第四章 狐狩り
第四章 狐狩り
伊上と虎を乗せた車は出発してから1時間ほど走り続けた。スモークが貼られた窓からは相変わらず外の様子は確認できない。自動運転であるため、2人は後部座席に対面で座っている。虎が吐き出す煙に時折咳き込みながら、伊上はこれから起こるであろう事柄に準備ができずにいた。腰に携帯している銃の重さもそれに起因していると考えられる。
「どうせ何もできないんだから、どんと構えてろ」
長い沈黙の後、虎が発した言葉に伊上は同意できなかった。現役の頃は試合前も緊張していた、そのときはどうやって緊張をほぐしていたか思い出すことができない。
「それができれば苦労しません」
「まぁそりゃそうか」
車内に設置された灰皿に虎が煙草を押し付けて、息を大きく吐いた。肺に残った煙を吐き出すと、ジャケットのポケットから銃を取り出し、弾を込め始めた。銃に関して明るくない伊上にもそれがリボルバーであることはわかった。
「俺が初めて人を殺したのはお前なんかよりももっと若いときだったよ」
「それはあまり明るい話じゃなさそうですね」
シリンダーが外され、ポケットから取り出した弾が1発づつその中に収められていく。
「俺の家は代々極道でな、親父もその親父もずっとそうだ。俺は当然のごとく極道に憧れてたよ。だから中学を卒業してこの世界に入った」
最後の1発が収められると、シリンダーは鈍い音を立て元の場所に戻る。ハンマーを下ろし、それを胸ポケットに収める。
「例え組長の息子であっても特別扱いはされねぇ。お前と同じように毎日殴られて、戦い方を学んだ」
「逃げ出そうとは思わなかったんですか?」
「お前は逃げようとしたのか?」
「逃げたら殺されるのはわかってましたから、逃げれなかっただけです」
それを聞くと虎は声を出して笑った。そして伊上の肩を殴りつけた。
「んなこと考えられねぇくらいボコボコにされるんだがな。やっぱりあいつら甘いな」
全く甘くはなかった。体を燻る痛みを噛み締めながら伊上はそう思う。
「まぁ逃げ出さなかったことは褒めてやるよ」
虎の言葉と同時に、運転席から流れた無機質な音声が目的地に到着したことを告げた。車が止まり、エンジン音が切られると虎の目つきが変わっていることに伊上は気づく。普段も十分険しい目つきをしているが、そこから感じる殺気は今まで感じたことがないほど冷たく、伊上は寒気を覚えた。
車を降りて最初に感じたのは、風が運ぶ潮の匂いだった。狐はここで取引を行う。それは狸から共有された書類に記されていた。その狐を殺さなければいけないことも。海に落ちていく夕焼けを見て伊上は自分がそれに感動していることに気づく。以前までならこんな風景に心を動かされることはなかった。
「まだ誰も来ていません」
後ろに立っているであろう虎に伊上は言ったが、返事が返ってこなかった。
「当たり前だ。取引をこんな開けた場所でやるバカがどこにいる」
そう言って虎が指差した方角を見ると遠くに無数のコンテナが積み立てられているのが目に入った。異質な雰囲気を放っており、近づくことさえ憚れた。あそこで死んだら、自分の死体は海に捨てられるか、誰にも見つからないでコンテナの影で腐っていくのか。伊上は暗い気持ちを抑えるように歯を食いしばった。
街灯に虫が当たりバチバチと音を立てている。コンテナが見える場所で待機してから、一時間程度が過ぎていた。体を震えさせるのが緊張か寒さか伊上にはわからなくなっていた。歯がカチカチと音を立て始めたとき、目線の先に人影を捉えた。
「行くぞ」
呟いたかのような声量で放たれた虎の言葉を受け止め、伊上は歩き始めた。腰に収めた銃は相変わらず重く感じる。
コンテナの影に隠れ様子を伺う。黒や茶のコートに身を包んだ3人の男たちが何やら話しているが距離が遠いこともあり、それを聞き取ることができない。
「妙だな」
近くに停泊しているタンカー船が汽笛を鳴らした。伊上は思わず、身を屈めたが虎はまさしく密林の中に隠れるように一切身動きをせずに呟いた。
「待ってくれ。話が違うぞ」
男達の中の一人が叫んだ。おそらく彼が狐だろうと伊上は推測する。だがゆっくりとした伊上の思考よりも早く状況は動いた。男の中の一人が狐を殴りつけると、殴りつけられた狐は膝をつく。間を置かず、その頭が蹴り上げられ地面に転がった。動かなくなった狐を抱えると、男達はタンカー船に向けて歩き始めた。
「何が起こってるんです?」
虎に問いかけたが答えはない。だがその目は殺気を含んだ目ではなかった。
「裏切られたみたいだな。まぁ裏切りものに相応しいと言えばそうだが」
「助けないと」
伊上は無意識に言葉を発して、コンテナから身を乗り出そうとしていた。その伊上の首を掴み、虎は静かに言った。
「あいつは死ぬ。馬鹿な裏切りのせいでな」
「それでもあの人が裏切ったかなんて、わからないでしょう?」
虎は伊上の胸ぐらを掴むと、顔を近づけた。煙草の残り香が伊上の鼻につく。
「いいか。お前が立っている場所はこういう場所なんだよ。死ぬときは死ぬ。これは試合でも映画でもないんだよ」
伊上が腕を掴む。虎が力を緩める気配はない。伊上は何故か激しい怒りを覚えた。衝動といえば聞こえがいい。だがそうではないことをどこかでわかっていた。
「間違ってても、死ぬ場所ぐらい自分で決めます」
伊上は言い切ったの同時に掴んだ虎を腕を引き込んだ。意表を突かれた虎の目が開かれる。その眉間に向かって伊上は頭突きを繰り出した。一瞬腕の力が抜けたことを見過ごさず、手を払いのけると伊上は走り出していた。
船に乗り込もうとする男の背に追いつくと、後頭部を殴りつけ、力の抜けた体を肩で弾き飛ばした。その音で狐の体を運ぶ2人の男はこちらを振り向く。迷わず伊上は男の顎に目がけてストレートを振り抜いた。
「何者だ」
倒れた二人を一瞥すると、狐の足を地面に落とし最後の一人が伊上を見る。男はコートを翻し、腰の銃を抜こうとする。その動きを見て、無防備になった脇腹へ蹴りを放つ。前までなら足は使わなかったが、1ヶ月の戦いの中で拳だけでは不十分だということを思い知っていた。
「大丈夫ですか」
倒れている狐に声をかけ、肩を揺さぶる。焦点の合わない目が開かれると狐が口を開いたが、何を言っているか伊上には聞き取れない。瞬間、視点に閃光が走った。かろうじて視線を後ろに向けると、最初に倒した男が立ち上がっていた。立ちあがろうと足に力を入れたときには再び頭を殴られ、冷たいコンクリートを頬で感じた後に意識が途切れた。
■
目の前には鼻が折れ、両目が充血した男が倒れている。コーナーでの余裕そうな顔はどこにもなく、怯えと恐怖を孕んだ双眸が伊上を見る。その顔面へさらに拳を振るう。一撃ごとに表情がなくなっていくのがわかる。白いグローブはすでに赤茶色へと変わろうとしていた。さっきから周りは静かだ、ただ肉を叩く音だけが聞こえる。限界が近づいた拳を最後に振り上げる。鼻をつく血の匂い、湧き上がる怒り、思い出す美咲の顔。振り下ろされた拳は正しさを求めていた。
何かが肩を叩く。何度目かでようやく伊上は目を開いたが、その目線の先にあるのは暗闇だった。
「生きてるか?」
「なんとか、ここはどこです?」
伊上が返事をしたことに男は驚き、こちらに近づいてきた。しかし暗闇では距離がわからない。
「あなたが狐ですか?」
暗闇に問いかけると、返事はすぐに返ってこなかった。
「お前、組織の人間か?」
声のトーンが落ち、狐の声はこの闇に溶けていくように感じられた。伊上は何も映らない暗闇を凝視する。
「わかりません。流されてここにいるようなものなので」
狐の問いに答えることはできたが、果たしてそれが正しい答えなのか、伊上にはわからなかった。暗闇から聞こえる息遣いは答えを訝しんでいるのか、深く、ゆっくりとしたものだった。
「災難だな。お前も俺も生きて帰ることはできないだろうからな」
自身に対する死刑宣告はもう何度も聞いた。それに加え、1ヶ月も暴力に晒されれば感覚は鈍化していく。狐の言葉を半ば投げやりに伊上は聞き流していた。
「だとしても僕はこんなところで死にたくない」
虎に入れた頭突きの感覚が蘇る。あの行動は間違っていない、そう信じていた。
「時は諦めることも肝心だぜ。だがまぁお前は俺とは無関係だからな、楽に殺してくれるかもしれないな」
楽に死ぬにしては随分と体が痛む。手首に巻き付けられた鎖は錆び付いているのか不快な音を立てる。その時だった、目の前の扉が甲高い音を立てながら開かれた。
突然の光に思わず伊上は目を細めた。ぼんやりとした輪郭が近づくと、頭の上から袋を被せる。息継ぎのような眩しさはすぐに元の暗闇へと戻った。
「さて、私は長い話が好きではなくてね。最初に結論を話そう。君たちは死ぬ。これは避けられない。だが私としても不要な叫び声や血を見るのは好きではなくてね、なるべく安らかに最期を迎えてほしい。わかるね?」
声の主は舞台の上にいるかのようにスラスラと話す。おかげで言葉の意味を理解するのに時間を要した。
「わからんね。約束を反故にしたはお宅だ。俺は今頃、クソみたいな船の上で珈琲でも飲んでいるはずだ。違うか?」
同じく袋を被せられている狐が叫ぶ、その声はくぐもっていて聞こえづらい。そして狐の裏切りが本当だったと伊上は理解した。
「裏切り者の犬ごときがそう吠えるな。元から君を助ける気などないのだ。そもそも牛鬼から逃げようとするなど不可能だ。結果は変わらん、過程が伸びただけだ」
男は笑う。伊上にはそれがとても不快に感じる。
「そして、君は一体誰なんだ?」
自分の番が来たのか、そう思った矢先、袋が剥ぎ取られた。男の両目が上から下へと伊上を観察する。細顔の男は船の外で見た男達と同じくコートを羽織っているが、その色は黒ではなく白色で、薄汚れた部屋の中では浮いている。
「突然現れ、私の部下に無礼を働いた。理解できないね。私は理解できないものが怖いのだよ」
そこまで話すと、ベルトからナイフを抜き出し、刃を眺めている。
「だからね、皮を裂き、内臓を取り除いて君が何者なのか確かめなければならない」
男の目は本気だ。だが縛られた伊上の腕は動かすことができない。刃先が頬に冷たい感触を残す。
「これを引けば、少しは君を知ることができるかな」
伊上と男の視線が交差する。怯えてはいない、結果が予想できるだけに息が荒くなっていく。
男はたやすく腕を引いた。刃の冷たさに似合わない、焼けるような痛みが頬を走る。
鉄の味だ。歯を食いしばり、声を漏らさぬように心がける。弱さを見せれば付け込まれる。
「おい、やめてやれ。そいつは関係ない。ただの部外者だ」
狐は伊上の顔を見て、若干目を細めるとそう言った。だが男の部下が、懐から銃を取り出すと息が詰まった。
「もし仮に、君の言うことが真実だったとして、こんなものを持っている人間ははたして部外者かね」
男はスライドに鼻を近づけ、一気に息を吸うと、首を反らし吐息を漏らした。
「オイルの香りだ。だが火薬の匂いはしない。玩具ではないが未使用だということだ」
そして銃口を伊上に向ける。そしてハンマーに指をかけると、男は言った。
「どのみち死ぬしかない。彼も君も。謝罪はしないよ」
「おい!どうせ殺すなら俺にしろ!」
狐は叫ぶ、そして引き金が引かれた。
伊上は知っていた。だから身じろぎ一つしなかった。
弾は発射されず狐は困惑している。男は歯をむき出しにして破顔する。元から伊上はマガジンを入れずに携帯していた。
「いやぁ、いい顔するねぇ。怒りと諦め、実に良い」
異常だ。伊上はすっかり頬の痛みを忘れていた。
しばらくすると、部下から何かを聞いた男はこちらを向くと口を開いた。
「あぁすまない。一度に全てを楽しむのは無粋だ。もう少しだけ君らには生きていてもらう」
男は部下から受け取ったスマートフォンを受け取ると、何かを話しながら外へと消えていった。
また暗闇だ。男が2人薄汚れた部屋に残された。
「お前、俺を始末しに来たんだろ?」
「はい。でもあなたが裏切られたのを見て助けに来たんです」
狐は伊上の返事を聞いても返事はしなかった。
「あなたは本当に組織を裏切ったんですか?」
「あぁ。お前には申し訳ないけどな。俺はそんなに高尚な人間じゃない」
「何故です?」
狐は大きく息を吐くと話し始めた。
「娘の為だ。組織は俺のことを助けてはくれるが、家族のことを助けちゃくれない」
「俺がこんなところで死ぬのはいい。覚悟もできている。でも美樹はダメだ。あいつに罪はない」
娘の名前を呼んだのは無意識だろうか。こんな状況下でも娘の名前を呼ぶときは優しさを帯びていた。
「なら、生きて帰らないと」
伊上が自分にも言い聞かせるように言った言葉は、部屋の中に空しく響くだけだった。
「出ろ」
伊上達は強引に立たされると、男に促され扉の外に出た。
ここに入ってから大分時間が経ったのか、外もあまり変わらぬ暗さで眩しさは感じなかった。
「やぁ。今日はいい夜だ。水平線の向こうが見える」
その声を聴き、頬の傷に痛みが走った。
「まだ出航してなかったのか。随分とゆっくりなんだな」
狐の声に答えるかの様に、男は指を鳴らした。すると部下が伊上達がさっきまでいたのとは別の部屋から何者かを連れてきた。
「美樹、由美!」
狐が叫び、由美と呼ばれた女性が泣きはらした目でこちらを見る。
「うーんいいね。やはり愛とは人間に与えられた最大の幸福だ。だが幸福は脆く、長くは続かないものだ」
「指一本でも触れてみろ。必ず殺してやる」
吠える狐に呼応するように、空しく鎖の音が響く。
「さてどうしてくれようか、一思いに殺してしまうか、その白い肌を切り裂くのは心地が良いだろうな」
男の口から次々と想像もしたくない事柄が湧き出てくる。伊上はどうすることもできなかった。
「君に殺させるのもいい。きっと人を殺したことが無いのだろう?」
男は伊上に問いかける。やはりこの男は異常だ。
「それなら、あんたを殺させてくれよ」
伊上は床に向かって唾を吐いた。どうしても二人だけは助けなくてはならない。強くそう思った。
「威勢が良いのは結構。だが震えているぞ」
ナイフで伊上の輪郭をなぞるようにして、男は話す。
「罪人の咎は、処女の血によってのみ清めることができる。何とも言えない響きだな」
男の指示を聞き、部下が二人に近づく。
「娘だけは、美樹だけはー」
絶叫する由美を突き飛ばし、部下は娘を抱きかかえる。恐怖からかその顔には表情と呼べるものが無かった。伊上は必死に腕に力を込める。感じる痛みはこの後に起こる惨劇に比べれば軽いものだ。
「血だ。君は娘によって救われる」
男がナイフに力を込めたその時だった、痛みを感じるほどに眩しい光が伊上達を照らした。
「一体なんだ!」
目を閉じていても男の声は聞こえている。必死で目を開けると虹色の残像が視界を支配している。
周りが次々に叫ぶ。その中で一発の銃弾がナイフを持った男の腕を貫いた。血が飛び散り、白いスーツの半分が赤く染まる。男の叫びを機に、部下たちが銃を取り出し、虚空に向けて乱射する。伊上は姿勢を低くし、銃声が止むのを待った。だがその視界に逃げようとする男を見つける。
逃がさない。伊上は銃弾が飛び交う中駆け出していた。
腕は使えない。伊上は逃げる男の背中に蹴りを放った。元から前屈姿勢だった男は簡単に床に転がった。
「逃げるなよ」
伊上はそう言うと、男と向き合った。暗闇に慣れた目で見る男の顔は半分が血に濡れている。殺気の籠った目で睨みつけられる。恐怖を振り切るため伊上はゆっくりと歩を進めた。
男は拳を振り上げる。伊上はそれを手錠を使って受け止めると、腕を捻り腕を捉えた。
足に力を込め、垂れた男の顔めがけて膝を放つ。地面に倒れた男の恐怖にゆがんだ目を見据え、手錠ごと両腕を振り下ろした。
白目を向いた男を背に逃げようとしたとき、目の前に銃口があることに気づく。
咄嗟に身を低くした伊上の前を遮るように、何者かの背中が映る。この背中が頼もしく見えたのは初めてのことだった。
その瞬間、銃を構えていた男は殴られ、地面に倒れた。
「おう、伊上ぃ。くたばってなかったんだな」
虎だ。額の部分が薄っすらと赤く腫れている。倒れている伊上の襟元を掴み、強引に立たせた。
「狐はどこだ」
伊上が周りを見渡すと、銃声は既に止んでおり、立っているのは虎と伊上だけだった。
狐は美樹と由美を抱きしめ、地面に座っている。見たところ傷は無いようで、伊上は胸を撫でおろした。だがその安心もすぐに消失する。
「狐、わかってると思うが、お前は裏切りもんだ」
虎は腰からリボルバーを引き抜くと、狐に向けて構える。伊上はその間に立つと、虎を見据えた。
「どけ伊上、これ以上お前のアホな行為に付き合ってられねぇんだよ」
「この人はただの父親だ。見てわかりませんか」
虎がハンマーを下ろす前に、伊上は一歩近づきシリンダーを掴むと、銃口を額へと当てた。
「何やってんだ伊上」
近づいてきた男の声を聴いて、伊上は振り向きたい衝動に襲われた。だがここで虎を離すわけにはいかない。
「虎、銃を下ろせ」
村瀬がそう言うと、虎はため息をついて銃を下ろした。
「伊上、久しぶりだな。けどな悠長に話してる時間はない」
「狐は裏切ってない。助けてほしい」
村瀬は目を閉じ、しばらくの間思案した。伊上はじっと答えを持った。
「狐、二度と組織の前に現れるな。意味わかるな?」
村瀬の言った言葉に対し、狐はうなづく。美樹と由美は既に泣き止んでいるようで、頬に涙の跡が見える。
「これで行けるところまで行け。後は自力でどうにかしろ」
車のキーを投げた村瀬は、狐を一瞥すると歩き始めた。虎もその後を追い、伊上に肩をぶつけると去っていった。
「お前、伊上って言うんだな。ありがとう。感謝してもしきれない」
太陽が昇り始めた水平線を眺めて、目を細めていた伊上の後ろから狐は声をかけた。
「無事を祈っています。奥さんと娘さんも」
そう言って振り返った伊上は、陽光に照らされた狐の顔を見て息を吞んだ。
「あぁ、そいえばきちんと顔を見てなかったな」
狐の顔は壮絶な過去を物語るものだった。頭の毛は全て刈り取られており、顔の皮膚には所々火傷跡の様なものが走っている。
「組織で生きるってことはこう言うことだ。お前に覚悟はあるのか?」
しばらく声を出せないでいた伊上を背にして、狐の家族は去っていく。必死で絞り出そうとしたものに音を与えられず、ただ喘ぐのみだった。
自分の戦う理由はなんだ。伊上は自分に問いかけた。
伊上達3人を乗せる予定の車はまだ動き出さない。それどころか、村瀬も虎も伊上を挟んで一言も発さない。
静寂の空気を動かしたのは、遠くで動き出したエンジン音だった。
狐たちを乗せた車がゆっくりと動きだす。伊上はそれを無意識に目で追っていた。しかし車は爆炎に包まれた。
「行くぞ」
虎の言葉は聞えなかった。駆け出そうとする伊上の肩を村瀬が掴む。
既に原型を留めていない車体は黒煙を吐き出し、伊上の視線に留まる。
「お前がやったのか」
震える声で発せられた伊上の問いかけに、村瀬は首を横に振った。
「この状況じゃ、あいつはどこまでも追われる。自分のツケを自分で払ったまでだ」
「だからって」
伊上の肩に置かれた手に力が籠る。
「俺だって正しいとは思えない。だがこれが現実だ」
村瀬の腕を払うと伊上は、後ろを振り返る。
「奥さんも娘も死ぬのが、正しいことか」
「すまない。伊上」
その言葉に返事をせず、伊上は力任せに車体を殴りつけた。拳に走る痛みを噛みしめ、ただ涙を流した。
■
「次の試合、勝てるの?」
練習が終わり、満身創痍の伊上に自販機で買った飲み物を渡しながら美咲は心配そうに呟いた。やってみなきゃわからない、そう呟くと伊上は美咲の手から飲み物を受け取る。受け取った缶のスポーツドリンクで腫れた顔を冷やす。以前にも同じことがあったが、その時は炭酸を買ってきたため、飲むことができなかった。
指に力が入らず、プルトップを開けることができない伊上を見兼ねて美咲が既に開けていた缶を伊上の前に置く。
「絶対勝ってよ。お願い」
普段よりも上づった声で美咲がそう言う。伊上は美咲の顔を見ることができず、ただ聞いていた。
相手は同じ高校の木村という生徒だ。伊上は名前も知らない。それにあっちは人気者で、こちらは日陰者だ。応援するならあっちだろう。それに応援の有無で勝ち負けは決まらない。結局は技術と練習量だけだと伊上は思っていた。
「努力はしてる。だからこんなになってるんだ」
勝ちたい。そう最後に思ったのはいつになるだろう。ギリギリの中で望むラウンドもボクサーなら一度は憧れるKOも伊上は経験したことがない。
「私、あいつのこと嫌いなのよ」
密かに言った美咲の言葉を聞いて、伊上は納得した。人気者だからと言って嫌う者がいないとも限らない。特に最近は試合が近いこともあって、クラスの話題は常に持ちきりだ。派閥というには片方が小さすぎるが、無論、皆人気者の木村に勝ってほしいのだろう。美咲はクラスの中でも頻繁に伊上に声を掛けるようになった。その所為もあって、元いたグループとの間で軋轢を生んでいることを伊上はなんとなくわかってはいた。だがそれ以上のことは知らなかった。
その後は他愛のない話をして、美咲と別れた。最後に応援していると言って握られた手がなんだか気恥ずかしく感じた。
そしてこれが最後に美咲と会った記憶になる。この時の自分に何ができたであろうか。
しばらく経っても答えを見つけることはできなかった。
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