5-3
午前四時、空気はぴんと鋭利になる。海沿いの道路を走って、うっすらと白い並木道を抜ける。坂道を上り、下り、橋を渡って、住宅地にたどり着いた。フードがぱたぱた、背中でゆれる。寒さに身をすくめた。
やがて細道に入り、一般的な二階建ての家屋が見えてきた。民宿なだけあって、彼女の住まう家には、ご丁寧にも目立つ看板がたてられていた。周りは駐車場で囲まれていて、やはり人気はない。こんな時間に美保さんが起きているかいささか不安だったが、二階の角部屋にはぼんやり明かりが灯っている。
草を踏みしめる音に気づいたのか、窓の中、前髪を梳かす美保さんが見えた。誰だか確認するように目を細めたのち、彼女はこちらを向く。
「谷崎くん!?どうして……」
「あー、えっと、……おはよ」
僕は苦笑いして片手を挙げた。美保さんは意外そうに目を見開いた。
「こんな時間にどうしたの」
「えっと、言わなきゃいけないことがあって」
彼女は怪訝そうな目でぼくを見ていた。
そこで僕は、一つの疑念を得た。今の彼女はいつものように、きれいに編まれた三つ編みをしている。彼女の性格と髪の長さから、今起きたというわけではない。
「なんで、そんな服きてるの。その荷物はなに。学校はどうするの」
彼女の声は悲しいくらいになめらかだった。
「えっと。その……驚かないでね。ああいや、やっぱり驚くのもしょうがないかもしれない」
「焦らさないで。なんのはなし?」
美保さんは手を何度も組み直した。その不安げな様子に萎縮したが、ここに来たからにはもう後には引けない。僕は彼女をしっかりと見据えた。
「僕はきみに嘘をついた」
「谷崎くん!」
「ねえ」
美保さんの叫びを遮る。
「これはさ、どうしようもないくらいの戯言で、軽侮されるくらいばかで、すっごい自己満足なんだけど、それでもお願いしたいんだ。いつか、僕がすっかり成長して、きみに顔向けできるようになったら、――きみに会って、きちんと謝りたいんだ」
「どうしてそんな事ばっかり言うの!?謝るようなことされてない!ねえ、学校に行こうよ。それで、今のことも全部話して――」
「無理なんだ」
彼女は窓枠を掴み、大きく身を乗り出した。
「どうして!?それこそ、『逃げる』ってことじゃん!?」
「いったんは僕もそう考えた。けれど、償わなくちゃいけない人が、ひとりだけ生き残っているんだ。僕や、あの事件が消える事でしかその人は救われない」
「それって、文島ちゃんのこと?」
大きく息を吐き出しながら、視線を下げた。彼女にはそれが頷きに見えたらしい。
美保さんは顔色を変えて、窓際からさっと離れた。
「待って! 今そこに行くから。ちゃんと話そう」
一階の扉が開いて、美保さんが靴も履かずに駆け出した。
「僕の父の療養所がプロバンガスの爆発で燃えた事件。あったろ。あれ、全部いんちきなんだ。本当はあれ、事故じゃなくて事件なんだ」
美保さんは少しの間を置いて、
「やっぱり。捜査の方向性が突然変わって、おかしいと思ったんだ。ずっと不審火だって騒いでたのに、いまさらプロパンガスの爆発だなんて言い出すんだもん。それで?」
美保さんが小首を傾げる。僕は拳を作った。
「療養所に放火したのは、ぼくなんだ」
沈黙が永遠にさえ感じた。さっきまで何気ないふうを装っていた彼女は、痛ましい表情で僕を見つめている。美保さんはまた、とてもかなしそうに顔を歪めた。あのね、と優しく前置きをして、
「文島ちゃんから聞いたの。あなたが、お父さんを殺したって」
あいつ、余計なことを。僕は内心で舌打ちをする。けれど、これで美保さんのショックはなんとか軽減されたかもしれない。
僕はうつむいて、しゃきぱき、と音を立てながら、霜の降った草を踏みつけた。
「わたし、……谷崎君のことが好きだった。きっと恋してた。ダビドは、いいんだけど。……わたしじゃダメだったの?」
ぼくはしばしためらって、それから言葉をつづけた。
「ダメだったのはぼくのほうなんだ」
「ずるい。そんな言い方されたら責められないじゃない」
「最低な人殺しだってわかってても、きみはぼくのことが好きなの?」
「……谷崎君は悪人なだけじゃない」
「それってどういう意味」
「あの教室の中で、あなたの周りにだけ、ひんやりした静謐な空気があったの。あなたの、傲慢で子供じみていて素直な強さが好きだった。息苦しくて人目だらけのこの島の中で、あなたはたった一人自由にすら思えた」
「そっか」
ぼくは美保さんの手を握り締めた。
「あのね、もう二度と、ぼくみたいな人を好きになっちゃいけないよ」
美保さんは、最低だね、とかすれた声で笑った。強がりが透けて見えるような笑い方だった。
僕はもうすっかりしめった袖口で、目のあたりをごしごし拭った。
「僕は海に行かなくちゃ」
「……わたし、これから毎日、真理くんをさらっていった波のことを憎むんだろうなあ」
彼女があんまり寂しそうに笑うので、ぼくはやりきれなくなった。寒さ以外のなにかで、鼻先がつんとしていた。
「さよなら、美保さん」
彼女は、真理くん、だいすき、とかすれた声で呟いた。ぼくは、さよなら、ともう一度繰り返した。僕は僕を罰さなければいけないのだ。僕は自転車をつかみ、ペダルを強く踏み込んだ。自転車を立ちこぎでかっとばす。
美保さんは泣かなかった。責めもしなかった。僕の名を呼びながら、パジャマも乱れた髪もそのままに立ち尽くしていた。あれじゃ足の皮が道にへばりついて、かじかんで痛くて仕方がないだろう。
「谷崎くん、どうして行っちゃうの。待ってよ。谷崎くん。谷崎くん。谷崎くん……!」
美保さん。もう追いかけなくたっていいんだよ。労わらなくていいんだ。君は僕なんか気にかけずに、もっと遠いところまで飛び立って、むきだしの価値観で君の夢を追うべきなんだ。そこまで考えて気付いた。僕には何を言う資格もない。
「谷崎くん。ねえってば」
何度も繰り返される響きが切なかった。もうさよならなんだと思うと、悲しくて、さみしくて仕方なかった。最初から、きみが僕のそばにいてくれたならよかったのになあ、君の側に居られればよかった、そうしたら、僕は……。
タイヤが音を立てて枝を踏み付ける。路面がやや凍っているので、走って追いつけるくらいのスピードしか出せない。
文島さんは、死を覚悟した時彼を呪ったという。『彼』を知らないままなら、それを求めて苦しむこともなかったから、『彼』を呪ったのだ。でも彼女はそれを後悔し続けていた。それならば僕の言葉は、
「――さよなら。美保さん……!」
僕は彼女への最期の言葉を告げた。美保さん。君が君であれるように。それが、僕の抱く気持ちだ。
美保さんは少しの間、僕を見つめ続けていた。しかし、僕が止まるつもりはないと悟ると、やがて、栗色の髪を凛となびかせて家に戻った。その華奢な背中から、やりきれなさがいっぱいに伝わってきて、僕は胸を引き裂かれるような気持ちになった。彼女が家に入り、勝手口がぴしゃりと閉じられるのを見て、僕は一抹のさみしさを覚えていた。
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