第2話 邂逅

 職場の飲み会があると、必ずここが待ち合わせ場所になっている。ちょうどオフィス街と繁華街の境目になっているのだ。晴れた夜だと言うのに、煌々とした高層ビル群のせいで月も星も霞んで見える。そういえば昔、部活で遅くに下校した時、裏道の鬱蒼とした木々の合間に覗く月は綺麗だった。ふとした風に、夏木立と一緒に淡く揺られる月の光。生きた影絵のように幻想的な記憶が呼び覚まされる。じん、と右手に熱が籠る。

「おお。来てくれたんだな、良かった、良かった」

右方から大袈裟な喜色と共に、島崎がやってきた。街灯の下に滲む顔は、存外厭味ったらしくはなかった。近寄るにつれ、勿論いつもの暑苦しさは染み出してきたが、意外にも、それほど不快ではない。一体、今日はどうしたことか。目の前の顔をもう一度じっと見ると、どうしたんだよ、と微苦笑される。僕は慌てて視線を外し、別に、と取り繕う。島崎は、人のプライベートにお構いなく休日朝から飲みの電話をかけてくる嫌なやつなのだ、と言い聞かせる。ほとほと、今夜の僕には、あきれることばかりだ。

「じゃあ、行くか」

島崎の手が肩に伸び、ポンポンと軽くたたかれる。想定外の動きに目をぱちくりしていると、そのままがっしりと掴まれ、僕はあっという間にさんざめく光へと連れ込まれる。

 五分と経たないうちに、僕たちは大通りに面したとあるビルに入る。エレベーターを降りると、重厚でクラシカルな木の扉が待ち構えている。押し開くと、カランカラン、と老舗のカフェのようなドアベルが鳴り、奥から着物姿の女性が現れる。

「まあ、島崎さん。ようこそおいで下さいましたね」

色白の整った顔立ちが萌黄地によく映え、所作と融合して高雅さを感じさせる。島崎に次いで、彼女は僕にも極上の微笑みを向けた。誘われ通された先は、奥まった半個室だった。こじんまりした、けれども一目で上質と分かる、木目の美しいテーブル。もっと派手でけばけばしたものを想像していたのだが、これは驚きだった。ぼうっとしている僕を横目に、島崎は慣れた様子で腰を下ろし、ちょいちょいっと僕のジャケットの端を引っ張った。どうぞ、と鈴の音のような声で促されて着席すると、彼女は島崎の隣に収まった。

「ママ、しばらく来られなくてごめんね」

「そんなことございませんわ。こうやってまた来ていただけたんですから、ありがたいわ」

「ははは。ママは綺麗なだけじゃなくて、やっぱり優しい人だね」

「あら、嬉しいこと言ってくださいますのね」

いつもの覇気や豪快さは鳴りを潜め、島崎はいつになく真摯に見える。そんな彼に謎めいた艶麗な微笑みを浮かべ続ける彼女に、へえ、と内心感心しながらを浮かべコツン、コツン、と軽やかな足音が衝立から覗く。見ると、ロングワンピース姿の小柄な女性が佇んでいる。

「ママ、お呼び?」

可愛らしい見た目に反し、紅唇から紡がれた掠れ気味の声は女性としてはやや低めだ。

「エイミちゃん、そちらのお客様に」

にこっと愛くるしい笑みを浮かべると、彼女はミントグリーンの裾を軽やかに捌き、僕の左隣に収まる。高く留まった銀の髪飾りがキラリと光る。半身を寄せて僕の目の前のグラスに白ワインを注ぐと、身体からこぼれた芳香がふわりと鼻腔をくすぐった。

「初めまして、エイミです。どうぞよろしく」

「あ、はい。どうも、こちらこそ」

ぎこちなく返すと、鈴を転がすような声でママが笑う。

「まあ、こうしていても何ですし、乾杯しましょうか」

袂を軽く押さえ、ママが上品かつにこやかにグラスを掲げる。ふと右手を見やると、いつもよりずっと「紳士」な風貌の島崎が、袖口から覗く白い腕に妙に熱っぽい視線を注いでいる。皆に合わせてグラスを口に運ぶ。アルコール自体あまり嗜まないので味の良しあしなど分からないが、このすっきりとした口当たりは嫌いではない。グラス越しにちらりとエイミの小さな横顔を見やる。グラスの縁にちょこんと乗った唇は、橙色の照明にぽってりと艶をはらんでいる。

「エイミちゃん、お客様の似顔絵を描くのがうまいんですよ」

少々世間話をした後、ママが切り出した。へえ、と隣を見ると、エイミは少女のようにはにかみ、衝立に向け左手を上げる。すると黒服がクロッキー帳とペントレイを運んできて、静かに彼女の傍に置いた。ちょいちょい、と肩をつつかれ振り向くと、島崎が顔を寄せてささやく。

「エイミちゃん、凄いんだぜ。俺も描いてもらったけど、めちゃくちゃ似てた」

こんなに感心したような表情は珍しいな、と内心思っていると、ママが上品な笑みを浮かべ、エイミの方を向くよう僕に促した。隣に向き直ると、彼女はごく手慣れた様子で、帳面をテーブルの縁に立てかけて鉛筆を構えた。

「じゃあ、始めますね。少しの間、ご辛抱ください」

ほっそりした手が動き出す。シュッシュ、と軽い擦過音が小気味良い。手が、音が、白紙に作品を浮かび上がらせる。手に、音に、導かれゆく感覚。覚えのある感覚―美術室の記憶。授業冒頭の十分間はデッサンで、輪番で二、三人の生徒がモデルを務めていた。たまにふざけてロダンみたいなポーズを取るモデル役もいて、最初こそくすくす笑いが起きていたが、いざ始まると誰も口を開かず、開け放たれた室内には黒鉛と木の葉の擦れる音だけが残った。遠くで時折、鳥の囀りが聞こえる。

 膝上で右手の熱が強まったのに気づき、僕は意識を擦過音の主へと向ける。煙る睫毛に見え隠れする瞳は、研ぎ澄まされた黒曜石のように強い輝きを放っている。負けじと引き結ばれた唇。最初の愛くるしい印象は微塵もなく、むしろ威圧感すら感じられる。

「できましたよ」

ハスキーな低音が心地よく響く。見せて、と右肩から伸びてきた手に帳面が渡り、一瞬の間の後に、それは感嘆の声に変わる。

「わ、激似だ。やっぱりエイミちゃんはすごいな」

クロッキー帳が、今度こそ僕の手に渡る。島崎がこんなに褒めるのだ、相当似ているのだろう。そんな、どこか試すような軽い気持ちで一目見て、僕は言葉を失った。ジュンの顔が、そこにはあった。優男風の、繊細で端正な顔立ち。夢に見たジュンそのものだった。

「どうした、そんなに固まって。似すぎてびっくりしたか」

横から島崎が快活な声で、からかい気味に笑う。――似ている? 僕が?

「そんなに似てますか」

「何言ってんだ、お前。まさに生き写しだぞ」

訝る僕に、島崎が胡乱な目を向ける。そこには挑発も、揶揄もない。

「私が言うのもなんですけれど、すごく似ていると思いますよ」

凛として落ち着いた声に、僕の困惑は深まる。本当に、ジュンの顔だと言うのか。この僕が、ジュンの。考えようとしても、まともな思考にはならない。思考とすら呼べない。「衝撃」や「驚き」が頭のあちこちで弾け、連鎖する感覚。

「まあ、人から見た自分が違うって、ありますよね」

耳触りの良い低音が、脳内の連鎖反応を止める。顔を上げると、島崎とママが、片や怪訝な顔で、他方は心配そうな顔で僕を見ているのに気づいた。まごまごしている間に、膝上から重みが消える。振り向くと、エイミは似顔絵の頁だけを綺麗に破って丁寧に畳む。それを盆に乗って運ばれてきた、彼女とお揃いの淡いミントグリーンの封筒に収めると、つと微笑んで僕に差し出した。

「どうぞ、記念に」

愛らしい笑顔にも、瞳には先程鉛筆を走らせていた折の鋭利な輝きが差し込まれている。

「――ありがとう」

「さあさあ、お疲れ様でした。何か見繕ってお持ちしましょうね」

封筒を受け取ったところで、ママが場の空気を変えるように明るく言った。運ばれてきたカルパッチョやら自家製の燻製やらに舌鼓を打ちながら、その後は世間話が続く。酒の進んだ島崎は饒舌になり、ママも、エイミも、微苦笑しつつもその様子を愉しんでいる。時折、僕の方にも他愛もない話が振られ、訥々と応じる。いつの間にかワインは赤に変わっている。重めの味を気に入ったからか、僕は珍しくグラスを重ねる。身体も頭も、芯から熱い。だが、横目にミントグリーンを意識する度、鞄にしまった封筒のことを否応なしに想起させられる。早く、もう一度じっくり見たい――。逸る気持ちを、美味を求める本能がしばしの間かき消していく。

 

 浮遊感。高揚感。帰路に着く僕を、僅かに欠けた月が冴え冴えと照らす。鍵をつまむ指先は冷えているが、額は熱を帯びたままだ。ジャケットを適当にハンガーに掛けると、僕はメールの着信音を放って、鞄から封筒を出し、薄手の紙を広げる。切れ長の瞳に、通った鼻筋。似顔絵片手にマットレスに胡坐をかくと、変えたばかりのLED照明の下で、紙はほのかに青白さを孕む。それがより一層、心底色白だったジュンの風貌を強調する。紙の上方に視線を移すと、無造作な前髪の合間から、少し神経質そうな眉が覗いている。―眉。

『お前ら、ほんとよく似てるよな』

『違いがあるとすれば、眉かな』

『あ、確かに。ジュンは下がり気味で、リクは吊り気味だな。でも、前髪伸ばせば分からないぜ』

高校受験組も入学し刷新されたクラスで、改めて話題になったジュンと僕の容姿で、初めて指摘された相違点。それが眉だった。だから当時、僕は伸ばし気味だった前髪をばっさりと切った。すると、心なしか、ジュンに似ていると言われる頻度が減った気がした。味を占めた僕は、何か他に、簡単に変えられる点がないか考えた。折しもクローゼットの整理中に母が出していた僕の幼少時のアルバムを見たことを契機に、当初の帰宅部から、突如、テニス部への入部を決めた。簡単に日焼けでき、かつ陸上部のようにハードな印象がないからという、至極単純な理由だった。勿論、後者の方はすぐに誤りだと悟ったが、にも関わらず、不思議と続いた。その甲斐あって、夏頃には、他のクラブメイトのような真っ黒とはいかずともこんがりした肌に焼け、肩周りには筋肉もついた。結果、年が明ける時分には、僕とジュンの容姿が話題になることもなくなった。選択授業で別コースになったことで、そもそもジュンと関わる時間や機会自体が減ったことも一因だろう。加えて当時の僕は、終礼が済むやいなやテニスウェアに着替え、ジュンの姿を横目に、クラブメイトと教室を飛び出すのが日課となっていた。当初、ジュンの表情は、少し寂しげに映った。けれど、それが諦め混じりに変わり、こちらを窺うことなく教室を後にするようになるまでには、そう時間はかからなかった。ついにはいつの間にか、ジュン自身も、別のクラスメイトと連れ立つようになった。その光景を目にした時、身体の奥、特定不能のどこかで、じんわり痛みが滲みた。でもだからと言って声をかけられるかと言えば、再び痛みに耐える勇気は、僕にはなかった。何かが決定打となったわけではない。だからこそ、関係性の再構築は難しい。今や彼は、昔の―出会ったばかりの頃の飄々とした雰囲気を、完全に取り戻している。清浄と風がそよぎ、不浄な僕は近づくことすら許されない。

 僕は姿見の前に立ち、紙上の人物と、目の前の像を代わる代わる見比べる。輪郭、目も鼻も、口元も、全てがよく似ている。軽くため息をつきながら、紙を離してみる。すると、不思議なことに、紙の向こうに何か、赤いものが走った。酔った幻か、と思ったが、試しにもう一度同じようにしてみると、また、赤いものが見えた。僕は思わず目をこする。赤いもの。違う、もっと昏い、熱のようなもの。炎とも言えるかもしれない。紙から目を外し、鏡の中を見つめる。あの赤は、目の前の虚像にはどこにも見えない。どれだけ覗き込んでも、像の瞳は平坦で、諦めとも皮肉ともつかない口元が感情の排された顔を作る。いっそ退廃的だと言われたほうが良かったかもしれないが、無駄に眉が吊っているため、そうも言えない。総じて印象がまとまらない。なのにどうしてか、紙の人物は、昏いけれども赤い。一体どこからこんなものを見出したのだろう。どうしてこんな風に僕を描いたのだろう。

考えあぐね、僕は姿見を離れる。取り敢えず明日も仕事だ。風呂に入らなければ、と紙を折り畳んだ時、裏面の端に何か、走り書きのようなものがあるのに気づく。見るとそれは、電話番号とメールアドレスだった。店のものかと思ったが、鞄のサイドポケットを探って出てきた名刺とは違っている。

 しばらく大人しくしていたスマホが再び鳴動を始める。主は自明である。夜更けの電話など、普通なら向こうが諦めるのを待つところだが、今は訊きたいことがある。フリックすると、スピーカーから豪快さ三割増しの声が耳元に響く。完全なる酔っ払いだ。それでも我慢だと言い聞かせ、流れてきた与太話に適当に相槌を打つ。酔っていつも以上に饒舌になった島崎の話はとめどない。それでもかろうじて空いた間に、僕は核心の問いをぶつける。僕の言葉が終わるや否や、スピーカーは沈黙する。次いで、まじかよ、と呻くような呟きが落ちた。

「お前――それ、エイミちゃんの連絡先だよ」

「え?」

「だから、似顔絵を描いてくれた子の、連絡先なの」

「そうなんですか」

「そうですか、じゃないぞ、これは。すごいことなんだから」

島崎が興奮気味にまくしたてる。予想外の展開に、僕はたじろぎつつ尋ねる。

「あの絵に何かあるんですか?」

「あるある、大あり。彼女、自分の名刺の代わりに客の似顔絵を描くってことで、このあたりじゃ有名なんだ。前にママが、運が良ければ連絡先が書いてあるかもって言ってたけど、あれはこういうことだったんだな」

島崎は妙に感心した声になった。と、何かトリガーになる単語でもあったのか、またすぐに横柄な声色に戻り、如何にこの事象が僥倖であるかを語り始めた。僕は受話器を遠ざけ、じんじんする鼓膜を休める。何でもなさそうに時折相槌を挟んでいたが、内心ではエイミと繋がれると分かってほっとしていた。あの絵を描いた時、僕はどんな風に映ったのか。絵の奥の熱は一体何なのか。訊きたい、確かめたい、と思っても、こちらにしか理由のない状態で、独りであの店に行く勇気はない。だが連絡先を教えてくれたということは、向こうにも僕と接する理由があると考えていいのではないか。

 話し尽くしたのか、やっと通話が切れる。スマホを枕元に放り、僕自身も身を預ける。頬の感触が、徐々に人肌に馴染んでいく。浮遊感が醒めた頭は、大半が代わりに心地よい高揚感で占められる。残った僅かな領域に、ミントグリーンが遊ぶ。長い睫毛の下、磨き上げられた黒曜石が気高く、時折妖しく、煌めいた。


「いらっしゃい」

ハスキーボイスが衝立から覗き込み、薄いレモン色のドレスを揺らして近づいてくる。先日アップに結われていた髪は、肩上でボブスタイルに揃えられている。前回のドレスとあまり変わらないデザインだが、パステル色と髪型のせいか、やや幼なげな印象だ。それでも全体の雰囲気はあくまで凛としている。どうも、と返すと、彼女は裾をふわりとひらめかせて隣に座った。

 あの後、僕は結局煩悶し続けたまま、一晩が明けた。自分にとっては、似顔絵の不思議は当然意味のあることだ。しかし、名刺代わりに描くくらいだから、彼女にとってはただのワン・オブ・ゼムかもしれない。いや、連絡先が書いてあるなんてレアだ、と島崎も言っていたのだから、きっと自分は特別のはずだ。否、単なる営業トークかもしれないぞ―。そうして否定に否定を重ねた結果、彼女にどんな文面でメールするべきか、という当初の問いに対する、建設的な意見は終始出ないままだった。だがそれが「疲労による思考力低下」に繋がり、妙なところで出る僕の心配性を軽減してくれたことで、次の日の夕方に何となくの文面でメールする勇気をくれた。翌朝にでも返信がくればラッキー、くらいに思っていたが、予想に反して、十分もしないうちに返事が返ってきた。こうして再来店の日は呆気なく決まり、ついに今日、「花金」を迎えたのだ。勿論、今日のことは島崎には秘密である。二日酔いの体調不良でおとなしくしてくれることを期待していたのだが、翌日出勤してくると、気持ち悪いと言いつつも、例の絵のことに食いついてきた。なぜそんなに気になるのか分からなかったが、どうやら島崎は、僕とエイミの間に何かしら恋愛感情のようなものが芽生えたと期待したらしかった。適当にあしらっていたが、彼女でもできれば明るくなるぞ、となおも食い下がる。昨晩あれこれ考えてただでさえ疲れているのに、これ以上付き合う気力はない。興味ないですからと切り捨て、僕はその場を逃れた。運よく、島崎の方に急に仕事が降ってきたため、以後この件で絡まれずに済んだのだった。

僕はエイミからメニュー表を受け取ると、ワインリストの頁を開く。憶えのある名前の白ワインを頼もうとしたが、ふと思い出して、エイミに先日の赤ワインの名を尋ねる。少し困ったような表情になった彼女は凛とした女性から少女の雰囲気に戻り、衝立向こうの黒服を呼ぶ。何言か交わし、黒服が一礼して消える。しばらくして、彼は盆にボトルとデキャンタを載せて戻ってきた。なかなか覚えられなくて、と彼女は困り顔のまま、ちんまりと頭を下げる。低めに掠れた声と仕草のギャップが、彼女の強い魅力の一つであることは間違いない。

デキャンタにほの白い手が添えられる。こちらは優美な所作で、両のグラスが満たされていく。乾杯、と一口含むと、記憶と違わぬまろやかな渋みが舌奥を撫でた。

「髪、切ったんだね」

「あ、気付いてくれたんですね」

「だいぶバッサリいったね」

「そうなんですよ。ずっと伸ばしてて、そろそろ飽きちゃったんです」

ふふ、と上がった唇の横で、弧を描く毛先が彼女の仕草に合わせて遊ぶ。会話が途切れ、途端に緊張してきた僕は、一口、また一口、とグラスを傾ける。喉奥がじんわりと熱を帯び身体のあちこちに拡がっていくが、緊張はなかなか解れない。似顔絵のことを訊けるという嬉しさで来てみたはいいものの、いざ彼女を目の前にするとうまく話すことができない。中高男子校、大学は根暗キャラで通し、外国人留学生との深夜のコンビニバイト、ときていたので、仕事以外で女性と二人きりになる状況自体に慣れていない。キャンパス内で、教場で、ゼミで、声を掛けられたことがなかったわけではないが、別段何の感情も湧かず、その機会は自然消滅してしまっていた。だから、こういう状況ではどうするのが正解なのか、よく分からない。何か話すきっかけがないか探ると、記憶の淵から、なぜか先日の島崎の姿が浮かんだ。はにかんだような俯き加減の白い横顔に尋ねてみると、思った通り、島崎はママ目当てに通っているらしい。以前、上役との懇親会で来店した折に一目惚れし、それ以来定期的に来ているそうだ。興味もないので知らなかったが、どうやら島崎の父はこのあたりで急成長中の居酒屋チェーンの経営者らしい。もっとも本人は次男なため後を継ぐことはないそうだが、多くのライバルたちの中でママと近づきになるため、折々に父親の肩書を持ちだしているらしい。ただ残念ながら、今のところ関係性に進展はないようだ。

「視線でいつも追っかけてますね。最初はぎょろ目な感じがちょっと怖かった、ってママが言ってました。まあ、根が素直で熱血系なだけだと思いますけど」

率直な物言いに、僕は思わず笑ってしまう。と同時に、核心に繋がるかもしれないきっかけが転がってきたことに、内心小躍りする。

「その、素直で熱血系、っていうのは、もしかして、絵を描いた時に?」

僕が問いかけると、瞬時に彼女の表情が変わる。目に鋭い光が宿り、唇がきゅっと引き結ばれれば、先ほどまでのかわいらしい女の子の代わりに、一人のアーティストが現れる。

「そうですね、基本的には。ご新規のお客様には名刺代わりに似顔絵を描いて差し上げていて、その時に色々分かる気がしますね。正解かどうかは分かりませんけど」

「いや、日頃接している限りでは、君の言った通りだと思うよ」

「なら良かったです」

凛とした表情が照れ臭そうに緩む。その様子に、ようやく僕は、自分の似顔絵のことを切り出す決心がついた。耳の奥で、鼓動がうるさい。努めて何でもない風に、僕はワインを一口多めに含み、飲み込んだ。

「そういえば、君が滅多に連絡先を客に教えないって聞いたんだけれど――その、どうして僕に教えてくれたの?」

熱が身体を回り、手にしたグラスが揺れる。彼女は眉を開き、一瞬視線を落とす。気に障ったか、と少し焦ったが、次いで黒目がちな瞳が優しく細められたのを見てほっとした。

「初めてだったんですよ、自分の似顔絵を見て戸惑った顔をされたのが」

「ごめん。勿論、すごくうまいっていうのが前提なんだけど」

「自分の中のイメージとは違った?」

「うん」

彼女が柔らかく微笑む。落ち着いた声音に静かな語り口が合わさると、途端に言葉に重みが加わる。

「ですよね、自分と他人の評価が違うことって、ありますよね」

「そう思う?」

「うーん、理論としては知っていても、実際に経験したことは稀でしたね。実際、これまで絵をお見せしたときは、皆さん、すごい、とか、そっくり、とか仰るばかりだったので」

「僕だってそうだよ。家に帰って改めて鏡と見比べたら、そっくりだ、って思ったよ。けど」

「けど?」

柔らかな笑みはそのままに、彼女が次の言葉を促す。しかし、静かな瞳の奥には鋭い光が潜んでいる。厳しさではなく、真実を貫くような透明な光。似顔絵を描いている時に覗かせたものと同じだ。

「見当違いだったらごめんね。何と言うか――絵の奥に、赤いものが見えたんだ」

「赤いもの?」

「うん。赤くて、でも暗さを纏った感じの、静かな焔。鏡の中の自分にはなかったのにさ、絵の中にだけは見えた気がしたんだ」

言葉を切り、僕は彼女の反応をうかがう。静謐は変わらぬまま、僕に注がれ続けている。グラスを傾け喉を潤すと、重厚な味が舌の奥に滞留した。

「私には、上林さんが奥底に何かを押し込めて、抑えつけているように見えたんです」

彼女が口を開く。掠れた低音が妙に艶っぽく響くのは、きっとワインのせいだ。

「押し殺す?」

「何て言えばいいか。表面は波一つないのに、中では食物連鎖が渦巻く海みたいな。あ、でも色からすれば、マグマ溜まり、の方が近いかもしれないです」

デキャンタに細い指を添えながら彼女が言う。淡々とした穏やかな語り口は妙に説得力があり、理解できなくともすんなり受け入れてしまいそうになる。――マグマ溜まり。そんな風に評されたことなんて、初めてだった。消極的で、人と交わらない、根暗な人間。一方で、高校時代の僕は闊達で、人の輪の中心にいることさえできた。どちらがより本来の自分に近いかなんて、今となってはよく分からない。そもそも本来の姿すら、判然としないのだ。口にワインを多めに含むと、音を立てて飲み込んだ。滞留していた思考が再び流れ始め、エイミが少し心配そうな顔でこちらを見ているのに気づいた。

「ごめんなさい、気を悪くしてしまいましたか」

「違う違う、そんなんじゃないよ。ちょっと考え事」

慌ててぶんぶんと手を振って笑みを見せると、彼女の表情がほっと晴れ、グラスにワインを継ぎ足してくれた。

「押し殺しているように見えるなんて、言われたことなかったからさ。ちょっとびっくりして」

「そうなんですか?」

「うん。職場でも、ほら、あの島崎さんとかからも、根暗だとかなんだとか、散々言われててね。まあ、自覚はしてるし」

根暗、と言った途端、彼女はやや不思議そうな表情になる。僕が島崎や部長らに言われたあれこれを披露していくうちに、それは悪戯っぽい笑みに変わった。

「ふうん。島崎さんって、あんまり人を見る目がないんだ。だから、ママにもあしらわれてばかりなのかな」

予想外に直球な物言いに一瞬呆気にとられる。けれど、声音には毒気がない。言ってやった、とばかりに、彼女は澄ました様子でグラスを傾ける。

「そういえば、絵を習っているの? 到底素人のものではないと思うんだけど」

今度は僕が彼女に尋ねる。見た目からして大学生かそこらだろうとは思っていたが、自分の記憶の中の、所謂女子大生の雰囲気とは明らかに一線を画している。特に違うのは、紙に向かう時の、あの目だ。愛らしい容姿に似つかない、鋭利な光が瞳の奥から見え隠れする。まるで、紙向こうの獲物を貫ぬこうとする、黒曜石の鏃だ。

「一応、美大生です。生活費を稼がなきゃなので、ここでバイトさせてもらってるんですよ。お給料いいですし」

「そっか。でも大変じゃない? 接客業って」

「そうですね。正直、今でも大変だと思うことはあります。でもお客さんのことを色々と観察して、絵の勉強になるのは楽しいです」

聞けば、エイミの両親は彼女の美大進学に最後まで難色を示し続けたものの、最終的には自活を条件に折れたそうだ。名刺代わりに似顔絵を描いて渡す、というのはママの発案らしい。

「面白いシステムでしょ」

白い歯をちらりと覗かせ、エイミは茶目っ気のある表情を見せた。

デキャンタに残った最後のワインが僕のグラスに注がれる。優美な手つきに、脳内では一連のやり取りがプレイバックされる。絵のことを訊きに来たつもりが、気付けばくるくると変わる表情に魅せられていた自分がいる。そして何となく、彼女といれば、変哲のない日常も色付くだろうという、根拠のない予感が芽生えた。

ふと頭に島崎の顔が浮かぶ。反りの合わない彼だが、今回だけは立役者と言える。交わることのなかったエイミとの、接点をくれた。面と向かって言うことなどは到底できないが、感謝の意として、焦がれるママとの行く末を祈ってあげてもいいかな、とは思った。先日のママとのことを思い浮かべる。押しが強いが単純な彼にとって、きっとあのママは鉄壁だろう。「島崎さんとママ、うまく行くかな」

「どうだろう?島崎さんは単純っぽいけど、ママは案外したたかなとこありますし」

「それは同感」

僕が応えると、彼女はふふっと邪気のない顔で笑った。



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