第3話 天翔
「空がよく見える場所、ね」
「そうそう。今度、課題のモチーフで使いたいのよね」
運ばれてきたコーヒーを軽く吹きながら、エイミが言う。職場の最寄り駅の裏通りにあるこじんまりとしたカフェで、仕事終わりの僕は、よくこうして仕事前の彼女と夕時を共にしている。以前は島崎にばれないよう時折店に逢いに行っていたのだが、何となく落ち着かない様子に見えたのだろう。ある時、彼女の方から店に来る代わりに、このカフェで夕食を一緒にどうかと切り出された。大丈夫なのかと聞くと、そもそもママからの提案らしい。同伴扱いで、出勤時間も少し遅くしてくれたそうだ。
「うん、沁みる。もうお酒なんて飲みたくなくなるよ」
しばらく湯気と格闘してやっと一口啜った彼女が破顔する。凛とした切れ長の瞳は相変わらずだが、化粧っ気のない愛らしい顔は、中学生と言っても通りそうなほどだ。普段はせいぜい日焼け止めを塗って終わりらしく、ママや先輩達に教わるまでやったことがなかったらしい。化粧の魔力はすごい、と内心空恐ろしささえ覚えながら、ボリューミーな野菜サンドと格闘している彼女を眺める。
「で、どこか良いところ、知らない?」
形の良い唇にキャベツの切れ端をくっつけながらきらきらした瞳で問われ、今度こそくすっと笑ってしまう。唇を指先で小突いて見せると、途端に視線が泳ぐのも可愛らしい。口元を紙ナプキンで拭う彼女を見つつ、僕はとうとう切り出した。
「あるにはあるけど」
「え、どこどこ?」
「――僕のアパートの近く」
ジャキ、と咀嚼音が止まり、サイフォンの音だけが残る。黒目がちの目が見開かれ、僕は切り出したことを後悔した。だが、二呼吸分の間の後、彼女はこくこくと頷くと再び口を動かし始め、僕は胸を撫で下ろす。
雨の日の前日の夕焼けほど面白いものはない。折り重なった幾層もの厚い雲は橙に染まり、手前側のくすんだねずみ色と相まって非常に鮮やかに映る。店の定休日だからたまたま今日に決めていただけなのだが、思いがけず良いものを見られた。隣でカシャカシャ、とスマホを構えているところを見ると、彼女も満更でも無さそうだ。右手が熱を帯び、僕もしばし無心になって橙の雲を凝視する。
「ここ、すごくいいね。遠近法のお手本みたいで。周りが非対称なのも面白いし」
「お眼鏡にかなって良かった。越してきた時からの気に入りなんだ。帰りに月を眺められれば、それだけで嬉しくなるね」
急行が着いたのだろう、背後の雑踏が大きくなってくる。後ろで、お空綺麗だね、と子供らしい高い声が聴こえる。
「ね、他の日の写真とか撮ってない? もっとイメージが膨らみそう」
鮮やかな橙に奪われていた意識を、掠れ気味の低音がそっと引き戻す。声が妙に艶っぽく脳に響き、考えるより先に口が動いた。
「スケッチみたいなのならあるけど」
「え、見たい! 見せてよ」
対の黒曜石が途端に煌めき出す。魅入られたのも束の間、ひんやりと心地よい感触が左の掌を包んだ。
「ね、行っていいでしょ」
「う、うん」
思いのほか積極的な様子に若干たじろぎつつも、流石は美大生だと感心する。そのまま彼女に手を引かれる格好で、跨線橋を下りる。
ポケットから鍵を取り出す。鍵穴に挿し込もうとするが、手元が狂ってなかなかうまくいかない。横から彼女がスマホの懐中電灯を点けてくれようとしたが、大丈夫だと断った。耳の奥が早鐘を打つ。落ち着け、と何度も自分に言い聞かせ、やっとの思いで開錠した。
「どうぞ、座って」
マットレスの傍に転がっているクッションを置き直し、無邪気に室内を見回している彼女に勧めると、僕は台所の電子ケトルで湯を沸かす。狭い部屋で人の気配はこそばゆい。記憶を頼りに戸棚を漁り、何かの景品でもらった耐熱カップを引っ張りだす。いつものマグとそれにインスタントコーヒーの粉を入れ湯を注ぐと、まず、マグと奇跡的に未開封のままだったチョコチップクッキーを彼女に手渡す。次いで僕もカップを手にマットレスに腰を下ろした。
「ごめんね、こんなのしかなくて」
「いやそんな。むしろこっちが急に押しかけたんだし」
彼女がマグに口を寄せ、湯気が縁に踊る。こくり、と小さく喉を鳴らし、美味しい、と破顔した。
「コーヒー作るの、上手ね。私、どうしてもインスタントだと分量失敗するんだよね」
「まあコップの大きさ次第でいくらでも変わっちゃうものだよ」
「手軽にできるのはいいんだけど、いつも失敗するから、自分で淹れる時は専らドリップだね」
僕は少し違和感を覚えた。てっきり苦学生か何かだと思っていたのだが、ドリップを普段使いするくらいなら、存外生活には困っていないのかもしれない。実はいいところのお嬢様だったりするのだろうか。いや、それならわざわざ生活費のために所謂夜の店でバイトなどするだろうか。カップに半分顔を埋めながら彼女の方をちらと窺う。包装を破いてクッキーをかじる様は、あくまで普通の女の子といった風だ。
「ね、あれ見てもいい?」
気付けば彼女の視線は卓上の他の文庫本の上に重ねておかれたスケッチブックに注がれている。耳の奥で嚥下音が際立って聞こえる。
「いいよ」
何でもない風を装って応えると、僕は手を伸ばしてそれを掴み、彼女に渡す。白い指先が頁の端に掛けられると、融けた氷の雫が背中に垂らされた時のような震えが走った。人に絵を見せるなど、授業冒頭のスケッチや版画制作のための下書きなどを学生同士見せ合った高校時代以来だ。
「お湯、もう少し沸かすね」
気恥ずかしさと高揚感の入り混じる感覚を思い出しながら、僕は自分のカップを手に再度シンクの前に立つ。水を注ぐ音、蓋の開閉音、沸き立つ音が、頁の捲れる音をかき消す。ややぬるくなったコーヒーを一気に飲み干し、いつもより瓶を大きく叩いて粉を入れる。熱湯を注ぎ、縁すれすれにクレマの立ったカップを慎重に捧げ持つ。床が鈍い音を立てても、そばに腰を下ろしても、紙面を見つめる眼差しは揺らがない。長い睫毛は凛と反り返り、黒曜石の瞳を守っている。
「綺麗な空が見えた時は、日記代わりに描いて残してるんだ」
彼女は固まったまま、返事はない。人の気配さえ消してしまいそうな沈黙が背を這う。サイフォンや適度な雑音のないこの部屋では耳音響反射くらいしか聞こえない。彼女の肩越しに身を乗り出し、手元を覗き込もうとした瞬間、こちらを振り向いた真っ直ぐな視線とぶつかる。
「ねえ、これ凄いよ!」
熱を帯びた瞳に上ずった声で、彼女は興奮気味に言った。
「もしかして実は予備校にでも行ってる、とか」
「いやいや、全然素人だよ。そりゃ、昔学校の授業ではやってたけどね」
少し狼狽えながら、僕は答える。上手だ、と賞されることは予想していた。だが、エイミの反応はその範疇を軽く超えるものだった。
「風景画なんて、よくあるだろ?」
僕の言葉に、エイミは一寸首を傾げてから、改めて笑みを作る。スケッチブックを閉じ毛布の上にそっと乗せると、床のマグを取り上げる。十分に冷めたらしいコーヒーを胃に収めると、磨き抜かれた黒曜石のような瞳で意味深に僕を見た。
「印象に残る絵を描ける人なんて、なかなかいないよ」
「君だったらもっと綺麗に、鮮明に再現できるんじゃない?」
「まあ、一応技術はあるからね。周りにもいるよ、対象を寸分違わず再現できる人。でも、それは評価される、一つの側面に過ぎないと思うの」
「それは、そうかもしれないけどさ」
マグが床に置かれ、白くしなやかな手がつとスケッチブックを拾い上げる。彼女の膝上で、空たちが心地良さそうにめくられていく。
「色鉛筆の水彩画。線や色の重ね方次第で、精密な絵にも、空気感のある絵にも仕上げられるのがいいよね」
「仕事終わりに描いてるからね。絵筆だと後始末もあるからさ――」
「ほら、これなんか」
目の前に開かれたのは、この前の月夜だった。濃紺に浮かぶ月が踏切待ちの車のライトや街灯を蹴散らして詰め寄ってきたあの夜は、どうしても空と月以外に色を与える気にはなれなかった。硬質な構造体が余白の力で夜空を圧縮する。絵の中央では白金色の月が膨張し、押し込められた空は濃密さを増す。引きこまれたあの夜は、自然と描く手にも熱が籠ったのを覚えている。気が逸り過ぎて、十分に乾かないまま色を重ねてしまい、画用紙が破れるかと思ったほどだ。
「空はすごく濃密だよね。かと思えば端っこの建物はかなりラフな塗り方で」
「ラフ、というか、下書きのままだけどね」
「でも、この対比がいいと思うの」
「そうかな。コーヒー、お代わりつくろっか」
「うん」
こそばゆさをこらえつつ、床のマグを取り上げ、シンクの前に立つ。ケトルの再沸騰を待っている間にも、画用紙特有の捲り音が聞こえてくる。気恥ずかしさやらで、こめかみの辺りがぴくぴくと動く。一体、美大生というのは、総じてこうなのだろうか。
「ね、今度うちのアトリエに来てよ」
想定の遥か上を行く展開に、コーヒーの粉を掬う手が震える。
「え、は、アトリエ?」
「郊外にログハウスがあって。ちょっと大がかりな製作の時はそこに籠もるんだけど、今度そこで一緒に絵描かない?」
「え、まあ、うん――」
「やった。じゃあよろしくね、リクさん」
喜色を滲ませ、はしゃいだように彼女が言う。ピン、とケトルが鳴り、マグの底の粉の上に、均等に円を描くようにして、丁寧に湯を注ぐ。普段は、ほろ苦い香気が鼻腔に沁みれば、職場では課長や島崎に絡まれた後の昂りを鎮めてくれる。だが当然、今のこの状況では、十分な効果は得られない。勢いに押されて何となく返事はしてみたものの、言われた言葉の意味を消化できないまま、ハスキーボイスの余韻が脳漿を漂っている。
口をすぼめて湯気を吹く彼女を見つめる。こめかみが、拍動に合わせて額から上を締めるのが分かる。可憐な容姿にあって、研ぎ澄まされた黒曜石の瞳は一層際立って見えた。きっと僕は、あの光に捕らわれている。そんなことを思っていると、視線に気づいたか、彼女がつと顔を上げた。
「どうかしたの」
「いや、何でも。君の制作風景を見られるなんて楽しみだな、と思って。今は何か描いてるものとかあるの」
「専ら講義の課題用のデッサンとかだけだよ。あ、でも、もう少ししたら大きめの油彩に取り掛かる予定」
「へえ、すごいな」
「みんなやってることだよ」
事も無げに言うと、彼女は再びマグに顔半分をうずめる。沈黙になりそうな気配がしたので、僕もクッキーの個包装を一つ取り出して食べ始める。彼女の横で、開かれたままの月夜が部屋に落ち着いた色を添える。
駅の改札に彼女を見送る。小さな後ろ姿が消えたと同時に、押し込めていた興奮が溢れて全身を回っていく。エイミが、僕の絵を評価してくれて、アトリエに招待までしてくれたのだ。他でもない彼女が、自分でも分からない根本を見抜く力を持った彼女が、言ってくれたのだ。胸の内でそう繰り返し、高揚が頭の中を勢いよく駆ける中、僕は跨線橋に差し掛かる。満ち掛けの月が千切れ雲をほのかに照らし、熱を帯びた右手がうずく。限りなく黒に近い濃紺の空に、北極星らしき星が輝いている。孤高の煌めきは、エイミの瞳の光に似ている気がした。
茫洋とした月光の下、僕は木立の合間の人影を追う。踏みしめる度、生物たちの呼吸が鼻腔を抜ける。木々との同化を繰り返しながら、するすると影は進む。時折足を取られかけながら、僕もずんずんと分け入り、進む。つま先に力が籠る。どうやら下っているようだ。影は動きを止め、僕も足を止める。一瞬の間を置いて影はふっと昇華し、肉付きを失った細い幹が遺される。消失点まで下りたところで、突如視界が開ける。影が日時計の針のように伸び、僕はその方向に歩き出す。向こうに人型が見えたので、脚を早める。人型は動かない。近づいても、影は人型の踵から先に伸びることはない。一歩、また一歩、今度は慎重に近づく。あと一歩まで迫ったところで、人型が振り向く。晒された端正な顔は、古文のテキストに出てきた月読を思わせる。白銀の髪に、瞳は冴え冴えと煌めく。唇に薄く笑みが刷かれたのを見て、もう半歩近づいてみる。手がこちらに伸ばされ、自分も手を伸ばそうとしたところで、僕は自分の手がどうしても汚れている気がしてならなかった。思わず引っ込めると、月読はちらと哀しげな笑みを向けた。違う、と言おうとしても声にはならず、手を戻した月読は音もなく僕の傍を歩き去る。
「待って――」
「どうしたの?」
落ち着いた低音が耳を、目を覚ます。白金色の光を辿ると、ゴツゴツとした天井付近の高窓に行き着いた。そうだ、さっきの光は白銀だった。今しがたまでの景色に浸っていると、鼻腔をほろ苦い薫りがくすぐる。ラグ脇の卓から、湯気が光の粒になって立ち上る。
「ありがとう」
寝袋から這い出し、卓からステンレスマグをつまみ上げると、カウチに腰掛ける。香ばしい温もりが寝覚めの喉を潤す。鳥の囀りが耳に優しい。パタパタと近づく足音に視線を上げると、同じくマグを片手に、エイミが目の前の木製スツールにまたがった。脚部の木目がこちらを見つめる。こっちに座ればいいのに、と昨日も言ったのだが、描画スタイルが一番落ち着くのだと譲らなかった。
職場の最寄駅から電車で四〇分ほどの無人駅を下りると、眼前には田畑が広がっていた。集落を抜けると突如このログハウスが出現したのだが、これが手作りと聞いた時は驚いた。訊けば建築士だったエイミの大叔父が引退後に趣味で建てたらしい。一階部分には広々とした土間もある。確かに大型作品の制作には持ってこいだ。
「建てたはいいけど用途がないってぼやいてて。使わせて欲しいって言ったら、即オーケーしてくれたよ」
彼女の美大進学について最後まで反対し続けた両親を説得してくれたのも大叔父だったそうだ。日頃は大学近くのアパートで生活していると言うが、大事な課題や展示会の作品群は全てここで描きあげるそうだ。だからここは彼女の絵の核となる場所だとでも言えるかもしれない。裏には竹藪が伸び、小高い丘に登れば風にそよぐ萱野の青い匂いが胸を膨らませる。分け進むと井戸があり、クレソンの生えた小さな沢に一枚だけ渡された朽ちた木板が趣深い。素敵な場所だね、と言うと、隣でエイミがにっこりと笑う。一陣の風が前髪をかき分け、形の良い額が露になる。
「何笑ってるの」
目の前でエイミがこちらに身を乗り出す。ぱらりと落ちかかる横髪が自然光に鈍く輝く。
「昨日来た時のことを思い出してたんだ。まさかそう遠くないところに、こんな静かなところがあるなんて思わなかったよ」
「なんか、身体ごとリセットされる感覚になるよね。――そうだ、スケッチでもする? 今日は天気もいいし」
「いいの? じゃあ、飲み終わったら行ってくるよ。君も行く?」
「課題制作があるから途中からね」
「お昼はカレーでも作るよ」
「やった、楽しみにしてる」
空には雲一つなく、淡く刷かれた水色が早朝の空気に溶けている。時折微かな風が耳元を掠める。リュックを平石の上に置き、エイミから借りたレジャーシートを広げると、スケッチブックを膝に乗せる。最初は牧歌的な風景全体を描くつもりだったのだが、パラパラめくっているうちに、やはり空を主体にしようと思い直した。鉛筆を握り、彩色後の様子もイメージしながら構図を作る。夏草の緑は濃いが、淡い空色に合わせて、明るめの風合いを出したい。頭の中を白い一房がプリズムと共に揺れ、跳ねていく。
「ユニコーンかな」
授業冒頭のクロッキーが速く仕上がった時、美術室で適当にめくっていた図鑑の一頁が浮かぶ。貴婦人と戯れるアイボリーの優美な姿が、緋色の背景に映えていた。
空は青く、鮮やかだ。あれこれと考えながらそよぐ萱野を描き終わったところで、肩に何かが触れる。顔を上げて振り向くと、パステルカラーの空が紙面を覗き込む柔らかな眼差しと重なる。
「優しい線だね」
「空を目立たせようと思って抑え目にしたんだ。色も淡くするつもり」
彼女が隣に腰を下ろしたので、僕も手を止める。折しも吹いた風が萱野をさらう。後ろでさやさやと杉林が音を立てる。思いきり息を吸い込むと、鼻腔が葉や樹皮で満たされる。野山が呼吸している。――呼吸。夢の中の、夜の山肌の匂い。グラウンドに照らされ佇む彼の姿。刹那、月光に浮かんだ横顔が脳裏をよぎる。
「どうかした?」
小首を傾げてエイミがこちらを見る。覗き込む瞳の奥に宿る無垢な興味が、僕に口を開かせる。僕の起床とともに眠りについた情景を一コマ一コマ掘り起こしていく。
彼女はただ黙って聞いていた。一通り夢の記憶をさらい終えると、山風が萱野原を撫でた。青い匂いが彼女の襟足を撫で、僕の鼻腔をくすぐる。
「それ、描いてみてよ」
「ん?」
「今言ってた夢。すごく面白そう」
吹き渡る風に髪を梳かれながら、いつの間にか黒曜石の瞳になった彼女がさらりと言った。捕食された僕は、ややうろたえつつも、その輝きに魅了される。
「面白いかな」
「うん。夢ってさ、論理も時空も、色んな制約を全部取っ払って広がっていくのが醍醐味でしょ。色んなフレームを飛び越えていくのって、すごく魅力的だと思うな」
「確かに」
瞳の力と相まって、エイミの言葉は力強い。身動きの取れなくなった思考の隙間を押し広げて入り込み、気付かぬうちに丸ごと包みこまれている。頭が茫洋とする。しかし彼女の次の言葉が僕を目覚めさせた。
「具象化することで解ることもあるんじゃない? 解らなかったとしても、悩みを吐き出せば少しは楽になれるだろうし」
「僕が、何かに悩んでいるように見えるの?」
「どうだろう。けど、夢は潜在意識の表れだって言うし。そのツクヨミの彼のことが引っ掛かるからはっきり憶えているのかな、って」
瞳に湛えられた鋭い光は揺らがない。ただ抱いた感情は、鋭利な怖さというよりも、天啓に対する畏怖に近いものがあった。
「じゃあ、後でね――あ、カレー、楽しみにしてるね」
「うん。また後で」
エイミがすっくと立ち上がる。さっぱりした顔で微笑むと、髪に風を孕ませ、軽やかに斜面を下っていった。
どこからか流れてきた雲が、時折太陽を隠す。青い風に身を預けている間も、耳元では先程の彼女の言葉がリフレインし、脳内では夢がコマ送りになる。憶えのある景観や場所の寄木細工。だが何度再生しても、月光に照らされたあの顔は、確かにジュンだった。
空も萱野も濃さを増し、ユニコーンは跳ねられない。多様な線が書き込まれた画用紙の中央部に、歪な空白が残った。
スツールの上で、考える人宜しく組まれた足先がぷらぷらと揺れている。半開きのサッシをそろりと抜けると、パレット片手にエイミがカンヴァスに絵筆を走らせている。つんとした画用液特有の臭いは嫌いではない。イーゼル横の開きっぱなしのスーツケースには鉛筆やら絵の具やら絵筆やらがぎっちり詰まっている。カンヴァスと対峙する瞳は横から見ても分かるほど鋭い光を放っている。ボーン、と奥の壁時計がいかめしい音を鳴らした。
「キッチン借りるよ」
ん、と低い肯定音が聞こえたので、僕は玄関を上がり、ドアを閉める。リクエストで昨日量産しておいたカレーと冷やご飯があるので、プラス一品何か作ればいい。卵と野菜だけは買い込んでいたので、取り敢えず目玉焼きとニンジンのグラッセを作った。大学生時代に真面目に自炊をしていてよかったと思うのはこういう時だ。
小皿におかずを盛り付け、カレーとご飯を温めていると、開閉音に続き、エイミが前掛けの紐をほどきながらパタパタと入ってきた。絵の具やペンキに彩られたそれを空き椅子の背に預け、対面に腰掛ける。電子レンジから慎重に、縁を持ってタッパーを取り出し、そこに直にご飯をよそい彼女の前に置く。基本的に来客を想定していなかったようで、食器不足なのだ。けれど、仰々しくされるよりも、こちらとしてはむしろ落ち着くので良い。
『頂きます』
何となく揃った声と仕草に急に気恥ずかしさを覚え、頬がやや熱くなるのが分かる。そんな僕とは裏腹に、対面では小さな口にスプーンがせっせと運ばれていく。手の甲にはところどころ黄と白の絵の具が飛んでいる。
「今描いているのは、課題か何か?」
「うん、まあ、そうかな。今度の学祭の展覧会用なのよ。いいのが描けたらちょっと先のコンペに転用してみるつもり」
そっか、と呟いて、僕はようやくルウとご飯の表面を少しだけ掬う。なおもスプーンを吹いていると、猫舌だもんね、と笑われた。
「展覧会にコンペ、か。すごいな、やっぱり」
「リクさんも応募してみたら? 経歴不問だし」
グラッセを突きながら彼女があまりにもあっけらかんと言うものだから、僕は目を瞬いた。
「それこそ、さっき言ってた夢のことを描いて出してみたら?」
「まあ、描いてみるつもりではあるけど――そんなコンペなんかは無理だよ」
「いやいや、やってみないと分からないし。それに私、リクさんなら絶対いい線いくと思うんだよね」
「そんなもんかな」
「そうだよ。目標があった方がモチベーションも上がるしね。きっと面白いものが描けるよ」
黒曜石の瞳が一つウインクを決めると、左胸がぴくんと跳ねた。スプーンに持ち替え再度カレーに集中し始めた彼女を眺めつつ、僕も自分の分のグラッセをつつく。生温くなって甘さを増したそれをかじっていると、先ほどの彼女の言葉がようやく脳内をすんなり回り始めた。
採光性が確保されているため、自然光だけで十分に作業はできそうだ。スケッチブックの紙面の淡いクリーム色は優しく、僕は淡く線を引いていく。アクリル画も勧められたが、結局いつも通りの水彩画を選んだ。頭の中のシーンが右手に伝送され、紙に投映される。当初は重畳する形で一枚に収めようと思っていたが、連作の方が面白いと思い直した。起床後数時間経っているので、記憶の部分部分に靄がかかっている。曖昧なところは敢えて白抜きのままにして、鮮明な情景から画用紙にバラバラに起こしていく。エイミが褒めてくれた月夜の絵のように、下書きに近い部分が残っている方がより夢の感じが出るかもしれない。
三枚ほど描き上げて顔を上げると、辺りはすっかり薄暗くなっていた。窓から差し込む黄金の帯を辿ると、遠くの空には茜から藤、藍のグラデーションが伸びている。網戸を開け、窓枠から身を乗り出してそれを眺める。風が頬を撫ぜ、裏手の竹林の葉擦れや棹同士がぶつかる音が流れてくる。夕暮れ時の忙しない街の音も面白いが、明と暗がゆったりと混ざり合う自然の空気感も良い。ぷーん、と近づいてきた羽音に、僕は急いで網戸を閉める。
喉が渇いて一階に下りる。真っ暗なリビングに、ドア向こうからわずかに明かりが漏れ込んでくる。静かにドアを開けると、土間の真ん中のカンヴァスに向かって、エイミがせっせと絵筆を動かしている。大きなカンヴァスなので、下塗りからして大変だろう。昼食のとき手に黄色の絵の具がついていたことを思い出し、背後からそっと近づくが、影のせいですぐにばれてしまった。くいっと首から上だけで彼女がこちらを振り向く。
「見てもいい?」
「まだダメ」
切れ長の目の端を吊り上げるようにして、彼女は意地悪っぽく笑った。
「お披露目は学祭の展覧会で、ね」
「僕が行ってもいいの?」
「もちろんよ。色んなジャンルの作品があるし、いい刺激になると思うな」
企むようなウインクに負け、僕は土間から引き揚げる。
二階に戻り、再び描きかけの頁に向き合う。黄昏の空気の中で、紙面の端は昼の名残りでほのかに染まっている。無意識に詰めていた息を静かに吐き出すと、鼻の奥でほのかに、画用液の匂いをおぼえる。開け放しのサッシから風に溶けたのか、或いはさっき吸い込んだものが出てきたのかもしれない。油絵は高校時代に一度描いたきりだ。美術の授業で、作品制作のためまとまった自由時間が与えられた時、早々に提出し終わった僕は美術部の友人の油絵セットを拝借し、手のひらサイズのカンヴァスに葡萄を描いた。前々から試してみたかったので、ネット仕込みの知識にしてはそれなりの出来栄えに胸が浮き立ったことは今でもよく覚えている。
ところどころ描きあがった画用紙を見つめる。油絵にしたらどうなるだろうと、エイミが向かっていたカンヴァスを思い浮かべたが、脳裏をかすめた悪戯っぽい笑みに阻まれ、すぐに諦めた。デスク脇の明かりを点け、作業を再開する。記憶を発掘しては描く、の繰り返しだ。ランダムな時系列。核心を後回しにしていることには、薄々気づき始めている。
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