鏡の向こう側
「まず私のいる世界についてお話しますね」
そういって鏡の向こう側で話し始める。
「私の暮らすこの大地『日ノ本』は、もともと『天皇』と言う高貴とされていた一族が治めていました。しかし、先の大戦により彼らは多くの死傷者を招いた大戦犯として国中から非難され、そして処刑されました」
「え、天皇が?」
「はい。そしてその後、天皇とともに厄災をもたらした外ツ国とは一切の縁を切ること、その伝統や文化は廃絶することが国全体として取り決められました」
天皇が国を統治していた。そしてその天皇は殺されてしまい、挙句の果てには鎖国を再度行っている。彼女の暮らす場所は俺の生きる『日本』と似ているようで全く異なっていた。
「天皇亡き今、代わりにこれからの日ノ本を背負っていく人物が必要です。それを決めるために日ノ本の大地は再び戦火に呑まれてしまいました」
「内乱ってことか?」
「はい。私たちの一族も、国の長になる為ではなく私たちの領土を守るために日々戦っています」
凛と歴史を語る彼女は美しかった。平和とは程遠い日々を送っているはずなのに、静かに燃える瞳は確かに闘志を灯していて。
「……すごいなぁ」
「私はなにもしていません。戦の際は兄上がいつも指揮を執っていますから」
「兄弟がいるのか」
「はい。兄とそれから妹。兄上はとても強くて、戦場では負けなしの鷹なんて呼ばれているんです。妹はまだ幼くか弱いですが、きっと兄上のようにしっかりとした人に育ってくれると信じています」
兄を語るときは憧れを、妹を語るときは愛情を。家族を話す小春はなによりも輝いて見えたし、今日話した中で一番活き活きとしていた。
「千秋の世界はどんな場所なのですか?」
「俺の世界? 俺の世界は……」
胸の中に燻る感情を抑え込みながら話し始める。
「天皇は生きてるし、鎖国なんてのもとっくの昔に終わってる。西洋欧米の文化もしっかり取り入れて、おかげ様で地球の裏側の人とだって友達になれる」
「地球の裏側の人と⁉」
「まぁ、行動力のある人ならすぐになれるだろうなぁ。あとは、すごく平和だ。戦争ももう八十年以上前の話だし、基本的には人が亡くなるのは非日常だ」
「平和……」
「俺が話せるのはこれくらいかな」
俺の世界と言うか、俺の知る今の日本を思い浮かべながら話した。
こうして小春の世界と比べてみると、随分と違いがあるというかなんというか。天皇がいないという時点で俺の世界とはズレているし、なんなら鎖国や内乱と言う馴染みのない単語まで登場する始末。異世界と言うのはこうまでも形が異なるものなのか。
いや逆か。異世界だというのにこうも土台が似ていることの方がおかしい。異世界と言うよりは『別の歴史を歩んだパラレルワールドの日本』という表現の方が近いような気がする。
「なんだか羨ましいです」
「……平和が?」
日本と日ノ本の違いについて考え込んでいると、ふと声がした。彼女の世界と俺のいる世界の一番の違いだろう。そう思い挙げた言葉は的を射ていたのか彼女の顔が少し陰る。
「それもありますが、外ツ国の文化についてなんの規制もされていないことが」
「知りたいのか」
「はい。日ノ本の文化も十分素晴らしいものだと理解していますし、それらを作り上げてきた先人達には感謝しています。ですが、国土が異なれば文化や思想もやはり異なってくるものでしょう? 私はそれらを知りたい、世界を見たいのです」
ないものをねだるのは決して悪いことではない。むしろ夢を見て求めることが許されているのは、生きとし生けるものの特権だ。
「外国の話、教えようか?」
望む者には与えられるべきだろう。俺にはそれぐらいしかできないけれど、目の前で語る女性になんとなく重なる情景もあって。咄嗟に思いついた提案を口にした。
「いいのですか!」
小春が嬉しそうに頬をほころばせる。
「俺にできる範囲でいいのなら」
「ぜひお願いします!」
鏡の向こうで小春が手を差し伸べた。俺もそれに倣って手を差し出す。まるで握手をするかのように俺達は鏡越しに手を合わせた。
それがいけなかったのだろう。
一瞬二人の間にある鏡が光を発したかと思うと、ナニカに引っ張られるような感覚に陥った。ぐうっと重い力に引きずられる。そしてそのまま俺は意識を失ってしまった。
*
「お嬢様、小春お嬢様!」
誰かに身体を揺すられている。そんな感覚と共に俺の意識は浮上した。
「ん、ん~……」
まどろんでいた意識から起き上がると、そこには一人の男がいた。しかし不思議なことに、その男はまるで映画やドラマの中の侍のような着物を纏い、腰には鞘に納められた刀を佩いている。一体どういうことなのだろうか。
「え……」
「お嬢様、御身体は? どこか異常はありませんか?」
男が膝をつき尋ねてくる。
「大丈夫です」
「あぁ良かった……」
ほっと胸をなでおろす男は、安心したのかそのまま地面に座り込んでしまった。そんなことはどうでもいい。今この男は俺のことをお嬢様と呼ばなかったか……?
「当主様がお嬢様のお姿が見えなくなったとおっしゃられて、もう家臣総出でお探ししていたんですよ! お嬢様はご病気をお抱えですので余計に心配で心配で……」
「当主様……」
当主、お嬢様。
あぁもしかしてここは。
「どうかなさいましたか、小春お嬢様」
最悪だ。予想していたことが当たってしまったようだ。
ここは『小春』のいた世界。天皇が死に鎖国を再開し、国土が戦で包まれている『日ノ本』だ。
「いえ、なんでもありません」
『小春』になり切らなければ、そう思い慎重に言葉を選ぶ。もし中身が俺だと知られてしまえば、それだけで俺の命が危ぶまれる。そうなってしまえば『小春』の身体だってこと切れることになるのだ。それだけはなんとしても避けなければ。
「はぁ……本当に良かった。さぁ早く屋敷に戻りますよ」
「えぇ、行きましょう」
精一杯『小春』を演じる。事実は小説よりも奇怪だとはよく言ったものだ。まさかこんなことになってしまうだなんて。なんとしてもこの事態を乗り切らなければ、と呆然と思考を止めてしまった頭でぼんやりと決意する。『小春』がこちらに戻って来るまで、俺が元の世界に戻るまで。俺が『小春』になり切るんだ。
*
この世界……日ノ本に来てもう何度日が昇り沈んだだろう。
屋敷の中には小春の言っていた通り兄と、妹と、それからたくさんの家臣たちがいて。毎日がとても賑やかで、忘れていた日常にちょっと懐かしく思ってしまった。
『小春』の身体は不治の病に侵されているようで、毎日のように医者が面談に来ては薬を残していく。その病は結核と似たような症状を呈していて、毎日のように咳き込んでは血を吐いて、時たま高熱を出して寝込む。一か月の間に体験した限りでの症状はこれくらいだろうか。鎖国により外との繋がりを断ってしまったこの国は、もちろん医療の発展も停滞してしまっている。おそらく、じきに寿命が来てしまうのだろう。最近は医者の顔も暗い。
『小春』の兄は『
俺自身にも『
兄である『大地』に会った後からずっと考えていたことがある。それにハッキリとした確信を得たのは『小春』の妹に対面した時だ。
妹の名前は『
俺にも弟がいた。『
おそらくこの世界は鏡映しの逆さの世界なのだろう。こちらに生きている人は向こうでは死んでいて、こちらの男はむこうの女で、名前も丁度逆になるようになっていて。でも、一致する部分もいくつかはあって。
その規則性はいまいち読めないが、偶然にしてはあまりの一致に気づいた時には息も止まるほど驚いたものだ。
そういえば入れ替わって以降、鏡の元に何度か訪れたのだが、しかしタイミングが合わないのか本当の『小春』と会えたことは一度もない。お互いがお互いの世界にとって異質な存在であるはずため早いとこ元の世界に戻ってしまったほうが良いだろうに、なかなか難しいものだ。
俺はいつまでこっちにいるのだろう。おばあちゃんは元気にしているだろうか。仏壇の手入れは、お墓の掃除は、学校は……。気になることはたくさんある。
でも、なにより気になるのは俺がいつまで生きられるかということ。
『小春』の身体は日に日に弱っていっている。もういつ限界が来てもおかしくないはずだ。今日の検診でだって医者の男は渋い顔をしていたのだから。
もし、元の世界に戻れないまま死んでしまったら俺はどうなるのだろう。死後の世界を信じているとかではないけれど、皆には会えなくなってしまうのだろうか。
「……なんてね」
暗い蔵の中で呟く。
もう体を動かすのも辛い。でも、『小春』だってこっちに戻って来たいかもしれないのだから、今日も今日とて鏡の元へ足を運ぶ。鷹司家の敷地内にある古びた蔵の中は、あの社を思わせる薄ら暗さと古ぼけた埃にまとわれていて、でもあの社と同じように鏡だけは光り輝いていた。
「今日は会えるかな」
鏡を背にして膝を抱える。この静けさと温度は体に良くないとわかっているけど、『小春』が現れるタイミングは不明なのだ。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる。長時間待っていればいつかは彼女も現れるだろう。そう思い、今日は一日待つことにしてみたのだ。
どれほどの時間が過ぎただろう。夕方を告げる鐘はそういえば聞こえた気がする。ということは少なくとも三時間は経過したはずだ。今日が終わるまであと六時間。なんとか乗り切ろう。
いつの間にか背中がぼんやりと温かさを感じ取っていた。
「まさかこんなことになるなんて」
背後から声がする。しかしその声は待ち望んでいた声とは程遠いものだった。
「ことの元凶は私だ。君を助けてあげよう」
『小春』のような高く、柔らかい声ではない。低いという訳ではないけれど、不思議な高低感を持つ声だ。こちらを労わるような憐れむような、同情するような、そんな声。
「さぁ、こちらに」
その声と共に体が傾ぐ。
背中にあったはずのガラスはいつの間に消えてしまったのか、俺は背面へと倒れ込んでいった。
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