最終夜


 温かそうなクリーム色の毛布に包まりながら椅子に腰をかけ、深いグリーンが素敵なマグカップに口を付けてホットコーヒーをすする光くんを盗み見る。ちなみにマグカップは丁寧に私の分も用意されていて、ミニテーブルの上で柔らかい湯気を立てている。もちろん触れないから飲めるはずもないのだけど、それを言ったら「一人だけ飲んでたら俺が酷い奴みたいに見えるじゃん」と返されてしまったのだ。私の事が見えるのは君だけしか居ないというのに、どこに気をつかっているんだか。相変わらず融通の利かない男だ。

「調子良さそうだね」

 最近の光くんは月が真上に昇りきる前には家に帰ってくる。加えて纏っている雰囲気も柔らかいものに変わった気がしていた。その事実が嬉しくて、身を乗り出して光くんを見れば、彼は少し得意気に顔を上げた。

「実は……転職したんだよね」

「え!? おめでとう!」

 彼の口から聞いた話と最近の彼の様子が合致して、謎が解けたような心地になる。あんな大変な状況から転職活動を成功させたなんてと心の底から感心してしまって「えらいねぇ」「ほんとすごい!」と彼を褒めたたえ続けていれば、月に照らされた光くんの顔が少し赤くなっているのが見えた。

「~~っ、そうだ! あれ、覗く?」

 恥ずかしかったのか、話題を逸らすように少しだけ大きな声を出した光くんの指差した先を振り返る。すると単純な私の目は光くんの思惑通りに輝いてしまって、勢いよく光くんを振り返った。

「覗いてみたい!」

 光くんが指差した先にあったのはいつかの望遠鏡だった。そういえば今日は奇しくも満月だ。もちろん話題を逸らしたかったのもあっただろうが、光くんのことだからあの時の約束を覚えていてくれたのだろう。

「ちょっと待ってて」

 三脚とともに望遠鏡をベランダの真ん中に移動させた光くんは、筒の先を月に合わせて調整する。そしてファインダーを覗きながらネジをくるくるといくつか回すと、その場を立ち上がって「どうぞ」と望遠鏡の前に促してくれた。

「わあ……っ」

 綺麗なんて言葉を呟くのも忘れてしまう程、鮮やかな景色に息を呑んだ。望遠鏡を通して見る満月は、想像していたよりもずっと、ずっと美しかった。肉眼では叶わない、くっきりと見える輪郭と色味、まあるい月を彩るクレーターは質感たっぷりだ。触ったらざらざらしているんだろうなあ、なんて思ってから、なんだかこんな事を思うのが初めてでは無い気がして頭を傾げた。

「どうかした?」

「……ううん! すごいね、光くんも見てみなよ!」

 違和感はすぐに霧散して、美しい光景を共有しようと望遠鏡の前を退いた。

 光くんがファインダーを覗き込む。無防備な横顔を見つめながら、本当に顔色が明るくなったなあと感慨を覚えた。あの時はどちらがユウレイなのか分からないくらい青白かったのに、今では血色が戻って溌剌としているように見える。スーツから部屋着に着替える余裕もあるようで、ゆったりとしたスウェット姿なのもリラックスした印象を与えている一因かもしれない。

 本当に、良かった。

 ふいにベランダから飛び降りる寸前の彼の姿を思い出して、きゅっと胸が締め付けられる。もし、あのまま落ちてしまっていたら、私は。

「〝月〟さん」

 胸の痛みに目を瞑った時だった。光くんの声がして目を開ける。彼は未だ月を見つめたままだ。

「……〝月〟さん、俺はもう大丈夫だよ」

 ファインダーを覗き込んだままの彼が、何かに語り掛ける。

 言葉の意味を数秒遅れて理解して、私は笑った。

「えぇ~……月に話しかけてるの?」

 口に手を当てて、くすくすと肩を揺らす。月に話しかけるなんて、彼はロマンチストな一面もあるらしい。細かくて、律儀で、時々融通が利かなくて、意地悪をしてくるくせに、〝いつも〟優しい目で私を見つめてくる光くん。

 口元に当てた手のひらの側面に、温かい水が落ちた感覚がした。それは後から後から手のひらを濡らして、次第に喉が熱くなってくる。

「……月さん」

 いつの間にか望遠鏡から目を離していた光くんと目が合った。いつもと同じ、優しくて柔らかい眼差しがまっすぐにこちらを射る。愛しさに溢れた瞳が私を捕らえていた。

 光くんの指先が私の涙を掬うように添えられる。いつか見た涙を掬う仕草に、身体中を記憶が満たしていく。

 ――ずっと心配だった。

 交通事故で突然この世界を離れることになってしまったから。仕事が忙しくて、ずっと休めなくて、いつも青白い顔をしていた恋人のことが、光くんのことが心配だったのだ。最後に電話で話したときには辛いと泣いていたのに、会うことも叶わずに、触れる事も出来ない場所まで一人で来てしまったから。

「わたし、わたしは……っ」

 とめどなく頬を落ちる涙が温かい。涙が流れたところから体温が戻るようだった。たまらず目の前で同じ顔をしている光くんを抱き締める。触れられないけど、身体全部が温かかった。

「うえ……っ、ひ……っぅ」

「お葬式、……っ行けなくて、ごめん」

「ううん、ううん、いいの、いいんだよ」

「会いたかった……っ、ずっと会って、あやまりたくて……っ」

 肩口が温かい。光くんの涙の温度だろうか。

 彼を感じられることがたまらなく嬉しくて、尚更涙が溢れた。



 ――どれくらい泣いただろうか。「月さん」と呼ばれて顔を上げると、鼻を真っ赤にした光くんと目が合って、自然と笑顔がこぼれた。きっと私の顔も同じように泣き腫らした顔をしているんだろうな。

「……かわいい」

「え?」

「さらさらの細い髪も、綺麗な二重も、小さい鼻と口も、全部かわいい」

「え、ちょっと、いきなり」

 嬉しいけれど、恥ずかしい。はたして記憶の中の彼はこんな甘い台詞を面と向かって言う人だっただろうか。混乱していると、光くんの口元がにやりとした弧を描いてその意図に気づく。

「見た目、教えるって言ったでしょ?」

 今この場であの時の約束を果たしてくるなんて。律儀というか、細かいというか。こういうところがたまらなく愛おしいのだ。

「ねえ、いっぱい泣いたらなんだか眠くなってきちゃった」

 そう言うと、光くんは柔らかく笑って「月さんのお気に入りの椅子に座ろう」と手を差し出してくれる。再び光くんと並んで座って月を眺めながら、椅子も、テーブルも、ランタンも、マグカップも、望遠鏡も、この空間全てがお気に入りだったことを思い出す。

 そして何より月を眺める光くんの横顔が大好きだった。

「……おやすみ、月さん」

 光くんの肩に頭を預けると、微睡みに意識が溶けていく。眠りにつく寸前に聞こえた「ありがとう」という声に、宇宙で一番幸せだなあなんて思って、口元に笑みが浮かんだ。

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ユウレイさんには夜が長すぎる 東雲ココ @shinonome_coco

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