月光の景色を

 最後の一曲、ベートーヴェン作曲の『月光』の演奏へと移ろうとする。ふと、この曲でも彼女に合わない景色を生み出してしまったら、と怖いことを考えてしまった。僕の中の『月光』のレパートリーは、これ以上にない。──もし、彼女を満足させられなかったら? 僕はずっと、ここから出られないのだろうか。いつ生み出されるか分からない景色のために、ここで死ぬまでピアノを弾き続けなければいけないかもしれない。だが、そんなことも、やってみなければ分からない。

 僕はソ#の鍵盤に親指を置く。音を確かめる。──何かを確かめるような、ソ#。ハッとした。聞き覚えのある音。なぜだかこの曲を弾くことに、自信を持てた気がした。

 僕は再び、ピアノと呼吸を合わせる。

 ベートーヴェン作曲、ピアノソナタ第14番。三つの楽章で構成されるこの曲は、ピアノソナタの原型を壊すものだった。この曲も、ドビュッシーのものと同じように、ベートーヴェンの慕う女性に捧げられた曲となっている。

 この曲のイメージは、青く、青い世界。そう、それこそあの夢で見た、あの青い世界だ。湖が月の光を吸い込んで、青を吐き出す。だがその美しさであれば、この曲は長調であってもよかったはずだ。なぜ長調でなく、短調なのか。得体の知れない寂しさをまとって──ああ、この曲を包む寂しさこそが、彼女が求めていた小雨なのか。

 そう思い当たった瞬間、僕の嗅覚が、雨の匂いを捉えた。

 伏せていた目を、上げる。そこには、僕の描いた景色があった。青く、すべてを青で包まんとする静謐な光。僕も、鍵盤も、そして彼女の横顔も、青く染まっている。

「そう、この景色よ」

 ぽつりと、彼女は呟いた。その響きに、僕の頬が綻ぶ。よかった。こうして彼女に景色を見せられた今、僕のすべきことはこの曲を弾きとおすことだけだ。



 最後の一音まで弾きとおし、僕は目を開ける。もうそこには青はなく、暗闇もなかった。そこにはいつもの、自宅の中古で引き取った、古いアップライトピアノがある。いつの間にか蓋は開けられ、赤いキーカバーも外されていた。そして指は、『月光』の1楽章最後の音の位置にあった。

 あそこは何だったのだろう。疑問符でいっぱいになった頭で考える。ピアノは実際に弾いていたのかもしれない。こんな風に準備した覚えはないけれど、あの世界とこちらとが繋がっていた可能性だって、無きにしも非ずだ。現に僕は今こうして、ピアノを弾き終わった状態でいる。

 だがまあ、そんなことはどうだってよかった。

 彼女に、望んだ景色を届けられた。その達成感が、僕をピアノの前から動かさなかった。

 もう一度、『月光』を弾き始めようとする。ああ、今回は録音して、誰かに僕の思うこの景色──『月光の景色』を絵にしてもらって、そうして動画でも出してみようか。あの、僕のつくる『月光の景色』を見たいと言って、そして僕の演奏を認めてくれた彼女が、僕のこの、自室から奏でる音楽と、僕のつくり出した景色とで、またその端正な横顔を、青に染めてくれたらいい。

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月光の景色を 水神鈴衣菜 @riina

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