5-5
「なんだい、首のそれ」
「ふふ、いいでしょう。この子がくれたのよ」
彼女はダビドの首に後ろから手を回して抱きしめた。そして、ベルベットのチョーカーを自慢げにつまんでみせる。ダビドは照れからかしきりに唇をもごもごさせていた。
文島さんの惚気具合にボルテージが高まってきたので、文島さんの腹のあたりを見ながら冷たく皮肉る。
「そういえばきみ、太ったかい?」
「なんですって!?」
文島さんは勢いよく歯を剥いた。ぷっくり頬を膨らませて、
「太るようなものなんて食べてないわよ!」
「でもよ、薬だかのせいで体調は良くなったんだろう。なんか血色もよくなったしよ、前が痩せすぎだったんだ。今くらいが一番かわいい」
「ふん……ならいいけど……」
ダビドがフォローすると、文島さんは僅かに頬を染めた。腕組みをして、僕のほうに身を乗り出した。
「はいはい。じゃあ、そろそろ乗船の手続きに行こうか。あまり目立つのはよくないから」
僕がそう言うと、二人はゆっくりと身を起こした。
僕達はベンチから離れ、乗船場にたどり着いた。簡単な手荷物検査が行われ、引っかかることなく、キャリーバッグを預けることが出来た。
ダビドは伯父さんに手土産を買うと言っていなくなったので、僕は文島さんと席を探すことにした。
まだ朝は早いが、乗船所の待合室は穏やかに賑わっていた。大きなガラスの向こう、揺れる水面が見える。待合室にはやはり老人が多い。
その中にふと、見知ったあの女性を見つけた。生き残った療養所の看護師。――都都宮弓子だ。彼女は淡い茶色のダッフルコートの下に、カーキ系のワンピースを来ていた。ムートンブーツを履いている。すらりとした足はぞんざいに組まれていた。
息子のあさひ君と、もう一人女の子が彼女の傍に座っている。あさひ君は船からあがる水しぶきにはしゃいでいた。目に入るもの全て、明るく楽しく見える年なのだ。
「おたがい。お久しぶりですね」
冷たい目だったが、どうにも反応する気が起きなかったので適当に交ぜっ返した。確かに僕さえいなければ彼女の暮らしはいま以上のものだったろう。
そしていまの僕はどん底だし、これからも辛いことを経験し続けるだろうが、それでも 僕は彼女のようになりたくなかった。自分のこの抵抗を、相変わらずかたくなだと自嘲して笑った。
この半年ほどの間、僕はさまざまなひとと出会い、様々な表情を見ていた。弓子さんが見せる母親の表情と、文島さんを監禁していた職員としての汚さ。美保さんの聖人のような前向きさ、そして僕にどう接していいのか分からず、戸惑う弱さ。ダビドの粗暴な態度と、文島さんへの愚直なほどの恋慕。文島さんの意地っ張りで幼稚な態度と、僕を慈しんでくれた寛容な友人としての一面、モドキとしての全てを見透かしたような人格。
ふいに風が吹き込み、僕の短い前髪を揺らした。
人間は多面体――。
今ならわかる。ぼくは文島さんの忠実な手駒になった、そして弓子さんも、運命の手駒だったのだろう。もう何も言うまい。弓子さんの柔らかい手が、あさひ君の肩を撫でるのを見届け、僕は目を逸らした。手ぶらになった僕達は、乗船口への長い廊下を歩き出す。船まではやけに長い廊下が続いていた。文島さんはカーペット地の床を楽しそうに蹴る。ダビドは窓から見える船に目をきらきらさせている。
やがて突き当たりを右に曲がると、乗船用のタラップが見えた。階段を上り、吸い込まれるように中に入った。ダビドは顔には出さないが、初めての船とあってかなり興奮しているらしい。文島さんはそんな彼の手を握っている。
「私たちは船室に行くけど、あなたはどうする?」
「ああ、……僕は船首の方に行こうかな」
「うん」
それがいいわ、と言わんばかりに文島さんが頷く。そして僕の肩を強く掴み、無理やり、
「ねえ谷崎。今後、落ち着くまでもうこの島には帰らないでね。家庭を作って、あの子との子供を産めば、私はもう別人になって暮らせるの。私たちの邪魔をしないで」
「まるで管理されてるみたいだな」
「だってそうでしょう?私の一生を奪おうとしたんだから、あなたの一生で償ってよね」
はっきりと告げられた言葉に、また邪推を始めてしまう。
「もしかしてきみ、こうなって良かったなんて思ってるんじゃないか。あの療養所の地下に閉じ込められるより、薬でぴんぴんした体になって、ご執心のダビドと一緒に家庭を作る方が、よっぽど良いもんな」
「さあ?」
文島さんはダビドの様子を伺いながら、口元を手で隠して酷薄に笑った。目の前の文島さんを見て、背筋に汗を滲ませる。
秘密を見抜かれ意思を剥奪される僕と、泥沼のような恋に溺れて人生を狂わせるダビドと。ダビドと僕が知り合ったことも、僕が療養所に放火した事も、伯父さんが援助を快諾したことさえも、まるで彼女の手の上で踊らされているようだ。
文島さんの長い髪が揺れる。なんの感情も感じない、張り付いたような笑顔をじっと見つめていた。
見かけは単純なようで、やっぱりどこか不気味だ。
文島希――それでも大切な、僕のともだち。
文島さんとダビドとで後で落ち合う約束をして、僕はおもむろに船首へ歩き出した。エンジンが低く唸っている。薄ぼんやりと本土の輪郭が描き出されてきた。風が強めなので、ニット帽をショルダーバッグに突っ込んだ。僕は手摺りに駆け寄った。とぷん、と船が揺れる。
船首は荒波を掻き分けて進んでいく。他の船のない朝の海にあってもそれは力強かった。海を削り、颯爽と前へ進む姿は途轍もなく凛々しかった。僕は手すりにしがみついて、揺れる波をじっと見つめる。
薄暗く輝く水面を、目で貫くようにして追っていた。冬の海とは、こんなに綺麗だったか。
母宛に、家出を綴った手紙を残しておいた。部屋を探せば証拠品が出てくるだろう。文島希を世界から消し去って死体にして、療養所放火事件は終わりを告げる。
言ってしまえば、もう僕には罪を洗いざらい告白し、法に則って償うことはできないし、それを行う意思もない。置き手紙を残し、美保さんに全てを話すという選択が、文島さんに括りつけられた僕の、せめてもの良心だ。そしてそれが、散々にぶつかって傷つけあった文島さんとダビドのためなのだ。
正しいかどうかなんてこの際気にしない。正義が証明できるものなら哲学も宗教もとうの昔に完成されていた。他がどう言おうが僕はこうする。
白み出した空を見上げた。骨の髄まで冷えるような日だが、しかし空には雲一つない。青と白が空が溶け合って、このうえなく美しい。今日は日の出が早いんだな。
この先、僕はどうやって生きて行くのだろう。大いなる不安とともに、期待している自分がいた。僕はいま、世界の夜明けを初めて見つめているのだ。
本土はきっと、この街よりも混沌としていて、きらびやかで、葛藤も何もかもたたきつぶしてくれるかもしれない。あの時僕を支配していた憎しみとは、もう決別してしまおう。けれど、全てを忘れてはいけない。あいつ――父や母や美保さんのこと、生まれてから中学生まで生きたこの島のこと、過ちのこと。
心臓がどきどきしている。僕は船の行く先としっかりと向き合った。
愛することを恐れないで――。文島さんのあの言葉を胸に強く刻みつける。 僕はある祈りを胸に秘めながら、空を見上げてみせた。夜明けの柔らかな光に照らされながら、僕は少しだけ泣きたくなった。
【完】
==
これにて完結です♪
つたない作品でしたが、最後までお読みいただいてありがとうございました。
気に入っていただけたら感想などいただけるととても嬉しいです♪
死体はともだち※2016年版 さえ @skesdkm
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