第五章 血塗れ

第五章 血塗れ

「初任務で任務放棄とは、理解できません」

蛇の声はゆっくりと首を絞めるように、伊上に向けて発せられた。任務放棄に加え、虎への暴行。伊上が責め立てられるのは当然のことだった。

「挙句の果てに敵に拘束され、救助の為に猿を招集するとは」

あの後、車に乗り込むと伊上は問題行動を起こしたために、長の前へと呼び出された。

状況が始まった場所であり、またここに戻された。伊上は弁明をする気も無く、ただううなだれているだけだった。

「それにしても、虎がいたのであれば猿を呼ぶ必要はなかったのでは?」

目線すら合わせない伊上を無視して、長は虎へと問いかけた。虎は渋々といった様子で答える。

「俺はそもそも見捨てるつもりでしたよ、まさか飼い主の手に噛みつくたぁ思いませんでしたからね」

「狸から伊上の話を聞いて俺が勝手にやったことだ。虎は関係ない」

虎の言葉にかぶせるように、立ち上がった村瀬はそう言った。

「牛鬼が自由になっている状況で、味方を失うのは避けたかった」

「経験も無く、覚悟もない者は味方ではない」

親子の目線がぶつかる。ピクリとも動かない長に対して、村瀬の腕は細かく震えている。

「息子だと思って甘やかしすぎたな。残念だ」

伊上達が囲んだ机の上を銃が滑り、村瀬の前で止まる。それを一瞥すると震えた手が添えられる。

「狐は自決したと伝えたはずだ」

「それは聞いている。一から十まで説明しなければいけないのか」

村瀬の視線が伊上を捉える。伊上はそれを見ることができない。

「冗談はやめてくれ。俺にはできない」

「やれ。私の息子であり、組織の者として」

小刻みに震えた穿孔がゆっくりと伊上に向けられる。伊上はそれを見つめ返した。村瀬の人差し指が引き金にかかる。伊上は立ち上がると、握られていた銃を掴んだ。村瀬が唖然としてその動きを見つめる。

「俺が死ぬのは構いません。ただ俺をこんなところに引き込んだ牛鬼について知らないまま死ぬことはできない」

力を無くした村瀬の腕から銃を取ると、伊上は周りを見渡した。この状況であっても誰も立ち上がることはない。

「これから死ぬ者に知る必要はない。可能なら自分で頭を撃ち抜いてくれ」

長の言葉を聞き、拳の痛みが蘇る。そして上に向かい引き金を引いた。排莢された薬莢が音もなく床に転がる。

「答えてください。どうせ死ぬんだ。それくらいいいでしょう?」

「銃を下ろせ伊上」

村瀬の呼びかけに伊上は首を振った。銃口からたなびく紫煙だけが部屋を自由に動き回る。

「もういい」

長はそう言うと、一呼吸おいて話始めた。

「君たちをあの夜に襲撃したのは牛鬼と呼ばれる反抗勢力だ。我らが善であるなら奴らは悪。多数の犯罪組織と共謀し力を増している」

そこまで聞き、伊上の脳裏に白スーツの男の顔が過った。

「奴らの行動理念は不明、大きくなりすぎた組織ではよくあることだが、秩序の無い破壊行為を繰り返す獣だ」

「東京タワーの爆破」

伊上の言葉を聞き、長は首肯した。

「そうだ。だがそれだけではない。我々の仲間も随分とやられた。しかし神出鬼没の奴らを仕留めることは未だ叶わない」

そこまで話すと顔に疲労が見え、長は咳き込んだ。伊上はそれを見ながら善と悪と呼ばれた二つについて考えていた。

「初めは君がスパイであると疑った。だがその心配もいらないな。君はここで死ぬ」

その言葉と共に、銃声が部屋を切り裂いた。


 反射的に目を閉じた伊上は身を屈めた。途切れるはずだった意識はまだ保たれている。耳鳴りが止んでも部屋の中から音がしない。辛うじて立ち上がった伊上の視線は銃を構える虎を見据えた。

「おう、伊上ぃ。死なずに済んでよかったな」

口調とは相反した冷たい眼差しは既に眉間を撃ち抜かれた長と蛇を見下ろしている。

「虎、お前何やってんだ」

突然の事に身動きできない村瀬が虎を見上げて叫ぶ。

「俺は虎じゃない。牛鬼だ」

立ち上がろうとする村瀬の胴体を踏みつけ、銃を構える。混乱を振り切り、伊上は虎の腕を掴んだ。

「まぁいい。お前ら二人は生かしてやる。平穏に生きたいのならもう関わるな」

掴んでいた伊上の腕を引き込み、銃身で頭を殴りつけ、踏んでいた足に更に体重をかけた。

 村瀬が血交じりの胃液を吐き出し、白目を向く。それを見ていた伊上は途切れそうになる意識を必死で繋ぎとめた。

「立つなよ。立つなら殺すしかない」

牛鬼の言葉に負けそうになる。このまま倒れてしまえば楽になれるだろう。普段よりも重たい体を奮い立たせ、伊上は拳を構えた。

「後悔するなよ」

そう言った虎は手にしていた銃を床に落とすと、ジャケットを脱ぎ、肩を回した。その刹那鋭い拳が頬をかすめた。辛うじて見えてはいる、だが伊上の思考に体が追い付かない。満身創痍の伊上に次の拳が襲い掛かる。側頭部を狙った大振り、意を決してステップを踏むと左、右と交互に拳を打ち込む。虎の胴は固く、殴りつけた拳の方が壊れそうだ。拳を握りしめる伊上に前蹴りが放たれた。

 伊上は後ろ足を引き、蹴りを躱すと軸足に向かって蹴りを放つ。痛みに顔が歪んだ牛鬼の頭が垂れると、額に向かって肘を放った。

「いい動きだな。伊上ぃ。鍛えた甲斐があるってもんだ」

咄嗟に放った伊上の拳を掴むと、外側に捻り上げ、空いた伊上の顔面に蹴りが放たれる。顔に火が付いた様な痛みが広がり、思わず目を閉じる。反射的に身を屈めた伊上の腹部に躊躇なく拳が入り、伊上は思わず吐き出した。

 まだ死んでいない。伊上は口内の液体を吐き出すと、足に力を込め、再び牛鬼へと向かった。あまりにも愚鈍に突進する伊上に向け、虎は腕を振り下ろす。伊上はわかっていた。一か月も毎日戦えば見えてくるものがある。

振り落とされる拳に対し、伊上は左足を軸に身を反転させ、虎の鳩尾めがけて回転蹴りを放った。勢いを利用した蹴りは虎の体に突き刺さる。

 倒れてくれ、伊上は足から抜けていく力を実感しながらそう思った。

だが伊上の願いに反して、牛鬼は振り下ろした腕で伊上を掴むと力任せに殴りつけた。自らに降りかかる圧倒的な暴力に伊上はただ耐えるしかなかった。

「ボクサーかぶれにしては上出来だったぜ、伊上ぃ」

牛鬼の腕が離れると、血で赤く染まった顔の伊上は力なく膝から崩れ落ちた。意識が立ち上がろうとするが、体は全く動かない。

 互いに呼吸は荒いが、立っているものと地面に這いつくばるものでは勝敗は明らかだ。伊上は必死に牛鬼の背を睨む。周りの音が無くなり、視界が徐々に狭くなる。


「やるようになりやがって」

肩で呼吸をし、口内に溜まった血を吐き出すと、倒れる伊上を見下ろした。伊上はもう動かない。

「動くな、虎。いや牛鬼」

口元に血を垂らしながら、村瀬が銃を牛鬼へ向ける。自らの父を屠った銃は倒れた村瀬の手元へ転がっていた。

「生かしてやると言っただろ。特に父親に言われるがままだったお前は不憫だ」

牛鬼が村瀬を見据える。向けられた銃口を意にも介さず、村瀬の目前へと歩を進める。

「お前の意志で殺せるのか?」

微かに揺れた村瀬の目線を見逃さず、虎は銃を蹴り上げた。村瀬の手から銃がこぼれ落ちる。村瀬は続く二発目の打撃を顔面に喰らうと、地面に倒れた。

「起きろよ、伊上」

視界のはるか先にいる伊上に向けて叫ぶ。

「じゃあな。俺を追おうなんて考えるなよ」

歩き出した牛鬼だったが、後方で鳴った音に思わず振り返る。


「ごめんね。」

そう記されたメールが伊上の元へ届いたのは試合の前日、金曜日で、空に浮かんだ雲が日光を独り占めしているような暗さだった。

 雨の日特有の体の痛みに堪え、ベットから立ち上がった伊上は6時間遅れでそのメールを見たのだった。特に気にも留めず、教室でそのメールについて聞けばいいと考えていた。

「美咲さんが自殺しました」

やけに慌ただしい教室、窓を叩く雨音、いつもはそこに座って控えめに手を振る美咲がいない机。伊上はまさしくパンチを喰らった様に動くことができなかった。ただ悪意を形にしたような下衆な笑い声が微かに聞こえていた。


 そして試合前のロッカールーム。

着替えが終わり呆然と立ち尽くす伊上の前に木村が立つ。口にはあの下衆な笑いがこべりついている。

「美咲。あいつ死んじまってな。いい女だったのにな。あともう一回抱きたかったなぁ」その言葉を聞いて、伊上は理解する。そして、今までに感じたことのない怒りが湧き上がる。そして美咲のために、拳を固く握りしめた。


「起きろよ。伊上」

「絶対勝ってよ。お願い」

耳に聞こえた二つの声が伊上の意識を呼び戻す。頼りない心臓の脈動が体を巡る。拳を握り、何度も倒れそうになりながら伊上は立ち上がる。

「何で、立つんだ?倒れてればそれで終わったのによ」

前に立つ牛鬼の姿に、木村の姿が重なる。左右の目は同じものを見てはいない。だが拳を握る理由は同じ。正しい者のために。そしてゆっくりと歩き、牛鬼の目前に立つ。

「ボクサーはな、何度だって立ち上がるんだよ」

そう言った村瀬の声がゴングになり、伊上は拳を放った。それを腹に食らった牛鬼の顔が歪む。お互いにもう長くは立ってられない。

虎が放ったストレートをステップして避けると、ガラ空きになった顔面へ伊上は左の拳を叩き込む。後ろにのけぞり、鼻血を吹き出した顔が垂れた時、伊上は右の拳へ渾身の力を込めてアッパーを放った。歯がぶつかる音が響き、振り抜いた拳が天を刺す。牛鬼はゆっくりと地面に倒れた。それと同時に伊上も地面に倒れた。だがその顔は微かに笑っていた。


エピローグ 鵺

そしてあの戦いから1ヶ月の時間が過ぎた。

スーツに身を包んだ伊上は長い廊下を歩いている。握り閉めた拳にはいくつもの消えない傷があり、それを手袋で隠している。目の前の扉を開くと、その中には村瀬が立っている。

「久しぶりだな。伊上」

前と変わらない笑顔で話しかける村瀬に対し、伊上も笑顔を返す。

「これからどうするんだ?」

そう問いかけた伊上を村瀬が見つめる。

「お前には関係ない。俺が巻き込んだ。だがそれも終わった。いや違うな。お前が自分で終わらした」

組織がどうなったか。伊上は知らない。村瀬は伊上が入院している病院へ見舞いに来ると、元の生活に戻れと言った。

「別れの挨拶をしにきたんだろ?ハグでもしたほうがいいか?」

そう言っておどける村瀬に、伊上は静かに言った。

「最初は巻き込まれた。だけど戦うことを選んだのは俺だ」

「本気か?」

そう問いかける村瀬に伊上は首肯する。

「組織は再編する。今度は俺も俺の意志で戦うさ」

「なら長か。何から始める?」

村瀬はその言葉を聞いて、大きく息を吐いた。そしてポツポツと話始める。

「まずは牛鬼の残党、その後は正しいことを、正しいと思えることをする」

そう言い切った村瀬の言葉を聞き、伊上は拳を固めた。

「一歩づつ進めていこう」

「頼むぜ。鵺」

その言葉を聞いて、伊上は首を傾げた。意味を聞こうとした伊上が口を開く前に村瀬がかぶせる。

「虎を、そして鬼を倒したお前の暗号名だ。それでな俺は今まで通り猿でいい。お前の相棒だ」

そう言って歩き出した猿の後を鵺が続く。悪を挫き、善を成すため。その歩みは今一歩目を踏み出した。

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