を傾げるようにしてこちらを窺っている。

「――何でもない。いい絵が出来て良かったね」

慌ててそう返すと、僕は残りのコーヒーを喉奥に一気に流し入れた。冷めてほのかに出てきた酸味が平静を取り戻させる。

 会計を済ませて外に出ると、空には来たときにはなかった薄雲が浮いている。時折吹く風がカフェの奥の雑木林から朽ちかけた葉の匂いを運ぶ。学祭は明日も続く。学生間ミーティングがあるという彼女が、カフェの最寄り駅まで送ってくれた

「今日は来てくれてありがとうね」

「こちらこそ楽しかったよ」

「じゃあ、またね」

「うん、また」

改札前で互いに笑顔を浮かべ、別れの挨拶を交わす。一陣の風が伸びかけの前髪を払い、彼女の形の良い額を顕にする。その姿を視界の端に収め、僕はスマホをかざし改札を抜ける。数歩進んで、振り返ろうかと思ったが、何となく、思いとどまった。

 電車に揺られ、目的もなくスマホをいじっていると、早速エイミからメールが入った。謝意と、今度またアトリエに来てほしい、という文面だった。

『自分こそ、ありがとう。すごくいい刺激を受けたよ。では、また』

素早く打ち返すと、僕は背もたれに身を預けた。秋晴れの下、すすきの穂が気持ちよさげに揺れている。のどかな様を見やりながらも、胸の中には、先ほどのカフェでのやり取りが去来する。どうして僕は、彼女の言葉に対して、一瞬でも苛立ちを覚えたのだろう。こんな事は今までなかった。純粋に自分の作品を語る彼女のどこに、いらだたせる要素があったといいうのだろう。

 答えの出ないまま、最寄り駅の改札を抜ける。跨線橋の真ん中で立ち止まると、やや乾いた風が髪をさらった。伸びた線路の向こうに、一朶の雲がゆっくりと流れている。行雲流水――あるがままの日々を受け入れ、あるがままに生きる。それが楽になる秘訣だと、コラムか何かで読んだことがあるが、そうするには、人間の感情はあまりに多すぎる。多すぎるから、さっきのような不測のエラーが起こる。彼女の芸術に確かに惹かれながらも、それを否定するかのような感情が挟まれる。それは何となく、ジュンに対してのものに似ている気がした。思い出でも、夢の中でも、僕は彼を避ける反面、気付けばいつも目で追っていた。あたかも逃れられない引力のように、僕を渇望させ、苦しめた。

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