第2夜
あの夜からベランダに椅子が一つ増えた。
別に浮かんでいられるからどこでも良いのだが、私が床や柵に座るのが嫌だという。ご丁寧に揃えられたラタン調の椅子に腰掛けて、男――
「おっそいなぁ」
夜空のてっぺんに届きそうな三日月を眺めてから、しんとしている背後の部屋を振り返った。カーテンが閉じられているそこは未だ暗いままだ。
「あ」
ちょうどその時部屋の奥の方が光って、バタバタと足音がした。すると数秒後にはがらりと窓が開いて、息を切らした光くんと目が合った。
「おかえりぃ」
「……ただいま」
カラカラと音を立てて窓が大きく開かれて、光くんが外に出てくる。だいぶ疲れているようだ。隣の椅子に腰かけた光くんは両膝に腕を付いて、はあと深い溜息を吐いている。乱れている髪を見上げながら「そんなに急がなくてもよかったのに」と呟けば「俺が言い出したことだし」と小さな声が返ってきた。細かいだけでなく律儀な人だ。
「今日も遅かったねぇ」
三日月はすっかり真上に昇りきっている。この分だとまた終電での帰宅だろう。彼を助けてから約二週間、約束通り毎日このベランダで顔を合わせているが、ずっとこんな調子だ。
この二週間で彼が少しずつこぼしてくれた愚痴によると、システムエンジニアをしている彼の毎日は大層忙しいらしい。受注金額に見合わない規模の案件、予算が足りないゆえの人手不足と長時間労働。対面のお客さんのみならず上司もみんなピリピリしているらしく、休暇なんて取ろうものなら酷いことになるという。聞いているだけで胃が痛くなってくるような話だ。彼がベランダから飛び降りようとしていたのも仕事が原因らしい。助ける事が出来て本当に良かったと心の底から思った。
ようやく息が整ったのか、顔を上げた彼は椅子の背に大きく背中を預けると、ぽつりぽつりと今日も今日とて大変な一日を送ったらしいことを話してくれる。今日は上司のミスをそのまま擦り付けられ、お客さんの前で叱咤されたという。当事者では無いのに聞いているだけで腹立たしくて、気づかないうちに握りしめた拳の中で爪が立つ。いよいよ我慢できなくなって「ありえない! サイテーだよ、それ!」とその場を立ち上がれば、彼がきょとんとした顔で自分を見上げて、次の瞬間にはくつくつと喉を鳴らした。
「笑いごとじゃないよ」
「ははっ、いや、そうなんだけどさぁ……」
仁王立ちで腕を組む私を見上げて、光くんは何がそんなに可笑しいのか、笑いすぎて浮かんだらしい目尻の涙を、眼鏡を外して指先で拭いとる。
再び眼鏡を掛け直した光くんがまっすぐにこちらを見つめて「ありがと」と呟いた声に、表情に、すっかり止まっているはずの心臓が動いた気がして、思わず胸元に手を当てた。
最近のベランダはとても充実している。椅子が一脚増えただけにとどまらず、ラタン調の椅子に似合うミニテーブルと床を照らすランタンが増えた。どれもシンプルだけど質感が良く、かなり好みだ。
光くんとは随分と趣味が合うんだなと思いながら、テーブルの木目を眺めていれば、予想よりも早くカラカラと窓が開く音が聞こえて背後を振り返った。
「今日も早く帰れたんだ」
「まあね」
空に浮かぶ上弦の月の位置は未だ低い。ここ最近は仕事が早く終わるらしく、光くんの目の下のクマもだいぶ良くなった気がする。良かったなあとしみじみ思いつつ、ネクタイを緩めながら隣の椅子に腰かける光くんをしばらく眺めてから、ずっと気になっていたことを口にした。
「ねえ、そういえばあれって何?」
指を差したのは、ベランダの隅に鎮座している、布を被った比較的大きい物体だ。ユウレイの姿では布を取り去ることも出来ず、ずっともやもやしていたのだ。
「……ああ、あれはね」
光くんは椅子から立ち上がると、ベランダの隅まで歩いていとも簡単に布を取り去る。そこにあったのは銀色に鈍く光る望遠鏡だった。
「えー! かっこいい! 本物?」
「偽物なわけなくない?」
軽口を叩いてはしゃぐ私に光くんは苦笑する。「しばらく使ってないなぁ」と望遠鏡を見つめる光くんの瞳はどこか寂しげに見えて、何故か胸が締め付けられた。
「……っ、ねぇ、覗いてみたいな」
「でも、さすがにメンテナンスしないと」
「じゃあ次の満月までによろしく」
「……ふふっ、はいはい。分かったよ」
揺れた感情を正すように、半ば強引に約束を取り付けると、光くんの瞳に温度が戻った気がしてほっと胸を撫で下ろす。
「私ね、月が好きなの」
光くんの表情が少し明るくなったのが嬉しくてそのまま話を続ければ、望遠鏡に布を被せた光くんが無言のままに月を静かに見上げるものだから、追うように半分の月を見上げた。欠けた月も綺麗だけど望遠鏡から覗く満月はもっと美しいに違いない。
「俺も……好きだよ」
その時ふいにそんな声が聞こえて、反射的に顔が熱くなる。話の流れからして〝月〟が好きだと言っているに違いないのに。勘違いしてしまった自分が恥ずかしくて、その日はずっと光くんの顔を見ることが出来なかった。
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