紅葉は散り、桜は色付く

「やぁ君、また来たの」


 古びた森の中を進んでいくと背後から馴染んだ声がした。鳥居をくぐる直前から妙な視線を感じると思っていたのだが、まさかこんなにも暇を持て余しているとは。もう十年来の付き合いのその声は、だんだんとこちらの方へと近づいて来る。


「何度だって来ますよ。彼の本当を知っているのはもう私だけなのですから」


 そう呟きながら先の方へ足を進めた。折れた朱色の鳥居を越えて、割れた石畳も踏み行き、崩れかけの社へ向かって。


「何度も言うけど、そこには誰もいないよ」

「良いんです。ただの自己満足ですので」

「ふぅ~ん、そう」


 壊れた南京錠を傍に避け本殿の中へ入る。神への敬意は持ち合わせているものの、生憎この本殿に住まう神への敬意は全くと言っていいほど存在していない。不敬にもほどがあるが、土足のままで本殿の御神体へ近寄った。


 等身大の鏡を目の前にして足を止める。以前見た時、もう十年も前になるがその時はまばゆいほどの美しさをしていたその鏡は、見る影もなく草臥れて埃に埋もれてしまっていた。鏡を覗いてもそこには何も映らないし、映ったとしてもぼんやりとした自身の影のみ。己ではない誰かを映したことは、あの日以降一度もなかった。


「『移りもの』はもう本当にすべて壊してしまったからね。君たちみたいなのを防ぐために」


 馴染みの声はいつの間にか隣から聞こえている。横目に見た声の持ち主の表情は顔布に隠されて見えないが、このヒトは今、何を考えてこんな言葉を口にしたのだろう。事も無げに告げられたその言葉は、まるで「今日の天気はどうですか」と口にする日常の一片のよう。



 『彼』を奪ったのは私。

 『彼』の生きるという選択肢を奪い取り、放棄するという選択肢を目の前に提示したのはまぎれもない私。



 そう理解しているからこそ胸が痛む。古ぼけた鏡に添えた手をぎゅっと握り締め、視界を閉ざした。


 思い出すのは最後の最後に笑って私を突き飛ばした『彼』の姿。もう十年と少し前のことだけれど、今でも夢に見るし、夢の中では何度だって様々なやり直しを試みた。でも所詮それは夢の中での出来事でしかなくて。何度寝ても何度目を覚ましても、私の意識は鷹司千秋の体の中にあった。



 ずっとずっと、後悔している。私は誰かの命を奪ってまで生きるに値する存在だろうかと。生きるべきは彼で、死ぬべきは私だったのではないだろうかと。今更言ったところでどうしようもないのだけれど。



 ふと瞼を上げて目の前を見やる。相変わらずそこに映るのは輪郭のぼやけた己の姿のみ。握りしめた拳がじんわりと嫌な痛みを主張する。今までの生きてきた時間が全て夢であれば良かったのに、鏡を抜けたこの世界で過ごした時間は確かに己の中に息づいていて。


 己の行いが正しかったと胸を張って言えないから、糾弾してくれる誰かが欲しかった。「君が知りたいだなんて言わなければ『彼』だって今頃楽しく生きていたはずなのに」と、いっそ言ってほしかった。 

 己の行いの愚かさを理解しているからこそ、責任の捌け口が欲しかった。「貴方がはじめから『移りもの』の対処をしていれば、こうはならなかったのに」と、そう言ってしまいたかった。


「……すまなかったね」


 感慨に浸っているとふと声がする。あぁそういえば、このヒトは『神』だった。人の思考を読むなんて朝飯前なのだろう。浅はかな私の思いを読み取ったのだろう神は、声を落として告げた。


「いえ」


 ぐるぐると渦を巻く思いはあるのに。言いたいことも吐き捨てたいこともあるのに。言えたのはそれだけだった。


「どうだい、今の暮らしは」

「人並みには楽しんでいますよ」

「そう、それは良かった」


 鏡を見つめる私の隣に並んでいた神は、それだけ言い残すと靡く長髪を翻してどこかへ行ってしまった。独り残された私は、鏡の前でいつものように跪く。


「祖母が亡くなってもう五年経ちました。貴方の祖母は思慮深く聡明で、鋭い観察眼をもっていらっしゃる。私が貴方の身で彼女の元に帰った時、彼女は真っ先に気づきましたよ。もろもろの説明をしましたが、彼女は何も言わず私を受け入れてくれました。本当に感謝しています」


 持参した紙袋から花束と線香を取り出した。


「お盆も近いので祖母のお墓参りに赴いたのですが、貴方の元にも顔を出そうかと思いまして。近況報告も含めてね」


 鏡の前に花を横たえて、線香にも火をつける。


「今はフリーランスの翻訳家として活動しています。興味の赴くまま多国の言語を習得したおかげか様々な企業からお声がけを頂き、充実した日々を送っていますよ」


 細く伸びる灰色の煙は、上に上に昇っていく。けれどか細い煙は、シャボン玉のように途中で途切れて掻き消えた。細い灰色の線とは裏腹に、色濃く漂う線香の香りがどうしてか恨めしい。


「欧米は大体巡りつくしましたし、ヨーロッパも有名所は観光済みです。ですので、今請け負っている仕事が終わったら、今度は東南アジアの方へ足を伸ばそうかと思っています」


 するりと鏡面を一撫でしてから立ち上がる。表面に積もった埃は拭えても、それ以上の曇りはどうしようもない。「『移りもの』としての機能を失ったからこうなってしまった」と、神は言っていた。周囲の寂れた景観にそぐわない、あの不気味な輝きが懐かしい。そんなことを思いながら未だ曇ったままの硝子に目を細めると、くるりと振り返る。


「帰ったらまた来ますね」


 鏡に背を向けたまま告げた。応えのない再会の約束は、果たして誰に届くというのか。





「やぁ、やっと出てきたのかい」


 本殿の外に出ると神が突っ立ており、まるで私のことを待っていたかのように告げた。山の機嫌が変わってしまったのか、神はしっとりと雨に濡れている。折り畳み傘を持って来ていて正解だった。山の天気はやはり読みづらい。


「まだいたんですね。神様も意外とお暇なんですか」

「心外だな、これでも結構多忙を極めているんだよ?」


 本殿から出てすぐにある大きな木の根元、そこで雨宿りする神に近寄って毒づく。神は洋画に登場する俳優のようにひょいと肩を上げると、腕を組んでこちらに同意を求めた。


「はぁ、そうですか」

「あ、その顔は信じてないね」

「えぇ、まぁ」

「全くもう、近頃の人は……」


 やれやれと神が大袈裟にも顔を振る。芝居がかったその仕草はなんとなく癪に障るが、飲み込んで大人しくしておく。彼とはこれからも長い付き合いになるだろうから、無用な軋轢を生むことは避けたい。


「すみませんね、理解のない人間で」

「おやおや珍しい。いつもだったら食って掛かる小春クンがどうしたというのだい? 明日は槍でも降るのかな?」

「張っ倒しますよ」

「おや、つるかめつるかめ」

「……」


 嬉しそうに他人を弄り倒す姿は人と何ら変わりない。人知を超えた存在のくせにこういう所は妙に人間臭い神は、何がそんなに楽しいのかニコニコと微笑んでいる。ぼんやりと木を見つめながら、神の浮かべる表情に心の中で首を傾げた。


「そういえば君、もうすぐここが無くなってしまうの知ってるかい?」

「え?」

「確か半年後くらいだったかな。ここら一帯の山なんだけど、切り崩されて埋め立て地の土にされるらしい」


 事も無げに告げられた衝撃の事実に開いた口が塞がらない。驚きのあまり神の方に顔を向けると、神は相も変わらずニコニコと楽し気だ。

 一体なにがそんなに楽しいのか。神である『水映神』は御神体と土地があってこそ、その姿形を保てているはずなのに。ソレが無くなるということは消滅を意味するはずなのに。なぜ笑っていられるのか。


「なんでそんな急に……」

「さぁ、そんなの私が知りたいね。でももうどうしようもないんだ。私には何もできないし、何もする気が起きない。元々こちらの世界の住人でもないしね」


 神に尋ねかけるも神はただただニコリと笑みを深めるのみ。彼はなにも言わない。私に助けを求めることもしなければ、現状を変えようという気もないようだ。その笑みに救われたことは何度もあるが、今はその笑みがただただ腹立たしい。


「受け入れるよ、この運命を」


 ただそう言って微笑む。顔布をずらして真正面からこちらを真摯に見る神は、ただ穏やかに目を細めていた。



 あぁ、まただ。

 どうして私の周りはこんなにも、こんなにも――……。



「貴方も私を置いていくのですか」


 神に問う。


「まぁ、そうなるね」

「どうして……」


 目の前にいる神に縋り付きたい、そんな思いを堪えるため拳を握りしめてなんとか気を保った。食い込んだ爪がぐぅっと音を立てて皮膚を裂く。きっと手の平には赤い血がにじんでいるのだろう。でも、今はそんなことよりも目の前にいる神に対して物申したくて。


「消えていく運命にある神の定石と言えば、『堕神』になることでしょう。どうして貴方はそんなに綺麗なままなんですか」

「え、それは私がこんなだからでしょう」

「ふざけないでください!」

「おやおや、すまないね」


 心にもない言葉は雨の中に溶けていく。いつの間に雷まで鳴り始めていたのだろう。ゴロゴロと空を震わす音は、まるで私の代わりに心の内を代弁してくれているかのようで。言えない思いを喉奥に押し込めて絞り出すように声を出す。


「なんで、どうして……皆して私のことを置いていくのですか……」


 神を前にして座り込んだ。雷雨の音に掻き消えるだろうと、人目も神の目も気にせずに泣きじゃくる。


 一番初めに私をおいて逝ったのは両親。医学の発展の停滞した日ノ本での流行り病だったから仕方が無かったと理解している。けれど、まだ幼い内に両親は逝ってしまった。まだ一緒にいたかったし、やりたいこともたくさんあったのに。二人は、幸せそうに手をつないだまま揃って息を引き取ってしまった。


 次に私をおいて逝ったのは将来を誓い合ったはずの許婚。彼は戦場で散ったらしい。私よりも六つ年上の彼は、兄と同じように戦場で戦う人だった。日ノ本全土が戦場となっていたあの世界では、戦わない若人の方が少なかった、生きて日を迎えられる若人は少なかった。許婚の彼も、大きな戦場へ赴く前に笑顔で簪を手渡してきた。「これからの契りだよ」と、いつになく大輪の笑顔を咲かせていたのに。彼も、逝ってしまった。


 三度目に私をおいて逝ったのは運命とも言える出会い方をした別世界の鷹司。彼は私の我が儘に巻き込まれてしまっただけなのに、自分勝手な私の願いにただ頷いてくれて。千秋の最期こそ見ていないけれど、神から彼の訃報を耳にしている。彼も最後の最後に笑って見送ってくれた。彼も、逝ってしまった。


 死から遠いはずのこの世界に来てからは祖母を失った。私と千秋に対するもろもろの理解者であったはずの彼女は、神以外に真実を知る唯一だったのに。彼女は寿命を全うしてこの世を去ってしまった。祖母も、私をおいて逝ってしまった。「貴方は何も悪くないのだから、好きなように生きなさい」と、笑って逝ってしまった。



 この世界に『私』を知る者はいないのに。唯一であった神も逝ってしまうというの? これから私はどうしていけばいいの?



 堪えようのない思いは雫となって頬を伝う。赤ん坊のようにただひたすらに泣きじゃくった。こんなになるまで泣いたのは、入れ替わってしまったあの日以来だろう。



 枯れない。

 どれだけ泣いたってとめどなく涙が零れ落ちていく。



「あんまりだ……こんなのって……」


 神は何も言わない。同情か、それともなにも感じてさえいないのか。人よりも人のような情緒を時たま見せる癖に、やっぱりどう頑張っても人外は人外なのだ。私たちのことは理解できないのだろう。止んだ雷鳴の代わりに、強まった雨粒の音がただただ苦しかった。


 このまま雨に溶けて消えてしまいたい。千秋には怒られてしまいそうだけど、私だって頑張った。もう、足を止めても許されるのではないだろうか。


 そんな私の思考が聞こえてしまったのか、神がびくりと身じろぐのが視界の端に映った。


「……ごめんごめん、冗談さ。私は消えないよ」 


 ふと、耳を疑うような言葉が聞こえる。泣きはらした目を擦り、未だ落ちてくる雨粒越しに神を見上げた。


「いや、まさかここまで思い詰めていたなんて。ごめんよ」


 顔布に隠された顔は表情こそ読めないが、顔の前で両手を合わせる姿は確か謝罪の際に人がよくとるポーズではなかっただろうか。先ほど神が発した言葉と、神がとった行動から現状を冷静に鑑みる。



 あぁなるほど。

 そういうことか。



「私の、早とちりでしたか」

「うん。まぁそうだね」

「そう、ですか……」

 ひきつる息を整えながら必死に返す。


 私は私が思っていた以上に弱く、寂しがりで臆病者だったようだ。これでは神のことを笑えないどころか私が笑われてしまう。必死になって涙を拭った。


「いやぁでも、君がここまで取り乱すとは想定外だったかな」


 神が顎に手を添えながら感慨深そうに言う。人の感情をなんだと思っているのだろうこの神は。一発殴りでもしないと気が済まないな、なんて考えていると、いつの間にか雨も随分と緩やかになっていた。割れた雲からさす陽光を受ける神は、腹立たしいことに見た目だけは神々しさに溢れている。見た目だけ、は。


「お、山神様のご機嫌も元通りだね」


 こっちの気も知らないで神が呑気にも空を見上げる。分厚い雲の晴れた上空では、ピューイと鳥が高く鳴き空を踊っていた。何もいう気力がわかないまま神と空を見上げていると、呑気な神の元に一羽の鳥が舞い降りて来た。それは黒羽の烏でも、小さな雀でも、可愛らしい鳩でもなく。あちらの世界でもこちらの世界でも馴染みのある『鷹』だった。その鷹は神の差し出した片腕にスッと止まると、カチカチと嘴を鳴らした。


「おやおや、今度は君がご機嫌斜めかい?」


 神の腕に止まった鷹は相変わらず羽を膨らませて嘴を鳴らしている。


「ふむ。もうそろそろネタ晴らしといこうか」


 ピュイと、まるで返事をするかのように鷹が一鳴きした。神の腕で大人しくしていたその鷹が羽を広げると、辺り一帯を眩い光が包む。まるで彼と初めて会って、話して、入れ替わった日のように。


 やがて光は弱まっていき、視界の向こうから影が現れる。それは人の形をした影だった。見覚えのあるシルエットをしているような気がするのは気のせいか。


「久しぶり。元気にしてた?」


 懐かしい、声がした。もういなくなったはずの私の声。


「――……元気。とても、とても」


 あぁ、神様。

 貴方はどうしてそんなにも。


 どもりながらも必死に答えた。神はただひたすらに笑っている。


 何も言わずにただひたすら、私たちを見守っていた。

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逆鏡 幽宮影人 @nki

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