青にこがれる

雨谷結子

青にこがれる

冴映さえー、このバズってるヘアミルク、知ってる? 黄色のやつとピンクのやつ、どっちがいいかなあ」


 ふたつ前の席のののちゃんが十分休みに私のところまでやってきて、インスタの画面を見せてきた。推しヘアケア、コスパ最強、買わなきゃ損、一気に垢抜け髪、リピ確定。ありふれた強い言葉の洪水たちが、私の内側に流れ込んでくる。


「これ、私も買ったよ。試して報告するね」


 そう請け合えば、ののちゃんはぱっと顔をかがやかせる。

 ののちゃんは、彼氏が学校のマドンナ的な琴ちゃん先輩と仲良しなことに気が気でないらしく、最近かわいくなることに余念がない。

 中学のときに東京からこの北の果てにほど近い離島に越してきてから、私の立ち位置はずっとおしゃれ番長だ。こうして相談に乗るのもいつものことだった。

 伏し拝まんばかりに、ののちゃんがありがとうの雨あられを降らせる。

 私はお安い御用だよ、と微笑んだ。


 ❆


 高校から家のある市街地までは、バスで一時間くらいかかる。少し手前の停留所でバスを降りて、吸い寄せられるみたいに海岸線を縁どるコンクリート塀にひょいと上がった。

 万年帰宅部でコンビニバイトの他に暇を持て余した私は、こうして通学路を自分の足で辿ってみたりする。

 潮風を浴びながら一本橋みたいに塀を渡っていると、海の上に浮かぶ岩場が見えてきた。

 キィーユキィーユと甲高い海鳥たちの鳴き声も聴こえてくる。

 岩場の手前では、二十代くらいの男女が楽しげな声を上げていた。

 六月にもなると、この島は観光客と登山客で溢れかえる。


「ねえ、あの白と灰色っぽい鳥。なんていうんだっけ」

「あれだよ。ウミネコ! やべー、まじ島きたって感じ」


 観光客はそんなことを言いながら肩を寄せ合っている。

 盛り上がっているところ悪いけれど、あれはウミネコじゃなくて、オオセグロカモメだ。そう思いつつも、声を掛けたりはせずに塀を下りた。

 後ろから、ぶろろ、とエンジンを吹かす音がして、白と赤の原付がすぐそばに停まる。ヘルメットを窮屈そうに脱いで現れたのは、私もよく知っている顔だった。


「カモメっすよ、オオセグロカモメ。よく似てるんすけど、足がピンクのがオオセグロカモメで黄色いのがウミネコ。ほら、あの岩にちょうどどっちも並んでます」


 日に焼けた顔に人懐っこい笑みを浮かべて、冬生ふゆき先輩が海鳥たちを指さす。

 私と同じ高校の三年生だ。耳にはじゃらじゃらとリングピアスが並んでいて、まだ成長する予定だからとでも言いたげな、だぶっとしたど派手なゴアテックスのジャケットを羽織っている。


「へえー、若いのに物知りだね。ありがとう」

「なんも。差し出口すいません。あ、よかったら夕日も見てってくださいね。この辺り、穴場っすよ。展望台は今の時期混んでて、わやなんで」


 冬生先輩は方言まじりに言って、手をひらひら振って観光客を見送った。

 その姿がカーブで見えなくなるまで大きく手を振りつづけてから、私を振りかえる。


「冴映がいたなら、おれがしゃしゃらなくてもよかったな」


 まるで自分が立ちいらなければ私が観光客に海鳥の解説をしていたとでも言いたげな様子で、冬生先輩が言う。


「私、人見知りするんです。冬生先輩みたいにはできませんってば」


 私は笑顔を貼りつける。そんなお節介するわけないじゃん、という言葉を吞み込んで。

 さっきの観光客は運よく高校生の介入にも嫌な顔を見せなかったけれど、かならずしもそうなるとはかぎらない。嫌がられたり、トラブルに巻き込まれたりするかもしれないのに、よくやる。

 私がののちゃんや友だちに親切にするのは、この狭い島で爪はじきにならないためのよそ者の私なりの処世術でしかないけれど、先輩のはそうじゃない。


「てか冴映ってバス通じゃなかったっけ? なしてこんなとこ歩いてんの?」

「先輩こそ。家、高校の近くですよね」

「おれはバイトが決まったんだよ。噂になってなかった?」


 そういえば、一昨日そんな話も聞いた気がする。全校生徒六十人あまり。島で唯一のこの高校では、大抵の情報が筒抜けだ。

 冬生先輩はアウトドアガイドを目指していて、島で有名なガイドさん兼ペンションオーナーの店に押しかけて自分を売り込んでいたが、念願かなってバイトとして雇ってもらうことになったんだったか。

 スキー授業も郷土教育のお題目で実施される登山学習もいまだに憂鬱な私には、冬生先輩の考えはちっとも理解できない。


 海風が吹き寄せてくる。

 なびく髪とプリーツスカートを押さえながら、私は引き寄せられるように海面を見つめた。

 真っ青な海原が日射しをはじいて星くずがこぼれ落ちたみたいにかがやいている。岩礁から飛び立った海鳥が、光を浴びて影絵じみて飛翔していた。

 これではもう、あの鳥がカモメなのかウミネコなのか私には分からない。


「案外、冴映ってこういうの好きな」

「こういうの?」

「海とか、カモメとか?」


 私は唇をへの字に曲げた。日々手入れをしている透明なエナメル質で覆われた爪を立てて、買ったばかりの美容雑誌を握りしめる。


「冬生先輩がそうだからって、私もそうだと思わないでよ」


 これでも私は東京出の都会的な女子ポジションで、この狭い世界で自己を確立しているのだ。そういう余計なノイズはいらない。

 思わず本音で、しかもタメ口で噛みついてしまったことに気がつく。

 島の子たちは小さい頃からの幼馴染みたいなもので、先輩後輩なくタメ口呼び捨てで話している子がほとんどだ。でも、中学のときに外からやってきた私は上級生には敬語を使っていた。

 私の悪態にも、冬生先輩はいつもの調子でにかっと笑う。


「わり。バイト初日に遅れるわけにはいかねーし、おれ行くわ。したっけな」


 ごまかしも言いわけも口止めもしないうちに、冬生先輩を乗せた原付のシルエットがちいさくなっていく。

 正直、あの先輩は苦手だ。

 冬生なんて名前のくせに、夏のぎらぎらした太陽がよく似合って、裏のない笑顔でやたらと人に親切を垂れ流している。

 それを見ると、人工的でうわべだけ八方美人の私とは、根本的なところからつくりがちがうんだと思い知らされる。ああいうものに私は一生なれないと痛感させられる。

 でも、私を苛立たせるいちばんの理由は、もっと別のところにある。そんな確信めいた思いを身体の内側から押しだして、海鳥たちに背を向けた。


 ❆


 エゾハルゼミの空を引っ掻くような鳴き声が響いている。

 窓辺から外を覗けば、青葉は色を濃くして花々が咲きこぼれ、毛虫や蝶がそこらを闊歩していた。

 生きものの息吹が満ちている。夏がきた、と肌で感じる。

 でもこの北の最果てでは、六月に入っても日中でも十度を下回る日も珍しくない。時折ストーブの火にあたりながら、それでも外にはたしかに短い夏が産声をあげつつあるのを私はいまだに不思議な心地で眺めている。


 今日は土曜日で、おばあちゃんは短歌のサークルに出かけている。

 お母さんとお父さんが離婚して、中二のときに母方の祖母に預けられた私は、おばあちゃんとふたり暮らしだ。

 海に囲まれた島の、町の中心部から少し外れた一軒家が私とおばあちゃんの城だ。

 私はソファに寝転がりながら背中まである髪に手を差しいれた。

 ののちゃんの言っていたヘアミルクは、どっちもそう使用感が変わらない気がする。ピンクのほうがべたつくけれど、あまいにおいがするから、ののちゃんはこっちのほうが好きかもしれない。

 スマホをひらいて、Amazonとアットコスメとインスタとコスメブロガーのブログと美容系ユーチューバーの動画とツイッターの画面を行ったりきたりする。星の数と口コミを何度も見くらべる。

 目が乾いてきて、スマホを置いてまばたきを繰りかえす。

 まさかののちゃんも私がこうも時間をかけて、所望の品を吟味しているとは思ってないだろう。


 でも私は自分の持っている物差しなんてまるで信用できない。

 だから、広大なネットの海に漕ぎだして、どうやらこれは間違いじゃないっぽいと思うほうに飛びつくしかない。コスメのことだけじゃなくて、進路のことも、友だちとのちょっとしたいざこざの対処も、ぜんぶスマホに頼ってきた。

 これがいい。そう思える尺度が私にはなくて、いつも他人の言うとおりにしている。今だってののちゃんにがっかりされない正解を探してる。

 自分でもそんな自分がつまんないって思ってる。だけどそれ以外にどうしていいか分かんなくて、私はスマホにかじりつく。


 しばらくリサーチをしてからインスタをひらいて、昔使っていたアカウントに切り替える。ハートのボタンをタップすれば、『あなたの投稿に「いいね!」しました』という文章がいくつか並んでいた。

 いいねをくれた人のホーム画面を眺めてしまうのは、呪わしい習性だ。明らかにフォロバ目的だったりステマっぽいアカウントだと、がっかりする。


 不意に忙しなくチュロチュロと囀る声が聴こえて、窓辺に目をやる。

 青い羽根に脇腹の橙色が鮮やかなルリビタキだ。

 この島の青は、海の青も空の青も美しい。

 けれど、この鳥の青はそれらとも異なる、繊細で優美なあざやかさをまとっている。

 思わず見入ってから、冬生先輩のとある言葉が脳裏をかすめて、あわててインスタの画面をとじる。

 そうして視界から青をしめだした。


 ❆


 季節は夏真っ盛り。この北の果ての島の書き入れどきだ。うだるような東京の湿った夏とちがって、この島の夏はからっと乾いている。

 バイト初日の冬生先輩とばったり出くわしてから、ひと月と少し。私の道草と、冬生先輩のバイト通いはちょうど時間帯が重なるらしく、エンジン音を聞いただけで先輩の原付かどうか分かるようになっていた。


「よ、冴映」


 先輩は懲りずに原付を停めて、不安定なテトラポッドに座り込んで海を眺める私に声を掛けてくる。この島の子にしてはちょっと不良っぽい先輩の横顔をちらと振りかえって、私はなにも言わずにカモメたちの日向ぼっこに視線を戻す。

 結論から言えば、先輩は私が学校で取り繕っている私とキャラがちがうことを言いふらしたりしなかった。相も変わらず人懐っこい犬みたいな混じりけのない笑みを向けてくる。

 おかげで冬生先輩の前で取り繕うのが馬鹿馬鹿しくなって、私は素っ気ない態度を取りつづけている。


「冴映は進学すんの?」


 私の手提げからはみ出た英熟語集に目をやって、先輩が言う。曖昧に頷けば、先輩はふうんとコンクリート塀に頬杖をついた。


「札幌?」

「……たぶん、内地」

「すっげ」


 その言葉にかちん、とくる。


「内地だって、ぴんからきりまでありますよ」

「なんかおれ、怒らせた?」


 私が内心ざわざわしているのを感じとって先輩が尋ねるのを、べつにと突き放す。

 道外の大学に進学するのは珍しくもない。

 離島の高校とはいえ全国的に見ても、進学率は低くなかった。クラスのなかにはすでに将来の目標が決まっていて、そのためにこれと決めた大学を目指している子もいる。

 でも大抵の子はやりたいことがなにか分からないまま、前に倣えをして真冬の海を渡って寒さに震えながら試験を受けに行く。

 私もそれに追随しているだけだ。

 大卒という肩書を手に入れたほうが、どうやら間違いじゃないっぽいから。学費を両親も工面してくれるから。私の理由なんてそんなものだ。


「先輩はガイドさんでしょ」

「まあな」

「そっちのほうがよっぽどすごい」


 世の中に敷かれた正解っぽいレールから進んで外れて、これがやりたいってほうへ突き進む。そういう先輩のことは、私にはちょっと真似できない。

 頑なに先輩のほうは見ずにオオセグロカモメの群れを眺めていたら、不意に影が差した。

 カモメのすぐ傍に、よく似た鳥のシルエットが着地する。足の色は黄色。ウミネコだ。


「私、あのウミネコみたい」

「ウミネコ?」


 こぼれ落ちた言葉にはっとして口元を押さえたけれど、もう遅い。

 どういうわけか、冬生先輩の前だと口が滑る。なに感傷に浸ってんだよって自分の腕をつねりたい気分になる。

 冬生先輩のつぶらな眸が私を見ている。訳の分からないことを口走った私を無視するでも、言葉の意味を問いただすでもなく、ただ待っている。

 私がごまかせば、それに乗ってやろうというような逃げ道を残して、静かに佇んでいる。

 観念して、私は口をひらいた。


「私が中二のときに越してきたの、覚えてますか」

「そりゃまあ」

「最初はみんなの輪に入っていけなくて悩んでたんです。東京にいた私には信じられないくらい、学校中仲良かったから。私ひとり、異物だった」

「ああ、それで」


 案外察しよく、冬生先輩は合点する。

 オオセグロカモメの群れに迷い込んだ、足の色のちがうウミネコ。一所懸命同じ色に染まろうとするけれど、決して同じにはなれない。疎外感から夜ごと布団をかぶって泣いていたのを今でも覚えている。

 でも、馴染んだら馴染んだで今度は別の焦燥に駆られているのだ。


「ウミネコって結局、カモメの仲間なんですってね。カモメ科カモメ属」


 冬生先輩は当然知ってるみたいで、まあなと頷いてみせた。

 中三のときの理科の先生がウミネコとオオセグロカモメの生態について雑談で教えてくれたときも、同じことを思った。

 私、オオセグロカモメの群れに紛れ込んだウミネコみたいだと。自分だけみんなとちがうと思っていたけど、本当のところはほとんどちがいなんてなかった。

 みんなと一緒がよくて、間違えるのを極端に怖がっているくせして、時折みんなと同じでしかないことに苛立ったりする。つまんないなって思う。勝手だって自覚しているけど、私の内側はいつだって矛盾まみれだ。


「冬生先輩は、ゴマフアザラシって感じ」

「おれだけ海獣かよ」

「先輩は、とくべつですもん」


 だから苛つくのだ、とまでは言わずにテトラポッドのざらざらとした表面を指でなぞる。指先に太陽の熱があつまって、じりじりする。


「とくべつ?」

「これがいいって思えるもの、持ってるじゃないですか。他人の評価なんか気にせずに、打ち込めるもの。それに先輩は才能もあるんでしょ」


 先輩のガイドとしての本命は冬のバックカントリースキー、つまりスキー場ではなくその辺の山で滑る高度な技術が要求されるスキーだ。空恐ろしいほどに美しい雪嶺に登っては、そこを自分の身体とスキー板だけで滑り降りてくる。冬はインスタにその動画をしょっちゅう上げていて、大人のフォロワーも多数いるらしい。

 ぬるい風とともにやってきた雲に日射しがさえぎられ、青ぐろく翳が落ちる。


「おれだって人並みに悩んだり、焦ったりしますけどね。好きだけで食ってけんのかとか、お客さん連れてるときに判断ミスったらとか、親父の家業も継がずに親不孝な息子だなとか」


 おどけたような調子の言葉とは裏腹に、実感の籠もった言葉がぽんぽん並ぶ。

 私は返す言葉もなく口ごもる。

 先輩がなんの迷いもなくやりたいことを見つけて、その道を邁進しているように見えて、妬ましく思えた。だけど、ちょっと考えればそんなわけないことくらい分かったはずなのに。


「持ってるってゆーか、選んだっていうほうがおれには近いかな。それに冴映だってこれがいいって思えるもの、あるじゃん」


 思いがけない言葉に眉根を寄せれば、冬生先輩は塀から身を乗りだして続ける。


「中二んとき、美術室のごみ箱に海の絵描いて捨てたの、冴映だろ。俺は美術の成績、二だから絵の良し悪しなんてちっとも分かんなかったけど、好きなんだろうなってのは分かったよ」


 どくん、と心臓が鳴る。

 東京で暮らしていたころ、私は絵を描くのが趣味だった。美大卒の売れないイラストレーターのお母さんの影響だった。

 微睡む春の花筏。梅雨の日の紫陽花。こがねの稲穂にとまる赤とんぼ。

 そんな自然のモチーフをキャンバスに描いてはインスタに上げていた。バズったことなんて一度もない、せいぜい『いいね!』が二十か三十つくくらいのささやかな自己満足だった。

 中一の冬にお父さんとお母さんが離婚した。

 ふたりとも、この結婚は間違いだったって吐き捨てた。だから私は、間違えた結婚の間違えた家で生まれたあらゆる間違いの痕跡を消して清く正しく幸せに生きるために、この島では絵を描くのをやめることにした。


 でもちょっぴり魔がさして、越してきて間もない雨の降る放課後に、空き教室になっていた美術室に忍び込んで絵筆をとってしまったことがあった。

 その日はほとんどの運動部が中練をしていて、スキー部も美術室のすぐ近くを階段ダッシュしていた。きっとそのとき、冬生先輩はキャンバスに向かう私のことを見たのだろう。


「触れられたくない話だったなら、ごめん。絵を描いてんのはそのあと見なかったけど、よく楽しそうに海とか森とか人とか服とか眺めてんの、見かけたからさ。ああ、この子はなんか綺麗なもん見つけては、ひょっとするとそれを描きたいって思ってんのかなって」


 図星だった。服やコスメが好きなのも、嘘じゃない。

 描けなくても綺麗なものを見たり纏ったりしていると、満たされるから。だから私は道草とおしゃれに躍起になった。言い当てられて、居たたまれない心地になる。

 この島の純度の高い短い夏の色彩も、凍てつく冬の白と青と針葉樹だけの世界も、私の視線を捉えて放さない。

 だけど、私は自分に大して才能がないのも、お母さんがそうだったように絵の道を進んでも苦労が絶えないことも知っている。

 だから私は、好きじゃないよとささめくように嘘をつく。


「そか。勝手なこと言って悪い。したっけな」


 意地でも先輩の目を見ない私の本心なんて、冬生先輩にはお見通しだっただろう。

 だけど、誰もが夢見た道を歩いていけるわけじゃない。誰もが強く、自分に寄りかかっていられるわけじゃない。転んだときに自分だけを頼みに起き上がれるわけじゃない。

 いざ失敗したときに私の家族みたいにぜんぶ壊れちゃったら、また歩きだすのに途方もないエネルギーがいる。だからもう、私は間違いを重ねるわけにはいかないのだ。


 海を後にして、私はバイト先に向かってがむしゃらに駆けだした。


 ❆


 二月。この北の果てでいちばん厳しい季節がやってきた。手袋なしでは五分ともたない氷点下の雪にとざされた世界が広がっている。

 こっちの人は冬に気温の話をするとき、マイナスだなんて言葉は使わない。それが当たり前だからだ。

 今日の日中の気温は十度。もちろん氷点下だ。二十度三十度になることも珍しくない地域もある道内では、そこまで気温が下がらないほうだけど、毎日のように強風が吹くから体感としては十分に寒い。


「しばれたなあ」


 ネックウォーマーに赤くなった鼻先をうずめて、夏よりもよほど日に焼けた冬生先輩が言う。

 しばれる。こっちの方言で、凍えるような寒さの日を言う。まさにそうとしか表現できないような、この島の冬にぴたりとそぐうこの言葉が私は好きだ。

 そんな季節に道草をするほど私は命知らずじゃない。だから最近先輩とは校舎で目が合ったときに会釈するくらいの間柄——つまりはほとんど他人になっていたのだが、つい先日、突然冬の森にさそわれた。


 そうして今、私は早朝に家の裏の雪原に足を踏み入れている。

 夏の時期は牧草地が広がるだだっ広い銀世界には足跡ひとつなくて、まるで世界をひとりじめしているような心地になる。

 先輩は黒い偏光レンズのサングラスをかけていて、私にも同じものを貸してくれた。

 今日は珍しく快晴で、太陽のひかりをはじいた冬の野は、ぎらぎらと眩く私たちを灼く。雪焼けとか雪目という言葉があるけれど、太陽光を照りかえす雪の反射は馬鹿にならない。

 まだ堅雪になっていない雪にずぼずぼと足をとられて、息があがる。

 しばれているのに身体が熱を帯びて、汗がにじむ。それでいて、もこもこのスノーブーツの足先は冷えてくる。素直におばあちゃんの言うことを聞いて、靴底にカイロを仕込めばよかった。

 そんな私を見かねてか、少し先を歩いていた先輩が戻ってきて、背負っていた巨大な登山用ザックからなにかを取りだした。


「じゃーん」


 馬鹿みたいな効果音とともに、ごついプラスチックの板が出てくる。二つで一セットのようで、裏側に金属の爪がついていた。かんじきみたいな形状に、ぴんとくる。スノーシューだ。冬生先輩は私にそれを履かせると、自分も同じものを履いてさらに雪原の奥へと歩を進めていく。

 スノーシューの効果は覿面で、雪に埋まって重たかった身体が楽になる。歩調が速まり、考えごとをする余裕も出てきた。

 初めは、スキーに誘われたのだ。

 まさか先輩も軟弱な私を冬山に連れて行く気はなかっただろうけど、絶対に行かないと言いはっていたら、私の家の裏の森のスノーハイクに変更になった。

 なまら綺麗なもん見に行かね、が殺し文句だった。


 しばらく歩いていると、針広混交林が見えてきた。広葉樹は肌寒く葉を落として、尖って空を刺すような針葉樹が雪面に青褪めた翳をこごらせている。

 息を荒げる私とは対照的に、冬生先輩はむかつくくらい平然として、樅の葉っぱに手を伸ばして、指先で揉んでその匂いを嗅いだりしていた。


「まだ行けそう?」


 先輩がスポーツドリンクを寄越してくる。癪に思いつつも、礼を言ってキャップをあける。

 舌先にシャーベット状になりかけた甘い人工甘味料の味が広がる。甘すぎるくらいのその味が、疲れた身体に染みわたる。


「行けますよ。帰宅部だからって舐めないでください」

「べつに舐めてねーけど。心配してんの」


 先輩は笑いながら、ゆっくりと私の先を行く。新雪の上を歩くよりも先輩のつけた足跡の上を歩くほうが楽なことに気づいて、私はちょっと大股に冬生先輩の後を辿っていく。

 ゆるい勾配を登り、いくつかの倒木を跨ぐ。二月にもなると、雪の重みで倒された木々が森のなかにちらほらと見えるようになる。

 時折狐や兎の足跡と混じり合いながら、太陽光をさえぎる傘のように伸びる木々たちのあいだを歩く。

 かたわらに生えたオニグルミの樹の冬芽はまだかたく閉じていた。どれほどしばれようとも彼らは黙って春を待っている。

 凍てついた静寂の世界に、たしかに生きものの無音の息づかいが聴こえる。


 にわかに急になった登り坂をなんとか登りきれば、ぱっと視界がひらけた。

 頭上を覆っていた針葉樹たちの枝葉が途切れて、目の覚めるようなブルーが一面に広がる。

 その青に手を伸ばすように、森のぬしのような巨木がどっしりと根を下ろしていた。樹皮が白っぽく、皮がむけたようにところどころぴらぴらと風に揺れている。

 白樺だ。

 落葉しているのに、その枝の先には氷の花が咲いていた。


 樹氷。冷却された大気中の水滴が樹木に凍りついてできる、冬の自然が織りなす芸術。


 町中でもよく見るから珍しいものではない。

 だけど、澄みわたった青空と雪の花とのコントラストのせいか、森のぬしとも言うべき堂々とした佇まいのせいか、目が離せない。

 思わずリュックのなかをまさぐってスケッチブックを探してしまう。絵をやめた私がそんなものを持っているはずもないのに。

 だけど無性に思った。描きたい。この青と白の色彩をキャンバスにとどめたい。

 正しさとか間違いとか、そういうものは横に置いて、今この瞬間、凍てついた厳しい冬だけにひそやかに咲く、もろくてくずれやすい花を見つめて、私の手でかたちにしたい。


 私は誰かに早く息の根を止めてほしくて仕方なかった。この「好き」は、私の「これがいい」は間違っている。そう詰られたかった。そうすればここで引き返す。こんなもの、手放してみせる。


 そう思っていたのに、私の道草にただひとり気がついた冬生先輩は、私がまだ私の物差しを捨てられずにいることを詰りもせずに見つめている。才能あるよとも、才能ないからやめればとも言わずにただ見つめている。

 私がどうしたらいいと思う、って聞いたらこの人は、冴映はおれにどう答えてほしいの、と言うだろう。そういう容赦のなさが、この人にはある。


 だから私は衝動のままにAmazonのアプリを立ちあげて、絵具と絵筆とキャンバスを買った。注文が確定しました、の画面をやけくそで冬生先輩に見せつける。


「ふーん。描けたら見せてよ」

「先輩、絵なんて分かんないんでしょ」

「うん。でも、冴映が好きなもん、おれも見たい。だから冴映も、おれのスーパーミラクルロングランに、いいねちょうだいよ」

「選んだとかかっこつけてたくせに、他人の評価がほしいんですか」

「そりゃほしいでしょ。んな修行僧みたいにストイックになれねぇよ。べつに悪いことじゃなくね?」


 先輩はからからと笑う。なんだ、そういうものかと少し気が楽になる。

 冬生先輩が好きなものを私が理解できないように、先輩も私が好きなものを理解できない。そういうふたりで一緒に、謎のスノーハイクをしている。

 解答ページのない問題集のように、この世は手ごたえがない。

 でも、ここが私の現在地だ。

 私は冬生先輩のインスタをフォローした。『いいね!』はしない。

 ただ、帰り道をふたり、並んで歩いてゆく。

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