Xunxun

第1話 はじまりの夢

 休み時間の教室は、次の時間に返却されるであろう数学のテストのことで騒がしい。

「俺、数学だけはめっちゃ得意なんだよな」

「確かにお前、数学だけはいつもトップだよな。いいなあ、何でそんなにできるんだよ」

「だけって酷くねえか」

教室の後ろの棚の前でたむろして三人で話していると、用を足してきた奴らも加わってきて、いつの間にか七、八人規模の集団になっていた。

「ええっ、本当のことだろ。特に社会系」

「確かに。お、ちょうどいるじゃん、俺と正反対のやつ――なあ、リク」

そう言って加納が振り向くなり、他の視線も団子になってこちらに注がれる。

「リク、文系科目は全部良いのに、理科系はからっきしだよな」

「そうなんだよな。勉強はしてるんだけどさ、なんでか、全然ダメ」

大仰に嘆息してみせると、どんまい、とばかりに横から島崎が肩を叩く。いてっ、と顔を顰めると、周りから茶化した声が上がる。誰かが勢いよくドアを閉め、書初めたちが跳ねる。

「足して二で割れば完璧だな」

そんなことを話しながら、横目をちらりと感じた視線の方にやると、案の定、ジュンがいる。視線が会合しかけた瞬間、大声が横やりを入れる。また島崎だ。

うざったいな、と適当にかわしつつ、再び目をやる。いつも通りの穏やかな顔で前席の学生と談笑する様子に、僕は心の中で溜息をつく。ドアが開き、さんざめく教室はあっという間に仕切られる。上林くん、と呼ばれて教壇に向かい、課長から受け取った答案には、二十四点、が赤々と刻まれている。汗が背中を這う。思わず身をよじると、ふわふわとしたぬるま湯の感触が足の甲をずり落ちた。

ぼんやりと焦点の合い切らない時計の針が鋭角を形作る。一瞬、自分がいつ、どこにいるのか頭が混沌とし、時計を凝視する。ここがアパートの自室で、今日が火曜日だと認識したのは、五、六秒ほど経ってからだ。手を伸ばし、時計の天面を叩く。十分早く起きてしまったが、まあ良しとしよう。一つ伸びをして立ち上がり、毛布を足蹴にする。嫌な汗はいつの間にかなくなっていたが、口内には苦味が残っている。

 朝のルーティンの最中、僕はさっきまでの光景を思い出す。衝撃的な点数は高校二年で叩き出したもののはずだが、あれは確か小学校の教室だった。場所だけでなく、登場人物も、時系列がバラバラだったように思うが、目覚めて一〇分もすれば既に記憶に靄が掛かりはじめている。だが、その内の一人のことだけは、沈むことなく、意識の表層に留まっている。

「ジュン――」

ヨーグルトがけグラノーラを一匙すくい、小さく息を吐くと、胸に籠った熱が少しだけ緩むのが分かる。懐かしさと、後悔と。彼とのことを思えば、一度も夢に出てこなかったのが不思議なくらいだ。無意識に抑えつけていたのだろうか。だとすれば、どうして今になってあんな光景を見たのか。

 はっと我に帰り腕時計を確認し、今度こそしっかり匙に乗ったグラノーラを頬張る。支度を終え足早に向かう駅への道筋を、月と街灯が未だ煌々と照らしている。


始業前の新聞の切り抜きが終われば、やっと一息つける。インスタントコーヒーをいつもより一振り分多く入れ、傍の茶卓のポットから湯をもらう。空調の風向きに合わせて、湯気が動く。一瞬何か面白い造形が見えた気がして、自分の息でも色々と試してみる。

「おいおい、なあに朝からアホ面してんだよ」

小馬鹿にしたような声で、島崎が肩をパシッと叩いてくる。折角湯気の向こうに何か見えかけたところだったのに、勢いよく引き戻されてしまった。

「島崎さん、おはようございます」

「何だ上林、そんな反抗的な目して。俺に敵意でもあるのか」

そんなつもりでは、と無理矢理に眉間を拡げると、島崎は鼻で笑って向こうの島へと歩き去る。その背を睨みながら、僕は膝の間で小さく中指を立てる。ただでさえ苦手な体育会系の先輩なのに、夢の中でも絡んできたことに対する無意味な反抗だ。島崎が着席したので慌てて視線を外し、再び机上のカップに目を向けると、湯気は既に消えている。向こうから聞こえてくるこれ見よがしな紙の音に、そういえば今日は朝一番で会議だと言っていたことを思い出す。あんな夢で起こされたのだから尚更、静かなオフィスで朝の一杯を愉しみたかったのに、とことんついていない。

 机越しに挨拶の声が次々と響く中、僕はコーヒーを乱暴に飲み干し、やっと立ち上がったPC画面を睨む。書き上げたばかりの起案文と最後の格闘をしていると、またあの声が茶々を入れてくる。何故か揃っていない行頭にいらいらしながら声の方に視線だけ向けると、白髪混じりの四角い頭がうんうんと揺れていて、思わず溜息をついてしまう。飲み会の度に昔柔道をやっていたことを自慢する課長は、同じ匂いの島崎とは馬が合うらしい。差し出された資料に満足気に頷く課長。説明の合間合間に顔を窺いつつ、時折口の端を上げる島崎。夢にまで侵食してきた二人は、鱗粉のごとく自信を振りまき、その様に僕の気分は更に毛羽立っていく。

 印刷したての起案文書をきっちりバインダーに挟み、課長卓に持っていく。島崎からの報告を受け、鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌のまま席に腰を下ろした課長は、こちらを認めた瞬間、途端に硬い顔になる。不自然に消された表情が、僕に対する感情をかえって際立たせていることに、この人はいつになったら気づくのだろうか。

「先日ご指示のありました文書、起案しましたので、ご確認お願いいたします」

「おう。早かったじゃないか。なあ――」

「はい」

話を続かせようとでもしたのだろう。課長が語尾に言葉を足したことは分かっていたが、そんな気には到底なれず、一言のみの返答になってしまう。あるかなきか抱いた申し訳なさは、直後、はは、と取ってつけたような笑い声によって一瞬でかき消される。その後は吊り上げた口角を維持するので精一杯だった。それでも、よろしくお願いします、と頭を下げられたのは、もうすぐ一年になる勤務で得たスキルの一つだ。課長はさっきよりも明らかに引きつったような笑いを浮かべ、鷹揚にバインダーを掲げてみせる。その張り子の虎さながらの大仰さに一瞥をくれてやり、僕は踵を返す。振り返らなくても、歪んだ口許で溜息をついていると想像はつく。今回の鬱憤も、近く島崎を経由して、僕の身にかえってくるのだろう。

 弱音のテレビにタイピング音、それに時折雑談を交わす声が無造作に放り込まれる。雑然とした空間では、眠らずに画面に目を向け続けるだけでかなりの精神力を使う。入庁したばかりの頃は何もかもが新しいことだらけで、意識せずとも絶えず刺激が降ってきていたので困らなかったのだが、三か月もすれば慣れてしまった。お陰で手持ちのコーヒーの減りが早い。

「おはよう、上林くん」

画面越しに掛けられる声は、熟れた桃のように甘ったるい。顔を上げると、同期の女性職員が声と同じくとろみのある瞳に微笑みを浮かべている。

「ねえ、今日一緒にランチしようよ。夜は色々忙しいみたいだし」

「ごめん。手持ちの仕事がなかなか終わらないからさ、残業しないように昼休みもやっつけたいんだ」

なおも芳醇度を増した瞳で縋ってくる彼女に絶えられなくなった僕は、お手洗いに行ってくる、と視線を引き剥がす。

 個室に駆け込み、壁に身体をもたせかけて仰向く。通気孔の縁でぶらぶらと揺れる埃を見て、あと一分以内に落ちてきたらここを辞めようと思った。いつもの逃げ癖だ。小さな塊の足はきちんと縁に絡み根を張っているし、風もごくごく弱いのだから、落ちてくるはずがない。それでも「奇跡的に」落ちてくることがあれば、これこそ啓示ではないか、と思ったのだった。ミントで香り付けされた空気を胸の表面で吸い込み、目を閉じる。冷んやりと澄んだ風がすすき野を渡り、咲き初めの梅の香を運ぶ。記憶の中の薫風に染まりたくて深く息を吸うと、鼻の奥まで充満してきた人工的な匂いに堪らず目を開ける。腕時計を確かめると、ちょうど一分経ったところだった。案の定、埃は呑気に揺れたままで、僕は少し苛々する。今日もまた、何も変わらない。分かり切っていることだ。

 席に戻ろうとしたところを、待ち構えていたと言わんばかりに島崎がずいっと近づいて来る。腕を引かれるまま奥の談話スペースに移動すると、ドアを閉めた瞬間振り返り、大きな溜息を吐いた。

「上林、お前さあ。何でもっと愛想良くできないかなあ」

「僕が何かしましたか」

留めた表情筋を崩さないよう気をつけつつ、なるべく平坦な声で応えても、目の前の苛立ち顔は変わらない。

「あのな、そんな、話しかけんなオーラ全開で書類持ってこられたらどう思うよ。ただでさえ週始めなのにさ」

「はい」

短くそう言うと、ほとんどあきれ笑いのようなため息が、鼻先に長々と落とされる。

「お前、人間味がないんだよ。仕事はできるけどさ」

「はあ」

「課長がコミュニケーション取りたがってること、分かるだろ。今日もあの後言われたんだぞ、上林は扱いにくい、どうにかしてくれ、ってな」

「そうですか」

頭の中で声が聞こえる。目線を下げてほんの少し項垂れるだけだ、簡単じゃないか。そうすればこの状況を乗り切れる。だが、いざ実行しようとすると、内腑から放たれる熱い酸性様のものに邪魔され、結局微動だにできない。呆れ顔になった島崎は、とうとう苦笑し始めた。

「もしかしなくても、今まで友達なんていなかっただろ。あと彼女も」

最早憐憫の色すら浮かべられた両の目は、ぱっちりとした二重瞼の下でこゆるぎもしない。湧き上がる熱も酸も濃さを増してきたのを感じながら、左の拳を更に強く握りしめる。

「図星か。まあ、そんな感じはしてたけどな」

だんまりを肯定と捉えたか、島崎は眉尻を下げ、やや大仰に嘆息した。が、次の瞬間、その眉尻は勢いよく跳ね上がった。目がぎらりと光り、僕は何となく嫌な予感がする。不敵な笑みを浮かべると、島崎は一歩こちらに踏み込み、ぽんぽんと肩を叩いてきた。

「よしよし。ま、いいさ」

そう言い放つと、島崎はそのまま歩き去る。ドアの閉まる音が妙に威勢よく響く。僕は強張った左手をゆっくりと開き、掌の爪痕を消していく。昨日切っておいて良かった、などと思っていると、去り際の言葉が不意に頭に転がり込んできた。どうやら未だ僕の「矯正」を諦めてはいないらしい。ここまで来るとその自信に敬意すら覚える。自らのやり方、生き方に一片の疑念も抱かず、がむしゃらに直走ってきた種族。その象徴のような強い目に、好意を持つ人間だけではないことを、人生の先輩を気取るのなら知っておくべきだ。

 壁時計が、休憩室に似つかわしくないいかめしさで、時刻の変わり目を告げる。進行中の耐震工事に伴い、本来の居場所であったロビーフロアを追われ、ここに一時避難しているらしい。今までじっくり見る機会もなかったが、驚いたことに、ガラスに記された寄贈年月日はまだ比較的新しかった。技術もデザインもある種「進歩」した現代で、敢えて旧家の玄関にでもありそうな、ごてごてしい時計。赤絨毯には映えるかもしれないが、ここには全くそぐわない。

 電気を消して部屋を後にする。閉まりかけたドアの間から、壁時計が恥じたように薄暗い影に身を押し込めるのが見えた。


 毛布のような雲の向こうには、茜色から藤色のグラデーションに染まった細波が拡がっている。最寄り駅の跨線橋はビルや電線に邪魔されないので、写真を撮るにはうってつけの場所だ。もちろん目にも焼き付けるが、雲の微妙な質感を描く時にあったほうが助かる。跨線橋を降りて横のスーパーで惣菜を買って帰宅すると、取り敢えず冷蔵庫に押し込み、ベッドマットの傍に開きっぱなしになっているクロッキー帳と鉛筆を掴む。この前の朝焼けは満足な出来とはいかなかったが、何となく今日はいい空が描けそうな気がする。手前の雲の淡い境界線を薄く描き、消しゴムを押しつけながらマット横の色鉛筆セットに手を伸ばし、明るい色から順に徐々に塗り重ねていく。下塗りをしたところで、水をつけた絵筆で色を溶かし、その上から濃い色の部分だけ再度着色していく。

 しばらくすると、画用紙いっぱいにあの夕空が現れ、僕は再び中へと入っていく。極楽浄土――平安貴族が夢見たという、素晴らしき世界への入り口は、きっとこんなふうに黄昏の香気に満ちているのだろう。色彩の中で深呼吸すると、徐々に身体が空に融け始める。手から、足から、末端から心奥へじんわりと、そしてついに残った左目が吸い込まれ、無重力を浮遊する。あらゆるものから切り離され、ただ揺蕩うだけ。有と無の間にいるこの時間だけは、ほんの束の間、僕は自由だった。

 やっと惣菜を温める気になった時には、マットレス脇の置時計はすでに二十一時半を回っていた。冷蔵庫から取り出した食べかけの肉じゃがを温める。歪になった蓋を開けても、その匂いに以前ほど食指を動かされはしない。そろそろおかずの替え時かもしれない。これを機に自分で作るか?いや、却って疲れるし、それに絵も描けない。肉じゃがくらいのコスパの惣菜は何があったか。揚げ出し豆腐、いや麻婆豆腐か。でも辛いタイプだったらダメだな――。思案していると、きゅう、と思い出したように胃が鳴った。ひとまず宥めようと僕はジャガイモをつつき、飲み込む。真ん中部分が冷えたままだったが、再加熱する程ではないと、口に押し込む。

咀嚼と嚥下をたゆまず繰り返し、ついに玄関脇のごみ袋に空容器を放り込む。これでは不十分だと胃から脳に指令が飛んだが、無視してシャワーを浴びる。スラックスから解放された脚はむくみ気味に見える。こういう時は試供品の入浴剤を使おうといつも思うのだが、土日になっても結局は使わず、浴槽の縁に放置したままになっている。面倒くさがりなだけだと内心分かりつつも、水道代節約のためだ、と取り繕う。

 シャワーを終え、大学生時代から使っているくたびれたジャージに着替えても、僕の戦いは続く。もちろん、早く寝た方がいいことは重々承知している。だが、電気を消して毛布にくるまると、途端に目が冴えるのだ。中途半端に視覚が制限されて、動物の本能が呼び覚まされるのだろうか。壁向こうからハングル独特のトーンが聞こえる。LED街灯の光がすりガラス越しに分裂、発散する。刺激された知覚は容易には鎮まらず、繰り返し伝達された脳は至る所で連想を始める。仕方なく一旦起き上がり、照明を点ける。まだ週頭なのだから、少しでも熟睡したいところだ。ふと思いつき、僕は身を乗り出して卓上のスケッチブックを掴むと、今日描いた一枚を開いた。けれども、浄土のようだと思った夕空の感動が、再び訪れることはなかった。目の前にあるのはひどく人工的に色を塗られただけの産物だった。どんなに脳裏に焼き付けても、当初は自賛できる出来であっても、こうして時間が経つと陳腐で無意味に思えてしまう。写真でもダメ、記憶でもダメ。ならば一体どうすれば、日々異なる情景を残せるというのだろう。

――何のために。

何のためか?そんなこと、自分が一番分からない。得体もしれぬ半実体のモヤモヤに身体を奪われる気がしたから、何かに縋りたかっただけ。その何かさえ明確ではなかったけれど、自分の上にある空は美しく、時折見せる切ない程の優しさが、僕を救ってくれる気がしたからだ。

――本当にそうなのか。

本当にそうかだと?真実かどうかなど、誰かが代わりに知っているとでもいうのか。

――でも、お前は代わりの何かを求めているのだろう?

その通りだ。僕は結局独りで立つことができない、臆病者なのだ。弱虫、劣等人種。でも仕方ないじゃないか。僕はそれしか知らない。逃避の産物が無価値と自明して後悔に襲われたとしても、得られる悦楽が刹那でも僕を救ってくれるなら、生き続けるために続けるしかないだろう?

 ひとしきり自問自答が終わり、僕は閉じたスケッチブックを乱雑に卓上に置き、電気を消す。毛布を口元すれすれまで引っ張り上げると、唇に触れる感触がわずかな慰めをくれた。いつもこうだ。自滅的な自問が、夜陰に乗じてやってくる。描き上げた時に全身を包んだ充足や恍惚を再び味わえばせめて夢見でも良くなるかと試してはみたが、うまくはいかなかった。手足が沈む。この重さにはとっくに慣れたが、嫌なことには違いない。逃れたい、自由になりたい。そう思うことは、罪ではないはずだ。


「お前すげえな」

「いやいや、まぐれだって」

四、五人で駅に向かいながら、先日の美術の授業で描いた校内スケッチの話題になる。その日のホームルームで、いつの間にか県の絵画コンクールに出品されていた僕の作品が、入賞したと発表されたのだ。

「てか、校内にあんなところがあったんだな。全然知らなかった」

僕が描いたのは、講堂の裏手にある小さな泉だった。掃除当番に当たったとき偶然見つけたのがきっかけで、誰も来ない穴場として自分の中に大事にしまっていたのだが、校内スケッチと言われて無性に描きたくなったのである。欅の庇でやわらいだ光のほとり、みずみずしくそよぐ風が映り込む雲間を揺らし、泉の底の景色に混ざる。赴任してきたばかりの美術の先生も、校内の新たなアングルに驚いていた。

 クラスメイトたちは、これといって目立たない存在の僕の一面が珍しいらしく、口々に褒めそやしてくる。だが僕の足は、背中に背負った化学の試験のせいで重い。頑張ったはずなのに、正解していたのは元素記号だけだなんて。化学式まで丸暗記すればいいだけだと父は笑いながら言ったが、書けども書けども、海馬の入り口に仕切り弁でもあるのか、見事に弾き飛ばされる。入学して最初の中間試験でこの有り様だ。これからのことを考えると、眩暈がしそうになる。

 それでも何とか周囲のノリに合わせ、駅で別れる。改札を抜けたホームの向こうに、こちらと同じ制服の集団がある。何気なく近づくと、僕の目は中心に浮かんだ顔に釘付けになった。

「ジュン――」

彼はこちらには気付かないまま、他の三人と話している。声を掛けようと一歩踏み出しかけたのだが、涼しげな横顔に不意に微かな苛立ちを覚え、立ち止まる。線路側を向いたまま横目で彼を捉え続ける僕の耳には、聞きたくもない会話だけが届く。

『どうやったらそんなに全部できるんだ』

『すげえなお前』

今回の試験のことに違いない。どんな科目であっても、彼にかかれば呼吸のように当たり前のものになってしまう。本当に、彼はすごい―そう、すごいのだ。

『あーあ、やっぱり頭のいいヤツは違うぜ』

その言葉が鼓膜に触れた次の瞬間、鋭い光の粒がシナプスを超高速で駆け巡ったかと思うと、臓腑の奥底に熱が灯った。マッチの火くらいに小さい、けれども昏い火。ずん、と背中の鞄が重くなった。

 ホームにアナウンスが響き、間もなく向こうのカーブから警笛音が近づいてきた。ホームに電車が入ってきても、ドアが開いてもなお、彼は涼しい顔のまま歓談を続けている。その様子に僕はほっと溜息を漏らし、一歩踏み出す。視界から外れる直前、一瞬だけ、彼の目が揺れた。諦めにも似た、優しい光だった。


 瞼の裏が明るくなり、僕は目を開ける。すりガラスに散らばったプリズムを見られるのは休日の朝の特権だ。就職を機に越してきてすぐに見つけた、身近な芸術。枕の上で頭の向きを変えながら、鋭利な輝きを愉しむのが、土曜の朝のルーティンとなっている。空同様、画用紙に表現しようと試みたこともあるが、光の移ろい全てをつぶさに描き出すには限界がある。

 しばらくの間、光の多様な輝きに魅せられていた僕だったが、口の中で寝起き特有の苦味が主張し始めてきたので、ようやくルーティンを始める気になった。口をゆすぎ、顔を洗う。ひんやりとした化粧水が肌に沁みこむにつれ、徐々に思考が僕の元へと戻ってくる。瞳の中で、揺れた光。なぜ去り際になって、彼はあんな表情を見せたのだろう。二度もゆすいだはずなのに、口の中は苦いままだ。いや、そもそも現実ではないのだから、気にする必要はないのではないか。彼はバスで通学していた。あの駅のホームにいるはずがない。中学時代によく一緒に下校した時も、僕の乗る快速電車が来るまで時間を潰したのはすぐ近くのバス停だった。あんな光景が生まれるわけがない。

 頭の中でそう割り切ると、ルーティンの仕上げに湯を沸かす。戸棚からインスタントコーヒーの瓶を出して蓋を開けると、お待ちかね、と鼻腔が吸いついた。マグに湯を注ぐと、香気で脳が目覚めるのが分かる。

――所詮は作りもの。

覚醒した脳は、理性でもって、至極もっともな意見を出してくる。こんなに建設的なのは珍しい、と感心したのも束の間、案の定、ひねくれた脳は一筋縄にはいかない。

――今までずっと見ていなかったのに、急に夢に出てくるなんて、しかも二度なんて、偶然か?

湯気の立ち昇る液面に何度も鋭く息を吹きかけ、ようやくコーヒーを口に含む。上質とは言えないが、寝覚めの悪いあの苦味は幾分かましになる。偶然―どうだろう。夢判断なんてものもあるのだから、全くの偶然とは言えないだろうが、所詮は虚構の情景だ。

作りもの、作りもの、と、飲み込むたびに頭の中で連呼する。それでも胃の奥、内腑の奥底では、種火のようなものがくすぶったままだった。


 地に足をつけて、というのが両親の口癖だった。県庁職員の父と、職場結婚を機に専業主婦になった母。彼らにとってそれが口癖となるのは当然のことであり、僕自身も当たり前にそう考えていた。勿論、言説の正しさ云々ではなく、子供にありがちな純真さで父母を慕っていたからに過ぎないのだが。だから、小学五年生になりたてのある日、下校しおやつを食べる僕の目の前に、パンフレットを差し出しながら入塾を勧める母の言葉にも、躊躇なく頷いた。入塾時の説明で、中学受験をするためのクラスだと知らされた時は驚いたが、父から、自分もやってきたのだと聞かされたときには、すっかりやる気になっていた。

「あそこの男子校は良い学校らしいから、お前もきっと気に入るぞ」

初めての塾内模試で好成績だったことに喜んだ父は、夕飯の席で、ある男子校の名前を挙げた。知らない学校だったが、次の日塾で友達に話すと、その子は軽くうらやむような眼差しで、隣県の進学校だと教えてくれた。どうやら、医者や弁護士の子弟がこぞって通う中高一貫校らしい。そんな所に自分が行って何になるのか。よく分からなかったが、勉強自体は嫌いではなかったし、何より高得点を取ったときの父の喜色が嬉しくて、励み続けた。折々の模試の成績では上位を保持し続け、目指す学校についても塾講師からも太鼓判を押されるようになった。

「このノウミ君ってのはすごいな」

ある日、持ち帰った模試の結果をパラパラと見ていた父が、ほう、と感嘆しながら呟いた。

「今回も一番だ」

「え、またなの?」

「ああ」

横から父の手元を覗き込むと、確かにまたあの名前が載っている。

「お前も二十番以内なんだから、よくやってるさ」

そう言って父はぽん、と僕の肩に手を置くと、風呂に行くと言って上機嫌で席を立った。残された僕は、改めて冊子を見た。併記の校舎名には、僕が目標としている進学校付近の地名が冠されている。ということは、ひょっとしなくても彼の志望校も同じなのだろうか。ノウミ ジュンヤ――どの科目でも五位以内に入り、総合トップはいつも彼が独占している。そう、どの科目でも。

 両親からは、こら、とからかわれる程度であり、塾の講師からも大丈夫だと言われてはいたものの、科目ごとの成績のばらつきは、このころから僕にとっての不安要素だった。特に国・社と算・理の差は大きく、酷い時には社会はぶっちぎりで一番なのに理科が五十番台ということすらある。だから、どの科目でも常に安定した成績を残せる彼は羨望の対象だった。他にも同じくオールマイティな人はいたのかもしれない。しかし、父の関心を引いた彼の名前だけが胸に刻まれたことは言うまでもない。

 予想通り、彼とは進学先で再会を果たすこととなる。登校初日、僕は無事に目標の詰襟に身を包み、小高い山の中腹に聳える瀟洒な白い校舎の一室にいた。貼り出された席表の自分の名前の横に、見覚えのある読み方を見つけた。鼓動が一つ、不気味なほど大きく音を立てる。壇上から後ろを振り返ると、その席に、「彼」はいた。喧騒気味の周囲と線を引き、やや険しい顔で机上の文庫本に没入する白面は、隣でとさっと鞄を置いても小揺るぎもしない。細く通った鼻筋と紗を落とす長い睫毛。それらが何となく小学校の同じクラスにいた少女のものと重なり、その瞬間、「初対面」の緊張は一気にほぐれた。

「何、読んでるの」

馬鹿げた陽気さと唐突さだった。普通なら引かれても仕方のない言動だったとは思う。けれど彼は表情を変えないまま、開けていた頁に手元の栞を挟み、ちょっと掲げるような仕草で表紙を僕に向けた。

「川端康成。僕、彼の小説が好きなんだ」

彼は事もなげに、世紀の大作家の名を呟いた。今考えれば、到底中学に上がりたての少年が愛読するような作品ではないと分かる。だが当時の僕の関心を惹いたのは、抽象画めいた色彩の渦が冠された、謎めいた本であるということだけだった。

「へえ―いいね、この本」

そう返すと、彼は春の陽射しのような微笑みを浮かべた。改めて向き合った彼の風貌は、かつてのクラスメイトよりもずっと精巧で、繊細に見えた。

「能見 ジュンヤ、ね」

フルネームを口にすると、目の前の端正な顔立ちから、見知った少女の貌が薄れる。切れ長の瞳が驚いたように光った。

「知ってるのかい、僕のこと」

「うん。だって模試でいつもトップだったじゃん」

「そっか、同じ塾だったんだね」

口元をほころばせて笑った顔は、彼女よりも愛らしく見えた。思わずつられていると、つと視線が遠くへ外された。

「上林くんって言うんだね。下は?」

「陸也だよ」

「リクヤ――僕と似てるね」

彼は喜色をにじませた声で言った。それが何となく、僕も嬉しかった。

程なくして、自己紹介やら学生生活に関する担任からの説明やらが行われた。それがひとしきり終わって休み時間に差し掛かった時、前の席の学生が振り返り、横並びの僕と彼を交互に見つめてきた。

「わ、やっぱり。めっちゃ似てるわ」

瞬きと間の抜けた声を返す。聞きつけた学生たちがわらわらと集まり、言い出しっぺの学生が指すままに僕らに視線を向ける。

「確かに似てるな。兄弟みたい」

「頑張れば、双子で通りそうなレベルだし」

「そういや、名前もそっくりじゃん。純哉に陸也だろ」

「じゃあ、今からジュンとリクな」

予想外の展開に追いつけない僕は、縋るように彼の目を見たものの、返されたのは清々しすぎる程に透明度を増した眼だった。


 ヴー、ヴー、という音が、僕をアパートの一室に引き戻す。マットレスの端のスマホに手を伸ばすと、見覚えのない番号が表示されている。今日届く荷物はないはずだが、あるいは父の番号が変わったのだろうか。だとしても朝から掛けてくることは稀だ。そのうちやむだろう、と思ったが一向に鳴り止まない。暴れ続けるそれを流石に無視できなくなり、とうとう僕は充電コードを外し拾い上げる。はい、とだけ応答すると、耳元で聞き覚えのある音が響いた。

「その様子じゃあ、やっぱり俺の番号は登録してないみたいだな」

「――え、島崎さん?」

休日の朝の、上司からの急な連絡なんて、尋常ではない。週明け早々に何か緊急の案件でも入ったのだろうか。戸惑いつつ身構えていると、ややあってから、さも可笑しそうに高笑いが聞こえてきた。

「そうだよ、俺だよ。全く、上司の連絡先くらい登録しとけよなあ」

電話口の声は、明らかにこちらの反応を楽しんでからかっているのが分かる。同時に、先ほどまで僕が抱いていた戸惑いはどこかに消え去った。

「まあいいや。お前、今日どうせ暇だろ」

「――」

「夕方、飲みにいこうや」

「――」

沈黙を肯定と取ったか、こちらに構うことなく島崎は続ける。全く、一瞬でも戸惑い心配した自分が愚かしい。僕の肚の底からは、ふつふつと苛立ちが湧いてきた。

「おうい、聞こえてるか?」

「聞いてますよ」

「なんだ、電波の調子が悪いのかと思ったぜ―じゃあ、行くってことでいいよな」

「なんでそうなるんですか」

「んだってぇ?」

茶化し半分の楽天的な声で、島崎が頓狂な声を上げる。一体、何だと言うのか。朝酒でもしていなければ、仕事でもないのに休日の朝なんかに電話をかけてくるはずがない。

「だから、どうして、島崎さんと飲みに行かなきゃいけないんですか、って言ったんです」

喉の奥からせりあがってくる熱に押され、思わず語気を強めて反駁する。言い終えてすぐ、しまった、と後悔が胸をかすめたが、次にスピーカーから漏れてきた声で、間違いだったと瞬時に悟った。

「はははっ。電話だと存外よく喋るじゃないか。いつでも冷めてだんまり、ってわけじゃあないみたいだな」

電話越しに、口の端を歪めほくそ笑んでいるであろうことは想像に難くない。気付いた時にはもう遅かった。今までのやり取りは、是が非でも会話を続かせようとする、挑発だったのだ。職場にいる自分を思い出し、何とか無口で希薄な人格を取り戻そうとしたものの、もはや後の祭りだった。

「じゃあ、今日の夜七時に、時計台前に集合な」

こちらの葛藤などお構いなしに、鼻歌でも歌いだしそうな調子で島崎が言う。

「行くなんて一言も言ってませんけど」

「大丈夫。もう予約してあるからな」

「え、ちょっ、そんな勝手に――」

あまりの強引さに言葉を詰まらせた僕の耳元で、ふふん、と愉悦混じりの鼻息が、最後通牒のごとく、不気味に響く。

「お前だって、店のほうに迷惑をかけることになったら、良心が疼くだろ」

「――」

「よし。じゃあ待ってるからな」

不敵な笑みを残像に、電話が切れる。入職してまもなく一年、鉄面皮を貫いていた奴に初めてここまで口を開かせられた、と勝利を愉しんでいるに違いない。

 僕は徐にマットレスに腰を下ろす。一時はスマホを毛布にたたきつけたい衝動さえ覚えていたが、今やすっかり鎮まっている。喉元では先ほどの言葉がつっかえて、なかなか飲み込めないでいる。やはりあの夢は予兆だったのだ。罪悪感を思い出させ、僕を苦しませようとする、彼の復讐なのだ。――いや、ちがう。彼はそんな堕ちた思考はしない。全ては、僕自身の醜さが投影されたものだ。清廉で高潔な彼を、いつだって闇に蠢く水路の中から仰ぎ見るばかりの、みっともない僕の姿なのだ。

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