5-2

 谷崎を見送り、家を出る直前、電話がけたたましく鳴り出した。『彼』が止めようと動いたが、間に合わず文島が受話器を手にしてしまう。切れとジェスチャーで示すが、その電話口の相手を見て、はたと手を止めた。幼なじみ、灯椿美保の苗字だ。


「もしもーーし! こちら谷崎家、文島であり、そうでないものー!! こんなに朝早くどうしたね!? お元気かな!?」


 その異様な口上から、美保は通話相手を察したようだった。美保は電話口に向かってまくし立てた。


『あなた、文島希さんでしょう? もういいかげん懲りたでしょ。いいの!? あんな所で生きていたら、死んじゃうんだよ!? 付き合ってられないよ』


 美保は呆れ果てて言った。


『谷崎くんからきいたんだけど、文島ちゃん、病気があるんだよね? いくら、あの倉庫ならあいつと居られるからって、不衛生な所にずっと住んでたら危険だよ。それに、当時療養所にいたあなたが、警察の前に顔を出せば、少しは犯人を見つける糸口が掴めるかもしれないのに、倉庫に引きこもって……』

「馴れ馴れしいなぁ君は!?」


 自分を棚に上げ、文島は電話口で叫ぶ。それでもどこか上機嫌そうな文島を見て、彼はため息をつくばかりだった。


 「君は善人と呼ばれるかも知れない、しかし、君みたいなやつがいちばんあくにんなんだよ!」


 文島は頷き、陶酔して続ける。


「優しくしていれば、谷崎が心を開いて、その悲しみを君にぶつけるとでも思ったのかい? あっのねぇ、分かってないなぁ、谷崎はどうでもいい奴でも大切な人でも構わず、傷を覆い隠したがるヤツだったのさ! 誰にでも優しくしていればかまわず信頼して貰えると思うなよ! 世界はそう甘くない」


 ……何なの? そう言いたい気持ちをぐっとこらえて美保はくちびるを噛んだ。私、頑張ってたつもりなの。みんなを傷付けないように、優しく出来るようにしてたつもりなのに。


『けれど、私は私の信念を突き詰めていくまでだよ』


 理不尽を覚えつつも、美保はこともなげに言った。その言葉に、文島は腹を抱えて笑い出した。美保は呆気に取られて困り顔になる。


「アハハハハハ! 君はやっぱり谷崎に信用されてなかったみたいだねぇ! 谷崎のことが好きだったのに、おお哀れなこと!」

「何のこと?」

「ぜぇんぶ、何もかも、一から百まで、文島と谷崎の自作自演なんだよねぇ! 療養所放火事件は!」


  文島は笑いをこらえながら、美保に言ってみせる。吐息が漏れ聞こえた。しばらくの間を置き、平坦な声音で、

『言ってる意味が分からないよ』

「谷崎は父親の抑圧から逃れたかった。文島は病から逃避し、あの子との恋愛に溺れていた。どっちもとっても療養所を壊したかった。そして、君が祭りで遊んでいた頃、谷崎は療養所に火を付けた」


 美保は沈黙していた。


「文島は」

『嘘!』


 美保は文島の言葉を遮って言った。文島はきゃらきゃらと言う。


 「本人に聞いてみたらどうかなぁ!?」

 『文島ちゃんのこと、信じられないわ。谷崎くんが放火なんてする訳ないっ……!!だって、谷崎くんは――』


 その最後の言葉が聞こえる前に、文島は受話器を叩きつけた。これ以上は、自分が踏み込んではいけないラインだろう。文島は彼に向き直った。


「いこうか」

「いいのかよ。その、美保はよ」


 彼はまたおどおどしている。自信なさげに受話器を見る彼に笑いかけた。


「構わないよ。眠くなってきたもの。それに、谷崎も彼女のほうに向かってるんじゃないかな」


 彼は納得し、文島を肩に乗せた。しばらく歩くうちに、彼女は寝息を立て始める。肌寒さが頬をちくりと刺していた。その背で安眠する文島を思いながら、『彼』は思索に浸っていた。

 他者からの悪意に弱いだけで、自分の本質は平和な男だ。ステゴロ殴り合いよりかは、日向ぼっこして、甘い生菓子を食べて、農業にでも精を出す田舎暮らしのほうがよほど幸せだ。そういう意味では、療養所が燃える直前が一番良かった。文島がいて、伯父との話もなく、仕事も学業も自分なりに頑張っていたし、家族仲もこの年頃にしては良かった。

 ……おれがその気になれば、文島をはねのけることだってできたんだ。

 しかし、その苦手な道を選んででも、自分は彼女を求めたのだと実感した。

 谷崎に比べれば家庭は平穏きわまりなかったし、そんな家庭を作れればと思う。喧嘩馬鹿だの何だのと言われてはいたが、その都度叱ってくれたし、結局は愛情を注いでもらった。意味のない寂しさの中、文島を求めたことについても、父は認めてくれた。

 ため息をつけば、空中に凍るように白となる。本音を言えば、何も害することなく生きていきたいものだ。

「で、文島。そろそろ寝たふりはやめにしねぇか」

「げ」


 文島は‘’モドキ‘’状態から抜ける時、きまって眠気を訴える。しかし珍しく、彼女の昏睡が浅いことに気づくのは簡単だった。

 さて、いつ文島と‘’モドキ‘’は統合されるのだろう。


「今回はどこまでおぼえてる?」

「カフカ、読んだ」


 文島は無愛想に答えた。


「ダメだな、相変わらず。本当に断片しか記憶が続かねぇ」

「しょうがないでしょ。私だってなりたくてあんな……あんな喋り方にしてる訳じゃないのよ!」

「でもなぁ、やっぱあの状態は手前のしんそうしんり? に、関係してんじゃねーかとは思うぞ。なんだっけ、『これ』?」

「うるさいわね!?」


 文島は真っ赤になって、彼の背中に顔を埋めた。小説漬けだから、影響されてあんな喋り方になるんだ。ずっとそう考えているぶん、彼の言葉は恥ずかしすぎた。


「まあ、事故でも起こんねぇうちは、面白いと思うぞ。あれ」

「想像を絶するくらいつっまんないわよ」


 文島はすねて、彼の服をきゅっと握りしめた。それに気づいた『彼』は、わずかに残った雪を踏みしめながら、


「なあ。本当に来て良かったのか」


 文島は何か言いたげに彼に身を寄せた。彼は椅子に大きな図体を預けて、文島の横顔を見つめた。


「手前、病気だろ。今ならまだ、生き残ったって名乗り出て、実家に戻ることだってできる。そうしたら、いい治療が受けられて、寿命だって少しは伸びるだろうよ」

「私を疑ってるの?」

「いや、そういうわけじゃねぇけどよ」

「いくじなし」


 文島は首に手を回し、胸と腹を押し付ける。彼の肩越しに頭を置いた。『彼』は照れてうろたえた。

「離れろっつの。重いんだよ手前」

「あら、私ひとりさえ支えられなくて、どうして誰にも頼らずに生きるなんて言えるのかしら」


 文島は拳で『彼』の背中を叩いた。『彼』は素直に嘆息して、


「あのな、文島。谷崎にも美保にも言われたが、手前はほんとは家に帰ったほうがいいんだ。俺と本土に渡ったら、手前の死期は間違いなく早まる」

「本音はどうなの?」

「それでも、おれは手前がすきだ」


 文島は笑いをこらえようと耐えているようだった。『彼』はふっと笑う。


「困るよな。すまねぇ」

「いいえ。――ねえ、攫ってくれるくらい強引な人のほうが、私には丁度いいと思わない?」


 耳元で聞こえるあの強気な声に、ダビドは照れたような苦笑で応えた。それならば、と彼女の細い腰をぎゅっと抱きしめ告げた。


「俺と生きてくれ」


 格好つけていう彼は、耳まで赤い。文島の表情がほころんだ。

 彼女にとって愛情は麻薬だった。谷崎や兄の周二が見抜いていたように、彼女は『思い立ったら止まらない』性格なのだ。何かにつけて臆病で平和を望む『彼』や、自意識の塊で内省を繰り返し生きる谷崎、あるいは信念のもとに生きる美保とは違い、情にほだされ、熱を上げるのは仕方が無い。

 文島はふんと短く笑い、身体を起こす。それから、手を回して彼の額を中指で弾いた。にやり、笑って、


「お安い御用よ、かわい子ちゃん」


 『彼』に頬を擦り寄せる。

 彼女の生きる末が変わることはない。それでも彼女は、破滅に向かって情熱的に生きることを思い、充分すぎるほどに満ち足りていた。

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