第7話 7月15日②

 夕陽に照らされた世界の向こう側を目指して走る彼女。

 その背中を必死に追う僕。


 二人の距離はさながら心の距離を表しているようで、近づいたと思ったらすぐに離されてしまう。僕は「どうかもう一度振り返ってくれ」と念じながら手を伸ばす。



――不意に彼女がよろめいた。


 そのまま膝に手をついて立ち止まる。


「あははっ。久しぶりに全力で走るもんじゃないね」

彼女は額に滲んだ汗を拭いながらこちらを振り返る。


「……向こうで少し座ろうよ」

僕はうまく言葉を紡げずに、それだけ言って彼女の前を進んだ。



 数分後、二人は海岸通りにある小さな商店の軒先に腰掛けていた。

〈リビングショップ ふじかわ〉と書かれた店先の看板を視界にとらえながら、隣に座る彼女に僕は言った。


「さっきはごめん。僕のために色々言ってくれたのに」

「ううん。私こそわかったようなこと言ってごめんね。将来のことなんて他人に言われて決めるものじゃないよね」

「違うんだ。ただ僕は自分で選ぶことから逃げてただけだ。もし自分の選んだ道が良くない結末だった時、周りから『こっちの道を選んどけば正解だったのに』っていう目で見られるのがすごく怖かったんだ」「だから、さっき『理由なんてどうでもいい』って聞いたとき、これまでの自分を否定されてような気がして。本当は自分もそうあるべきだってことを自覚したくなかっただけなのに」



「そっか。じゃあ、さっきのことはお互い様ってことにしようよ。とりあえず乾杯して水に流そうじゃないか」

 彼女は至極明るくそう言って、ここで買ったラムネ瓶を顔の横に掲げた。


 彼女はきっとものすごく心が広くて強い人なんだな、と思いながら、僕らは夏の象徴みたいな青色をぶつけ合った。



「僕、ラムネなんて久しぶりに飲んだよ」

「えぇー、もったいないよ! ラムネってさ、〈夏〉っていう季節全部を閉じ込めた味がしない?」

「え、どゆこと?」

「ほら、弾けるような暑さと、爽やかな海の香りと、ほんのちょびっとだけの切なさ、みたいな?」

「わけわからん」

「海人くんはさ、もっと感性を豊かにした方が良いよ?」


 ふと、こうやってどうでもいい話で二人笑い合うってことはこんなにも心が動くものなんだと感じた。なんか、こう「今ここで生きてる」って実感できる感じがするような。



 彼女は、ビー玉だけが取り残された青色の瓶を夕陽に掲げて、眩しそうに眼を細めていた。

 僕は、この瞬間を切り取ったら絵になるだろうな、なんて馬鹿みたいなことを考えながら、やっぱり眼を細めていた。


 空がオレンジから紺色に移り変わっていく瞬間。

 複雑に色が混ざり合って、この時だけ世界と世界の境界線が曖昧になる瞬間。


 この瞬間をなんて呼ぶんだっけ。

 そう、確か「黄昏時」




 そんな不思議な瞬間だったからだろうか。

 彼女が不意に呟いた。


「―――私ね、桜を見たこと無いんだ」

「桜?」


「そう。満開のね。よくあるじゃん、両側の道いっぱいに咲いてる桜。私の名前の由来なのに、一度もないの。おかしいよね」



 どうして?

 そう聞きかけて、やめた。何かとてつもなく悪い予感がしたから。


 そして大抵悪い予感っていうのは当たるものなのだ。



「私、実は病気なんだ。すっと入院しないといけないくらい重いの」

「……え?」

「このビー玉みたいに、春になると私だけ部屋の中に閉じ込められてる」


「ほんとは言うつもりじゃなかった。けどなんでだろう、君には知って欲しかったのかも」


 僕は目の前が暗くなるのを感じた。夕陽が沈んでいってるからじゃない。

 あの彼女が病気? どんな時でも明るく、強く振舞っていたあの彼女が。

 こんなの冗談にしてはひどすぎる。


 彼女を見ると、笑っていた。

 「本当だよ」そう言いたげな、大人びた表情で。


 その瞬間、さっきの彼女の発言の意味が分かった気がした。

『人生なんてあっという間なんだよ?』

『今踏みださないときっといつか後悔する』


それじゃあ、まるで彼女に残された時間が僅かみたいじゃないか。



「それに、しばらくここに来れなくなりそうだから。最近、ちょっと良くないらしくてさ」「さっき走った時に実感したよ。だめだなって」


 淡々と語る彼女とは対照的に、僕はただ黙って聞くことしかできなかった。


 彼女は立ち上がって僕に向かって指をさす。

「だから、今度から君が会いに来て」




『今、踏み出せよ』もう一人の僕が言う。


 僕は手に持っていた瓶をベンチの角にぶつけて叩き割った。


 驚いた表情の彼女に僕は右手を差し出す。


「わかった。何度でも行くよ。そしていつか連れ出してみせる。桜を見に行こう、満開のやつをさ」


 この世界から彼女が居なくなっていいはずがない。

 そんなおかしな話がまかり通ってしまう世界なら、僕が叩き割ってやる。

 世界にあらがってみよう。たとえそれが僕だけだとしても。

 『いつか』なんて来なくていい。

 彼女には「今」が必要なんだろ。


 僕は決心した。



 彼女は受け取ったビー玉を見て微笑んだ。

「へぇ、言うときは言うんだね。ちょっとだけ見直したよ」

「ちょっと、真面目に言ってるんだから茶化さないでよ」



 曖昧な時間が終わる。

 世界と世界の境界線は再び形作られ、辺りには夜が訪れる。


 黄昏時は、二人に秘密を共有させた。



 踏み出そう。今からでも遅くない。

 僕自身のためにも。

 彼女のためにも。





―――夏が始まった。短くて長い、ラムネみたいな季節が。

 












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