第8話 7月20日
新しい季節の始まりを感じたあの日から、僕らの集合場所は彼女の病室になった。
長く無機質で、どこまでも清潔な廊下を僕は黙って歩く。
病院特有の消毒液を薄めたようなにおいが鼻孔をかすめ、思わず顔をしかめてしまう。幼い頃の記憶が蘇ってきて、どうしても病院は好きになれない。
あの夕暮れの告白を聞いたときはいまいち実感がもてなかったけれど、こうやってリノリウムの床を踏みしめる度に、あの日の言葉は本当だったのだと思い知らされる。
彼女の部屋は五階のフロアの一番奥に位置している。なにも端っこにしなくてもいいのに。
『—―春になると私だけ部屋に閉じ込められてる』
そう呟いた彼女の顔が浮かぶようで嫌だ。
〈片瀬 咲良 様〉と書かれたプレートを横目に、僕は扉を叩く。
この時間に行くよ、と事前に伝えてあったものの、やはりこの瞬間は緊張するものだ。
「はーい」
間延びした彼女の返事が聞こえ、僕はどこかほっとしながら部屋の中へと入った。
「よく来たね。迷わなかった?」
そこにはいつもの彼女が、いつもの笑顔で座っていた。
「遠くて大変だったよ。なんたって一番上の階の一番端なんだから」
「ちょっと、そこは『元気そうで安心した』って言って、ニコッてするとこでしょーが!」
「僕はそんなキャラじゃないし」
そうは言ったものの、あまり体調が良くないと言っていた割には、本当にいつも通りの彼女だったので僕はやっぱり安心した。
「今日は制服じゃないんだ」
「あー、あれはお姉ちゃんのおさがり。本来だったら私もあの学校に通うつもりだったんだ。だから、恰好だけでも高校生気分を、ね」
……彼女自身はもう慣れっこなのかもしれないが、ああいう言い方をされると胸が締め付けられる。ほんの数日前まで、同じ学校に通う先輩だと思っていた人が、一人、孤独に闘っていたなんて。
「そんな顔をするんじゃない。今日は楽しいおしゃべりの時間でしょ」
そうだった。
僕が悲しくなってどうするんだ。本当に泣きたいのは、きっと。
「はい、頼まれてたやつ」
そう言って僕はA4のノートを手渡した。
以前彼女から『面白い事とかあったらさ、日記みたいにして書いておいてよ』と言われていたのだ。
「僕、普段文章とか書かないから、読んでも楽しくないと思うよ」
「まあまあ、楽しいかどうかは私が決めるから」
彼女は一文字一文字丁寧に読んでいるみたいだった。
そんなに真剣にならなくてもいいのに。僕はなんだかむず痒くなって視線を部屋の中へと巡らせた。
壁際には彼女が持ち込んだのであろう大量の本が平積みにされていた。
きっとあの本全ての結末が、ハッピーエンドなんだろう。
たまにはおすすめを聞いて僕も読んでみるのもいいかもしれない。
そんなことを思っていると、彼女が顔をあげた。
「……面白かった。すごい引き込まれたというか、臨場感に溢れてたよ! 海人くん、きっと文章書くの向いてるんじゃない?」
「いやいや、そんな大袈裟な。ただその日あったことを書いているだけだし。第一、さっきも言ったけど僕文章なんて普段書かないし」
彼女は笑って視線を窓の外へと移した。
「私ね、文章で人の心を動かせたり、夢中にさせることができるのって、才能だと思うの。海人君がみてきた景色や感じた思いが、今、私の心の中で巡ってる。」
「だから、また書いて。また私に君の心を見せて」
初めてだった。
誰かからすごいって認められたこと。
誰かからまた見せてって求められたこと。
自分から行動して形にしたものを、他人から認められることがこんなにも素晴らしいことだなんて。
その日彼女にまたねを言ってから、夜眠りにつくまで、病室でかけられた言葉が何度も頭の中を巡っていた。
海街に咲く桜 旭川 あさひ @TK_a
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