第8話 哲学12作

国家(全2巻、プラトン)

メノン

饗宴

快楽について

純粋理性批判(全7巻)

道徳形而上学原論

判断力批判(全2巻)

自殺について他四篇

善悪の彼岸

道徳の系譜学

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学

善の研究




 哲学書である。おれは好んで哲学書を読んだ。読むべき哲学書を厳選すると、結局、プラトンとカントばかりになるという凡庸な選書になってしまった。



プラトン「国家」(全2巻)


 西洋哲学の最も重要な哲学書である。巻物十巻からなるのだが、最初の巻物一巻は、哲学をするならぜひ読むべき必読書である。正義とは何かについて書いてある。世の中には「強いことが正義である」と主張する人がいるが、哲学とは「強いことが正義である」を論破することなのである。「強いことが正義である」ことをプラトンは論破した。そこから西洋哲学が始まったのだ。



プラトン「メノン」


 短い哲学書なので、入門書におすすめである。徳とは何かについて書いてある。ソクラテスを主人公とした対話篇である。この哲学書において、価値観の転換を体験することができる。常識を疑えという哲学者のあるべき思考の姿勢がうかがえる。ヨーロッパのルネサンスにおいて、知識人だとされたのは、聖書を読んでいることではなく、プラトンやアリストテレスを読んでいることだった。徳とは何かがわからないというこの哲学書を読んで、聖書を根拠に道徳を教えるキリスト教会の教えをヨーロッパ人はどう聞いたのだろうか。



プラトン「饗宴」


 これも短い哲学書である。酒を飲みながら、哲学を議論する。議題はエロスについて。エロスとは、ギリシャの性愛の神である。さまざまな意見が出る中、最後には、確かに価値観の転換が語られ、常識を疑うことの重要さが示されるのである。



ヴァッラ「快楽について」


 ヨーロッパのルネサンス期の衝撃作。快楽主義と禁欲主義について論じた哲学書である。頭の中でもやもやしていたものが、この哲学書を読むことによって整理されていく。自分では気づかなかった価値観を教えてくれる哲学書だったが、やはり、こんな哲学書を読んだことは秘密にした方がよいのかもしれない。



イマヌエル・カント「純粋理性批判」(全七巻)


 難解なことで有名な十八世紀のドイツの哲学書。第五巻の二律背反の部分はあまりにも難解で読み解くことは難しかった。理性はアプリオリ(先験的)でなければならないというのはまちがっているとおれは思うものの、読む価値はあった哲学書ではあった。二律背反によって、矛盾しない論理から導き出された結論でも、それが現実である証拠はないということである。



イマヌエル・カント「道徳形而上学原論」


 道徳を築くのに、何を根拠にすればよいのかを考えた哲学書。何の手がかりもなさそうなところから、それを思考によって構築していく過程は、読んでいて情熱を感じる。ものすごい難しい哲学書である。場合によっては、何をいっているのかわからないかもしれない。難解な哲学書を読み解けるか挑戦するのも、哲学の楽しみ方であるかもしれない。これはちゃんとまともな結論に着地する哲学書であるので、そういう面白さもある。



イマヌエル・カント「判断力批判」(全2巻)


 これは、カントにしては難解ではない哲学書である。しかし、語られる内容はあまりにも深淵であり、いったい我々の生活に何の関係があるんだという荒唐無稽な大がかりなものである。しかし、ここまで大がかりな哲学書となると、壮大な幻想を感じるほどになる。そして、この本は、おれの解釈する限り、難解さを読み解いても、まともな結論には着地しない哲学書である。



アルトゥル・ショーペンハウエル「自殺について他四篇」


 短い哲学書である。原典は「余禄と補遺」という題名の本であり、そこから自殺に関わりのある箇所を五篇抜き出して一冊にまとめなおしたものである。書いてあることはぶっ飛んでいるのだが、しかし、不思議と、それを読むと自殺したい気持ちが少しずつ癒されるのである。題名の大胆さに惑わされることなく読んでいただきたい。



フリードリヒ・ニーチェ「善悪の彼岸」


 ドイツの哲学書である。貴族道徳と奴隷道徳について論じた本。つまり、世間で教えられる道徳には二種類あり、ひとつは貴族のための道徳であり、ひとつは貴族に仕える従者のための道徳である。この二者がまったく異なることをニーチェが論じる。ニーチェがどちらの道徳を期待したのかはおれには読み取れなかったが、人々の価値観を解体するのに役に立つ哲学書である。



フリードリヒ・ニーチェ「道徳の系譜」


 ドイツの哲学書。哲学的な価値がどのくらいあるのかどうかは知らないが、読んでいてとても楽しい本である。哲学を教えることの難解さ、また、ニーチェが人生で何を伝えたかったのかを論理ではなく、心理的な側面から伝える哲学書である。



エトムント・フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」


 二十世紀ドイツの哲学書である。西洋哲学は、カントでひとつの到達点に至るのだが、カントにもまちがいはあり、それをどう修正するのかが難しい。おれはまだ満足する哲学書にたどりついていないが、フッサールのこの哲学書が最も気に入っている。確かに、哲学的に考えれば、すべての人類の科学になぜ根拠があるのかよくわからないのである。



西田幾多郎「善の研究」


 二十世紀の日本の哲学書である。善悪は数十年で交替することがある。西田幾多郎は知勇仁義を良いものとするが、どの知勇仁義が良いのかは数十年で交替してしまう。賢いとされたものが愚かだとされるようになり、逆に、愚かだとされていたものが賢いとされるようになる。戦うべきだとされていたものが、数十年後には戦うべきではなかったとされるようになる。哲学者の結論も、同じように数十年で交替するのかもしれないが、それなら、千年以上にわたってつづいた価値観は何を意味するのだろう。


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本のスタンダードをもう一度振り返る・読書おすすめ厳選100作 木島別弥(旧:へげぞぞ) @tuorua9876

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