人か魔か
その午後には、羽柴一家総動員をして、帰朝の壮一君を、羽田飛行場に出迎えました。
旅客飛行機から降り立った壮一君は、予期にたがわず、実に
同じ焦茶色のソフト帽の下に、帽子の色とあまり違わない、日に焼けた赤銅色の、でも美しい顔が、ニコニコ笑っていました。濃い一文字の
みんなと握手を交すと、壮一君はお父さんお母さんにはさまれて、自動車にのりました。壮二君は姉さんや近藤老人と一緒に、あとの自動車でしたが、車が走る間も、うしろの窓からすいて見える兄さんの姿を、ジッと見つめていますと、何だか
帰宅して、一同が壮一君を取りかこんで、何かと話している内に、もう夕方でした。食堂には、お母さまの心づくしの
新しい
食事中は、無論壮一君が談話の中心でした。珍しい南洋の話が、次から次と語られました。その間々には、家出以前の少年時代の思出話も、盛んに飛び出しました。
『壮二君、君はその時分、まだあんよが出来るようになったばかりでね、僕の勉強部屋へ侵入して、机の上を引っかき廻したりしたものだよ。いつかはインキ
お母さまは、そんなことがあったかしらと、よく思い出せませんでしたけれど、ただ嬉しさに、目に涙を浮かべて、ニコニコと肯いていらっしゃいました。
ところがです、読者諸君、こうした一家の喜びは、ある恐ろしい出来事の為に、実に突然、まるでバイオリンの糸が切れでもしたように、プッツリと断ち切られてしまいました。
何という心なしの悪魔でしょう。親子兄弟十年ぶりの再会、一生に一度という目出たい席上へ、その仕合せを呪うかのように、あいつの不気味な姿が、
思出話の最中へ、書生が一通の電報を持って入って来ました。いくら話に夢中になっていても、電報とあっては開いて見ないわけには行きません。
壮太郎氏は、少し顔をしかめて、その電報を読みましたが、すると、どうしたことか、にわかにムッツリと黙り込んでしまったのです。
『お父さま、何か御心配なことでも。』
壮一君が目早くそれを見つけて
『ウン、困ったものが飛び込んで来た。お前達に心配させたくないが、こういうものが来るようでは、今夜は余程用心しないといけない。』
そういって、お見せになった電報には、
『コンヤシヨウ一二ジ、オヤクソクノモノ、ウケトリニユク、二〇』
とありました。二〇というのは、「二十面相」の略語に違いありません。『シヨウ一二ジ』は、正十二時で、午前零時かっきりに、盗み出すぞという、確信に満ちた文意です。
『この二〇というのはもしや、二十面相の賊のことではありませんか。』
壮一君がハッとしたように、お父さまを見つめていいました。
『そうだよ。お前よく知っているね。』
『下関上陸以来、度々その噂を聞きました。飛行機の中で新聞も読みました。とうとう家を狙ったのですね。
『わしはお前がいなくなってから、旧ロシヤ皇帝の宝冠を飾っていたダイヤモンドを、手に入れたのだよ。賊はそれを盗んで見せるというのだ。』
そうして、壮太郎氏は、「二十面相」の賊について、又その予告状について、詳しく話して聞かせました。
『併し、今夜はお前がいてくれるので、心丈夫だ。一つお前と二人で、宝石の前で、寝ずの番でもするかな。』
『エエ、それがよろしいでしょう。僕は腕力にかけては自信があります。帰宅早々お役に立てば嬉しいと思います。』
忽ち邸内に戒厳令が敷かれました。青くなった近藤老支配人の指図で、午後八時というに、もう表門を始め、あらゆる出入口がピッタリと閉められ、内側から錠が
『今夜だけは、どんなお客様でも、お断りするのだぞ。』
老人が召使い達に厳命しました。
夜を徹して、三人の非番巡査と三人の書生と自動車運転手とが、手分をして各出入口を固め、
羽柴夫人と早苗さんと壮二君とは、早くから寝室に
大勢の女中達は、女中部屋に集って、脅えたようにボソボソと
壮太郎氏と壮一君は、洋館の二階の書斎に
書斎のドアや窓には皆、外側から開かぬように、鍵や掛金がかけられました。本当に蟻の
『少し用心が
さて、書斎に腰をおろすと、壮太郎氏が苦笑しながらいいました。
『イヤ、あいつにかかってはどんな、用心だって、大袈裟すぎることはありますまい。僕はさっきから新聞の
壮一君は真剣な顔で、さも不安らしく答えました。
『では、お前は、これ程厳重な防備をしても、まだ、賊がやって来るかも知れないというのかね。』
『エエ、
『だが、一体どこから? ……賊が宝石を手に入れる為には、まず、高い塀を乗り越えなければならない。それから、大勢の書生なんかの目をかすめて、たとえここまで来たとしても、ドアを打ち破らなくてはならない。そして、わし達二人と戦わなければならない。しかも、それでおしまいじゃないのだ。宝石は、ダイアルの文字の組合せを知らなくては、開くことの出来ない、金庫の中に入っているのだよ。いくら二十面相が魔法使いだって、この四重五重の関門を、どうしてくぐり抜けられるものか。ハハハ……』
壮太郎氏は大きな声で笑うのでした。でも、その笑い声には、何かしら空虚な、空威張りみたいな響きが混じっていました。
『併し、お父さん、新聞記事で見ますと、あいつは幾度も、全く不可能としか考えられないようなことを、易々となしとげているじゃありませんか。金庫に入れてあるから、大丈夫だと安心していると、その金庫の背中に、ポッカリと大穴があいて、中の品物は何もかも無くなっていたという実例もあります。
それから又、五人もの屈強の男が、見張をしていても、いつの間にか眠薬を飲まされて、肝心の時には、みんなグッスリ寝込んでいたという例もあります。
あいつは、その時と場合によって、どんな手段でも考え出す智恵を持っているのです。』
『オイオイ、壮一、お前は何だか、賊を讃美してるような口調だね。』
壮太郎氏は、あきれたように、我が子の顔を眺めました。
『イイエ、讃美じゃありません。でも、あいつは研究すればする程、恐ろしい奴です。あいつの武器は腕力ではありません。智恵です。智恵の使い方によっては、
父と子が、そんな議論をしている間に、夜は徐々に更けて行き、少し風立って来たとみえて、サーッと吹き過ぎる黒い風に、窓のガラスがコトコトと音を立てました。
『イヤ、お前があんまり賊を買いかぶっているもんだから、どうやらわしも、少し心配になって来たぞ。一つ宝石を確かめておこう。金庫の裏に穴でもあいていては、大変だからね。』
壮太郎氏は笑いながら立上って、部屋の隅の小型金庫に近づき、ダイアルを
『僕は始めて拝見する訳ですね。』
壮一君が、問題の宝石に好奇心を感じたらしく、目を光らせていいます。
『ウン、お前には始めてだったね。サア、これが、
小函の
壮一君が十分観賞するのを待って、小函の蓋がとじられました。
『この函はここへ置くことにしよう。金庫なんかよりは、お前とわしと、四つの目で
『エエ、その方がいいでしょう。』
二人はもう、話すこともなくなって、小函をのせたテーブルを中に、じっと顔を見合わせていました。
時々思い出したように、風が窓のガラス戸を、コトコトいわせて吹き過ぎます。どこか遠くの方から、激しく鳴き立てる犬の声が聞えて来ます。
『幾時だね。』
『十一時四十三分です。あと、十七分……』
壮一君が腕時計を見て答えると、それっきり二人は又黙り込んでしまいました。見ると、さすが豪胆な壮太郎氏の顔も、いくらか青ざめて、額にはうっすら汗がにじみ出しています。壮一君も膝の上に握
二人の息づかいや、腕時計の秒を刻む音までが聞える程、部屋の中は静まり返っていました。
『もう何分だね。』
『あと十分です。』
するとその時、何か小さな白いものが、
壮太郎氏は思わずギョッとして、うしろの机の下を覗きました。白いものは、どうやら机の下へ隠れたらしく見えたからです。
『ナアンだ、ピンポンの球じゃないか。だが、こんなものがどうして転がって来たんだろう。』
机の下からそれを拾い取って、不思議そうに眺めました。
『おかしいですね。壮二君が、その辺の棚の上に置き忘れておいたのが、何かのはずみで落ちたのじゃありませんか。』
『そうかも知れない。……だが、時間は?』
壮太郎氏の時間を訊ねる回数が、だんだん頻繁になって来るのです。
『あと四分です。』
二人は目と目を見合わせました。秒を刻む音が怖いようでした。
三分、二分、一分、ジリジリとその時が迫って来ます。二十面相はもう塀を乗り越えたかも知れません。今頃は廊下を歩いているかも知れません。……イヤ、もうドアの外へ来て、じっと耳を澄ましているのかも知れません。
アア、今にも、今にも、恐ろしい音を立ててドアが破壊されるのではないでしょうか。
『お父さん、どうかなすったのですか。』
『イヤ、イヤ、何でもない。わしは二十面相なんかに負けやしない。』
そうはいうものの、壮太郎氏はもう真青になって、両手で額を押さえているのです。
三十秒、二十秒、十秒と、二人の心臓の鼓動を合わせて、息詰まるような恐ろしい秒時が、過ぎ去って行きました。
『オイ、時間は?』
壮太郎氏のうめくような声が
『十二時一分過です。』
『ナニ、一分過ぎた? ……アハハハ……、どうだ壮一、二十面相の予告状も、あてにならんじゃないか。宝石はここにちゃんとあるぞ。何の異状もないぞ。』
壮太郎氏は、勝ち誇った気持で、大声に笑いました。併し壮一君はニッコリともしません。
『僕は信じられません。宝石には果して異状がないでしょうか。二十面相は違約なんかする男でしょうか。』
『なにをいっているんだ。宝石は目の前にあるじゃないか。』
『でも、それは函です。』
『すると、お前は、函だけがあって、中身のダイヤモンドがどうかしたとでもいうのか。』
『確かめてみたいのです。確かめるまでは安心出来ません。』
壮太郎氏は思わず立上って、赤銅の小函を両手で
『じゃ、開けてみよう。そんな馬鹿なことがある
パチンと小函の蓋が開かれたのです。
と同時に、壮太郎氏の口から、
『アッ。』
という叫声がほとばしりました。
無いのです。黒天鳶絨の台座の上は、全く空っぽなのです。由緒深い二十万円の金剛石は、まるで蒸発でもしたように消え失せていたのでした。
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