第44話 第一次マルナス会戦(7)
左翼が奮戦している中、右翼を守る特務中隊へと突撃の号令が出される少し前の時間へと巻き戻る。
グラシアムは三十人程度の戦列の中央に配置されており、その隣にミズキやマックスたちがいた。アイリスは別の友人と共に最左翼へと配置されている。
初の実戦を迎えた彼ら三十人ほどの新兵たちはそれぞれ激しい砲撃に対して身をすくむ思いがありつつも、家の名誉と郷土心が混在した不思議な感覚によって立つことが出来ていた。
ふとマックスが王国軍の軍帽のつばを持ち、深く被りミズキへと呟く。
「おい、大丈夫かミズキ。お前顔が真っ青だぞ。」
その言葉道理、彼女の顔は血の気が引いているのだろうか真っ青というに等しい感じであった。本当に気分が悪いのだろうか目を閉じて深呼吸を繰り返していた。
「ええ、大丈夫。ちょっと血の臭いが、ね。」
グラシアム自身は小さい頃に臭いだ事のあるこの生ぐさくも鉄くさい臭い、砲撃によってばら撒かれた肉片によって戦場に充満し多くの人間を深いな気分にさせていたのである。
「でもすげえなグラシアムは、俺でも厭な臭いで鼻をつまんでるのに何食わぬ顔で立っているなんて。」
ミズキの背中をさすりながらこちらへと声を掛けてくる。
確かに自分自身には不思議とそれに対しての嫌悪感もなければ、吐き気を齎すことさえなかったのである。
これは生来からの、先天性の耐性ではなく後天的に得られた耐性であるのだろうか。
自分で考えていて厭な話を言えば小さい頃からずっと”そちら側”に近い死生観を持っているからなのだろうか。
父の生きるための教え、弱者が生き残るための力、弱者として蹂躙された父、思い出せば思い出すほどに気持ちの悪い、敏感な肌に湿っぽいヒルに吸い付かれているかのような身の毛がよだつ感覚が全身を覆う。
ダメだ、ダメだ。このことはとりあえず頭の中からクリーニングをするのであった。
「まあ、その何て言うか。偶々だよ偶々、だから大丈夫なのかな。」
「お前、本当に大丈夫なのか。今泣いているぞ?」
えっ、と頬に手をやれば雫が一つ零れ落ちた後が残っていた。
その現実にとても混乱した、なんで今ここで、泣いてしまったのだろうか。どうして泣いてしまったのだろうか。
父のことなのか?
それはきっとない、父とはあの時お別れしたのだから。
母親のこと?
名前も顔も知らないのに何で泣くの。
そうして頭の中を総動員して考えているグラシアムをマックスは見る。
端麗な顔から零れ落ちる一筋の涙を、今の彼女では絶対に理解できないその涙は純粋無垢な魂の欠片のようだと感じたのである。
だからこそ心配をしたのだ、しかしその涙もすぐ様淀み。くすんだ色合いのように感じてしまった。
「ありがと、何で私泣いてるんだろうね。」
はかむように笑う彼女を伽藍洞のようだと根拠のない考えよぎってしまう。何故そのように感じたのかわからないものの、そんな風に感じるのは初めての感覚であった。
そんな彼女に何故そう感じたのか原因を聞くというのも、何というか答えてはくれないだろうなと自身と彼女との関係性から推察は容易であったし。
何よりも伽藍洞の彼女に答えられるのだろうかとも思ったからである。ただそうした彼女の特殊ともいえる不思議な感触はミズキも薄々は感じていた。
「グラシアム、大丈夫、なの?」
だがこうした抽象的な言い方しか出せないことから空洞の様な空っぽの様だとはすぐには導き出すことはできなかったのであろう。
グラシアムはしばらく何故泣いたのか考えていたものの、考えれば考えるほどになぜか苦しくなる、胸の叫びにも似たこの言葉を封殺して答える。
「大丈夫、私は大丈夫だから!」
その気丈ともいえる笑みを浮かべる。この笑みには強者たれという自縛ともいえる、到底笑みとは言えない苦しいものだと自分でも理解しつつも演じるのである。
二人はそんな彼女をただ見ることしかできなかった、それは自分たちではどうしようもない奥底に眠るその人の闇を知っているからである。
あの時の彼女の精神構造の異常さを身をもって識ったマックスとミズキ、その二人だから気づけたその闇の深さはどうもできないことは明らかである。
ただそうとしか受け入れることしかできなかった二人であったのだ。
しかしミズキはこの何もできないということに対して人一倍苛立ちというモノを感じる属性がある。
生来からの癖というものか、お飾りの良妻賢母とするには余りに悪癖ともいえるその属性はこのような場面でもミズキを強く刺激するのである。
「ねえ、マックス。ちょっと、いい?」
「なんだ?」
「いやちょっとね、マックス的にどうみえたの?」
「そうだな、俺には、なんて言えばいいのだろうな。」
いつものように顎に手をやり、考える様子を見せ言葉を続ける。
「簡単に言えば空っぽっていうのかな、いや俺の気のせいかもしれないけどさ。そんな感じの、マイネンベルグの冬の御姫様って感じ?」
「え?マックスにしては珍しい表現するじゃない、でもマイネンベルグの御姫様か。」
マイネンベルグの御姫様、連合王国の寓話として有名な空っぽ姫のことである。
連合王国きっての名文家かつ世界的に認められた作家が書いた古典の一つだ。
それは雪の溶けない王国の御姫様の物語。寒く池の氷すら踏み込んだとして割れないほどに硬く凍り付いた空気がそこにはあった。
この国の第四王女の御姫様は愛されてはいたけれども、空っぽの御姫様であったのだ。
彼女自身にやりたいこと、将来の展望がなかったのである。だが王国が崩壊したとき、やっとやりたいことが見つかったのである。
それを二文字に訳すと”復讐”。
彼はそんな風だと評したのである。マックスの観察眼自体はとても鋭い物があったし、何より信頼しているのだ。グラシアムの中身をみた者としての共犯者として。
「そうなのね、覚えておくわ。って彼女の過去話って一切聞いたことがないし、一向に話してくれもしないから推察でしかないけどね。」
「ああ、そうのぐらいに覚えてくれた方がこっちとしても助かるよ。間違っていたら大変だからな。」
「マックスが間違えることなんて早々ないような、この前の新入生の不和不調だってすぐ見抜いて対応してたし。」
「おっそう言ってもらえると嬉しいな、この戦いが終わったら何か奢るぜ!」
なんとも古典的な死亡フラグという感じではあるが、素直に受け取ってくれる彼にも、その言葉がどうにも無性に嬉しい自分がいた。
この感覚はあの時の社交界の時の感覚に似ていた。どうして彼に言葉を掛けてもらえると嬉しいのだろうか。
嬉しさのあまり、脳内回路はショート寸前!というわけではないが。この感情の機微というのにも人一倍敏感であり、若干理解の取っ掛かりを得ていた。
高まっていくこの心拍数、激しくも規則正しい血流、嬉しいという感情。全てがあの言葉へと集約されることは、あり得ないと思いながらも出てきてしまう。
私はマックスに恋をしてしまっているのだろうか。
いや、きっとそれは最新の恋愛小説に毒されすぎなのだろう。だってマックスはバカで、一人で突っ走りがちだし、ほんとに困ったら頼ってくるし。
頼りがいのあるやらないやらよくわからない人間だ。私はどっちかっていうと全部責任もしょっ引いて行ってくれる人の方が好きなのだから。
ただ生来からの感情がそれを否定してくるのがわかる。
もう脳内はぐっちゃぐちゃと言わんばかりで、こうありたい自分、本来の自分、身体の自分全てが攪拌されたジュース状態となっていた。
「もう!ほんとにそういうとこがイラつくんだから!!」
「え、えぇ!!なんだよちゃんと褒めただろ?!」
「だ か ら、そういうとこって言ってるじゃない。」
困った困ったと言わんばかりに頭を掻く彼はどこか嬉しそうな顔であった。
なお教官から静かにしろと一喝入れられたのは少し先の話である。
生き残ったものの後悔 砂河豚 @detteiu0120
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