ピアニストでいること
現れたピアノの前に立つ。鍵盤はピカピカに磨かれ、指紋ひとつない。僕が触れて穢してはいけない、その白さは乙女の白い肌を思わせるものがあった。
「……本当に僕がやらなきゃだめなんですか」
「この期に及んで何を言うのよ」
「こんな綺麗なピアノ、僕には……」
「あなたのためのピアノよ。弾かなきゃピアノが可哀想だわ」
「僕のための……」
その言葉と共に、一気に緊張と申し訳なさが湧いてくる。本当に僕が、こんな綺麗な純白を?
「本当に、いいんですか」
「ぐずぐずしてないで、早く始めて頂戴よ」
また彼女の声に棘が混じる。先ほどよりももっと深く、そのアルトは鼓膜に突き刺さって来る。
「……分かりました」
「それでいいの」
僕は椅子を引き、浅く腰掛ける。姿勢を良く保つのに良いから浅めに座りなさい、と僕の小学校からの恩師が再三繰り返していた。
「月光の、景色」
「そう、月光の景色」
ピアノ、月光……。
思いつくのは、その名を冠した曲たち。僕が習った順に、クロード・ドビュッシー作曲「ベルガマスク組曲」より『月の光』、ガブリエル・フォーレ作曲『月の光』、そしてルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲ピアノソナタ第14番、通称『Moonlight Sonata』──月光。僕の弾くべき曲は、きっとこれらだ。
まずは、ドビュッシーの『月の光』を弾こうと試みる。だが、僕の心の弱い部分が、それを許さなかった。
「──……」
指先が震える。どうしようもなく。他人にピアノを聞かれるという久々の感覚。鍵盤まではあと数ミリのみの距離というのに、それがどうしようもなく遠く、着きたくない場所に思えてしまう。助けを乞うように、ピアノの傍らに佇む彼女を見る。彼女の瞳は、真っすぐで、揺るがない。
「何、怖そうな顔して」
「あ……いや」
「いや、じゃないでしょう。そんなにおびえたような顔、『いや何でもない、大丈夫そうだな』なんて思えるとでも?」
「……人に聞かせるのすら、久々で」
「ピアニストなのに?」
「ええ、まあ、あなたがさっき言ったようにピアニストの名折れなので……」
「自分で否定しようとした癖に」
「……」
たしかに自分で口にしたことで、ああ本当に自分はピアニストの名折れなのだろうと『自尊心』がぽきりと音を立てそうになった。
「ここで弾けば、あなたはピアニスト」
「……なんで」
「誰かのためにピアノを弾くのがピアニストでしょう? 別に名折れだとしても、そうある権利は持っているじゃない。またピアニストになり直せばいいのよ」
「なり直す……」
そうか、僕でもピアニストでいていいのか。
僕は覚悟を決めた。左手の小指と中指をそれぞれ低いラ♭とド、右手の中指と小指をそれぞれ高いファとラ♭に合わせる。音を確かめるようにそれぞれ鍵盤を叩く。よし、合っている。手の震えはいつの間にか消えていた。
ピアノと呼吸を合わせるように、息を吸って、鍵盤を指先で優しく叩く。
ドビュッシー作曲『月の光』。彼の恋人へ宛てられたと言われる曲。僕の抱くイメージは、夜の静謐な空気というよりは、朝になって空が明らんで来る頃、未だ微かに残る月の光。淡い薄桃と薄青に包まれた世界に浮かぶ、真白い月。
手元に置いていた視線を、聴いているであろう彼女に向けた。そして、その奥に広がる暗闇が取り払われていることに気づいた。
「あ……」
手が止まる。途端に景色は消えてしまった。
「なんで止めたの? せっかく綺麗だったのに」
「景色、が」
「ええ。できていたわね」
「僕が……?」
「そうよ。あなたがつくった景色。あなたのこの曲のイメージは、こんな風だったのね」
そして彼女は、先程僕が思っていた風景を、そのままそっくり説明してみせる。
「こんな景色だった。綺麗ね」
「あ、ありがとうございます」
「でも違うわ。私の望む景色じゃない」
「そう、ですね」
きっとあの景色を想像してドビュッシーの『月の光』を演奏したとしても、それはハリボテの景色であって、その曲に完全に合った景色にはならないのだろう。この曲ではない。
次に、気を取り直してフォーレ作曲の『月の光』の演奏へ移る。この曲は元々歌曲だ。ソプラノとピアノ、ふたつで演奏される。ヴェルレーヌの詩『月の光』に曲を付けたもので、ドビュッシーはフォーレのこの曲に影響を受け、先程演奏した『月の光』を作曲した。僕の恩師はドビュッシーをやるなら、それに影響を与えた曲もやらなくちゃね、と言って僕にこのフォーレの『月の光』を教えてくれた。僕が弾いたのはピアノソロ用にアレンジされたものだったけれど、詞の日本語訳を見て美しいと思ったのをよく覚えている。短調と長調を行き来するこの曲。揺れ動く恋心を表しているように思える。
僕のこの曲に対するイメージは、夜月の出ている湖の上、恋人とふたり、小船に揺られている景色。様々な心情の揺れ動き。恋人といられる喜び、そしてこの恋が今夜限りで終わってしまうかもしれないという寂しさ、恐怖。
「違う」
その声に、僕の肩はビクッと跳ねる。昔、うまく弾けなかった時に恩師から言われたそれと、響きが似ていた。あの時のいたたまれなさ、悔しさが心を埋め尽くす。
「へ、下手、でしたか」
「いいえ? そんなこと一言も言ってないじゃない」
「じゃあ、何が違うって……」
「夜の湖までは見えたけど、何回も言うように私が見たいのは小雨の降る月夜なの。だから、違うって」
「ああ……」
「何よ生返事ね。演奏自体はとてもよかったわ、私の知らない『月光』だった」
「まあ、このフォーレの歌曲は他に比べるとあまり有名ではないですからね」
これも、彼女の望むものではなかったらしい。
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