美術城
伊豆半島の
まわりには高い土塀を築き、土塀の上にはずっと、先の鋭く
そして、その真中には、天守閣こそありませんが、全体に厚い白壁造の、窓の小さい、まるで土蔵を幾つも寄せ集めたような、大きな建物が建っています。
その付近の人達は、この建物を『
ではこの馬鹿馬鹿しく用心堅固な建物は、一体何者の住居でしょう。警察のなかった戦国時代なれば知らぬこと、今の世に、どんなお金持だって、これほど用心深い邸宅に住んでいるものはありますまい。
『あすこには、一体どういう人が住んでいるのですか。』
旅のものなどが尋ねますと、村人はきまったように、こんな風に答えます。
『あれですかい。あれや、日下部の気違
日下部家は先祖代々、この地方の大地主だったのですが、今の左門氏の代になって、広大な地所もすっかり人手に渡ってしまって、残るのはお城のような邸宅と、その中に所蔵されている
左門老人は気違のような美術
これで、日下部家の邸が、お城のように用心堅固に出来ているわけがお分かりでしょう。左門老人はそれらの名画を、命よりも大事がっていたのです。もしや泥棒に盗まれはしないかと、そればかりが、寝ても
堀を掘っても、塀の上に針を植えつけても、まだ安心が出来ません。しまいには、訪問者の顔を見れば絵を盗みに来たのではないかと疑い出して、正直な村の人達とも、交際をしないようになってしまいました。
そして、左門老人は年中お城の中にとじこもって、集めた名画を眺めながら、殆ど外出もしないのです。美術に熱中するあまり、お嫁さんも
つまり、老人は美術のお城の、奇妙な城主というわけでした。
今日も老人は、白壁の土蔵のような建物の、奥まった一室で、古今の名画に取り囲まれて、じっと夢みるように
戸外には暖かい日光がうらうらと輝いているのですが、用心のために鉄格子をはめた小さい窓ばかりの室内は、まるで
『旦那さま、開けておくんなせえ。お手紙が参りました。』
部屋の外に年とった下男の声がしました。広い邸に召使いといっては、この
『手紙? 珍しいな。ここへ持って来なさい。』
老人が返事をしますと、重い板戸がガラガラと開いて、主人と同じように
左門老人は、それを受取って、裏を見ましたが、妙なことに差出人の名前がありません。
『誰からだろう。見慣れぬ手だが……』
宛名は確かに日下部左門殿となっているので、ともかく封を切って、読下してみました。
『オヤ、旦那さま、どうしただね。何か心配なことが書いてありますだかね。』
爺やが思わず
『イヤ、な、なんでもない。お前には分からんことだ。あっちへ行っていなさい。』
震声で叱りつけるようにいって、爺やを追い返しましたが、なんでもないどころか、老人は気を失って倒れなかったのが不思議な位です。
その手紙には、実に、次のような恐ろしい言葉が、
紹介者もなく、突然の申入をお許し下さい。しかし、紹介者などなくても、小生が何者であるかは、新聞紙上でよく御承知のことと思います。
用件を簡単に申しますと、小生は貴家御秘蔵の古画を、一幅も残さず
突然推参して御老体を驚かしてはお気の毒と存じ、
二十面相
日下部左門殿
アア、怪盗二十面相は、とうとう、この伊豆の山中の美術蒐集狂に、目をつけたのでした。彼が警官に変装して、戸山ケ原の隠家を逃亡してから、殆ど一か月になります。その間、怪盗がどこで何をしていたか、誰も知るものはありません。恐らく新しい隠家を作り、手下の者達を集めて、第二第三の恐ろしい陰謀を
『十一月十五日の夜といえば、今夜だ。アアわしはどうすればよいのじゃ。二十面相に狙われたからには、もうわしの宝物はなくなったも同然だ。あいつは、警視庁の力でも、どうすることも出来なかった恐ろしい盗賊じゃないか。こんな片田舎の警察の手におえるものではない。
アア、わしはもう破滅だ。この宝物をとられてしまう位なら、いっそ死んだ方がましじゃ。』
左門老人は、いきなり立上って、じっとしていられぬように、部屋の中をグルグル歩き始めました。
『アア、運のつきじゃ。もうのがれる
いつの間にか、老人の青ざめた皺くちゃな顔が、涙に
『オヤ、あれは何だったかな……、アアわしは思い出したぞ。わしは思い出したぞ。どうして今まで、そこへ気がつかなかったのだろう。
神様はまだこのわしをお見捨てなさらないのじゃ。あの人さえいてくれたら、わしは助るかも知れないぞ。』
何を思いついたのか、老人の顔には、にわかに生気がみなぎって来ました。
『オイ作蔵、作蔵はいないか。』
老人は部屋の外へ出て、パンパンと手を
ただならぬ主人の声に、爺やが駈けつけて来ますと、
『早く、「伊豆日報」を持って来てくれ。たしか一昨日の新聞だったと思うが、なんでもいいから三、四日分まとめて持って来てくれ。早くだ、早くだぞ。』
と、恐ろしい権幕で命じました。
作蔵が、あわてふためいて、その『伊豆日報』という地方新聞の束を持って来ますと、老人は取る手ももどかしく、一枚一枚と社会面を見てゆきましたが、やっぱり一昨日の十三日の消息欄に、次のような記事が出ていました。
明智小五郎氏来修
民間探偵の第一人者明智小五郎氏は、長らく満洲国に出張中であったが、この程使命を果して帰京、旅の疲れを休める為に、本日修善寺温泉富士屋旅館に投宿、四、五日滞在の予定である。
『これだ。これだ。二十面相に敵対出来る人物は、この明智探偵の外にはない。羽柴家の盗難事件では、助手の小林とかいう子供でさえ、あれ程の働きをしたんだ。その先生明智探偵ならば、きっとわしの破滅を救ってくれるに違いはないて。どんなことがあっても、この名探偵を引っぱって来なくてはならん。』
老人はそんな独言をつぶやきながら、作蔵爺やの女房を呼んで、着物を着更えますと、宝物部屋の頑丈な板戸をピッタリ閉め、外から
いうまでもなく、行先は近くの修善寺温泉富士屋旅館です。そこへ行って、明智探偵に面会し、宝物の保護を頼もうというわけです。
アア、待ちに待った名探偵明智小五郎が、とうとう帰って来たのです。しかも、時も時、所も所、まるで申合せでもしたように、丁度二十面相が襲おうという、日下部氏の美術城のすぐ近くに、入湯に来ていようとは、左門老人にとっては、実に願ってもない仕合せといわねばなりません。
名探偵明智小五郎
鼠色のトンビに身を包んだ、小柄の左門老人が、長い坂道をチョコチョコと走らんばかりにして、富士屋旅館に着いたのは、もう午後一時頃でした。
『明智小五郎先生は。』
と尋ねますと、裏の谷川へ魚釣りに出かけられましたとの答。そこで、女中を案内に頼んで、又テクテクと、その谷川へ下りて行かなければなりませんでした。
熊笹などの繁った危い道を通って、深い谷間に下りると、美しい水がせせらぎの音を立てて流れていました。
流れの所々に、飛石のように、大きな岩が頭を出しています。その一番大きな平な岩の上に、どてら姿の一人の男が、背を丸くして、垂れた
『あの方が、明智先生でございます。』
女中が先に立って、岩の上をピョイピョイと飛びながら、その男の側へ近づいて行きました。
『先生、あの、このお方が、先生にお目にかかりたいといって、わざわざ遠方からおいでなさいましたのですが。』
その声に、どてら姿の男は、うるさそうにこちらを振り向いて、
『大きな声をしちゃいけない。魚が逃げてしまうじゃないか。』
と叱りつけました。
モジャモジャに乱れた頭髪、鋭い目、どちらかといえば青白い引きしまった顔、高い鼻、髭はなくて、キッと力のこもった唇、写真で見覚のある明智名探偵に相違ありません。
『わたしはこういうものですが。』
左門老人は名刺をさし出しながら、
『先生に折入ってお願があってお訪ねしたのですが。』
と小腰をかがめました。
すると明智探偵は、名刺を受取ることは受取りましたが、よく見もしないでさも面倒臭そうに、
『アアそうですか。で、どんな御用ですか。』
といいながら、又釣竿の先へ気をとられています。
老人は女中に先へ帰るようにいいつけて、そのうしろ姿を見送ってから、
『先生、実は今日、こんな手紙を受取ったのです。』
と、ふところから例の二十面相の予告状を取出して、釣竿ばかり見ている探偵の顔の前へ突き出しました。
『アア、又逃げられてしまった。……困りますねえ、そんなに釣の邪魔をなすっちゃ。手紙ですって? 一体その手紙が、僕にどんな関係があるとおっしゃるのです。』
明智はあくまで無愛想です。
『先生は二十面相と呼ばれている賊を御存じないのですかな。』
左門老人は、少々むかっ腹を立てて、鋭くいい放ちました。
『ホウ、二十面相ですか。二十面相が手紙をよこしたとおっしゃるのですか。』
名探偵は一向驚く様子もなく、相変らず釣竿の先を見つめているのです。
そこで、老人は仕方なく、怪盗の予告状を、自分で読み上げ、日下部家の『お城』にどのような宝物が秘蔵されているかを、詳しく物語りました。
『アア、あなたが、あの奇妙なお城の御主人でしたか。』
明智はやっと興味をひかれたらしく、老人の方へ向き直りました。
『ハイ、そうです。あの古名画類は、わしの命にも換え難い宝物です。明智先生、どうかこの老人を助けて下さい。お願です。』
『で、僕にどうしろとおっしゃるのですか。』
『すぐにわたしの宅までお越しが願いたいのです。そして、わしの宝物を守って頂きたいのです。』
『警察へお届けになりましたか。僕なんかにお話しになるよりも、先ず警察の保護を願うのが順序だと思いますが。』
『イヤ、それがですて、こう申しちゃ何だが、わしは警察よりも先生を頼りにしておるのです。二十面相を向こうに
それに、ここには小さい警察分署しかありませんから、腕利の刑事を呼ぶにしたって、時間がかかるのです。なにしろ二十面相は、今夜わしの所を襲うというのですからね。ゆっくりはしておられません。
丁度その日に、先生がこの温泉に来ておられるなんて、全く神様のお引合せと申すものです。先生、老人が一生のお願です。どうかわしを助けて下さい。』
左門老人は、手を合わさんばかりにして、かきくどくのです。
『それ程におっしゃるなら、ともかくお引受けしましょう。二十面相は僕にとっても敵です。早く現れてくれるのを、待兼ねていた程です。
では御一緒に参りましょうが、その前に一応は警察とも打合せをしておかなければなりません。宿へ帰って僕から電話をかけましょう。そして、万一の用意に、二、三人刑事の応援を頼むことにしましょう。
あなたは一足先へお帰り下さい。僕は刑事と一緒に、すぐに駈けつけます。』
明智の口調は、にわかに熱を帯びて来ました。もう釣竿なんか見向きもしないのです。
『有難う、有難う。これでわしも百万の味方を得た思です。』
老人は胸なでおろしながら、くり返しくり返しお礼をいうのでした。
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