十二話
ここへ来るのは何年ぶりだろうか。中に入ると懐かしい匂いが私を包んだ。昔と変わらず大勢の客でにぎわっている。まるでこの場だけ時間が止まっているような錯覚に陥りそうだ。酔客を見渡しながら、私と彼はいつもの席を見つけ、座る。通りかかった店員に彼は酒とつまみを注文した。
「……お前は飲まないのか?」
「読みかけの文献があるんでね」
「そんなもの、いつでも読めるだろう」
「今日中に読み終えたいんだ」
彼は苦笑いを浮かべた。
「人は変わるものだな」
「お互い様だ」
私と彼は顔を見合わせ、笑った。
魔術師の弟子となってから、およそ三十年が経った。お互い五十代となり、髪には白髪が目立ち、顔にはいくつもしわが刻まれている。三十年という日々は、お互いの見た目だけでなく、立場も大きく変えてきた。
オグバーンとは長い間、会えない時期があった。それは私が魔術師の研究の手伝いに没頭していたからなのだが、そんな時でも、どこからともなく風の便りは届くもので、軍にいるオグバーンの評判はどんどん高まっていった。もともと兵士として優秀だったから、この評判は当然と思っていたが、短期間で昇進していったのにはさすがに驚いたものだ。
「――それで、今の肩書きは?」
「大将だ」
「へえ……クインタス将軍か。なかなか似合うじゃないか」
「お前に名字で呼ばれるのは慣れんな」
オグバーンはつまみを食べながら酒を一口飲む。
「将軍は忙しいのか」
「他よりはな。でも昔ほどじゃない」
隣国トゥアキエ王国との平和条約は、あの夜の事件から一年後に協議再開が決まった。魔術師が言った通りの作戦が行われたのかはわからないが、それから数年かけて、やっと平和条約は締結された。人も物も豊かになり、今この国は以前よりも平和と言えるだろう。
「お前はどうなんだ。研究とやらは終わりそうか」
「まだまだ。簡単にはいかないよ」
「確か、治療薬を作っているんだったな。成果は出ているのか」
「もう少し、というところだ」
魔術師が日々研究、実験していたのは、治療薬を作るためだと知ったのは、その薬が出来上がった時だった。それまではただ言われた通りに動くだけで、どんなものを作っているのか教えてくれなかったのだ。できた薬は安全性を確認後、城の王族のもとへ献上され、その薬のレシピは、街の製薬工場に送られた。でも魔術師は、その薬の出来に満足していないらしく、もっと効果のあるものを作ろうと研究を続けた。
しかし、今から十年前、魔術師は志半ばでこの世を去ってしまった。九十歳とかなりの長生きだった。だから自分の死期を悟っていたのかもしれない。魔術師は私に遺言を残していた。「お前はわしの後継者だが、お前の人生はお前だけのものだ。どうするかはお前自身で決めろ」という内容だ。迷うことはなかった。私はこの道しかないと決めたのだ。魔術師の研究を引き継ぐ決心をした。研究内容をすべて理解するのには苦労したが、放り出すわけにもいかない。何せ後継者は私一人なのだ。私が諦めたら、これまでの成果が消えてしまう。それだけはしたくなかった。ちなみに、魔術師は結局、私以外に弟子はとらなかった。あの事件の夜に言っていたことは、私を説得するための方便だったのだと今は思う。が、本当のところは本人に聞いてみないとわからない。
「ところで、お前はまだ一人身なのか?」
「ああ」
「助手は?」
「いない」
「料理、洗濯、掃除をしながら研究か……それじゃ時間がかかるわけだな」
「一人分だ。大したことじゃない」
「でも、協力してくれる人間がいると、かなり楽だぞ。お前も研究のほうに集中したいだろう」
「研究ばかりしていると、時には息抜きもしたくなる。家事はそれにちょうどいいんだ」
オグバーンは大げさに息を吐いた。
「気ままな独身生活が完全に染み付いたか、それとも――」
ちらとオグバーンは私を見た。
「昔の女のトラウマか?」
誰のことを言ったのか、私の頭にはすぐにその顔が浮かんだ。
「記憶力がいいことだな」
私が笑うと、オグバーンも笑った。
「まあ、それは冗談だが、意中の女性くらいはいるんだろう?」
「特にいないよ。そんなことより研究のほうが忙しい」
するとオグバーンは机に身を乗り出して言った。
「駄目だ駄目だ。お前は損をしているぞ。家族を持つ幸せを感じるべきだ。俺っちを見ろ。どう見える?」
私はオグバーンの顔を見つめた。
「……自分のことを、まだ俺っちって呼んでいるのか」
「話をそらすな! ……これはお前と話す時だけの癖だ」
オグバーンは椅子に座り直した。
「とにかく、意中の女性がいないのなら、俺っちがいい人を紹介するぞ。独身の女性なら何人か心当たりがある」
「構わなくていい。こんな歳のいった男と誰が一緒になりたいと思うんだ」
「諦めるのは早いぞ。そういうことは女性と会ってから言え。いいな?」
オグバーンのあまりの真剣さに、私は笑いながらうなずいた。彼は昔とちっとも変わっていない。私が困っていると、それを解決する方法を提案してくれる。今回のことは困っているわけではないが、この、人を放っておけない性分が、きっと将軍に選ばれるほどの信頼を築いたのだろう。それにしても、この歳で恋愛について話すとは思わなかった。
「……そろそろ帰るか」
オグバーンは酒を飲み干し、立ち上がる。
「早いな。用事でもあるのか」
「明日の朝が早いんだ。詳しいことは言えないが、大きい任務があってな」
財布から代金分の硬貨を取り出し、机に置く。
「準備が整ったら、こっちから連絡をする。それじゃあ次回に」
店を出ていこうとするオグバーンを、私は呼び止めた。
「オグバーン」
「……何だ」
「忙しいとは思うが、時々こうして会って飲もう。恋愛話は抜きにして」
これにオグバーンは、にっと笑った。
「考えておく」
右手を振って、オグバーンは店を出た。
翌日――
昼食を終えて、いつものように地下の部屋で作業をしていると、階段の上から扉を叩く音が聞こえた。私は手を止め、一階に上がった。
「……あっ、し、失礼いたします」
玄関先に立っていたのは、軽装備の若い兵士だった。
「何の用だ」
「は、はい。あの、これを、お届けに参りまして……」
兵士は右手に持っている筒状に丸めた紙を、うやうやしく両手を使って私に差し出した。
「ご苦労」
それを受け取ると、若干紙が湿っているのに気付いた。今は冬の終わりだ。この兵士はかなり緊張しているらしい。
「君は、兵士になってまだ浅いのか」
「えっ? そ、そうです。今年で二年になります」
「ふーん……」
兵士は身を固くしながら額に緊張の汗を滲ませている。
「喉が渇いただろう。お茶でも飲んでいきなさい」
「い、いえ、お邪魔をするわけには……」
「構わないよ。ほら、付いてきて」
私が歩き出すと、後ろから兵士の足音が付いてきた。受け取った手紙を開きながら、私は階段を下りる。
「ここを見つけるのは大変だっただろう。森で迷わなかったのか?」
「じ、上官に詳しい地図を描いてもらいましたので」
「ほお、親切な上官だな」
手紙の内容は、五日後に登城してもらいたいということだった。詳しいことは後で読むことにして、私は兵士のためにカップと茶葉を用意しに台所へ向かう。
「ここが、バイデル様の……」
兵士は物珍しそうに部屋中を眺め回している。
「周りばかり見ていると、つまずくぞ」
「はっ……す、すみません」
兵士は肩をすぼめ、うつむく。
「……ぬるい紅茶だが、いいかな」
「あ、ありがとうございます。僕のために紅茶なんて」
カップを受け取った兵士は、緊張気味に一口飲む。特に反応もなく、黙々と飲み続ける。
「感想を聞かせてくれ」
「え、えっと……はい。もちろん、とてもおいしいです。はい」
彼は嘘がつけない性格のようだ。私もこの紅茶は不味い部類に入ると思っている。
紅茶を飲んでもらっている間に、私は作業机で次に使う材料を並べていた。すると、指が空の小瓶に当たり、それはころころと机のへりに転がっていった。
「……危ない!」
兵士は素早い反射神経で、落ちそうになった小瓶を左手で押さえた。と同時に、勢い余った足が作業机の足にがんとぶつかる。
「あっ――」
バランスを崩した兵士は前のめりになり、その反動で右手に持っていたカップから紅茶が流れ落ちた。机の上に置いてあった書きかけの雲と太陽に関する研究結果は、茶色い染みで覆われた――また初めから書き直しか。
「は、あ、ああ……」
ランプの明かりで薄暗い中でも、兵士が顔面蒼白なのがわかった。身動きせず、自分が汚した机を見つめている。そして我に返った兵士は、私に近寄って何度も謝った。
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい! 僕は、僕は……」
その必死な姿が、なぜかおかしく思えて私は笑った。
「仕方ないよ。気にするな」
「でも、でも、大事なものを僕は……」
「いいから。気にしないで。もう帰りなさい」
そう言って私は不思議な感覚にとらわれた。こんな状況を、私は以前にも体験したことがある……?
「本当に、すみませんでした……」
兵士はカップを置くと、肩を落として階段をとぼとぼと上がっていく。私は雑巾で机を拭きながら、昔を思い返していた。あの時、先生は――魔術師はどうしたのだったか……。
「……あ」
思い出した私は、小走りで兵士の後を追った。
「待って」
呼び止めた兵士は、玄関を出たところだった。
「は、はいっ」
兵士はがちがちになって振り返った。
「言い忘れていたことがある」
「何で、しょうか?」
私はにこやかに言ってみた。
「君に呪いをかけさせてもらった」
兵士の表情が見る見る強張っていくのがわかった。このままだと震えて動けなくなりそうだと思い、私は帰るよう手を振って促した。兵士はぎこちない動きで、黙ったまま踵を返した。
思えば私はこの瞬間から人生が変わったのかもしれない。いや、変えられたのか? どちらにしろ、大きな分かれ道だったのだ。呪いを信じ、軍をやめ、魔術師に弟子入り――まったく、我ながらおかしな選択をしてきたものだ。普通の人生だったら、こんな選択の仕方はしない。もっと堅実な人生を送れていただろう。だが、普通でない道を選んだ結果、私は生き甲斐を見つけることができたのだ。先生には感謝してもしきれない。
帰っていく兵士の後ろ姿がどんどん遠ざかっていく――でも、違う言い方をすれば、人生を若干狂わされたとも言える。私の場合は最高の結果にたどり着くことができたが、あの兵士が私と同じような結果にたどり着けるとは限らない。むしろたどり着くほうが難しい気がする。彼は、私の言葉でどんな選択をするだろう……。
私は小走りに駆け出し、木の向こうに消えた兵士を追った。
「君!」
ようやく見えた兵士を呼ぶと、驚いた様子で足を止めた。
「ま、まだ何か……?」
怯える兵士の前まで来て、私は息を整えてから言った。
「呪いをかけたというのは、冗談だ」
「……え?」
「だから、気にすることはない。それだけだ」
呆気にとられた兵士を残し、私は来た道を引き返した。
何もこの兵士を私と同じ目に遭わせることはない。過去の自分を思い返すと、かなり振り回され苦労したものだ。同じようなことが彼にも起こるかもしれないと思うと、申し訳ない気分になる。彼には彼だけの人生を進んでもらいたい。そこに私の冗談など必要ない……。ただ、将来の後継者を失ってしまったかもしれないが、まあそれはおいおい探せばいい話だ。私はすっきりした気分で家の中へ戻った。
安楽死希望兵士ウェルス 柏木椎菜 @shiina_kswg
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