5-4

 来た道を戻ると、ぼんやり波打つ水面が遠くに見えた。『彼』ーーもとい、ダビドと思しき背中がベンチに腰掛けていたので、僕はそこに歩いていった。

 海は凪いでいた。漁船の小さな影がゆらゆら揺らいでいる。朝靄に包まれたそれらは、緩慢な動きで波を掻き分けている。波打ち際の水面は硬くせり上がり、次の瞬間、白い鉤爪となって砂浜を撫でた。ターコイズブルーの水面は、さながらガラスだった。

 人影のない海辺で、僕は呑気にあくびをする。母なる海。陳腐なフレーズを思い、ベンチで遠く水平線を見ていた。

 こちらに気づいたダビドが、挨拶するように右手を上げた。


「どこ行ってたんだ手前」

「美保さんち」

「へえ」


 僕達は並んでベンチに腰掛け、夜明けの海を眺めていた。水彩絵の具でぼやかしたような色合いだった。空は真っ直ぐに青く、グラデーションを経て、水平線近くは薄いサーモンピンクに染まっている。

 ふと、肌寒いな、と彼がぼやいた。見れば彼は上着を着ていない。恋愛小説を見習って、文島さんに上着を掛ける彼を想像すると、おかしくてたまらなかった。

 僕は髪をかきあげた。背後から朝日が照らしてくる。


「君には迷惑をかけたな」

「んだよ、気持ち悪いから畏まるな。友達だろ」


 ダビドは鼻を掻きながら言い放つ。文島さんにも言われたあの言葉が、どうにもくすぐったかった。

 そして、僕はダビドに告げる。


「なあ。何があっても、彼女だけを愛してくれないか。いずれ生まれいづる君の子供たちを、めいっぱいに愛してやってほしいんだ。愛情の中で生まれ育つということが、どれだけ素晴らしく美しいことかを身をもって教えてやって欲しい。どう生きたって結局はおとなにならなくちゃいけないしね」


 僕は空を見上げながら返した。僕の境遇を思い出したらしく、彼は複雑な顔をして頭をあげた。


「俺は文島が好きだ。文島が俺を好いてくれてるのも分かってる。だから、二人で一緒に進んで行きてぇんだ。どっちかが突っ走ることも、座り込むこともいやだ。だから俺は俺の出来ることを全力でやる。でも谷崎、きっと少しずつずれる時が来る……その時は、ちょっとでも力貸してくれや」


 彼は自分に誓うように話した。恋に酔うと笑うのは簡単だが、今この海辺にいることが彼の意思を示している。


「文島さんも伯父さんの交換条件についてあれこれ案じていた。僕はできる限り力になりたい」

「ありがとうな、谷崎。きっと不幸にはしねぇよ」


 僕は顔を見ながら、しみじみと返した。


「そうだな。僕も……僕の出来ることを……」


 そこで大きく息をつく。背もたれにぐったりともたれかかった。彼がこちら側に頭を向けて、どうした、と聞いてきた。僕は夢見心地で答える。


「なんでもないんだ……ただ……もう誰も、君のことを臆病者だなんて言わないだろうよ」


 過去の自分をぶん殴りたい。こいつはでかすぎる体のくせ繊細だし、その割に気は利かないし、口は悪いし、頭もよくないだろう。それでも、文島さんのことを誰より想い、努力している。これからの生活の見通しもいちおうは立っているし、支える意思もある。今の彼になら、文島さんを託すことができそうな気がした。

 僕は眼鏡を押し上げて、気分を変えようとのびをした。

 あのころの僕は逃げ出したいと願い、今それが現実になろうとしている。数え切れないほどの重い罪を背負いながらも、それでも僕はこれからも生きていくのだ。

 ふいに後ろから、文島さんの声がした。


「あら、待たせてごめんなさいね」


 彼女はコンクリートをご機嫌で蹴った。僕は彼女の首筋に目をやる。コートのファーから覗くのは、見覚えのない黒いチョーカーだった。

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