雪うさぎ

さくら

第1話

いつからだろう


私はいつもお父さんから怒られてた


もっと頑張れ、もっと頑張れって

まだ足りないって


いつも、いつも言われてた


大きな声で怒られた

叩かれることもあった


テストの点が悪いと、ピアノの練習で失敗すると


だから泣きながら勉強してピアノの練習してた

怖くていつも泣いてた



いつからか、私はそれが怖くなくなった


同時に、私の世界から色が消え

楽しいことも、嬉しいことも、悲しいことも、怖いことも

何もかもを感じなくなった


あれほど願っていた、恐怖からの解放は

想像していたほど嬉しくはなくて


想像以上に、虚しかった






異常なまでに静かな場所だなと思う。

個室の中にいると、部屋の外の喧騒とは異なる世界に包まれる。


でも、こういう静寂は嫌いじゃない。


だって、静寂の中にいると、私は『私の世界』に居られるから。


ここには私を脅かす人はいない。

父はここには来られない。


だから、閉鎖病棟ここに居ると、私は安全なのだ。

安全なはずなんだ。


なのにどうしてこんなに不安なんだろう――



突然、部屋の外からノックする音が聞こえてきた。


「笹倉さーん、回診の時間です」

「……はい」


はっとして、問いかけに答える。

ちょうど担当医師の回診時間になったようだ。


私の個室に、ぞろぞろと先生たちが入ってきた。


「笹倉さん、どうですか」

「そうですね……朝はよかったんですけど……今は少し不安が強いです」

「そうですか……お薬は足りていますか?」

「だんだん父のことを忘れることができるようになってきたんです。その間は、安心していられます。でも、ひょっとしたら、まだ父がここに来る可能性があるんじゃないかって思うと、ものすごく不安で怖いです」

「分かりました。抗不安薬を頓服で追加してみましょう。昨夜は眠れましたか?」

「……家にいた時よりは。まとめて3時間くらい眠れるようになりました」

「ぐっすり眠れている感覚はありますか?」

「あまり……。悪夢を見るので昼寝もあまりできなくて」

「就寝前の薬を別のものに変えてみましょうか。ひとまず3日分で、様子を見て調整しますね」

「はい」


ここの病院は丁寧だ。


前の精神科は、主治医の回診は10日に1回くらいで、ろくに話も聞いてくれないまま薬だけどんどん出されるだけだった。

副作用がひどくて起き上がれなくて、全然眠れないと看護師に訴えても、回診はなくて、薬がポンと届けられるだけ。


でもここは、1日で何があったのか、どう感じたのか、不安があるのか、眠れるのか、食欲はあるのか、すべてを毎日確認してくれる。


私という存在はここでは希薄ではなく、ちゃんと存在しているように思えるのだ。



主治医が私の手元にある、閉じられたノートをちらりと見る。


「日記、書いてるんですね」

「あ、はい。先生に言われてみて、始めてみました。書いているとすごくすっきりしてきて、心の淀みが吐き出されていく感じがします」

「そうですね。ノートであれば、どんなことでも書けますし、書いていいんです。それがどんなことであっても、笹倉さん自身の中でずっと留まっているよりも、言語化してしまったほうが、笹倉さんの心の負担が軽くなっていきますから」


ではまた明日、と言って主治医が部屋を出ていこうとした時に、思い出したことがあって聞いてみた。


「あの……先生、私……病棟の外に、出たいです」

「うーん……そうですね。今日の様子であれば、看護師と一緒なら1階のコンビニまでは行っていいですよ」

「あ、ありがとうございます」

「……笹倉さん。もっと安定してきたら、外出もできますからね」

「はい」


では、と言い残して、回診が終わった。


「はぁ……」


ポス、とベッドに倒れこみ、天井をじっと見つめる。


開放病棟に移れたら、と考えることも多い。

閉鎖病棟だと、医者の許可がないと自分からは出られない。病院内のコンビニにも行けない。


でも、どうでもいい。

出ようが出まいが、結局はあまり変わらないだろうから。



先生が言った、「安定したら」の言葉の意味を考える。


――私にとっての安定って何だろう――

――私のどこが不安定なんだろう――


腕を上げると、服の袖が捲れて、乾いてきた数十本の切り傷が見える。


撫でると、ザラザラとした感触が少し心地いい。

かさぶたになった傷跡の上から、何度も重ねるように切っていたから、すっかり黒ずんでしまっている。


ふと父とのピアノの練習風景が脳裏によぎり、ぎゅっと手首を握って衝動をやり過ごした。




翌日になり、看護師さんに付き添われてコンビニへ行った。

病棟から出ていくときに、腕に巻かれたバーコードを読み取られ、付き添いの看護師さんが受付で行先と時刻を記入している。


「さ、お待たせ笹倉さん。行きましょうか」

「はい」

「オッケー。それじゃあレッツゴー!」


私より少し年上の看護師さんは姫野さんといった。

私の癖毛とは違って、しっとりと濡れるような綺麗な黒髪が特徴だった。

優しい印象だけど、さすがにレッツゴーはないんじゃないかな、とも思う。

とはいえ、私みたいな人間にわざわざ付き添ってくれるのだから感謝しなければならない。


「うわ……」

「わー、今日は人が多いねぇ。休日だしお見舞いの人だろうねー」


入院して以来、ずっとあの病棟の中で過ごしていた私は、久しぶりに入院患者以外の人があふれている空間に足を踏み入れた。


姫野さんのいう通り、着替えらしき大きな紙袋や差し入れらしきものを携えた人たちが総合受付やエレベーターに列をなしている。


入院という非日常が日常になっている私にとって、この空気は明るく、新鮮で、そして懐かしかった。


「ちょっとぶらぶらしてからコンビニに行こっか」


姫野さんに付き添われてしばらくあたりを歩いた後、コンビニへと立ち寄った。

私は切れかけてきたインスタントコーヒーやティッシュ箱、粉洗剤などをかごに入れる。


その時、ふと菓子売り場でチョコレートが目に入り、立ち止まった。


「どうかした、笹倉さん?」

「……いいえ、大丈夫です」

「買わないの、チョコレート?」

「前は好きだったんですけど……今は目にしても欲しくなくて……」


その時、姫野さんが心配そうな表情を私に向けた。


「……食べることが、辛い?」


その言葉にギクッとした。

顔に出てしまったのだろう。姫野さんが、辛そうな顔をしている。


「辛いよね。興味を持てなくなる、ってことが、どれほど苦しいのか。私には想像しかできない」


彼女がチョコレートを手に取る。

アーモンドが入ってるやつだった。


「色が……」


私はいつの間にか言葉を紡いでいた。


「色が……色んなものから、色がなくなっていくんです。全部灰色になっちゃう。だから、食べ物も灰色になって、味も分からなくなるんです。美味しかったものが、何も味がしなくなって、ゴムを咬んでるみたいに気持ち悪くて……」


彼女が取ったアーモンドチョコレートを、私が手に取る。


「このチョコレート、好きだったんだけどな……病気になる前まで。でも今は、何も感じない。何も……」


声が震えたのがバレてしまったかもしれない。

前は、食べたいと思うものを食べると、当たり前のように美味しかった。


でも、そうじゃない。

味が消えることの辛さと絶望は、生半可なものではなかった。


いつからだろうか。

好きなものを食べたいと思わなくなったのは。

おなかが減っていても脱力感で何もできなくなったのは。

好きなテレビや音楽を楽しいと思わなくなったのは。

楽しむことが、想像を絶する苦痛にしかならなくなったのは。

目に映るもの、口にするもの、あらゆるものから色が消えて、すべてが灰色になったのは。

急き立てられるような焦燥感がいつも付きまとってきて、夜に寝られなくなったのは。

手首を深く切ることで、その焦りや不安、父への恐怖が和らぐようになったのは。


死ぬことが、唯一の安息だと感じるようになったのは。


そして、手首の痛みが強ければ強いほど、血が流れれば流れるほど、死への誘惑を断ち切ることができるようになったのは。



私はずっと、降りられないランニングマシーンに乗っている。

その感覚が消えてくれなくて、そのたびに死を望み、そして手首を切り続けている。


いつか訪れてくれる、私の、私だけの安息のために。


「……ひっく……ぐ……うぅ……」


だめだ。不安に押しつぶされる。

もういやだ。だめだ。



――すると。


嗚咽を堪えきれず座り込む私を、後ろから優しく抱きしめてくれる人がいた。


「大丈夫よ。あなたは独りじゃない」

「だって……ど、どんなに忘れようとしても、追いかけてくる!も、もう嫌!」

「今は私がいるから……あなたの苦痛を少しでも和らげるために、私がいるから。向こうで、お薬飲んで落ち着こう。ね」

「……うぅ……ふぅー……」


何でもない瞬間に、それは牙をむく。

ただコンビニで買い物をしようとしただけなのに、何かがトリガーになる。


もう何度、こういうことがあっただろう。


結局、買い物は姫野さんに代わりにしてもらって、そのまま病棟へと戻ってくることになった。


精神科病棟でエレベーターを降りて、姫野さんが受付で記入してくれている。

自動ドアを開けてくれた彼女が、部屋まで付き添ってくれた。


「姫野さん……ごめんなさい」

「いいのよ。買い物はいつでも私たちを頼ってくれれば。今日、笹倉さんが1階のたくさんの人を見て、ぶらぶら散歩して何かを感じたのなら、それでいいんだから」

「……姫野さん……」


そう言うと彼女は、私に並んでベッドに腰をかけ、そっと私の手を握ってくれた。

彼女の手は意外と冷たくて、小さかった。


「ねぇ、笹倉さん。今は全部が灰色かもしれない。眠ることすら辛くて、時間の経過も苦痛でしかないのかもしれない。でも……でもね。きっと、色づくときが来るから。笹倉さんに、色が戻る時が、きっと」


沈黙のあと、ようやく口にできた。


「……来るのかな」

「うん」

「父に…お父さんに怯えることのない日も、来てくれるのかな?夢の中から出て行ってくれる日が、いつか私にも来るかな……」

「うん」

「それで、私に謝ってくれるかな……私をいつか褒めてくれるかな」

「……っ!」


姫野さんがぎゅっと抱きしめてくれた。


いつか良くなる日が来る


それは、誰もが口にしてきた言葉だった。

でも今この瞬間すら辛くて動けない私に、そんな言葉が届くわけがなかった。


でも姫野さんの言葉は、すっと心の中に入っていく気がした。


それは、こうして体温を感じていられるからなのかもしれなかった。


父に抱きしめられることは無かった。

温かい言葉をかけてくれたことも無かった。


私は、ただ「よく頑張ったね」と言ってほしかった。

頭を撫でてほしかった。


でも、それはどれほど望んでも、手に入りはしなかった。


どんなにピアノを頑張っても、勉強を頑張っても、できて当然だとしか言われたことがなかった。


振り向いてほしかった。


私を見てほしかった。


他ならぬ、父に。


渇望は絶望へと変わり、憎しみへと変わっても。


それでも父をどこかで信じていた。


私を瞳に映していないのを分かっていても。


私を罵倒するだけだと分かっていても。


父がいつか正気に返ってくれると、そう信じていた。


父も私も精神を患い、児童相談所に保護されて感じたのは、確かに大きな安堵だった。


でも、もう二度と元には戻らないという絶望でもあった。


――振り向いてほしいのに、もう父は私を見てくれない――


ただそれが、何よりも辛かった。


保護されて、父と一切の接触が無くなった私は、安心以上に寂しさが募るばかりだった。


独りだと思い知らされる度に、心がずたずたになっていった。


加速度的に増える抗うつ薬や睡眠導入剤、そしてそれに比例するように、手首を切る頻度が高くなっていった。


『寂しくて死ぬ』


比喩でもなんでもなく、そう感じた。


少なくとも、ここに来るまでは、ずっとその感覚は消えなかった。


「姫野さん……」

「ん?」

「一度だけでいいから、頭を……頭を、撫でてくれませんか?」

「……うん。もちろんいいよ」


私よりも小さなはずの姫野さんの手が、私の頭を撫でてくれる。

なぜか、すごく大きくて、とても、とても温かかった。


「……ありがとう、ございます……」

「よしよし。おいで」


そのまま、姫野さんの胸で、思いっきり泣いた。

父への思いも、憎しみも、軽くなった気がした。




「笹倉さん。もうすぐ退院時間ですよ」

「はい、大丈夫です」


あれから2か月ほど経過した。

リストカットの衝動も、何よりもあれほど強かった希死念慮も弱まり、感情が大きく揺れ動くことも少なくなった。

姫野さんを始め、いろんなスタッフの方たちのおかげで、前に進む気持ちがもう一度芽生えてきたように思う。


病棟の受付で手続きをして、リストバンドを外してもらう。

これで、この閉鎖病棟から外へ出るのだ。


いろんな人に挨拶をしながら下りのエレベーターを待っていると、最後に姫野さんが来てくれた。


「……退院おめでと。よかったね」

「姫野さん……沢山、沢山ありがとうございました」

「いいって。またおいで……って言いたいけど、もう戻ってきちゃダメだよ?」

「ふふ。はい」


その冗談が姫野さんらしい、と笑うと、姫野さんが驚いているように私を見ていた。


「どうしたんですか?」

「え、あ。笹倉さんの笑顔、素敵だなって」

「そ、そうですか?自分だとわからないです」

「……よかったね」


しんみりしたその声に、この入院中のいろんなこと――それだけじゃなくて、今までの父とのことや独りになった時のこと、いろんなことが一気に押し寄せてきた。


「おっと。あんまり泣くとウサギになるよ?」

「ぐす……そ、そんなに寂しがりやじゃ、ないです」

「ほんとかなー」


泣きながら笑っていた。

姫野さんも、私も。


姫野さんが、だまって頭を撫でてくれた時のことが脳裏によぎる。


もうこれで会えないんだと思うと再び寂しさが募り、エレベーターが着いた音に気づきながら、最後に私のほうから姫野さんに抱きついた。


「……ありがとうございました。またね」

「うん。元気で」


エレベーターの扉が閉じる直前に、姫野さんの泣き笑いの表情が崩れるのが見えてしまって、またしばらく涙が止まらなくなった。




1階に降りて、しばらくすると知り合いの児童相談所の人が迎えに来てくれた。

荷物を持ってもらい、2か月間入院していた病院を出る。


1月も下旬になり、すっかり寒くなっていた。


凍てついた空気が肺を刺す。

でも、どこか心地よかった。


最後に、病院を振り返る。


「……またね、姫野さん」


私を掬い上げてくれた彼女にもう一度思いをはせる。


ちらつき始めた雪を見て、ふと姫野さんが


「寂しがりやのあなたにちょうどいい」


と言う声が聞こえた気がした。


Fin


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