第3話

 ナギとナミは遠ざかるクヤカン国を見つめていた。船が上下に揺れて景色がゆがむ。


「エイ、オー、エイ、オー」


 水夫の掛け声が波を砕いている。


 ナミの顔は青白かった。すでに船酔いの兆候が見られている。


「もう、漢や高句麗の暴力に怯える必要はなくなったな」


 ナギはしみじみと言った。妻の気持ちを船以外の何かに括り付けたかった。


「ハイ、でも……」


 ナミが前を向く。そこには海しかない。


「……無事に倭国に着けるでしょうか?」


「行けるさ。こんな大船なのだ。安心するといい」


「……」


 沈黙が彼女の不安を表していた。


「ナミ、見なさい。私たちの子供たちは強い」


 ナギがトリイの周りに集まって水夫たちと話す子供たちを指した。船を漕ぐ水夫は口をきかなかったが、交代待ちの水夫は気安く話す。


「水夫たちが話すのは倭国の言葉がほとんどだが、子供たちはもう覚えて使っている。いや、覚えていないまでも、見よう見まねで意思を交わしている」


「倭国に行くのですから、私たちも覚えなければなりませんねぇ」


「そうだ。通訳に頼っていては信頼も得られないだろう。私は子供を見習って、水夫たちと話してみるよ」


「私もそうしてみます」


「ああ。それがいい」


 ナギが妻に倭国の言葉を覚えるように勧めた本当の目的は、ナミが船に酔いやすいと知ったからだ。言葉を覚えることに夢中になれば、船に酔うことも少なくなるだろう。


「エイ、オー、エイ、オー」


 船は進む。前にも後ろにも、陸地は見えなかった。


「漕ぎ手は交代しろ!」


 ハバラが叫ぶと漕ぎ手の半分、10人の水夫が交代する。


「洛陽に向かうより楽な旅になりそうだ。子供連れで陸路を歩いては、洛陽に着くのは何時になるか分からなかった」


 ナミを元気づけようと、今となってはどうでもいいことを話した。


「倭国に着くのは早いのでしょうが、倭についてから、どうするつもりですか?」


 ナミが小首をかしげた。


「私には鉄づくりの腕がある」


 自信ありげな言葉だが、ナギの胸中は不安でいっぱいだった。


§


 長い航海、強い日差しのために、スサノオの身体は真っ赤になった。全身がヒリヒリと痛む。


日向ひなたをうろうろしているからだ。痛かったら、泣いてもいいぞ」


 マウラはそう言って笑った。


 なにくそ!……スサノオは泣かなかった。


 そして突然、その時はやって来た。


「あれが対馬だ」


 スサノオはマウラの肩に担がれ、彼が指す銀色の海に眼をやった。そこに、小さな黒い森が浮かんで見えた。


 しばらく過ぎて誰の目にも対馬がはっきりと見えたころ、太陽が沈んだ。


「しっかり見張れよ。鰐浦わにうらを通り過ぎてしまったら、沖ノ島まで飯抜きだぞ!」


 ハバラが水夫たちに活を入れる。


 船は夜の海を滑り、鰐浦にチロチロと灯る火を目指す。


 スサノオが次に島を見たのは翌朝で、鰐浦の村は目の前にあった。


 みすぼらしい小屋が陸地のやや高いところにあって、その背後は深い森と山があるだけだった。


「帆を下ろせ」


 久しぶりのハバラの声だ。


 ツクリが素早く帆を下ろす。


「エイ、オー、エイ、オー」


 漕ぎ手の掛け声が波音を乗り切り、船はゆっくりと入り江に入った。


 ここが対馬か!……スサノオの中で好奇心が膨らんだ。


 鰐浦の入り江には大小の船が並んでいて、浜にはムシロを敷いただけの店が並び、干物のたぐいをならべて交易の用意をしていた。大きな焚火の跡は、昨晩、マウラ達が目指した灯の痕跡だ。


 ――ドンドンドン、カンカンカン――


 鰐浦の住民は大半が半裸で、男も女も、年寄りも子供も、船が泊まる前から手を振り、鐘や太鼓を鳴らして歓迎している。その音を聞いて、浜に下りてくる住民も多い。


「おぉー」


 誰に言われたわけでもない。錨が投げ入れられて船が無事に止まると、ナギや使用人たちの感激の気持ちが腹の底から声になってあふれた。


 スサノオたちは我先にと船を降り、しばらくぶりの大地に喜ぶ。


 振り返れば入り江に天雷船が入港するところで、鐘と太鼓の音は更に勢いを増した。


 日焼けで真っ赤になったスサノオに向かって、マウラが声をかける。


「ワラシ。陽に焼けて身体が痛むだろう。冷たい水に浸かって、冷やすと良いぞ」


 スサノオはいいことを聞いたと喜んで、浅瀬に飛び込んだ。すると皮膚は増々ヒリヒリと痛み、飛び上がった。


「マウラ、嘘を言うなんてひどいぞ」


「慌てるな、ワラシ」


 マウラは声を上げて笑った。


「海に浸かってはダメだ。来い」


 ツクリがスサノオの手を取って歩き出す。


「どこに行くんだ?」


 さらわれるのかと思い、恐る恐るきいた。


「この先に真水の池がある。そこに入れば、痛みは減る」


「こんな島に、川や池があるのか?」


 ツクリは返事をせず、どんどん森に向かって歩いて行く。


 浜辺の喧騒はとっくに聞こえなくなっていて、スサノオは心細くなった。両親のもとに戻りたかったが、ツクリが怖くてそれを言い出せない。


 歩き続けると民家の裏を流れる小川があった。そこを更に森の奥に向かって進むと池に出た。


「ワシは、この国の生まれだ。知らないはずがないだろう」


 ツクリはスサノオを抱き上げると池に投げ込んだ。


「何をする!」


 池は深く、スサノオの頭がやっと出るほどだった。慌てて岸に上がろうとするとツクリが池に入って来て、スサノオの頭を押さえて水に沈めた。


「身体に着いた塩を落とせ。さっぱりするぞ」


「俺は泳げないんだ!」


 慌てたスサノオは、ツクリの身体にすがりついてよじ登った。


「あれ?」


 ツクリの胸が柔らかい。


「スサノオ。内緒だが、ワシは女なのだ」


 スサノオがツクリの首と腰に手足を絡ませて落ち着くと、ツクリが教えた。


「へー」


 スサノオは、ツクリが可愛らしい笑みを浮かべるのを初めて見た。その時からツクリが怖くなくなった。


 2人は身体に着いた塩を洗い流して岸に上がり、服を脱いで木の枝に干した。自分たちは木陰に並んで身体を乾かす。


「女の裸を見たことが無いわけではないだろう。じろじろ見るな」


 ツクリがスサノオの額を指で押した。


「男みたいな女は見たことがない」


「そうか。男のように見えるか?」


「いや、女だ」


「どっちだ?」


 ツクリが笑った。


「力が強いから、男みたいだ」


 スサノオは、筋肉のついたツクリの腕を握った。


 ツクリが力こぶを作って見せる。


「乳も小さい」


 触った胸は小さかったが、母親の乳房のように柔らかい。


「握るな」


 ツクリは身をくねらせてスサノオを押しのけた。


「触っただけだ」


 スサノオは口を尖らす。


「触るだけだぞ」


 ツクリに許され、もう一度、ツクリの胸に触れた。


「かあさんの方がずっと大きい」


「それは子供を産んだからだ。ナミには負けるが、エビスと同じくらいはあるだろう?」


 スサノオはエビスの胸に触れた事はなかったが、見たことはある。


「確かに姉のエビスと同じくらいだ」


「それは助かった。あの小娘以下では、嫁にも行けない」


 ツクリは、スサノオの成すままに任せて笑った。かつて、彼女が男にそうさせたたことは一度もなかった。


「ツクリは、何歳だ?」


「間もなく、18になるなぁ」


「男のような格好をしているから、嫁の貰い手がないのだ」


「ガキが、ませた口をきくな。ワシは船に乗るために男の格好をしているだけだ」


「俺の嫁にしてやろうか?」


「あ、あほな……」


 ツクリが顔を赤くして立ちあがった。


「身体も乾いたろう。おまえの母が心配しているかもしれない。行くぞ」


 言われて、スサノオも立った。塩は落ち、皮膚が冷えて痛みは治まっている。


「あれ、痛くないや」


 自分の身体を確かめているうちに、着物をまとったツクリはどんどん先を歩いていた。


「待ってくれよ」


 着物を枝から取ると、裸のままで追った。

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スサノオ立志伝 ――少年期2・対馬―― 明日乃たまご @tamago-asuno

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