孤独な神は匿う
「うわっ」
バタリと倒れ込む。
「手荒なことをしてごめんね。体の調子はどう?」
倒れ込んだ先、視界の端に映る草履の上の方から声がした。その声は『小春』を待っている間に聞こえたあの不思議な声と同じ響きをしていて。ゆるみきった警戒心はなんの機能も果たさなかった。目の前のソレはきっとこちらに危害を加えないだろう、という謎の確信を持って顔を上げる。
そこにいたのは。
「やぁどうも、私は
割れて散った数多の硝子、形を残したままだけど曇ってなにも映さない透明な鏡面。それらを背に立つヒトは自らのことを『神』と名乗った。
神に相応しい荘厳なオーラは一切なく、まるでおしゃれを楽しむギャルのようなテンションで告げる神なんて聞いたことないのだが。この人は本当に神なのだろうか。
「おや、その顔は信じていなさそうだね。いいよ、証拠を見せよう」
そう言うとその神はふと手を掲げる。するとその手の上に位置する空間がぐにゃりと歪み、二つの景色が映し出された。
「こっちは見覚えあるでしょ。君の元居た世界」
空間を支える手とは逆の手で指し示される。そこに映っているのは良く知る地元の風景。のどかな大地に穏やかな風、のんびりと時を過ごす人々の日常。あまりにも見慣れた懐かしい景色がそこに映し出されていた。
「こっちは君が最近お世話になってる世界」
そう指さされたのはどこかの戦場。銃弾が飛び交い、大地が抉れ、風も唸り声を上げる。赤い血しぶきはまるでフィクションのように弧を書いて溢れ出し、倒れ伏せる人々は非日常、その戦場に走る人の服の装飾には『鷹司家』の家紋である三本の鍵爪と羽の意匠が施されていて。城内にいたため本当の戦場は見たことないが、『小春』のいる世界はこんなにも殺伐としているのかと改めて目を伏せた。
「どう? これで信じてもらえた?」
そう神が首を傾げる。神は思っていたよりも人に近しい存在のようで、和服に似た豪華な衣装、艶やかに輝く形のいい唇、世の女性が羨むようなサラリとした長髪、しかしそれに似合わない草臥れた草履。『神』というよりも、やはり少し変わった衣装を着ている美男子という認識の方が強い。
「まぁ一応は」
しぶしぶ頷く。
「なんかまだ不服そうだけど、まぁいっか」
神がフッと手を振る。すると今度は映し出されていた空間が掻き消えた。まるで魔法のような非現実的な出来事は、けれど目の前でしっかり起きており、握りしめた拳に刺さる爪の痛みが夢ではないことを暗に示していた。
「あんたは……なんなんだ?」
「え、神様だけど」
「そうじゃなくて」
「ふふ、ごめんごめん。誰かと話すのが久しぶり過ぎてさ、楽しくって」
神が笑う。朗らかに笑うその神は、けれどどこか儚かった。夢の中で見る影のような、背後が透けているという訳ではないけれどフッと消えてしまいそうな存在感。
「久しぶりって、神集いとか行ってないの?」
「おや、君の世界にはそんなものがあるのかい」
十月某日に開催されると言い伝えられている神々の集い。出雲大社にて行われるそれは全国各地の神が集まるそうで、それに参加していれば孤独なんて縁遠いもののはずなのにと尋ねた。しかし神は不思議な回答をしたまま微笑んでいる。
「『君の世界には』って、あんたは俺の世界の神様じゃないのか」
「え、そうだよ。私は君からすると鏡の向こう側の住人さ。つまるところ『鷹司小春』が生きている世界の神様だよ」
「向こうの世界にも神様がいるのか……」
「もちろんさ。彼女のいる世界をなんだと思ってるの? 神もいない無法世界だとでも?」
「いや、そんなことは」
「まぁ神様代わりの天皇はもういないけど」
「……」
ブラックジョークにもほどがある。笑っていいのか笑ってはいけないのか、曖昧に流した。
「ここは鏡の中?」
「神社とそれから蔵、両方にある鏡に通じる私の神域の中さ。ここは時間の経過も遅いし、魂の本当の姿を暴かれる。だからほら」
そう言って神が俺を指さす。
「今は『鷹司小春』じゃなくて『鷹司千秋』の姿でしょ」
言われてみれば。重苦しい着物ではなくいつもの学生服に身を包んだ、ただしく『俺』の身体がここにあった。いろいろあって女性の身体に慣れざるを得ない状況だったため、久しぶりに戻った自分自身の身体に多少違和感を覚える。俺の身体ってこんな感じだったのか。
「懐かしい?」
「まぁそれなりには」
「なんだ、つまんない反応」
神が頬を膨らませる。顔布で目元まで隠れているはずなのに、どうしてか神の感情が手に取るように理解できてしまう。いっそもっと恐ろしい神であればよかったのに。
「そうだ。君は元の世界に戻りたい?」
神が尋ねる。まるで今日の夕飯は何が良い? とでも言うような軽い口調で。なんだろう、本当にこんな奴が神で良いのか疑問に思うが、それはいったん置いといて。
戻りたいかと聞かれればそうだ。でも戻りたくないという気持ちが無いと言えば嘘になる。だってこちらの世界にいればあの夢を見なくて済むのだから。でも、あの夢が俺の証明だった。あの夢が俺を俺でいさせてくれた。それに『小春』の気持ちはどうなる? これは俺一人だけの問題ではないのだ。さて、どう答えようか。
「……分からない」
「そう」
沈黙。静かになった空間内に俺の鼓動と呼吸音がただ響く。
「そういえばもう少しすれば彼女が来るはずだ。それまでちょっと昔話にでも付き合ってよ」
どこかで微かにカランッと硝子の音がしたような気がした。
*
昔々あるところに、一人の神がいました。
その神は映るものに住まうとされ、水面、鏡、硝子など、様々な場所で祀られていました。
ある時その神は言いました。
「徒然なるままに」
聞く者も言う者もいないのに、その神は独り言ちました。
それからのことです。
普段人前に姿を見せない、見せてはいけないはずの神はありとあらゆる場所に現れるようになりました。
ある時は漁業船の上に、ある時は街の中に、ある時は戦火の燻る大地に。
神は暇を持て余していたそうです、気の赴くままに、自由に世界を散策していました。
神は移動手段として『映りもの』を使用していました。
しかし、不幸なことに神の気まぐれに人間が巻き込まれてしまうようになりました。
神の使用した後、その『移りもの』は機能を失うことなく人を別の場所へ送り届けてしまったのです。
別の場所ならまだ救いがありました。
しかし、その神は『別の世界』へ通ずる『移りもの』も所持していました。
別の世界へたどり着いた人間はさてどういった末路を辿ったのでしょう。
知る人はもういませんが、幸福な最期とはいかなかったのではないでしょうか。
やがて『移りもの』の持ち主である神はあらゆる場所から非難されました。
神も反省して『移りもの』を処分していきました。
しかし、人間の怒りは収まりませんでした。
親しい者、愛おしい者、大切な者。
どこかへ消えてしまった者を待つ苦しみと悲しみは、人間にとって背負いきれないものでした。
やがて著名な神封じの術師が派遣されました。
神はその術師により悪行を働いた妖魔として封印されてしまいました。
それからというもの神は『移りもの』を失い、自身の神域で静かに暮らしました。
唯一残る『移りもの』はとある二つの世界に通じるものですが、それももう人の目に留まることはないでしょう。
神は、独り寂しく神域で過ごすことしかできないのです。
そう、思っていました。
*
「君たちが鏡を覗くまではね」
そう言って神はその場から一歩横に身を引く。ゆぅらりと着物の裾が翻り、そこにいたのは。
「小春」
「ごめんなさい、千秋」
見慣れた着物に黒い髪、鈴を鳴らしながら所在なさげに目を伏せる小春がそこにいた。
「これで今回の主役たちは揃ったね。さぁこれからを決めようじゃないか」
この神は空気を読むということを知らないのか。どうしてこんな雰囲気の中でそんな楽しげな声が出せるのだ。神だからか、神だからこうも機敏に疎いのか?
明らかに沈んだ様子の小春を視界に入れながら、可笑しなテンションの神をじっと見た。
「ちょっと君、なに失礼なこと考えてるのさ」
「え」
「神様舐めない方が良いよ~。すぐにバレちゃうからね」
神が微笑む。威圧を伴ったそれは確かに恐ろしかった。神の前では人なんて路傍の石ほどの存在なのだろう。虎の尾を踏んで噛み殺されるなんて御免だ、大人しくしていよう。
「千秋その、ごめんなさい。私、本当に……」
真向いで小春が話し始めた。神を挟んで向こうにいるからなのか、小春の声はどうしようもなく細く頼りなくて。聞いているこちらがまるで申し訳なかった。
「貴方の居場所を奪うつもりはありません。ただ本当に、世界が広くて、美しくて」
神も今度ばかりは空気を読んでくれたようで、静かに彼女の言葉を見届ける。言葉の途中で崩れ座った小春は、まるで神に祈るかのように両手を組んで顔を伏せた。
「世界ってこんなにも広いんですね。世界ってこんなにも美しくて、でも遠いんですね。一生だけじゃ足りないくらい、どこまでも広がっていて」
ポトリポトリと雫の落ちる音がする。雨のように断続的に聞こえるその音は、小春の方からしていた。
「私、何も知らない……知らなかったの、知りたかったの……」
祈りにしてはあまりにも幼く、願いにしてはあまりにも悲痛。俺のいた世界では当たり前の権利として保障されている『知る』という行為。彼女の世界を体験した身としては確かに息苦しい世界だった。同情せざるを得ない。
外の文化は悉く廃絶され、それを手にしようものなら即半国刑として処され。人も自然も豊かなはずなのに、隣にいたはずの人はいつのまにか戦で帰らぬ人となり。身分により人々の生活は仕切りをつけられて。一体いつの時代の話だってんだ。
「鷹司小春。君のいる世界は確かに生き辛く同情に値するものだ。だからといって他人の人生を奪うのは話が違う。君はもう自身の命が長くないと気づいていた。だから一縷の望みをかけて蔵の鏡へ足を延ばしたのだろう。幸運にもその望みは叶えられたわけだが、不幸な青年の命を君はどう責任を取るのだい?」
神が問う。ひたすら嗚咽を零す小春は、神の言をただ耳に入れることで精一杯なのか特に返事はなかった。小さな肩が不規則に弱々しく跳ねている。
「なぁ神様。やっぱり小春の身体はもう長くないのか?」
「そうだね、長く見積もっても一年。最短で一か月ってところかな」
彼女の身体はもうそこまで限界が近づいていた。
小春は何も言わない。神と俺の話を遮ることもしなければ、ただただ泣いていた。
望み願うはずの命が奪われて、怠惰を貪る命が先を約束されていて。人生は、世界は、こんなにも理不尽で救いようのないものだっただろうか。
……そういえばそうだった。
人生は理不尽で、いつだってどうしようもない。人の願いなんて誰も聞き届けてくれやしないし、きっとこの世界には神なんていない。自力でどうにかするしかないけれど、どうしようもないことばかりで。
生まれる場所が悪かったんだ、環境のせいだなんていう人もいる、口にするのは誰にだってできる簡単な愚痴だ。でも、それを打破できる力を持つのはごく一部の限られた者のみ。
俺と小春は幸運に恵まれて偶然にもそれを手にしてしまっただけ。どう活用するかは俺達次第。
だったら俺は、それを有効活用しなくては。
「神様、もしさ。もし俺がこのまま『小春』でいることを願ったら叶えてくれる?」
神に問う。小春は聞こえているのか聞こえていないのか、顔を伏せたままでいた。
「叶えることは簡単さ。さっきの鏡で君を『日ノ本』に送ればそれで済む」
「じゃあそうして。俺を『日ノ本』に、小春の世界に送って」
神に向かって告げる。今度こそ小春は嗚咽を止めて、静かに顔を上げた。泣きはらした顔は痛々しく赤らみ、目尻から頬に伝う涙は今もそっと滑り落ちている。
「いいのかい? さっきの話を聞いただろう。そんなことをすれば君は、小春のまま死んでしまうんだよ?」
「いい。むしろこれが正解だ」
それ以外にあり得ないし、それ以外は認めない。そんな意を持って神をじっと見つめた。
「いけません、いけませんそんなこと!」
突然、小春が立ち上がり詰め寄って来る。赤い目元はそのままに、全く力のこもっていない手で俺の胸元辺りを握りしめて憤然と。
「私は確かに死にたくありません! でもだからと言って貴方の命を犠牲に生きるだなんて、そんなのあんまりです! 私には到底……お願いです、やめてください」
彼女は俺の身体を抱きしめて泣き始めてしまった。静かにすすり泣く声だけが辺りに木霊する。
「だってさ、千秋君。どうする?」
「どうもこうも……」
尋ねてきた神に目配せをすると、そのまま小春を突き放した。俺よりも小さな体はまるでスローモーションのように後ろの方へ傾いでいく。
「小春! 小春は頭もいいし、なんだってできる! 幸いにも俺の身体は丈夫だからさ、今まで小春が出来なかったこと全部全部楽しんで!」
驚愕に見開かれていく小春の瞳。綺麗なガラス玉のような瞳と一瞬目が合ったような気がした。
「水映神!」
ただ静観していた神に向かって叫ぶ。神であるというのなら、俺のやりたいことなど口にせずともわかるはず。そう、何とも言えない信用を胸に叫んだ。
「それが君の選んだ未来なら……」
そう言ってふわりと微笑む姿は正しく神様だった。俺の知る中で誰よりも美しく、誰よりも清らかなその神様は、ただ穏やかに笑みを浮かべる。
「待って、待って千秋!」
「じゃあ元気でな!」
もう会うことはないだろうから、またねなんて言えるはずもなく。傾ぐ彼女の背後に現れた鏡面が小春を飲み込んでしまう前に、なんとかお別れを告げた。
目まぐるしく廻る俺達の運命は、こうして天秤を入れ替えた。
「ありがとう、神様」
再び静かになった神域で神にお礼を伝える。神を信じたことは今まで一度もなかったけど、今なら心の底から信じられそうだ。水映神限定だけれども。
「いや。結局なにもできなくてすまなかったね」
顔布を上げた神は申し訳なさそうに言う。想像していた通りの整った顔をしている神は、声色通り本当に気に病んでいるようで眉は八の字を描いていた。
「これは俺の選んだ未来。だから気にしないで」
死ぬのが怖くないわけではないけれど、小春であれば人生を有用に使ってくれるという確信がある。だから、彼女に人生を託すのは悪い気はしていないし、むしろワクワクしている。彼女はどんな人生を歩むのか、幸せになってくれるのか。
「そう……どうか君に、愛おしい最期を」
そう言って神がフッと手を一振りすると俺の目の前にも大きな鏡が現れる。蔵の中にあったものと同じそれは、きっと触れてしまえばそれだけで『日ノ本』にたどり着けてしまうのだろう。死への秒針は着実に進んでいく。
でも、それでも。
「選んだのは俺だから」
一歩足を踏み出す。
次に目を覚ました時は俺が『小春』なのだから、ちゃんと演じられるように。最後に見た彼女を思い出しながら暗闇へ意識を落とした。
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