第1夜


 結論から言おう。非常に残念なことにユウレイはなんでも出来るわけではないらしい。

 例えば死んでしまった場所からはそう遠く離れられないのか、空の青に手が届くほどには飛べないし、誰にも見つからないならばと、悪い顔をしながら足を踏み入れた様々な場所の立ち入り禁止エリアでも、何にも触れないからそう楽しくもない。

 何より眠くならないのが一番の誤算だ。おかげで雑踏のど真ん中での睡眠は叶わなかったし、眠くならないから一日が長すぎる。

 日が出ている間はまだ良い。道行く人を観察するのは意外と面白いから。しかし――夜になると一気に人が減って、世界は寂しくなってしまう。

 生きているときには当たり前の事実だったわけだが、ユウレイになってしまったことでそれを顕著に感じるのだ。そりゃあ世のユウレイたちは人が眠る時間を狙って出てくるようなあと頷いてしまう。だって暇だもの。

 そんな私の最近のマイブームはぽつんと明かりの灯るオフィスビルの一角だ。そこに飛んでいくと概ね残業をしている人が居て、なんだか胸が痛くなりながらも背後から応援の念を飛ばすことで夜を、暇を乗り越えていた。しかし昨今の働き方改革のおかげなのか、行動可能な範囲内で夜通し残業をしている場所を見つけるのはなかなかに難しい。

 つまるところ完全に手詰まりだ。ユウレイにはどうしたって夜が長すぎる。

「はぁ~あ」

 今日も今日とて夜が来た。やる事が見つからず、仕方なくふらふらと飛んだ先にあった低層ビルの屋上に腰かける。

「……綺麗」

 顔を上げた先に見えるまあるい月が綺麗で、思わず直接的な感想がこぼれる。はたして思ったことをそのまま口にしてしまうのはユウレイになって誰にも声が届かなくなったせいなのか、はたまた本来の性質なのか、実は自分ではよく分からなかった。なぜならユウレイになる前の記憶がひどく朧気なのだ。

 教養や知識といったものは身体に染みついているらしく、例えば目の前のまあるい月を満月と呼ぶことは当然のように分かるし、視界に入る駅名を見て、行動できる範囲が東京の都内に限られることも分かる。しかし自分の見た目や性格、好きなもの、苦手なこと、果てにはどんな最期を迎えたのか等、自分に関する全てのことはどうしても思い出せなかった。だからここ最近、ユウレイ特権を使って立ち入った初めての場所も、本当は忘れているだけなのかもしれなかった。

 それでもこの状況ならではの利点もある。覚えていないからこそ、ユウレイになってしまった悲しみや後悔といった負の感情が沸いてこないのだ。そのおかげで今もこうして凪いだ気持ちで月を見上げることが出来ている。柔らかい光を全身に浴びながら、月を見ることは昔から好きだったのかも、なんて生きている頃のことを想像してみた。

 ――ガシャンッ

 しばらくの間ぼうっと月を眺めていると、穏やかな時間をぷつりと終わらせるような鈍い金属音が下の方から聞こえて慌ててそちらに目を向ける。そしてそこに見た光景に青ざめるような感覚を覚えた。――引く血の気なんてないはずなのに。

 気が付けば、そこに向かって飛んでいた。

 向かいのマンション。そこの一室のベランダの柵に真っ黒なスーツを纏った一人の男が乗り上げている。男は両足を柵の外に放り出して、柵に座るようにして満月を見上げているようだ。それから柵を後ろ手に持つ両手に力が入ったのが、嫌によく見えた。

「危ない……ッ」

 聞こえるはずの無い声を張り上げて、両手を伸ばした。この瞬間には今の自分が何にも触れることが出来ないなんて、すっかり頭から抜け落ちていた。

「きゃっ……!」

 案の定身体は男をすり抜けて、頭が窓の中へと飛び出す。そして電気の消された寒々しい部屋を視認してから、はっとベランダを振り返った。

「いってぇ……」

 柵に腰かけていた男はベランダ内に転がっていた。

 自分が勢いよく飛び込んだ要素が関係しているのかは分からない。けれどバランスを崩した末に内側に落ちてくれた男の姿にどうしようもないほど安堵して、大きく胸を撫で下ろした。

「よかった……」

 自然と声が漏れていた。すると床に背中を打ち付けて悶えていた男の動きがぴたりと止まり、驚くほどの早さでこちらを振り返る。

「え……」

 まるでこちらが見えているかのようにじっと目を見つめてくる男の瞳に、思わず身体が固まってしまう。男の顔はずいぶんと青白い。これじゃあどちらがユウレイか分からないな、なんて感想を持っていれば、男は急にその場を立ち上がり、バタバタと部屋に戻ったかと思うと、黒縁の眼鏡姿でベランダへ現れた。

 さっきまでベランダから飛び降りようとしていた人とは思えないほどの俊敏な動きに呆気に取られていれば、男は眼鏡の奥の瞳を大きく見開いて、あり得ないものを見てしまったかのような表情でこちらを凝視している。そう、まさにユウレイでも見てしまったかのような――。

「…………もしかして、見えてるのかな?」

 ほとんど独り言のつもりだった。しかし男はその言葉に尚更大きく目を見開いて、こくこくと頷いている。どうやら声までも聞こえているらしい。

 何で、どうして。順当な疑問はもちろん浮かんでいた。けれど気づけば、どうしても気になっていた、正直どうでも良い方の疑問が口を吐いていた。

「ねぇっ、私ってどんな見た目!?」

「……は?」

 この姿になってからずっと気になっていたのだ。視線を下げれば、手や足、胸元まで真っすぐに伸びた色素の薄い茶色の髪は見える。しかし鏡に映らない自分では、その全体像を知るには他人に聞くより他にない。そして自分の姿を認めてくれる人がいない中ではそれは叶わないのだとずっと思っていた。でも、今目の前に居る男は自分の姿が見えるという。聞き出さない手はなかった。

 興奮のあまり身を乗り出して男に詰め寄る。見ることも聞くことも出来るけれど、どうやら触れることは叶わないらしい。しかし男は透けた身体が自分に重ならないよう、律儀に距離を取って後ずさった。するとベランダの柵が背中に当たってしまったようで、男は焦ったような顔をして「危ないって!」なんて言葉を口にする。それからしばしの間訪れた沈黙を破ったのは私の笑い声だった。

「ふ、ふふ……っ、あはは」

 笑う私を見て、男は一度咳払いをすると恥ずかしそうに俯く。自分でも一体どの口が言っているんだと思ったのだろう。未だに収まらない笑いの余韻を携えながら「まあ座りなよ」とベランダに置いてあったラタン調の椅子を指差せば、男は少し不服そうにしながら渋々とそこに腰かけた。

「よいしょっと」

「ちょ……っ」

 座る男の方を向きながらベランダの柵に腰かけてみせれば、先程の自分を思い出したのか、男は再び焦ったような声を出す。しかしすぐに私がユウレイであるという事実を理解したのか、続く言葉も飲み込んだようだった。

「……多分君の目から見ても透けてるんだよね?」

 私の問いに、男がこくこくと頷く。

「そう、私ユウレイになっちゃったみたいなんだけどなーんも覚えてなくて。だからとりあえず見た目のこととか教えてもらえればなって」

 手を広げて姿をアピールしてみせれば、椅子に座った男は未だに信じられないといった目で私を見上げては、視力検査で見えないものを無理に見るように目を細めてから「月が逆光になって良く見えない」と真面目なトーンで呟いた。

「えぇ……これならどう?」

「……なんかそんなに聞かれると教えたくなくなってきた……」

「は!?」

 わざわざ男の隣に移動したというのに、男はふいっとそっぽを向いて意地悪めいた事を言う。それに眉を顰めていれば、ちらりとこちらを見た男が「……風が吹いたんだけど」と突拍子も無いことを言い始めた。

「風?」

「うん、飛び降りようとした瞬間に強い風が前から吹いてきて、ベランダに……落ちた」

 男が「君が?」とこちらを向いたのを見て、あの瞬間のことを思い出す。もしかして勢いよく飛び込んだ動きが空気に作用したのかもしれない。ユウレイの身でそんな所業が出来たことに感動して、自分で自分を褒めたくなった。その温度感のまま「私です!」と勢いよく手を挙げて見せれば、男は「そう」と呟いてから背もたれに大きく身体を預けた。

「い……っ」

 その瞬間、背中を押さえるように前のめりになった男を不思議に思って顔を覗き込めば、何故かうらめしそうな顔をした男と目が合う。

「おかげで背中打ったんだけど……」

 そういえば男が高所から落ちなかったことに安心しすぎて、男が派手にベランダ内に落ちたことなど頭からすっぽり抜けていた。次第に心配になってきて、眉を下げておろおろとしていれば、男の口元がにやりとした形に変わるのが見えた。

「だから……どんな見た目なのかは教えてあげない」

「えー!」

 信じられない! 最悪すぎる。もし私が悪いタイプのユウレイだったら――なんて考えないのだろうか。

 ベランダの床に体育座りして不貞腐れていれば、ふいに影が掛かる。顔をあげると椅子に座っていたはずの男がこちらを向いてしゃがみ込んでいるのが見えた。

「……なに」

 先程の意地悪な顔とは打って変わって優しい顔をしているものだから調子が狂ってしまう。絆されるように言葉を掛ければ、男は困ったように眉を下げてから口元を綻ばせた。

「しばらく俺の話相手になってくれたら、教えてあげる」

「……なにそれ」

 ついさっき飛び降りようとしていた人の提案とは到底思えないが、夜は暇だしちょうど良いかもしれない。それに少し意地悪されたからって、顔色の悪いこの人をどうにも放って置けないと思った。

 差し出された手に形だけでも手を乗せると、なんだか重ねた手のひらが温かい気がした。

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