二十面相の逮捕
『ア、明智さん、今あなたをお訪ねするところでした。あいつはどこにいますか。』
明智探偵は、鉄道ホテルから五十メートルも歩いたか歩かぬかに、突然呼び止められて、立止らなければなりませんでした。
『アア、今西君。』
それは警視庁捜査課勤務の今西刑事でした。
『御
『君はどうしてそれを知っているんです。』
『小林君がプラットフォームで、変なことをしているのを見つけたのです。あの子供は実に強情ですねえ。いくらたずねてもなかなかいわないのです。しかし、手を変え品を変えて、とうとう白状させてしまいましたよ。あなたが外務省の辻野という男と一緒に、鉄道ホテルへ入られたこと、その辻野がどうやら二十面相の変装らしいことなどをね。早速外務省へ電話をかけてみましたが、辻野さんはちゃんと省にいるんです。そいつは
『それは御苦労さま、だが、あの男はもう帰ってしまいましたよ。』
『エッ、帰ってしまった? それじゃ、そいつは二十面相ではなかったのですか。』
『二十面相でした。僕は今日が初対面ですが、なかなか面白い男ですねえ。相手にとって不足のない奴ですよ。』
『明智さん、明智さん、あなた何を冗談いっているんです。二十面相と分かっていながら、警察へ知らせもしないで、逃がしてやったとおっしゃるのですか。』
今西刑事は余りのことに、明智探偵の正気を疑いたくなる程でした。
『僕に少し考えがあるのです。』
明智はすまして答えます。
『考えがあるといって、そういう事を、一個人のあなたが、勝手にきめて下すっては困りますね。いずれにしても賊と分かっていながら、逃がすという手はありません。僕は職務として奴を追跡しないわけには行きません。奴はどちらへ行きました。自動車でしょうね。』
刑事は民間探偵の独ぎめの処置を、しきりと憤慨しています。
『君が追跡するというなら、それは御自由ですが、恐らく無駄でしょうよ。』
『あなたのお指図は受けません。ホテルへ行って自動車の番号を調べて、手配をします。』
『アア、車の番号なら、ホテルへ行かなくても、僕が知ってますよ。一三八八七号です。』
『エ、あなたは車の番号まで知っているんですか。そして、あとを追おうともなさらないのですか。』
刑事は再びあっけに取られてしまいましたが、一刻を争うこの際、無益な問答をつづけているわけには行きません。番号を手帳に書きとめると、すぐ前にある交番へ、飛ぶように走って行きました。
警察電話によって、この事が市内の各警察署へ、交番へと、瞬く間に伝えられました。
『一三八八七号を捕らえよ。その車に二十面相が外務省の辻野氏に化けて乗っているのだ。』
この命令が、東京全市のお巡りさんの心を、どれ程躍らせたことでしょう。我こそはその自動車を捕えて、
怪賊がホテルを出発してから、二十分もした頃、幸運にも一三八八七号の自動車を発見したのは、
それはまだ若くて、勇気に富んだお巡りさんでしたが、交番の前を、規定以上の速力で、矢のように走り抜けた一台の自動車を、ヒョイと見ると、その番号が一三八八七号だったのです。
若いお巡りさんは、ハッとして、思わず武者震をしました。そして、そのあとから走って来る空車を、呼びとめるなり、飛び乗って、
『あの車だッ、あの車に有名な二十面相が乗っているんだ。走ってくれ。スピードはいくら出しても構わん、エンジンが破裂するまで走ってくれッ。』
と叫ぶのでした。
仕合せと、その自動車の運転手が又、心利いた若者でした。車は新しく、エンジンに申分はありません。走る、走る、まるで鉄砲玉みたいに走り出したものです。
悪魔のように疾走する二台の自動車は、道行く人の目を見はらせないではおきませんでした。見れば、うしろの車には、一人のお巡りさんが、および腰になって、一心不乱に前方を見つめ、何か大声にわめいているではありませんか。
『捕物だ、捕物だ!』
弥次馬が叫びながら、車と一緒に駈け出します。それにつれて犬が
しかし自動車は、それらの光景をあとに見捨てて、通魔のように、ただ先へ先へと飛んで行きます。
幾台の自動車を追い抜いたことでしょう。幾度自転車にぶつかりそうになって、危くよけたことでしょう。
細い街ではスピードが出せないものですから、賊の車は大環状線に出て、王子の方角に向かって疾走し始めました。賊は無論追跡を気づいています。しかし、どうすることも出来ないのです。白昼の市内では、車を飛びおりて身を隠すなんて芸当は、出来っこありません。
池袋を過ぎた頃、前の車からパーンというはげしい音響が聞えました。アア、賊はとうとう我慢しきれなくなって、例のポケットのピストルを取り出したのでしょうか。
イヤ、イヤ、そうではなかったのです。西洋のギャング映画ではありません。
ピストルではなくて、車輪のパンクした音でした。賊の運が尽きたのです。
それでも、
車は二台とも止まりました。
アア、読者諸君、辻野氏はとうとう捕ってしまいました。
『二十面相だ、二十面相だ!』
誰いうとなく、群集の間にそんな声が起こりました。
賊は付近から駈けつけた二人のお巡りさんと、戸塚の交番の若いお巡りさんと、三人にまわりをとりまかれ、叱りつけられて、もう抵抗する力もなくうなだれています。
『二十面相が捕った!』
『なんて、ふてぶてしい面をしているんだろう。』
『でも、あのお巡りさん、偉いわねえ。』
『お巡りさんバンザーイー!』
群集の中にまき起る歓声の中を、警官と賊とは、追跡して来た車に同乗して、警視庁へと急ぎます。管轄の警察署に留置するには余りに大物だからです。
警視庁に到着して、事の次第が判明しますと、庁内にはドッと歓声が湧き上りました。手を焼いていた
この報告を聞いて、誰よりも喜んだのは、中村捜査係長でした。係長は羽柴家の事件の際、賊のためにまんまと出し抜かれた恨を、忘れることが出来なかったからです。
早速調室で厳重な取調が始められました。相手は変装の名人の事ですから、誰も顔を見知ったものがありません。何よりも先に、人違でないかどうかを確かめるために、証人を呼び出さなければなりませんでした。
明智小五郎の自宅に電話がかけられました。しかし、丁度その時名探偵は外務省に出向いて留守中でしたので、代りに小林少年が出頭することになりました。
やがて程もなく、いかめしい調室に、
『わしが本物じゃ。』
『この人でした。この人に違いありません。』
小林君はキッパリと答えました。
『ハハハ……、どうだね、君、子供の眼力にかかっちゃ
中村係長は、恨み重なる怪盗を、とうとう捕らえたかと思うと、
『ところが、違うんですよ。こいつぁ、困ったことになったな。わしはあいつが有名な二十面相だなんて、少しも知らなかったのですよ。』
紳士に化けた賊は、あくまで空とぼけるつもりらしく、変なことをいい出すのです。
『なんだって? 君のいうことは、ちっとも訳が分からないじゃないか。』
『わしも訳が分からんのです。すると、あいつがわしに化けてわしを替玉に使ったんだな。』
『オイオイ、いい加減にし給え。いくら空とぼけたって、もうその手には乗らんよ。』
『イヤ、イヤ、そうじゃないんです。まあ、落ちついて、わしの説明を聞いて下さい。わしはこういうものです。決して二十面相なんかじゃありません。』
紳士はそういいながら、今さら思い出したように、ポケットから名刺入を出して、一枚の名刺を差出しました。それには、『松下
『わしは、この通り松下というもので、少し商売に失敗しまして、今はまあ失業者という身の上、アパート住まいの独者ですがね。昨日のことでした。日比谷公園をブラブラしていて、一人の会社員風の男と知合になったのです。その男が妙な
つまり、今日一日、自動車に乗って、その男のいうままに、東京中を
うまい話じゃありませんか。わしはこんな身なりはしていますけれど、失業者なんですからね。五十円の手当がほしかったですよ。
その男は、これには少し事情があるのだといって、何かクドクドと話しかけましたが、わしはそれを押し
そこで、今日は朝から自動車で方々乗り廻しましてな。おひるは鉄道ホテルで食事をしろという、有難いいいつけなんです。たらふく
わしは、その男を一目見て、びっくりしました。気が違ったのじゃないかと思った位です。なぜといって、そのわしの車へ入って来た男は、顔から、背広から、
あっけにとられて見ていますとね、益々妙じゃありませんか。その男は、わしの車へ入って来たかと思うと、今度は反対の側のドアを開けて、外へ出て行ってしまったのです。
つまり、そのわしとそっくりの紳士は、自動車の客席を通り過ぎただけなんです。その時、その男は、わしの前を通り過ぎながら、妙なことをいいました。
「サア、すぐに出発して下さい。どこでも構いません。全速力で走るのですよ」
こんなことをいい残して、そのまま、御存じでしょう、あの鉄道ホテルの前にある、地下室の理髪店の入口へ、スッと姿を隠してしまいました。わしの自動車は丁度その地下室の入口の前に停っていたのですよ。
何だか変だなとは思いましたが、とにかく先方のいうままになるという約束ですから、わしはすぐ運転手に、フル・スピードで走るようにいいつけました。
それから、どこをどう走ったか、よくも覚えませんが、
それからあとは、御承知の通りです。お話を伺ってみると、わしはたった五十円の礼金に目がくれて、まんまと二十面相の奴の替玉に使われたというわけですね。
イヤ、イヤ、替玉じゃない。わしの方が本物で、あいつこそわしの替玉です。まるで写真にでも写したように、わしの顔や服装を、そっくり真似しやがったんです。
それが証拠に、ホラごらんなさい。この通りじゃ。わしは正真正銘の松下庄兵衛です、わしが本物で、あいつの方が贋者です。お分かりになりましたかな。』
松下氏はそういって、ニューッと顔を前につき出し、自分の頭の毛を力まかせに引っぱってみせたり、頰をつねって見せたりするのでした。
ああ、何ということでしょう。中村係長は、又しても、賊の為にまんまと一杯かつがれたのです。警視庁をあげての、
のちに松下氏のアパートの主人を呼び出して、調べてみますと、松下氏が少しも怪しい人物でないことが確かめられたのです。
それにしても、二十面相の用心深さはどうでしょう。東京駅で明智探偵を襲うためには、これだけの用意がしてあったのです。部下を鉄道ホテルのボーイに住み込ませ、エレベーター係を味方にしていた上に、この松下という替玉紳士まで
替玉といっても、二十面相に限っては、自分によく似た人を探し廻る必要は少しもないのでした。なにしろ恐ろしい変装の名人のことです。手当り次第に傭い入れた人物に、こちらで化けてしまうのですから、訳はありません。相手は誰でも構わない、口車に乗りそうなお人よしを探しさえすればよかったのです。
そういえば、この松下という失業紳士は、いかにも
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