8月の八尺様
しばしば
8月の八尺様
8畳間の隅で、液晶タブレットに向かい絵を描く男。
筋肉のないヒョロい体に、無精髭が生えた覇気のない様子である。
名前は
絵描きをしている。
九十九神が淡々と描いている絵は、人間と化け物の中間のようなもの。
彼にはどうしても逃れられない悲しい癖のようなものがあった。
子供の頃から何を描いても怖くなる。
育った田舎では九十九神の絵はとにかく嫌われた。
それでも描くという行為だけに夢中になり、はや三十年。
絵を仕事にできているのは、かなりの幸運なんだろう。
描くもの全てが理想の真逆だとしても……
九十九神がタブレットの中に、肉の裂け目や血管や腐った色味を描き入れる。
禍々しさを増す絵。
今日の仕事は、ホラーゲームのクリーチャーデザイン案。
九十九神はペンを置きファイルを閉じる。
「よし。あと一つだ」
自然と独り言が漏れていた。
ファイルを開く。
ファイル名「
八尺様は、背が八尺、メートル法で約2.4メートルある女。
主食は少年。
ネットロア、つまりインターネットで生まれた伝説の化け物だ。
そのとき、デジタル時計が 02:00:00 を表示した。
モニターの中で、ラフな下書きが、
……動いた。
「ん?」
絵が、口をパクパクしている。
九十九神の息は止まった。
絵はモニターの中を歩いて移動し、ツールバーの「T」のアイコンを叩いた。
文字入力の枠が現れる。
ぽぽぽぽぽ…とパソコンから妙な音が鳴る。
「うわっ!」
と叫んで九十九神は飛び上がり、後ずさった。
モニターに文字が、一文字ずつ入力されていく。
「何か忘れてない?」
しかし九十九神は文字に気付かずに、スマホを持って部屋の外に逃げようとしていた。
突然、電車の警笛が激しく長く鳴り響いた。
扉を開けると電車が通過していく。
「うぎゃああああああああああ!」
ノベルゲームでよく見るみたいな叫びをあげて、九十九神は扉を閉め、振り返った。
ぽぽぽ……の音が段々大きくなる。
九十九神はパソコンに近づく。
現れている文字を読み上げた。
「『何か忘れてない?』……?」
文字と、下書きをじっと見る。
そしてあることに気付いた。
「あ。帽子」
文字が消え、別の文章が一文字ずつ書かれる。
『正解。帽子だよ』
そこで一旦消えて、仕切り直し。
『帽子と長い黒髪と白いワンピースがあれば、それはみんなの八尺様だよ』
「……八尺様」
九十九神は呼びかけた。今まさに、描こうとしている絵の名前。
『はっちゃん、でいいよ』
「はっちゃんは、なんで動いてるんですか」
『手と足があったから』
「僕のこと…く、食うんですか」
『絵が、食えるわけないでしょ』
「じゃあ、なんでここに来たの」
『丑三つ時だから。もう寝たら?』
「……〆切前日に夜中から朝にかけて集中してやるのが、僕のスタイルなんで」
『だったら集中して、早く帽子を描いて仕上げなさい』
八尺様が急かすから、九十九神は渋々帽子の線を描く。
野球帽の絵。
『これじゃない』
「ですよね」
九十九神、描く。
小学生の通学帽を。
『惜しい感じはするかなー。他は?』
九十九神、描く。
シルクハット。
『だめだ。遠ざかった。次どうぞ』
九十九神、描く。
ミッキーマウスの耳付きの帽子……
『ディズニーランド! 行きたい!』
八尺様の下書きのテンションは爆上がりした。
耳付き帽子をかぶって上機嫌である。
『キミ、絵、上手いね~。さらさらさら~って綺麗に描けるの、プロっぽくてかっこいー♪』
「一応、プロなんで」
『でもこの帽子じゃないんだ』
八尺様の下書きは、消しゴムアイコンを叩いて耳付き帽子をアッサリ消してしまった。
そして九十九神のことをじっと見つめた。
『ほんとは、覚えてるんでしょ』
「何をですか」
『帽子のこと』
イメージが押し寄せて来る。
無音の中、見上げるアングル。
白い鍔広帽子が風に舞う。
「覚えて……ない……」
頭が痛い。
九十九神は目を閉じた。
『代わりに描いてあげる』
警笛が鳴り響いた。
いつまでもいつまでも、長くなっている。
あの日。
粘土で作った小さな赤い花のブローチ。
とてもよくできて、「夏休み工作教室」で皆に褒められた。
それを差し出す、小学校に入ったばかりの夏の、九十九神の手。
「きれい! ありがとう」
目線よりも随分と背の高い、髪の長い少女の姿。
幼馴染の、ひとつ年上のお姉さん。
粘土の花を白い鍔広帽子に付けている。
よかった、喜んでくれてる。
彼女は帽子を被って無邪気に笑う。
線路が見え、それがぱっと光って目が眩んだ。
強い風が吹いた。
離れていく葉月の後ろ姿。
帽子がない。
そのときそれは、
それは……
「やめろ!」
自分の叫び声で現実に引き戻された。
モニターに帽子の線画。
八尺様の下書きが描いた下手な絵だ。
赤い点が付けられている。
『正解は、これだよ。』
九十九神は打ちひしがれた気持ちで、もうモニターを見ることができなかった。
「はっちゃん。僕のこと恨んでるよね。あんなもの渡さなかったら…」
『私はきみのはっちゃんじゃないよ。』
八尺様の下書きは、モニターの中で帽子の絵を投げて遊んでいる。
『何か忘れてない?大事な話。』
ふわん、と景色が霞む。
八月の空。
あの子はそういう名前だった。
はっちゃん、って呼んでた。
葉月の手の中で帽子が向きを変え、赤いブローチが見えなくなった。
「大事な話があるの」
なに、と問う前に、葉月の体は砕けて粘土の赤い花になった。
ぱらぱら散って、帽子だけが残る。
世界が霞む。
見慣れた8畳間で、九十九神はフラフラとペンを握る。
「仕上げるんで。動かないで」
八尺様の下書きがまた文字入力枠を出した。
「動くなって言ってんだろ!」
九十九神が絶叫し、八尺様は黙った。
ぽぽぽ、と音だけが時おり鳴る。
「忘れない……絶対に、忘れない……」
九十九神の、呪うような声が時おり「ぽぽぽ」の音と重なった。
絵を描いているとき、視神経は目の前のモニターに集中するけれども、心は半分ぐらいどこか別の世界に行ってしまう。
赤い花の粘土ブローチがポトポトと落ちて降り積もる。
葉月が立っている。
──大事な話って、何だったんだろう
葉月の唇が動く。
声は、聞こえない。
大事な話なのに。
──わからない。
粘土の花が積もり葉月を半ば埋める。
再び葉月の唇が動く。
声は聞こえない。
──わかるわけない。はっちゃんはもう、話せないから。
白い帽子が飛来し、目の前が真っ白になった。
温かい。
帽子じゃない。
誰かのてのひらが九十九神の瞼に触れている。
背後から、葉月の声だけが聞こえた。
「恨んでないよ。大好き」
随分長い間、時間が止まっていた。
手が痺れて動かない。
だけど描かないと。
ずっと描きたかったものが、今なら……
モニターの中、丁寧に、なぞる。
それは思い出の中にある、葉月の優しいまなざし。
***
次の日はゲームディレクターの藤原とのZOOM会議だった。
ちなみに藤原は、ホラゲのディレクターには珍しく女性である。
「八尺様は、リテイクですね」
デキル女の声のにべもない反応に、九十九神は無言で顔を顰めた。
藤原は言う。
「イラストとしてはすごいクオリティ高いんですけど、さすがに可愛すぎるというか、可愛くてこれだけ浮いちゃってるんで」
「わかりました。怖くします」
結局、いつもの……
仕事なんだから、そりゃそうだ。
画面の中で藤原が、ふふっと笑った。
「九十九さん。これ、敢えての提案でした?」
「そんなんじゃないです」
「今度、ホラーじゃないやつも一緒にやりましょう。すごく綺麗で…ステキです」
「これ、没ならツイッターに出してもいいですか?」
「タイトルが出なければ、いいですよ。ツイッター見てます。普通の人間の絵、全然ないですよね。嫌いなのかと思ってました」
そう言われて、かっと頭が熱くなった。
「嫌いじゃないです! 逆です! むしろ僕は、もともと、綺麗な人を描きたくて」
藤原は相手の急な熱意に当然驚きの反応を示したが、黙って真面目な顔で聞いてくれている。
「でも全然うまく描けなくて、なんでだか捻れたりバラバラになって、何描いても怖くなる。きっと一生そうなんだって思ってました。だから、プロとしてはダメなんですけど……描きたかったものを描けて、見て貰えて、気に入って貰えたの、なんか、何だろな、生きる勇気? が、出ます」
傍らのモニターの中で、可愛すぎる八尺様が動き出す。
八尺様、いや、葉月が、遮断機も警報機もない、田舎の「勝手踏切」の線路を走って越える。
風が吹いて葉月の帽子が飛ぶ。
遠くで警笛。
小さい九十九神が全力で駆け寄って、抱き付いて止めた。
地面に倒れ込んで体を打って痛かったけど、そんなの全然気にならないぐらい嬉しかった。
今度こそ、彼女を守った。
自由に描く夢の中ではせめて、もっと早くそうしたかった。
今まで何をためらっていたのだろう。
特急電車が猛然と通過する。
帽子は最前車両の屋根に落下して、車体が帽子を被って運んでいく。
九十九神も葉月もポカンとして見送り、それから顔を見合わせ笑った。
長い間ただ、笑っていた。
笑いが自然と収まった頃、葉月は言った。
「
「えっ!」
「家が遠くなっても、遊んでくれる?」
九十九神、「うん」と何度も頷く。
「はっちゃん。僕も大事な話、ある。ずっとはっちゃんのこと……描きたかった」
「ほんと!描いてよ」
「描いていい? 僕、願いを叶えたいって思ってもいいのかな。はっちゃんはもう何も願う事、できないのに。僕が願いを叶えたいだけで、勝手に描いていいのかな」
「晶が行きたい所に、葉月も連れてって」
山かげから電車が見える。
屋根から帽子が剥がれ、花弁のように空へ飛ぶ。
葉月が美しかったことを、思い出が優しかったことを、取り戻せないならせめて描き、残そうと九十九神は決めた。
永遠を生きる怪異に比べたら人の命はとても短いから。
そうして白い帽子の色の光に、世界は眩しく包まれていった。
8月の八尺様 しばしば @shibashibaif
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