寂れた社の曇り硝子

「秋ちゃん、ちょっとヨネさんの所に行ってくるわね」

「うん、いってらっしゃい」

「お昼は冷蔵庫の中に入ってるから、ごめんだけど食べておいてちょうだい」

「うん。気を付けて」


 ガラガラと横引の扉を引く音がする。

 祖母は近所に住むヨネさんの茶摘みを手伝いに行ったようだ。新緑も美しいこの五月の頃に獲れる茶葉は、風味もよく味だって別格に美味しい。祖母の家に来てから毎年の楽しみである。


「今日はなにをしようか」

 

 高校生であれば部活にバイト、友人との交友で忙しいであろう土曜日の朝。自転車で二時間の場所にある高校の部活に入る訳もない。高校からこれほどの距離が離れた田舎なのだから、バイト先ももちろんない。友人も近場に住んでいない。することが本当にないのだ。


 課題も、そこまで時間がかかるものはない。昨日のうちに全て終わらせてしまった。さてどうしようか。


「部活、なにか入っとけばよかった」


 朝ごはんを食べる際に使用した食器を洗いながら呟く。そういえば、今日は昼過ぎから雨の予報だった気がする。食パンを咀嚼しながら見ていたニュース番組でそんなことを言っていたような。


「雨、か」


 雨は好きだ。雨の中にいればすべて忘れられるし、雨の匂いはどうしてか落ち着く。


「山の方の散策でもしてみるか」


 久しぶりに雨の中を歩きたい、急にそう思いつき今日の予定は決まった。傘も持たずに山道を。安全に配慮してなどいない自己満足の散歩だが、今日くらい良いだろう。


「昼を過ぎるまではのんびりしていよう」





「へぇ。こんな道あったんだ」


 しんしんと降る雨の中、傘もささずに身一つで山の中を歩く。

 スニーカーは水を吸って重くなり、泥にまみれて汚れていた。


 整備されていない山の道でも意外にも歩きやすい。人が整備などしなくとも、山は生きて生物が息をしている。自然と道も出来上がるものだ。


 木々の葉を押しのけ、水分を含んだ重い泥をかき分けて進む。無心にただひたすら足を動かしていると、いつの間にか山の中腹を過ぎていたようだ。目を凝らすと、祖母たちの家が小さく見える。


「もう少し先を行ってみよう」


 目を細めて景色を眺めていたが、なんとなくきまりが悪く思い目を逸らした。そのまま後ろを振り返って山の奥の方へ進んでいく。


 ここまで登ってきたことはいままで一度もない。祖母の家に移り住んでから、暇さえあればこの山に登っているものの、体力的な問題でこんな場所まで登れた試しがなかったのだ。


「ん? なんだあれ」


 山道を歩きながら辺りを見回していると、ふと目についたものがあった。


 それは、もともとは綺麗な朱色をしていたのだろう、錆びついた色をしている鳥居だ。地面から伸びている柱は片方が途中で折れ、もう片方も地面から傾いてしまっているが、存外しっかりとした造りをしている。奥の方には本殿や拝殿があるのだろうか。


「行ってみるか」


 鳥居の前でちょっとお辞儀をしてから中へ足を踏み入れる。辺りを覆う木々は、山の道々に植わっているものとは種類が違うようで、一気に神聖さに呑まれた。


 半ば地面に埋もれた石畳はところどころ欠けて、過ぎ去った月日と、この場所がいかに風化されたものであるかは容易く想像つく。忘れてしまうのは人の性だと思うが、忘れてしまうくらいなら作らなければいいのに。


 なんて。


「そういうものでもないか」


 歩く。降る雨は未だしんしんとゆるやかに空から落ちてきていた。それでも、傘もない状態で歩いていると髪から水滴が滴るくらいには濡れる。歩く周囲に落ちる雫は体から落ちる雫と、空から落ちてくる雫と、もう見分けがつかなかった。


 しばらく歩いていると崩れかけた拝殿と、奥の方に寂れた様子の本殿が見えた。


「ボロボロだな、どこもかしこも」


 失礼しますと口にしてからそこに足を踏み入れる。本当はこんなことしちゃいけないのだろうけど、何故だか今日はどうしても行かなくてはいけない気がしたのだ。


 拝殿から奥へ進み、本殿の方へ歩いていく。拝殿からそう遠くはない本殿へ到着するのはすぐのことだった。

 本殿を遮る扉は本来であれば荘厳な雰囲気を醸し出していたのだろう。しかし、腐った木がところどころ穴が開き、扉としての役割はもう果てしていない。壊れた両扉にはなんの意味もなさない南京錠がぶら下げられていた。


 扉を押すと、ギィと重苦しい音を立て開く。雨ということもありやはり本殿の中は薄暗く、目を凝らしてようやく中の景色が窺える状態だ。


「『水映神、此処ニ祀ラレシ』。水映神か、聞いた事ないな」


 本殿に散らばる紙片の中からそう解読するも、聞き覚えのないその名前に首を傾げた。もう少し中を散策しようとしたところで、視界の隅で何かがキラリと煌めいた。


「なんだろ」


 光の元へ近づいていく。一度煌めいた後も切れかけの電灯のように点滅するそれは、本殿の一番奥、祭壇のような場所に悠然と立っていた。


「鏡かな」


 金の鈴と赤い房飾り、真ん中の鏡面を際立たせる銀の縁取り。自身の身の丈ほどの大きさもあるそれは、ただの鏡というには些か豪華な造りの鏡だった。おかしな点は他にもある。

 鳥居、拝殿、本殿ともにあんな惨状だったのに対し、この鏡だけは昨日今日作られたかのように光り輝いているのだ。まるでこの鏡だけが時間に取り残されたかのように。


「御神体……?」


 なんとなく、その鏡に近づいていく。

 御神体だから月日を感じさせない風体を保っているのか、はたまた別の理由があるのかは分からない。でも、なんとなくその鏡のことが気になってしまったのだ。好奇心は九つの命を持つ猫でも殺めるというが、鏡に近寄ったからと言ってなにも危険なことなんてないはず。好奇心の赴くまま、俺は鏡の方へ手を伸ばした。


 伸ばした指先はつるりとした鏡面に触れる。ヒンヤリと温度を感じさせない鏡面は驚くべきことに埃一つなく、触れた指先はただガラスをなぞった。


 鏡というものは不思議なものだ。可笑しな力が宿っていると信じられていたり、学校の怪談等ではよく話題に上る。オカルト話やスピリチュアルでもよく聞くし、三種の神器にだって鏡が登場する。もしかしたらこの鏡も、なんてありもしないことを考えながら鏡に伸ばした手に視線を落としていると、ふと可笑しなことに気が付いた。


 俺の手はこんなに細かっただろうか。


 鏡の向こうに映るのはもちろん『俺』のはずだ。しかし、手先しか見えていないのに感じる違和感は、確かにその通りで。どう考えても鏡の前に立つ俺よりも、鏡の向こうに見える手はしなやかで線が細い。これは一体どういうことか。

 もしかしたら、鏡の向こうには俺ではない『俺』がいるのだろうか。


 今日はどうしてか好奇心が強く主張をしてくる。こういった場合は下手に顔を上げてはいけないというのが怪談噺などの定石だろうが、気になって仕方なかったのだ。向こうに映っているのは『俺』か、異形のモノノケや妖怪か、それとも違うモノか。ゆっくりとゆっくりと顔を上げる。


 パチリ。

 鏡の向こうの人と目が合った。


「あ、あの……」


 鏡の向こうの人が口を開く。高い声は決して耳障りな音ではなく、むしろ懐かしさを感じる柔らかな音をしていた。


「貴方は一体……」


 向こうの人が首を傾げる。夜の帳のような黒い髪は後ろでゆるくまとめられ、傾げられた首に合わせてふわりと揺れた。今時珍しい和装に身を包むその人は、服の端で光る鈴を揺らす。


「俺は、秋。あんたは?」


 得体のしれないモノに出会ってしまった緊張と恐怖。それは思った以上に大きく、カラカラに乾いた口を誤魔化しながら答えた。こちらの声がきちんと向こうに届くのかは分からないが、とりあえず本名は避けて適当な名前を口にする。


「私は鷹司小春たかつかこはると言います。鷹司当主の補佐を務めている者です」


 聞き覚えのある名字にすこし驚くものの、無言を貫いた。何が起きるか分からない状況で、こちらの不利になるような情報はできるだけ晒したくない。さて、どうしたものか。


「あの、ずいぶんと変わった格好をしているようですが貴方は……いえ貴方様はもしや皇神様すべがみさまなのですか?」

「皇神様? 俺は至って普通の人間だけど」

「え、そうなのですか?」


 またも首を傾げる女。なんの疑いもなくこちらの言葉を信じるその姿に、今まで頭の中を横切っていた疑念は途端に砕け散る。きっと、この人は悪いヒトではない。そう、直感で感じ取った。


「ごめん、ちょっと嘘ついた。俺の名前は鷹司千秋たかつかちあき。日本で暮らすただの高校生だ」

「鷹司……!」


 目を見開き驚愕する女性は、しかし次の瞬間には笑みを浮かべた。


「同じ苗字だなんて、なんだか運命を感じますね」

「運命?」

「えぇ。この鏡は異界に通じるという言い伝えがあるのですが、まさか異世界にも鷹司がいるなんて」


 両の平を合わせ満面の笑みを浮かべる。


「異界?」

「はい。貴方が皇神様でないというのなら、きっとそちらは私の生きる世界とは異なる別の世界なのでしょう。もしよかったらそちらの世界について教えていただけませんか?」


 なんて荒唐無稽な話だろう。でも、なんとなく。


「うん、いいよ」


 この人との会話が楽しいと思ってしまったのだ。

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