第三章 牙

第三章 牙 

「起きてください。伊上さん」

その声を聞いて伊上はゆっくりと上半身を起こした。何度か瞬きをし、頭の中の靄を晴らそうとする。少しして横に立つ男が昨日伊上が股間を殴った男だと言うことに気がついた。若干の申し訳なさを覚えつつ、伊上は整えられたベッドから立ち上がると、男が開けた部屋のドアから外に出る。

 昨夜、村瀬の父が解散を宣言した後、体を休めろとのことでこの部屋に通された。コンクリートで四方を覆われた部屋に若干の息苦しさを覚えたが、ベッドに横になってしまうと、そんなことも忘れて眠りについていた。だが眠って頭が回復した分、昨日負った傷が痛む。だがそれは目の前の男も同じだろう。それは股間を庇うように小股で歩く姿を見れば一目瞭然だった。

「昨日はすいませんでした。卑怯な真似をしてしまって」

目の前の背に伊上が声をかけると、男は伊上の方を振り返らずに答えた。

「いえ、謝らないでください。弱いから自分が負けた。それだけです」

「他の二人も同じように平気ならいいんですが」

男は振り返ると、伊上の肩を軽く叩いて、白い歯を見せて笑った。

「伊上さん、あんたは優しい。あの拳からは想像できないくらいに」

歩き出した男の背を伊上はしばらく見ていた。優しい、そんな言葉が自分に似合わないことを知っていると、いささかやりきれなくなった。

 建物の中は暗く、冷たい石造りで今が朝なのか夜なのかがわからない。伊上は腕時計を見ようとして、携帯も腕時計も村瀬の家に置いてきてしまったことを思い出した。それに体に若干残っているであろうアルコールが頭痛を引き起こして、気分を憂鬱にさせる。

「詳しいことは明日知らせる」

村瀬の父の言葉を思いだす。昨日は生き延びることができた。だがそれが今日も続くだろうか。また闘うことになるのか。その時自分は勝てるのか。考えればキリがなく黒い想像ばかりが膨らむ。

「着きました。ドアの向こうに猿もいますので、そんなに緊張しないでください」

「緊張してるってよくわかりましたね」

ドアの横に立つ男に話しかけた。それは時間稼ぎにもならない短い問いだった。

「顔が真っ青ですから。昨日とは別人みたいだ」

力の無い笑顔を男に返し伊上はドアを開け、中に入った。


 ドアの向こうは昨夜伊上たちが集まった部屋とは違う、会議室のような部屋だった。中央に置かれた楕円形の机の先に村瀬の父が、周りを囲むように村瀬、虎、蛇、そして昨日はいなかった男が座っている。坊主頭に、無精髭を生やしていて人相が悪い、そして何よりも気を引いたのは室内であるのにかかわらずサングラスをかけている点だった。

「お早う。伊上君、好きなところに座ってくれ」

村瀬の父に促され、伊上はその向かいに腰を下ろす。一瞬村瀬と目があったが、目を細め視線を逸らされる。自分が呑気に寝ている間に何かがあったのでは無いかと伊上は考えた。

「君の命に関わる件だ」

昨日と変わらず自分の命は彼らの手中にあることを伊上は思い知った。返事をするがその声は彼らには届かずに、石の壁へ吸い込まれていった。

「結論から言えば、君は今日を生きれる。運が良ければ明日もその先も生きていけるだろう」

単純な命の補償ではない、その言葉は冷たい響きを持っている。村瀬の父はそう言うと、二言話しただけであるのに、息を深く吐いてそれ以上は話そうととはしなかった。だが誰も発言をすることも促すこともしなかった。沈黙と閉塞感が部屋を支配する。

「まどろっこしいことはいいでしょう。このままじゃ日が暮れますよ」

沈黙に耐えきれなかった虎が、背もたれに体重を預けながらそう言った。何か言いかけた蛇を手で制して村瀬の父は再び話し始めた。

「伊上君、君には二つの選択肢がある。一つ目は我々と共に働くこと。二つ目は家に帰り、誰かに殺されることを待つこと。私としては前者を進める」

赤い薬と青い薬か、村瀬と見た映画を思い出す。主人公はどちらの色を選んだのかまでは思い出せなかった。

「選択肢はなさそうですね」

伊上はそう言い捨て、目を閉じた。悩みの種であった大学や就活は霧の様にその姿を消していた。残ったのは拳に残る痛みと、口内に微かに感じる血の味だった。

「共に働きます。それが生きるために必要であれば」

「その答えが聞けて、一安心したよ」

村瀬の父がそう言うと、虎は不機嫌な様子で立ち上がり、部屋を後にしようとしていた。そこに蛇が話かける。

「待て、虎。まだ解散の命は出ていない」

「これ以上俺に関係ある話があるとは思えんがな」

蛇の細い目を虎が睨みつける。村瀬は変わらない様子で、伊上と目を合わせようとしない。

「虎、君にも関係のある話だ。そのままでいいから聞きなさい」

その言葉と同時に蛇は虎から視線を外した。

「伊上君、君は我々の仲間となった。早速で申し訳ないが、君が立てるようになるまで研修や訓練をしている時間は我々にはない。君には2ヶ月で戦力となってもらう必要がある。そこでだ」

村瀬の父は視線を虎に向けた。虎はその視線を受けて、顔を顰めた。

「虎、君の下に伊上君をつける。猿には情があり、適任では無いだろう」

「それ本気で言ってるんですか?猿はともかく蛇か狸が適任でしょうよ」

虎は机に手をかけ、今にも噛みつきそうな勢いだ。伊上は思わず、椅子を引いた。

「我々の中で一番の武闘派は君だ。昨夜の戦いから見ても、君との相性も悪くは無いだろう」

虎はその言葉に応えず、ただ荒い呼吸を繰り返している。時計すらないこの部屋の中がまるで密林のように感じられた。

「こいつは俺の部下をぶっ飛ばしたんですよ。俺が許しても、他のは許さないと思いますがね」

「長の命に従わないのか?大体貴様の部下はただのチンピラだろ。組織の人間ではない」

蛇が冷静な様子で、掛けている眼鏡を外しながらそう言った。

「おい猿。お前それでいいのか?第一お前が持ち込んだ問題だろ。俺に押し付けるな」

今まで合わせなかった目線を伊上に合わせ、村瀬が静かに口を開いた。

「虎、長の言葉だ。飲み込んでくれ」

目線が虎に移り、村瀬は静かに頭を下げた。その様子を見ることしかできない伊上は、机の下で拳を握ることしかできなかった。

「2ヶ月だ。その間にこいつがくたばっても俺の責任じゃないからな。立てよ」

虎の言葉に促され、伊上はゆっくりと立ち上がった。歩き出した虎についていくしかない。伊上はそう思った。

「すまん」

伊上は部屋を出る時に聞いた村瀬の声に返事ができなかった。


 部屋を出ると、扉の前で待機していた虎の部下がこちらを見つけ、一礼した。その後虎の言葉を聞いて、若干眉を顰めた。

「おい伊上、お前覚悟はできてんだろうな」

「覚悟してもしなくても、もう逃げられません」

突如振り向いた虎が、伊上の首を片手で締め上げる。咄嗟のことで伊上は全くの反応ができなかった。

「お前は何もわかってない。猿も同じだ」

そう言うと虎はその手を離した。一瞬呼吸が止まった伊上は激しく咳き込んで、虎を睨みつける。猿と同じ。その言葉を否定したかったが、自分は村瀬の事を何も知らなかったのだと思うと、否定はできなかった。そんな伊上を構う様子も見せず、虎の背中はどんどん小さくなっていく。部下の男が動けない伊上に手を差し出そうとしたが、その手を払い伊上は歩き出した。


 虎の後に続き建物を出ると、そこには黒いリムジンが停められていた。虎の部下に促され、伊上は後部座席に座る。向かいに座った虎は足を大股に開き、機嫌の悪さを示すように、足を揺すっている。

「どこに向かうんですか?」

その伊上の問いかけに虎は答えず、代わりに運転席を小突いた。それを合図にリムジンは動き始める。

「お前、格闘技はボクシング以外やってねぇのか」

「今じゃボクシングだってやっていません」

その答えを聞き、ふんと鼻を鳴らすといつの間にか咥えていた煙草に火を点けた虎は煙を吐き出した。煙が対面に座る伊上の顔に吹き付けられる。

「それなのに俺の部下をぶっ倒すとは、しかも3対1でだ」

虎は横に座っている部下に目を向ける、鼻が赤く腫れているのは昨夜の伊上の拳が原因だろう。

「情けねぇな。おい、田宮。お前もう一回こいつとやったら勝てると思うか?」

「うす。次は必ず勝ちます」

田宮と呼ばれた男は拳を握り締め、伊上を睨んだ。その目に込められた怒気を正面から受けることはできず、思わず目を逸らす。

「体は鍛えてるみたいだな。ベンチプレスは何キロ上がんだ?」

「60、ウエイトトレーニングはそんなしないので、正確じゃないかもしれませんが」

虎は唇を歪ませ、伊上の体をまじまじと見つける。

「んなもん片手で上がるだろ。ボクシングってのは随分と薄っぺらいな」

虎がそう言い終わると、リムジンの車内からは革張りのシートが擦れる音以外はしなくなった。

 しばらく車は走り続けた。車内には会話といった会話はなく、伊上はスモークガラスを眺めて時間を潰した。そんな沈黙に耐えきれなくなった時、運転手が虎に到着を告げた。それを合図に車は止まり、しばらくしてドアが開けられた。

 ドアを出た伊上の前には石畳が広がり、その先には木製の重厚な門が佇んでいる。その先には時代劇を彷彿とさせるような屋形が広がっている。

「お疲れ様です!」

歩き始めた虎の前で黒スーツの男達が一斉に頭を下げ、ありったけの声量でそう叫んでいた。その気迫に伊上は動けないでいたが、虎は彼らを一瞥することもなく、片手を上げ、ずかずかと歩いていく。

「ついてこい」

その声に促され、伊上は歩き出したが、列になっている男達の部外者を見るような目が容赦なく浴びせられた。

 大広間に通された伊上はそこで待て、という虎の言葉に従い座っていた。しかし昨夜と変わらずの薄着であったため、若干の肌寒さを感じていた。

「お若いの、そんな格好じゃ寒かろう」

いつの間にか後ろに立っていた老人が伊上に話しかけてきた。その手には表の男達と同じような黒いスーツ一式を持っている。

「ありがとうございます」

受け取ったスーツに着替えるために、上着を脱ぎ、上半身を空気に晒すと思わず身震いする。

「いい目をしてますな。虎の旦那が連れてくるだけはあるわい」

パンツを着替え、ジャケットを羽織ったところで、伊上は老人を見た。自分よりも一回り小さく、着物から出ている腕は枯れ木のように細かった。伊上の姿を見て、老人は満足そうに笑っている。なぜだか殺気を感じない人物に会うことが久しぶりな気がして、伊上は自分が遠いところに来たのだと自覚した。

「おう、一丁前に着替えてんじゃねぇか」

伊上の表情が緩む前に、部下を引き連れ虎が大広間に入ってくる。先ほどまで着ていた黒いスーツではなく、タンクトップを着ているため威圧感が増している。

「翁、勝手に世話を焼くんじゃねぇよ」

「へい、すんません」

そう言うと、老人は顔に笑顔を貼り付けたまま部屋を出ていった。伊上はそれを見送ると、虎と視線を合わせた。

「お前をちったぁ使えるようにするために、今から鍛えてやる」

「走り込みでもやらせるつもりですか。2ヶ月じゃ間に合いませんよ」

虎が首を横に振り、いつの間にか置かれていた椅子に腰掛ける。その横に立つ七人の男達は各々ナイフや拳銃を持って、伊上を見ている。昨夜の相手とは違い、血の気が多いわけではないのかと伊上は思った。

「お前の言うとおり、普通のやり方じゃ意味がない。実践経験を積め」

虎の言葉を境に男達は表情を変えずに、伊上に向かってくる。状況を理解できない伊上は後ずさりしたが、その背中が襖に触れたとき、逃げられないことを知った。

「ナイフは刃引きしてあるし、弾はゴム弾だ。死ぬこたぁねぇから安心しな」

虎は近づいてくる男たちの後方から呼びかけた。

「ただ死ぬほど痛いぞ。生き残りたいなら本気でやれや」

2か月、記憶に残った期間が地獄になるだろうなと、伊上はそう思うと生き残る為に拳を握り、男達を見据えた。

 

 何時間が経ったか、全身に痛みを覚えながら闇雲に拳を振るった。着替えた白いシャツには赤黒い染みがいくつもできている。

昨夜と違い、伊上がボクサーであることを知っているのか、男達は伊上の間合いに入らず、投げや蹴り等対応できない攻撃で伊上を追い詰めた。拳を上げられないほど呼吸が荒くなる。一人の男が構えた拳銃が伊上の眉間に向けられた。ふらつく足は言うことを聞かず、ただ銃口を睨みつけることしかできない。

「時間だぞ」

伊上は虎の言葉を聞いて膝から崩れ落ちた。銃口を向けていた男はつまらなそうに息を吐くと、銃を下げた。

「飯にするぞ。さっさと動け」

部下を連れて帰ってきた虎はを見ると、今まで戦っていた男達は地面に倒れている伊上を掴むと広間の隅へと投げつけた。

 無数の人々が広間を右往左往すると、中央にテーブルがいくつも並べられ、その上には無数の料理が並べられる。それを眺めていた伊上の横に着替えを持ってきた老人が立ち、薄ら笑いを浮かべこちらを眺めている。

「こっぴどくやられましたなぁ、伊上さん。立てますか?」

答える代わりに壁に手を付けて立ち上がった伊上は空いている座布団に腰を下した。伊上を待つことはなく、虎を含めた男たちは既に食事を始めていた。テーブルの上へと大皿の料理は次から次へと運ばれてくる。

「伊上、死ぬほど食えよ。明日も続くんだからな」

箸を動かさない伊上を睨めつけながら、虎は焼酎を飲み干した。見ると他の男達も酒を嗜んでいる。痛む指を必死で動かし、目の前の皿から唐揚げを取ろうとするが、長い時間握り締められていた指は言うことを聞かない。伊上は箸を使うことを諦め、手づかみで唐揚げを取ると口に放り込んだ。傷だらけの口内では咀嚼するたびに激痛が走る。それでも食事を取らなければ動けなくなることを知っていたため、次々と食べ物を口に運んだ。手づかみで食事をする伊上を周りの男達は訝しんだが、虎はその様子を見て満足そうにしている。隣の男がそんな伊上の様子を見ていられなくなったのか、空のコップに焼酎を入れ、伊上に手渡した。

「飲めばいくらかマシになるぞ」

「酒は飲みません」

口に唐揚げを含んだ伊上の答えを聞くと、並々と注がれたコップは行き場を無くした。まるで自分のようだと伊上は思うと、急に満腹感が襲った。

 食事が終わると、老人の案内で伊上は離れの部屋に案内された。風呂場は本館にあると聞いたが、今はシャワーよりもただ眠りたかった。老人へ挨拶もそこそこ伊上は用意された布団に倒れた。多少の肌寒さはあったが、それよりも大きい睡魔が瞼を下ろした。

 眠りは長くは続かなかった。顔面に冷や水をかけられ、咳き込みながら伊上は立ち上がる。

「おい、寝るに早いだろ」

開け放たれた襖から入り込む月光が虎の顔を照らす。まだ終わらないのか、拒否する体に必死で呼びかけ、ゆっくりと伊上は立ち上がった。立っているだけの伊上に虎の張り手が炸裂した。衝撃で二、三歩移動し、バランスをとった。

「ほら、今日の成果を見せてみろ」

手招きした虎に向かって伊上は走り出したが、それは側から見れば歩いているといってもいいような速度だった。拳を出そうと肩に力を込めるが、それと同時に虎のハイキックが肩を抉った。痛みで思わず、膝を付く。顔だけは虎へ向けているが、それより下は痛みすぎて、体があることが煩わしく感じられた。

「立てよ。前みたいに全力で来い」

右拳を床に突き立て、必死で立ち上がる。痛みで思わず声が漏れる。どうすればこれから解放されるのか。戦うしかない。頭の中で答えを出すのと同時に拳を虎の顎目がけて放った。

ろくに握れていない拳は、情けない音を立てて、虎の顎に触れただけだった。

「期待はしていなかったが、まさかここまで情けねぇとは」

伊上の左目に黒い塊が一瞬写った。意識はそこで途切れた。夢を見ることができないほどの暗澹にただ身を任せるだけだった。



 一週間、二週間と時間は痛みと血を伴い、過ぎ去っていった。虎の元へ来て、1ヶ月地獄のような時を過ごした。食事と睡眠以外はひたすら入れ替わる男達と戦い、夜中になれば虎にその成果を見せる。三日目に奥歯が一本折れた、七日目には高熱を出し、倒れたがその1時間後には訓練に戻された。十日目にはあまりに長く握り締めていた拳が脱臼したが、そのまま殴りつけた。

 今日で1ヶ月、そう思いながら伊上はまだ仄かに暗い庭先で、傷だらけになった拳を眺めていた。何回拳を振るったか、それ以上に何発殴られたかはもう思い出せない。何度も逃げ出そうと思ったが、逃げたところで自分に待つのは確かな死であり、体を燻る痛みだけがもはや自分を生に繋ぎ止めていた。そんなことを考えていると老人がゆっくりと歩いてくるのが目に入った。

「おはようございます。伊上さん。痛みで眠れませんでしたか」

「いえ、ただ目が覚めてしまっただけです」

老人は静かに笑うと、伊上の隣に腰を下ろした。

「老人になると眠れなくなりますからな。お若い内は寝れるだけ寝たほうがよろしいですよ」

伊上は返事に困って、老人に合わせて小さく笑った。笑ったことで引き攣った口元が痛み、思わず顔を歪めた。

 老人が姿を消し、そろそろ朝の準備をしようかと動き出したとき、虎の部下である田宮がこっちに向かって何かを叫んでいる。その声に伊上は耳を傾けた。

「虎さんが呼んでる。さっさと来い」

嫌な予感がする。伊上はそう思ったが、肺に澄んだ空気をいっぱいに吸い込むと、走り出した。

 伊上が到着したとき、虎は食事の途中だった。部屋中に朝食とは不似合いの焼いた肉の匂いが充満していた。虎は伊上を一瞥すると、伊上に座るように促した。普段と違い、部下の姿は見当たらない。

「ここに来て1ヶ月か」

咀嚼の途中で、虎はそう問いかけた。

「何の用ですか、朝から呼び出して」

昨夜虎に殴られた傷が痛んだ。

「仕事だよ。お前はそのためにここに来たんだろ」

仕事、その言葉が伊上が知っている内容のものとは違うことは知っていた。忘れかけていた般若の顔を思い出していた。

「狸ぃ、さっさとこのアホに説明してやれ」

虎の声と同時に、襖が開くと、以前顔を合わせた坊主頭にサングラスの男が入ってきた。狸は伊上の存在を認めると一礼し、手に持っていたシルバーのケースを2つ、机の上に置いた。そしてそこから何枚かの書類を取り出すとそれを並べた。

「おはようございます、伊上さん。前お会いしたときはご挨拶ができず申し訳ありません。私は狸と申します。お二人へ仕事の内容をお伝えするために参った次第です」

容姿とは相反する慇懃な態度に伊上は、違和感を覚え、一礼を返すので精一杯だった。

「お二人には、裏切り者の始末を行なっていただきたい。元の暗号名は狐、組織では諜報活動を主に行なっていました。ここ最近の騒動に乗じて、組織の指示無しに別の組織へと接触したことを蛇が報告し、本件の実行を長が承認しました。その際にお二人が指名されました」

 狐と呼ばれた男の顔が書類にプリントされている。その顔写真は画質が荒く、人相を確認することはできない。

「蛇の野郎が見つけたなら何故その場で始末しなかった」

既に食事を終えた虎は、机に並べられた書類を乱暴に掴むと、狸へそう尋ねた。

「蛇の役目はあくまで組織の秩序を保つことです。虎の役目が敵対者の始末だということと同じように」

「だからといって俺にばかり面倒ごとを回すのは道理が通ってねぇ。そうは思わないのか狸」

書類を握りしめると、虎はそれを狸に向かって投げつけた。虎の胸に当たったそれは跳ね返って床を転がっている。

「なお、仕事に関する意見を私に言わないでいただきたい。文句があるなら長へ直接相談を。書類を投げつけるよりも建設的ですから」

転がった書類を拾い上げると、虎を見据えながら狸はそう言った。言葉の端々に怒りを感じるが、サングラスのせいでその目から感情を読み取ることはできない。しばらく虎も狸も一言も発しない。動物同士の縄張りに巻き込まれたように伊上は動くことができなかった。

「おや、取り込み中でしたかな」

部屋の雰囲気にあわない、どこか抜けたような言葉は伊上の緊張を解くには十分だった。老人がお盆に3つの湯呑みを載せ、ふらふらとした様子で足で襖を開けた。

「翁、お久しぶりです」

狸は机の上の置かれた湯呑みを受け取ると、老人に頭を下げた。

「こんな老人が聞くお話じゃないですな。くわばらくわばら」

老人が部屋を去ると、狸は虎に視線を戻し、また話始めた。

「今日、狐は別組織と取引を行います。そこでお二人に始末していただきたい。受けて

いただけますか」

「このガキを連れて行けって言うのか?言っとくが、使い物にならんぞ」

狸の目が伊上に向けられる。確かに虎の言う通りだと伊上は思った。

「お話しした通り、お二人が指名されています。虎はともかく伊上さんにとってはこれが試金石になるものかと」

「俺はこいつがどうなっても助けねぇからな」

虎の返答を聞くと、狸はサングラスを掛け直し、まだ開けていないケースを開けた。中には銃やナイフがところ狭しと引き詰めれている。

「本来であれば、個人に合わせたものを支給するのですが、今回は例外です。こちらからお好きなものをお貸ししますので、どうぞお選びください」

ケースが伊上の方へ回転させられると、伊上は正面からそれらを見据えた。ここ1ヶ月の中で、何度か使う機会はあったが、それは本物ではなかった。

「選べません。本物は使ったことがないんです」

それを聞くと狸は唖然とした様子で、虎を見た。

「1ヶ月も何を教えていたんですか。せめて銃器の扱いぐらいは知っているものかと」

「ここは幼稚園じゃねんだよ。銃なんて俺は正真正銘ガキの頃から使ってたしな」

虎は立ち上がると、ケースの中から乱暴に一丁取り出すと、伊上に投げつけた。かろうじてキャッチしたが、その重みに思わず身震いした。

「無いよかマシだ。撃たなくていいから持っとけ」

手にした鉄の塊は、悴んでいた伊上の手でも冷たさを感じられた。狸はマガジンとホルスターを取り出すと、伊上に手渡した。

「取り扱いには十分お気をつけて。これは玩具じゃありませんからね」

狸はそう言いながら、ケースを片付けるとそれを持ち上げると話し始めた。

「では道具の貸し出しも済みましたので、私は失礼します。どうかご武運を」

「思ってもねぇこと言ってんじゃねぇ」

狸は虎の言った言葉に反応せず、部屋を後にした。二人の間には狸が置いていった書類と、銃が置かれていた。異様すぎる光景に伊上は頭痛を覚えた。

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