五章:友達

5-1

『父上、あなたは肘掛椅子に座ったまま世界を支配してらっしゃいました。あなたの意見が絶対正しくて、他の意見は全て狂って変で、おかしな意見ということになってしまいました』


 しばらくの間、僕はちくちくするような文章と戦っていたが、ついに耐え切れなくなって文庫本を閉じた。せっかく文島さんが貸してくれた本だが、僕にはまだ早すぎた。

 身震いをして、窓の向こうを見る。日はまだ昇っていない。朝早く、文島さんと『彼』が僕の家へ来て、食事を摂ってから船に乗る予定だ。文島さんが生きていることを悟られてはいけないので、なるたけ目立たないように行動するつもりだ。しかし、未だ文島さん達が来る気配はない。


「こんなに冷え込むなんて思ってなかった」


 僕はひとりごちて、ニットの裾を引っ張った。ストーブはつけているが、そろそろ灯油が切れそうだ。

 その時、ドアのチャイムがなった。本をテーブルに置き、スリッパをつっかけて応対する。文島さんをおぶった『彼』が立っていた。ドアが開くと、『彼』は文島さんを下ろした。確かに文島さんに凍結した路面を”目立たないように”歩かせるのはきつい。コートには溶けかけの雪がくっついていた。

 『彼』は寒さに対して過剰なまでに武装していた。顔の下半分はマフラーに覆われ、手袋とボア地の帽子からかろうじて顔が覗いている。ピーコートの長身と子供っぽい耳あてがちぐはぐだ。彼はくしゃみを一つして、


「俺は寒いのがきらいなんだ」


 声が既に震えている。大丈夫かお前。

 文島さんは黒のニット帽を被り、黒のファーコートを纏っていた。『彼』との比較を抜きにしても似合っている。


「すごくしっくりくる」


 僕は懐かしい気持ちで彼女を見つめていた。文島さんが纏うコートは『彼』のもので、彼女の身長には大きすぎる。その姿は、親の服を着る幼子のようだった。


「やっぱり似合うだろ!? この服が一番なんだよ!」


 文島さんは目を金に染め、きゃらきゃら笑う。あー、モドキモードか、応対が面倒臭い。彼らのぶんのスリッパを出しながら、


「じゃあ、食事にしようか。上着はそこに掛けておいて」

「俺は脱ぎたくない……」


 『彼』が弱々しく抵抗して、服の裾をつまんだ。


「じゃあ勝手にしろよ。灯油も残り少なだ」

 吐き捨てる。二人をダイニングに招き入れ、ストーブの設定温度を少し上げてやった。

 僕が嘆息しているうちに、文島さんはパンや卵の位置を探り当てていた。彼女が包丁を手に取るのを見て焦って駆け寄る。


「やめろ、モド……じゃない、文島さん! 君は包丁の使い方を知らないだろ!危ないってば!」

「アハハハ、ケツの穴の小さい男だなぁ! ビギナーズラック発揮するから問題ないよ!!」

「ビギナーズラック以前に、そもそも卵は包丁で割るものじゃないからな!?」


 まな板の上には生卵がちょこんと置かれていた。両手で包丁を振り上げる彼女を無理矢理押さえつける。この状態だと本当に危なっかしいな。包丁を没収し、文島さんを雑に蹴飛ばした。


「僕がやるから、君は食器でも出してくれ!」

「た~に~さ~きぃ、君は料理なんかできるのかい?毎日弁当頼りだろ!?」

「さすがに卵を焼くくらいはできるわ!」


 お嬢様生まれで無菌培養の上、思考状態のおかしい今の文島さんに包丁や火は任せられない。それに僕のほうが台所の勝手は知ってる。

 『彼』といえばストーブにへばりつくようにして凍えていた。文島さんお前の嫁だろ、早くなんとかしろよ。それともストーブと結婚するか?


 僕は呆れ返りながらも、やっとこさ目玉焼きとトーストを仕上げた。行く末が心配すぎる。

 四個綴りの安いヨーグルト、トーストと目玉焼きだけの食卓だったが、二人はこれからに心躍らせているようだった。文島さんはイチゴジャムがお気に入りのようで、手にとっては舐めて遊んでいた。『彼』は牛乳を煽る。


「これからの予定なんだが、五時に出る船に乗って本土に行く。着いたら伯父さんが色々案内してくれるらしい。しばらく時間があるな」

「へぇ」

「気のねぇ返事だな。手前、もう母ちゃんとはお別れしたのかよ」

「母さんは今、ちょっと心を弱らせてるみたいなんだ。僕が父親を殺して家を傾けました、揉み消しに協力するよう言われたので逃げます、なんて言えるわけないだろ」

「言っちまえばいいんだよ。その方が母ちゃんも憎む対象ができてせいせいすらあ」

「馬鹿」


 『彼』は、ヨーグルトの蓋の裏をぺろっと舐めた。


「どっちにしろ、何かしらお別れはしといたほうがいいぜ。俺は伯父さん通して連絡取れるけど、手前は今生の別れだろ」

「そうだな。自分で気持ちの整理は付けておきたいと思う」

 文島さんはとうに食事を終えて、僕が読んでいた文庫本をパラパラめくっていた。歓喜に声を上げて、


「なるほろろ!カフカか!いい趣味してるな、谷崎のくせに!」

「文島さんが勧めてくれたんだけどね」

「そうだっけ?ふふん、さっすが文島、いい趣味してるな!」


 モドキはコートの袖をわたわたさせてはしゃいだ。僕は生返事を返した。食べ終わった食器を片付けたのは褒めてやらなくもないぞ、文島モドキ。


「君は両親ときちんと別れたのか?」


 彼はトーストを咥えながら頷く。嚥下して、


「おふくろは俺が本国に行くって信じて泣いてたが、おやじは違った。おやじ、俺が文島と付き合ってることとか、家からこっそり食べ物持ち出したり、服を買ってやったりしてることとか、多分全部気づいてんだ。これからについても、本国に行くわけねえとは、思ってんだろうなあ」

「夏休みの間毎日通ってたんだろ? そりゃバレもするよ。しかし、君のお父さんは文島さんとの関係を許しているんだね」


 どうやらな、と、彼が得心して頷いた。


「俺、次男坊だけど一人っ子なんだ。俺が生まれる前に、兄ちゃんは死んだ。おふくろの兄弟間の争いが大元の原因だったらしい。遺産とか家督とか、めんどくせー事あってトラブったんだろうな。で、そんなことで子供を喪いたくねえってんで、こんな遠い島に来たんだと」


 なるほど。生まれ育ちも外国の彼ら一家が、全く縁のないこの島に来たのはそんな理由だったのか。ということは、あの伯父さんとも昔悶着があったのかもしれないな。


「兄ちゃんがどんな子供だったかは聞いたことねぇが、おやじはさぞかし俺に期待してたんだろうな。俺がこんな息子じゃなきゃ、猫っ可愛がりしてたろうよ。だから、文島と生きること、許されたんだと思う」

「悩んだすえの結論が、生きたいように生きろ、ってか」

「ああ」


 意味ありげに伏せられる青灰色の目の奥、彼は何を考えているんだろう。

 食べ終えると、『彼』が全員分の食器をまとめて流しに持って行った。僕は最後に荷物の確認をする。僕の貯金ぜんぶと、着替えと生活用品。金は盗られても平気なように分散して入れておいた。忘れ物があるとすれば。


「かあさん、ありがとう」

 母はあのやつれ具合が嘘のように、安らかに眠っていた。白髪がぽつぽつ交じった髪が、枕に広がっている。この様子じゃ、昼まで起きないだろう。

 印鑑や通帳なんかをすべて探り出し、ベッドサイドテーブルに置いておいた。親子でやっていくには厳しいが、母が慎ましく生きるには充分な額だ。

 僕が隣町へ渡れば彼女は配偶者と子を失うことになる。母さん、親不孝な息子でごめんなさい。もうあなたに言い訳できないくらい僕は淀んでしまった。けれど僕はもう恐れない。目の前がぼんやり滲んできた。いけない。自分で決めたことなのに、泣いていいもんか。乱れた布団を整えてやる。そして後ろ手に、優しく扉を閉めた。


「さよなら」


 思いをいっぱいに込め、しかしそれだけを告げた。

 下へ降りると、モドキは僕のカフカに読み耽っているようだった。灯油を継ぎ足す『彼』があまりにがくがく震えているので、カイロを手渡してやる。『彼』が洗い物を済ませていて、流しはきれいに片付いていた。彼は大きくのびをした。

 

「んじゃ、そろそろ船に乗るとするか」

「待ってくれ。乗船手続きは五時の少し前なんだよな。今は三時過ぎだから、まだ時間に余裕はある」

「それがどうした?」


 はしゃぐ文島さんを娘のように抱きかかえ、『彼』が言った。恐らく彼女の豹変には慣れっこなのだろう。滑稽でもあった。僕はカーキ色のコートを着込んで、キャスケットを深くかぶり直した。


「ちょっと出てくる。先に乗船場に行っててくれ」

「船の時間に遅れねぇようにな」

「了解!」


 『彼』と文島さんが荷物をまとめ、家を出るのを見届けた。僕は自転車に飛び乗り、早朝の真っ暗な街へ駆け出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る