第2話

 マウラが案内した船は、1本の帆柱と左右にそれぞれ10のかいを持つ船だった。港に停泊しているどの船よりも大きく早そうに見える。


「これは見事な船だ。……あ、いや、船のことはよくわからないが、この船ならば倭国への大波も軽々と乗り越えられるに違いない」


 ナギが惚れ惚れする声を上げた。


「すごいなぁ。俺はこれに乗りたい!」


 スサノオは沸き立つ心を抑えきれない。


「そうだろう。これは天磐船あまのいわふねといってな、荒波にも負けない頑丈な船だ。50人は乗れるぞ」


 自分の所有物でもあるかのようにマウラが自慢した。


 急角度の板を上って船に乗ると、甲板を洗う2人の男がいた。甲板と言っても、近代の船のように、船全体が甲板で覆われているのではない。甲板があるのは船の前後の部分だけだ。


 船を洗っている男たちは、マウラに比べたら痩せこけた男だった。ただ日焼けしているから船乗りだと分かる。


「よう、トリイ。精がでるな。ハバラ、客人を連れてきた」


 甲板を洗っていた男の1人が「客人?」と立ちあがる。ハバラが名前で船長なのだろう。


 後の書物にある天津羽原は、ハバラの子孫にあたる。


「この船の船頭とお見受けします。私、イザ村のナギと申します」


 ナギが進み出た。


ハバラは何事が起きたのかとでも聞くように、マウラに目をやった。


「この男が家族ともども船に乗せてほしいそうだ。ナギ、この黒いのがツノハバラ。ワシの幼馴染で船頭だ」


 マウラが2人の男の間に立って紹介の労を取る。


「倭の国に渡ろうというのか?」


 ハバラは、ナギを見てから背後に並んだナミと子供たちに目をやって眉を寄せた。


「エビスよ。こっちにこい」


 マウラに呼ばれてエビスが隣に立った。


「この娘はエビスだ。その家族が海を渡るのに不都合はあるまい」


「しかし、なぁー」


 ハバラは渋い顔を崩さない。


「ワシの言うことがきけないのか!」


 突然、マウラが大声を上げた。上空を飛んでいたカモメが驚いて、ぱっと散った。


「わ、わかった。構わないか? トリイ」


 トリイと呼ばれた男は、ナギたちの顔を観察してから視線をマウラ、ハバラの順に移した。そうして仕方がないとでも言うようにうなずいた。


「ようし、決まった。それではお主たちの荷を積め。ワシも暇だから手伝おう」


 マウラが先になって歩き出した。


「船頭が船を洗っているのに、マウラはいいのですか?」


 ナギが聞いた。船頭が怒ってへそを曲げては困る。


「ああ。ハバラは何よりもこの船が大切なのだ。だから磨いている。船頭としての腕は、イマひとつだがなぁ」


 彼がカラカラ笑った。


「それは本当ですか?」


 ナミの顔に不安が浮かんでいる。


「ん?……ハバラの腕のことなら心配するな。天磐船にはワシがいる。ツクリもなぁ。それにトリイは優れた持衰じさいだ。滅多なことで、船が沈むことはない」


「持衰というのは?」


「お守りみたいなものだ。全ての厄災を引き受ける」


「そうですか……」


 内陸部で育ったナギたちは、持衰が何かを理解できなかったが、深く追求することはしなかった。


「それではハバラ様、トリイ様。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします」


「こら、イザ村のナギ。丁寧過ぎるのはイカンといっただろう! 海に出るからには裏表があってはならんのだ」


 マウラが大声を上げてナギ達を驚かし、そして笑った。


 ハバラの元を辞したナギ達は、マウラの力も借りて荷物の積み込みを始めた。しばらくするとツクリが仲間の水夫たちを集めてきて手伝わせた。何とか日の沈むころには荷物の積み込みは終わり、家族は天磐船の上で夜を過ごした。


 翌日、ナギが航海中の食料や倭国についてから利用する鉄や銅の地金を仕入れた。そうして仁川に残してきた使用人たちが到着するのを待ったが、一向に彼らが現れない。


 数日がすぎた。


「潮の流れや風向き……、この時期、南へ向かう機会は少ない。おそらく数日の内にはより良い風向きになるだろう。それまで間に合えばいいが」


 ハバラが、使用人を置いてでも出港すると臭わせた。


「同じ海の道を辿たどればとっくに着いているはずなのですが……」


 ナギは海を見て案じた。夜の海はどす黒く、不吉なにおいを漂わせていた。満天の星の中を天狗と呼ばれる流れ星が走った。


「荷を盗んで逃げたのではないか?」


 ハバラが秘めていた思いを口にした。


「彼らに限って、そんなことはありません」


「使用人たちは金を得、自由を得たのだろう? 主従の関係も薄くなるというものだ」


 ハバラの言葉にナギの心が揺れた。


「明日、来るよ」


 星を見ていたスサノオは言った。天狗がスサノオの思いに応えたような気がしたのだ。


「スサノオ、大人の話に口を挟むな」


「でも、父さん。明日、みんなが来るよ」


 スサノオはひかなかった。


「お前は頑固だな」


 大人の方が苦笑して話を変えた。


 スサノオの予言めいた言葉は当たった。翌日はやく、仁川に残してきた使用人と残りの荷物が着いたのだ。ナギと使用人たちは喜び、肩を抱きあった。


「ほう。スサノオの言う通り、やって来たな。どうしてわかった?」


 ハバラが感心してスサノオに問いかけた。


「天狗が教えてくれたんだ」


 スサノオは得意になって答えたが、ハバラは「ほう」と言って笑っただけだった。


「さあ、時間がない。荷物を積み込め」


 マウラに催促され、ナギ達は後からついた荷物を天磐船に積み込んだ。全ての荷物の積みこみが終わると、大きいと思っていた天磐船も狭く感じた。


 乗客と水夫は荷物の上に板を敷き、あるいは隙間にもぐり込んで寝起きすることになる。


 その晩は酒を酌み交わし、改めて再会を喜んだ。


 翌朝、天気は快晴。弱い南風が吹いた。


「この時期には珍しく、良い風だ。やはりエビスのご利益だ」


 風を読んだマウラがエビスの頭をなでた。


「出港!」


 ハバラが叫ぶとマウラが石の錨を上げ、20人の漕ぎ手が櫂をこぐ。


 天磐船はゆっくりと動き出した。


 スサノオは船の舳先に陣取って、船が波を切る様を楽しんだ。


「どけ。海に落ちる」


 スサノオが群青色の海を覗きこんでいると、ツクリに襟首をつかまれて舳先から引きずりおろされた。彼の倭訛りの言葉は理解できなかったが、叱られているのだけはよくわかった。その時のツクリの顔が、かつて梅林であった漢の兵隊のように恐ろしいものに見えた。それからスサノオは、ツクリには近づかないことにした。


 船が入り江を出てからしばらくは、向かい風を避けて進路を西に取った。すると船が大きく揺れた。


「よし。潮の具合がいい。船を南に向けろ」


 船尾の舵の近くに立って指示したのは、ハバラではなくマウラだった。


 船は海流に乗って南東に向かって流される。すると南風も横風に変わる。


 ツクリが帆を上げて風をつかまえると、三角の帆は風をはらみ、やがて船の速力があがって陸地を遠くにやった。


 スサノオは天磐船を追うようについてくる船を見た。天磐船とほぼ同じ形をしていたが、櫂の数は二つほど少なかった。倭国に行くのは天磐船だけだと聞いていたので不思議に思ってマウラにたずねた。


「あの船も倭国に行くのか?」


「天雷船だ。この船に積む予定だった荷物を積んでもらっている」


「なぜ?」


「決まっているだろう。お前たちを乗せたから、本来、積むべき荷物が積めなくなった」


「俺たちが向こうの船に乗っても良かったんだな」


「それは無理だ。女がいるだろう。向こうの船頭は信心深い対馬国の者だ。女は乗せない」


 そう言ってマウラは笑った。


 スサノオは甲板にひしめき合う人間を押しのけて、船の前後を歩き回った。


「これが海か。すごいなぁ」


 仁川からクヤカン国までも海を走ったが、四方が水平線に囲まれた景色は格別のものだった。地球上には、空と海と、自分しかいないように感じられる。


 水夫たちには遠くに対馬国が見えているのだが、背の低いスサノオには、まだそれが見えなかった。


 遠くを小さな船が北に向かうのが見える。


 スサノオは船を指してマウラにきいた。


「あの船は、どこに行くんだ?」


「あれは対馬国の船だ。クヤカン国の市に行くのだろう。あの国の者たちは、魚やアワビを取って市で米と換えるのだ」


 マウラは何も知らないスサノオに丁寧に説明する。普段は仲間の水夫にもしないことをするのは、スサノオのことを弟のように気に入ったからだ。マウラの弟は、スサノオと同じような年頃の時に海に落ちて死んでしまっていたのだ。彼がそう教えてくれた。だから、船縁ふなべりに寄る時には十分に気をつけろ、と。


「おじさんは何をしているんだ」


 景色に飽きたスサノオが声を掛けたのは、持衰のトリイだ。


 トリイは、前方甲板に設けられた小さな囲いの中にこもり、ただじっとしていた。時折、眼を開けて周囲を窺うが、ほとんど寝ているように眼を閉じていて口も利かない。食事も排泄も、狭い囲いの中で行っていた。


 スサノオに声を掛けられたトリイは薄らと眼を開けたが、その瞳にスサノオは映らなかった。遠くの青い空……、いや、風を見た。そしてまた静かに目を閉じた。


「ワラシ、止めておけ。持衰の心が穏やかならば、海は荒れない。刺激しない方がいいのだ」


 マウラが教えると、エビスがたずねる。


「誰とも話さず、トリイさんは寂しくありませんか?」


「ふむ。考えたこともなかったなぁ」


 マウラはトリイのいる囲いに、ちらりと目をやったが、それだけのことだった。


「エビスのおかげで、順風満帆。いい旅になりそうだ」


 彼は自分の仕事を思い出したように船尾に移った。

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